泥人形あそび その二
せっかくなのでビラトナガル市内へ向かう事になった。自転車は王宮跡公園に残していく。さすがに4人乗りは無理だ。
ちょうど工場労働者が入れ替わる頃に重なっていたようで、市内の大通りは屋台で賑わっていた。野菜や果物の屋台の他には、鶏肉を売っている屋台もある。雑貨や衣服、靴も売られていて今はティハール大祭に向けての花が人気のようである。
当然ながらコーヒーやチヤ、炭酸飲料を売る屋台や、インド風の焼ソバや立ち食い汁麺、菓子を売っている所も多い。
そんな市内へ入ると、ドゥルガ人形が大はしゃぎを始めた。
「おおー。美味そうな臭いがしてくるぞー。どこか飯屋に入ろうぜっ」
しかし、山羊料理にはもう飽きたらしい。琥珀色の瞳を緩めたカーリー人形が、ドゥルガ人形を肘で小突いた。
「信者に失礼だろ。でもまあ、普段口にしない料理を食べたいものだな」
露店の屋台で食べるのはさすがに申し訳ないので、ナラヤンが店舗の食堂を探す。ビラトナガル市は観光地ではなく、レストランが少ないので苦労している様子だ。スマホの地図アプリでも探し始めた。
「うーん……僕たち学生が利用するような食堂も、女神様にふさわしくないですよね……」
ナラヤンが繁華街の中で立ち止まってスマホを操作していると、道行く人々が3柱の女神たちに注目し始めた。早速ナンパしてくる男たちも出てくる始末だ。
そういう輩はカーリー人形の一睨みで、悲鳴を上げて逃げていく。そんなナンパ男たちの背中を見送ったサラスワティ人形が、自身の白いサルワールカミーズ姿を見ながらナラヤンに聞いてきた。
「変な服装ではないと思うのですが……流行の服装に疎くて。どう思います?」
ナラヤンが顔を少し赤くしながら、否定的に左手の平をクルリと返した。
「僕も女子の流行は知りません。恐らくは、女神様の美貌が皆の注目を浴びているのだと思いますよ」
ピンとこない様子の3柱の女神たちだ。
繁華街では、インド映画やドラマの音楽が店先から流れている。それを聞いたサラスワティが興味深そうに首をふった。
「音楽も時代と場所で変わりますよね。今は欧州の楽器も積極的に使っているんですね」
そういえばそうか、と思うナラヤンだ。特にバイオリンはよく使われている。
ナラヤンが店探しに苦労していると、呪術師のラズカランと公園管理人のラムバリが連れ添って通りがかった。ナラヤンを見つけて声をかける。
「おう、ナラヤン君じゃないか。珍しいな、こんな屋台街で……お?」
3柱の女神たちを見て、ラムバリが急いでナラヤンの肩に腕を回して引き寄せた。
「おいおいおい。どうした事だよ、これは。すごい美人さんばかりじゃないか」
ラズカランが何かを感じたようで、大真面目な表情になっている。
「しかも、物凄く高貴な雰囲気だぞ。どこで知り合ったんだよ」
早速ラズカランとラムバリが合掌して、3柱の女神たちに自己紹介を始めた。カーリー人形が大いに怪訝な表情をしているが、お構いなしだ。
目を白黒させながらも、適当に答えるナラヤンである。
「え、ええとですね。学校で知り合いまして。ビラトナガル市内を案内していました。どこか良いレストランを知っていますか? できればあまり高くない店が嬉しいんですが」
自己紹介を済ませたラズカランがラムバリと顔を見合わせて、ドヤ顔になった。ゲジゲジ眉が盛んに上下している。
「おう。だったらワシに任せろ。最近気に入った店を紹介してやるよ」
ラズカランが案内してくれたレストランは歩いて数分の場所にあった。住宅地の中にあるので、周辺はそれほど人通りが多くない。その分だけ放牧されている水牛や牝牛、山羊に鶏までがうろついているが。
家の植え込みにはカラスなどの野鳥がとまっている。植え込みには花が咲く種類が多いので、蝶やハチも多く飛び交っていた。
ナラヤンが店の看板を見上げて小首をかしげた。
「リンブー料理店ですか……こんな店があったんですね。知りませんでした。僕がネットで調べた中には出てきませんでしたよ」
ラズカランがドヤ顔のままで胸を張った。
「そりゃそうだ。会員制の店だからな。たまにコイツとナラヤンのオヤジで食いに行ってるんだ」
ナラヤンが顔を青くしている。
「あの……もしかすると、お値段がお高いお店なのでは? 僕は金欠ですよ」
ラズカランとラムバリが上機嫌でふんぞり返った。
「飯くらいおごってやるから心配するな。それじゃあ、空席があるかどうか聞いてくるよ」
ちょうど団体客が食事を終えて店を出ていく頃合いだったらしく、上手い具合に6人席が用意できた。ナラヤンにドゥルガ人形がウインクする。
