無用でも知識は知識
季節は西暦太陽暦の9月上旬になった。雨期が終わり、収穫の秋の季節だ。白い雲が浮かぶだけの青空になっている。
校舎の北側の空き地では、今回もムカスラから依頼が来たので、いつものようにナラヤンが論文情報を読み上げていた。昼前だったので、先に弁当を食べ終えていたようだ。
やはり今回もスマホに延々と語り掛け続けているので、学校内での奇人扱いが酷くなっているようだが……
サンスクリット語での論文情報読み上げを一休みして、スマホ画面を別のカメラで撮影してみる。しかし、やはり何も映っていなかった。落胆するナラヤン。仕方なく、論文の図表を手書きで紙に模写していく。絵心が乏しいので、何ともコメントに困る出来だ。
「楽はできないかー……」
今回は以下のような内容の論文情報をムカスラに送信していた。
〇人間の子供は生後2年ほどかけて腸内細菌の種類と量を育てていく。この時期に栄養失調などが起こると、以降は食事療法で修正できない。そのため、微生物資材を投与する事で対応する必要がある。
ただ、これも完全ではない。というのも、人間の腸内細菌の種類と量はそれぞれ個人で異なっているためだ。その人の腸内細菌は、その人がこれまでしてきた食生活や生活環境、薬の利用歴など、個人の歴史そのものによって形成されている。
なので、一律に単純な微生物資材の投与を行うと、かえってその人の腸内環境が悪化する恐れがある。この論文では、慎重に行うべきという主張であった。
〇小学生の腸内細菌の種類は、欧米とアジアとで異なる。欧米はバクテロイデス属の細菌が多いのが特徴だ。この細菌は日和見細菌が多くて肥満を促進する傾向がある。
アジアではさらに2つに分かれる。北アジアではビフィズス菌とバクテロイデス属の細菌が多いグループ。南アジアではプレボテラ属の細菌が多いグループになる。南アジアでは難消化性のデンプンや食物繊維が多い食事なので、それらを分解する細菌が多くなった。なお、大腸菌の種類に関してはどの地域でも同じだ。
このように、地域によって腸内細菌が異なるという論文だった。
〇この腸内細菌だが、人間に特に強く関与するのは20種類ほどだ。これらの菌が活性化すると、大腸を刺激するので免疫力が高まる。
しかし刺激が強すぎると免疫が暴走して、関節リウマチや炎症性腸疾患などの自己免疫疾患を誘発する。
他にもあるが、このような論文情報をまずサンスクリット語で読み上げた。
これらは全て人間での論文情報なのだが、羅刹でも同様の事が言える。羅刹の腸内と口腔内細菌の種類と量、それに機能のデータ蓄積が多くなればなるほど、法術治療の効果が高まるためだ。
特に消化器、肺や口腔内、それに皮膚疾患に深く関わる。アレルギー疾患も同様だ。その疾患を法術で治療する際の補助データとして、腸内と口腔内の細菌の状態を参照する事は有益となる。
ちなみに口腔内、口の中の細菌は、肺炎や歯周病とそれに起因する菌血症を誘発する要因になる。菌血症というのは、血中に細菌が混入している状態を指す。脳炎の原因にもなったりする。
ナラヤンが頭をフラフラさせて何とか理解した。今のスマホは画面の切り替えができるので、ネット辞典で論文にある単語の意味をその都度調べている。
「情報量が毎回多すぎるよ……僕は学校の成績上位者じゃないんだけどな」
水筒の水を飲んで一息ついてから、音声と模写した図表の画像ファイルをムカスラに送る。
そこへ放送部のジトゥが通りかかった。すでにニコニコしている。
「ナラヤンはこういう奇行をしてこそ存在意義が高まるんだぜ。でも、最近は奇行ばかりで新鮮味が薄れてきてるんだよなー、またナラヤンかよ、って反応が増えてきてるんだよ。奇行もやり過ぎるとマンネリ化して人目を引かなくなるぞ」
ナラヤンがジト目になった。スマホを持ってるので今は左手の平をクルリと返して、細い眉をひそめている。
「そんな事知るかよ。好きでやってるんじゃないぞ」
ジトゥが真面目な表情になった。キリリとすると快活な美男子と呼べなくもない。
「なあ。ナラヤンのスマホ画面には何も映ってないけど、サンスクリット語だよな、ソレ。よく聞くと医学の勉強だよな。進学して医者にでもなる気か?」
意外にジトゥもサンスクリット語が読み書きできたりする。だてにナラヤンよりも成績優秀者ではないのだ。
ナラヤンが腕組みして答えた。ニームの枝葉を持った小人型のサラスワティの姿を思い浮かべながら話す。
「ヤブ医者に色々と酷い目に遭わされているんだよ……だから、医者にはあまり良いイメージが浮かばない。でもまあ、選択肢には入れておくよ」
軽く頭をふる。特に意味はない。
「医者や看護師、医療技師になるには僕の成績じゃ厳しいけれど、小間使いにはなれるかも知れないし。機械の修理屋だけじゃ、あまり儲からないんだよねー……」
適当に聞いていたジトゥのスマホに電話が入った。それに出たジトゥがドヤ顔になる。
「取材の予約がとれたから今から行ってくるぜ。奇行はほどほどにしろよ」
そう言って、小走りで去っていった。
ナラヤンが彼を見送ってから、自身のスマホに向きあった。
「それじゃあ、続きを始めるか」
〇口の中の細菌もかなりの種類と量があるのだが、ある菌が歯周病と大腸がんの両方に関わっているという論文が一つ。この菌は普通の人間でも多くが保有している常在菌なのだが、調べる事で大腸がんの治療や予防につながる可能性があると示唆していた。
〇閉経後の女性は、体内での女性ホルモンの濃度低下により太りやすくなる。この肥満と血糖調節機能の低下にも腸内細菌が関わっているという論文が一つ。この論文では、あるポリフェノールを豊富に含むブドウ種子エキスを飲んでもらう事により、肥満を予防した事を記してあった。
ナラヤンがいったん水筒の水を飲んだ。
「羅刹世界にも人間世界から輸入されたブドウが栽培されているみたいだし、参考になるかもね」
〇ある腸内細菌は、食事由来のアミノ酸をフェノールに分解する。それが体内に吸収されると、肝臓の中でフェニル硫酸に変わる。これは腎不全を引き起こす原因物質だ。
特に糖尿病患者では重大事になりかねない。そのため食事療法がとられているのだが、この論文では腸内細菌の酵素を無効化させる事で対処できると示唆されていた。フェノールを合成させない戦術だ。
〇自己免疫疾患は免疫が活性化し過ぎている状態だ。この活性には、血中に漂っている細菌の破片も関わっているという論文が一つ。細菌の破片を免疫が攻撃する事で、免疫全体も過剰に活性化してしまう。
そのため、細菌の破片を中和するように設計した抗体を使った。こうする事で免疫が破片を認識できなくなるため、過剰な免疫反応が弱まるという内容だ。
〇ウイルスが関わる病気の予防にはワクチンが用いられるが、腸内細菌が上手く活性化するとこの効果が高まるという論文が一つ。反対に暑い環境では、この効果が低下するとも指摘している。
〇自己免疫疾患病の一つである関節リウマチの患者では、プレボテラ属の腸内細菌が増えていると記した論文が一つ。加えて人種によって差異があるとして、この属の5種類の菌株に注目すべきと指摘している。
〇ワクチンはウイルス病だけでなく、病原性を持つ腸内細菌に対しても作成する事ができる。腸内細菌と接しているのは腸内の粘膜なので、ワクチンによって粘膜を教育するという方法だ。粘膜ワクチンとも呼ぶ。
病原性を持つ腸内細菌が暴れそうになった場合に、腸内の粘膜が強力な免疫反応を起こす。こうする事で病気が発症する前に抑制できる。
この粘膜ワクチンは、コレラのような病原菌が分泌する毒素や、肺炎球菌感染の制御にも応用できると主張している。
……などなど。これらの情報を翌日の昼前にムカスラに送った。
しかし、今回は羅刹世界でも知られている情報ばかりだったようだ。翌々日の昼前に来たムカスラの反応は大したものではなかった。
落胆するナラヤン。
「無駄骨だったかー……」
ミニスワティがやって来て、ナラヤンの頭の上に乗った。
「ナラヤン自身の勉強につながったので良しとしなさいな。お疲れさまという事で、何か歌いましょうか?」
早くもヴィーナを呼び出して、ナラヤンの頭の上でセッティングを始めている。
ナラヤンがスマホ画面で頭上の様子を見た。
「では、一曲お願いします。この精神的な疲れを何とかしないと、午後の授業中に眠ってしまいそうです」




