温泉宿をつくってみた
季節は西暦太陽暦の8月下旬になった。雨期もようやく終盤で、インド北西部やネパール西部では雨が止んできたというニュースがナラヤンの耳にも入ってきている。
ビラトナガル市内ではクリシュナ生誕祭が執り行われて、雄牛にひかれた山車が何台も大通りを進んでいく。この期間は歩行者天国になるので、車やトラックは町の外に追い出されている。
休日でもあるため、ガンガトール高校も休みだ。しかし、部活動はしっかりあるため、制服を着て登校している。
部室でナラヤンがロボのプログラムのバグ潰しをしていたのだが、ムカスラにお願いされて羅刹世界へ行く事になってしまった。
今回は羅刹世界のマガダ帝国の帝都プトラにある、法術省の実験棟へ行く事になった。開発された試作魔法具の出来栄えの確認を、ムカスラから頼まれたためである。
「とは言っても、僕は学生なので機械を評価する役目は無理ですよ」
そう言ってナラヤンは遠慮したのだが、結局召喚されたのであった。高校の制服姿のままである。ロボ研のサンジャイ部長に急用ができたので帰ると連絡を入れた。
「何でも屋になってきているような気がする……」
この召喚の時までに、情報工学部のムクタル教授に頼んでいたスマホの修理が済んでいたのは朗報だったと言えるだろう。そのため、今回はサラスワティがスマホの中に入って参加している。
羅刹世界へ到着後、いつもの手順でナラヤン魂はムカスラが用意してくれた素体に憑依した。今回は老人型だった。
ムカスラが謝る。
「すみません。素体不足が深刻でして……」
サラスワティもスマホの中でマタンギに変身していなかったので、安堵していた。
「術式を修正したのですが、実際に羅刹世界へ行かないと分かりませんからね。ほっとしました」
実験棟がある区画はかなり広く、大小さまざまな建物が林立していた。ムカスラと同じく白衣姿の研究者が廊下を行き来しているのが見える。羅刹以外に人間のような姿も多いのだが、彼らが魔法世界から来ている魔法使いなのだろう。
(見た目は僕たち人間と変わらないように見えるなあ。あ、背が低くて太っているのがドワーフかな?)
この区画は高い壁で囲まれているため、外の景色は見えない。塔や高層ビルの先端が壁越しにいくつか見えるだけだ。
その数を数えたナラヤン素体が驚く。
(雰囲気としては、インドの首都よりも巨大な都市って感じがするなあ……空にもたくさん何か飛び回っているし)
ムカスラが近くの実験棟へナラヤン素体を案内した。ナラヤンが通っている高校校舎くらいの大きさである。そこに隣接している茶店に入って、チヤを注文した。
「ナラヤン君がこれまで送ってくれた論文情報を、ここで精査しています。結構、帝国も本気でしょ」
素直にうなずくナラヤン素体である。
「24時間頑張ったのが報われているんですね。お役に立てて良かったです」
スマホの中のサラスワティも嬉しそうだ。
人間世界と羅刹世界とでは魔法場が違うし、何よりも羅刹は人間ではない。そのため、羅刹向けに論文情報を調整変容する必要がある。その研究には、このくらいの大きさの施設が必要になるのだろう。
チヤが茶店のテーブルに置かれた。ナラヤン素体がまず最初に、スマホの中のサラスワティに供物として捧げる。
「どうぞ。人間世界では飲食ができないんですよね。存分に楽しんでください」
サラスワティが照れながら笑顔で答えた。
「そうですか? それでは遠慮なくいただきますね」
ムカスラがそれを見て、ナラヤンにもう一杯チヤを注文し直してくれた。
「ここでは供物で捧げると、実際になくなってしまいますからね。経費で落ちますから遠慮なく飲んでください」
そうして新たにやって来たチヤをナラヤンに差し出し、同時に錠剤を渡した。
「論文情報を参考にして開発した抗生物質です。今回の召喚目的の一つが、これの投与実験です。チヤと一緒に飲んでください」
ナラヤン素体が素直に錠剤をチヤと一緒に飲み込んだ。
「これも敗血症の対策ですか?」
ムカスラがうなずいた。
「はい。田舎で発生した患者を想定しています。神官が到着して法術治療を終えるまでの応急措置という位置づけですね。細菌性の流行病対策も兼ねていますよ」
抗生物質は様々な菌が産生しているのだが、これは放線菌由来だそうだ。論文情報を基にして羅刹世界の土壌から見つけた菌である。放線菌は見た目がカビっぽい。
放線菌は増殖が速い方ではあるのだが、さらに高速化するために大腸菌に関連遺伝子を組み込んでいる。この際に、抗生物質や酵素を産生する遺伝子を操作している。そのため、自然界には存在しない抗生物質や酵素が大量生産できるようになった。
「地域によって病原菌の種類や遺伝子型が異なりますからね。病原菌もよく突然変異しています。迅速に抗生物質や酵素をデザインして、救急救命キットに常備してもらうという計画なんですよ」
感心するばかりのナラヤンだ。
「ひええ……凄いですね」
ただし、デザインした抗生物質は動物実験と素体での実験をする必要がある。副作用の有無を調べないといけないためだ。その素体での投与実験のために、今回