「アタシたちは女神だからね。運も抜群に良いんだよ」
カーリー人形もドヤ顔でうなずいている。
「うむ。厄除けを司っている私がいるからな」
団体客は欧米からの観光客で、旅慣れた服装の男女ばかりだった。引率は背の低い坊主頭の初老の男だったようで、細い目で満足そうに笑っている。パッと見た印象はカエルのような顔立ちである。欧州人の男は目の色が赤いのだが、日差しを浴びると褐色に変わった。
ナラヤンが彼らを見送って、少し感心した。
「外国人の観光客って、地元民でも知らない店を知ってたりしますよね。口コミなのかな」
ビラトナガル市内には寺院以外の観光地に乏しいため、多くの観光客は北のイタハリにあるホテルに滞在する事が多い。そのホテル内で知ったのかもしれない。
サラスワティ人形とカーリー人形は談笑していたのだが、ドゥルガ人形だけはカエル顔の老人と知り合いのようで、笑顔で軽く会釈していた。言葉は交わさなかったが。
知り合いなのかな? とナラヤンが思っていると、ラズカランが店から顔を出して皆を呼んだ。
「テーブルクロスを取り換えたから、入ってきていいぞ」
テーブルに案内されて、席に着いたラズカランが簡単に店の説明を始めた。
「リンブー族ってのは、カンチェンジュンガ連峰に昔から住んでいる山岳民族でな。独特の料理文化があるんだよ」
そう言ってから女神たちに聞いた。
「ああそうだ。豚肉は食べても大丈夫かね?」
厳格なヒンズー教徒は忌避する傾向がある。
肯定的に首をふるサラスワティ人形とドゥルガ人形だ。カーリー人形は眉をひそめているが。
「大丈夫ですよ。どのような料理なんですか?」
ラズカランが黒板に書かれている今日のメニューを見ながら答えた。
「香辛料煮込みが代表的かな。それと血を混ぜたソーセージも人気だね」
血入りと聞いてカーリー人形がピクリと反応した。
「ほう、そのような料理があるのか。では頼んでみようか。ドゥルガもだろ?」
ドゥルガ人形が肯定的に首をふった。
「だな。ソーセージ料理を頼むよ。他は野菜料理がいいな。サラシュはどうする?」
サラスワティ人形が少し考えてから答えた。
「私は別の料理にするよ、お姉ちゃん。豚肉の煮込みが良さそう」
そう言ってからラズカランに聞いた。
「ラズカランさん。この豚というのは黒毛豚ですか?」
ラズカランが感心した表情でうなずいた。
「お。詳しいね。そうだよ。ちょいと小さめだけどな。この料理なんだが、意外な食材を使うんだよ。木の枝についている地衣類だ」
ヒマラヤ地域の標高3000メートルくらいにはシャクナゲの森がある。シャクナゲの木それ自体は有毒なのだが、枝葉に付着しているこの地衣類は食用になる。他の種類の潅木の枝にも、この地衣類が付く。
学名で分類すると3種類になり、色は灰色だ。この地衣類はリンブー語で『ヤンベン』と呼ばれている。
このヤンベンを灰汁に浸けて数時間ほど煮てアク抜きをし、色が黒褐色に変わって柔らかくなったら天日干しして肉料理に使う。
ヤンベンそれ自体には特に風味はない。どちらかといえば苦味がある。これを豚肉と一緒に煮込む事で、豚の脂の風味を和らげる。感覚としては、中華料理にある豚肉のウーロン茶煮込みのようなものだろうか。
リンブー料理では地豚の小型黒豚を使った料理が代表的だ。主な品種はチュワンチェ、バムプッケ、フラー種になる。
豚の三枚肉を使った料理『ヤンベン・ファクサ』を紹介してみよう。ファクサは豚肉という意味のリンブー語である。ブータン料理ではパクシャと発音されているので、チベット系なのだろう。
まず乾燥ヤンベンを湯で戻す。戻し終わったら湯を捨て、ヤンベンに豚の血と香辛料、塩を加えて混ぜておく。香辛料はニンニク、ショウガ、クミン、コリアンダー種、唐辛子という、ネパール料理で一般的なセットだ。
角切りにした豚の三枚肉は湯通しして、臭みを和らげておく。その後、フライパンに菜種油を敷いて三枚肉を弱火で炒める。皮と脂身が溶けてきたらターメリックを少し加える。さらに弱火で炒めて三枚肉が十分に柔らかくなったら、塩と先程の香辛料セットを振りかけて数分間炒めて和える。
最後にヤンベンを加えて、弱火で三枚肉と和える。加熱が不十分だと豚の血であたる恐れがあるので注意。ただし加熱し過ぎると豚の血が固まってしまうので、そうならないようにする。
出来上がりは、豚の血でとろみをつけたカレーソースをまとった三枚肉だ。日本のカレーのように液体がたっぷりではない。沖縄料理のラフテーに近いソース量になる。
色はヤンベンの影響で黒いソースになる。この店では黄色いサフランご飯を添えて出していた。付け合わせは、トマトと唐辛子の温かくで酸っぱいチャツネだ。
ナラヤンが食べてみて目をキラキラ輝かせた。
「はー。土の香りがしますね。思った以上に豚の脂が気にならなくて、とても食べやすいですよ」
サラスワティ人形も食べて、嬉しそうな表情を受かべている。
「良いですね。高山の風景を思い出します」
ドゥルガ人形とカーリー人形は血入りソーセージを食べてご機嫌だ。ご飯の代わりにチャパティを頼んでいる。
ラズカランがカーリー人形に教えた。
「そのソーセージはリンブー語でサルゲンバっていうんだが、ヤンベンが入っているよ。どうだい、酒を頼んでみるかい?」
ラズカランとラムバリは既に酒を飲んでいた。陶器製のジョッキにアルコール発酵させたシコクビエを詰めて、湯を注いでから陶器製のストローで飲む酒だ。トゥンバといい、チベット系の住民の間で好まれている。
味は、軽めの日本酒に近いだろうか。アルコール度数が低いので、温めてもそれほどアルコール刺激は感じない。
ドゥルガ人形の見た目は17歳くらいなので、酒の注文は無理のようだ。残念がるドゥルガ人形を横目に、カーリー人形が肯定的に首をふった。
「そうだな……では頼もうか」
しかし、最終的には蒸留酒のティを頼んでしまうカーリー人形とラムバリ、ラズカランであったが……
肉ばかりでは良くないという事で、野菜料理も注文された。
特に女神たちが気に入ったのはイラクサのスープのようだ。カーリー人形が少し酔いながら、満足そうにスープをスプーンですくって口に運んでいる。
「山菜の風味は良いものだな。山芋のとろみも良い具合だよ」
イラクサは茹でてアク抜きをしてから、臼ですり潰し、さらにミキサーにかける。青汁状態になったら、それを鍋に入れて香辛料と塩を加えて煮込む。この店では、さらに裏ごししてからヨーグルトとすりおろした山芋を加えているようだ。
出来上がりは鮮やかな緑色の滑らかなスープになる。
サラスワティ人形は、キニマのスープを気に入ったようだ。キニマは黒い干し納豆で、茹でた大豆に酒づくりで使うマルチャと呼ばれるクモノスカビを加えて、さらに乳酸発酵も行う。日本の納豆のような見た目ではなく、粘り気も少ない。これを湯で戻して、香辛料と塩で味つけしたスープにしている。
「これも懐かしい風味ですね」
そう言ってから、隣に座っているナラヤンにそっと話しかけた。
「リンブー族は、7世紀くらいに東からやって来た民です。元々住んでいた山の民と交流したのでしょうね。この干し納豆やお酒、黒豚がしっかりと受け継がれていて、嬉しく思います」
そして、蒸留酒を美味そうに飲んでいるオッサン2人とカーリー人形を見て、穏やかに微笑んだ。
「お酒がこうして今も飲まれているのを見ると、ウグラセーナさんも喜ぶでしょうね」
ナラヤンが記憶をたどった。
「ウグラセーナって……確か、ナンダ帝国を建国した人ですよね。伝説に包まれた謎の人ってイメージがあります」
サラスワティ人形が愉快そうにうなずいた。
「面白い人でしたよ。当時私も少し協力しました」
ドゥルガ人形も思い出し笑いをしている。パクパクと気持ち良く料理を平らげていきながら、チソをお代わりした。
「酒を売るために北インドを統一したアイツかー……ローマにも輸出してたし。でもローマ産のブドウのワインは酸っぱいとか言って嫌ってたっけ、ははは」
ヒンズー教では飲酒は禁止されていない……のだが推奨もされていない。そのため、家飲みはせずに店で飲む人が多いようだ。豚肉も家庭では料理しない人が多い。
そういう面では、リンブー族は特殊だといえるだろう。ヒンズー教の祭祀でも黒豚料理を供物として捧げている。
山岳少数民族では、他にグルン族やライ族、タマン族、マガール族などが豚をよく食べている。平原部では、ビラトナガル市よりも西部に多く住んでいるタル族が豚を飼って食べている。マデシ族は豚をあまり食べない。
これらの民族は、カースト制度上ではラムバリのようなバフン、チェトリ階級の下に位置付けられている。現在は法制上カースト制度は廃止されているのだが、まだ雰囲気は残っているのが現状だ。清浄階級なのだが、来世への転生は約束されていない。この下には不浄階級があり、欧米人などが含まれている。
ウグラセーナは不浄階級の出身だという説がある。とにかく文献が少ない人物だ。当時、ペルシャ帝国がインドのインダス川流域までを版図にしていたため、インドとギリシャやローマとの間で交易をしていたのだろう。




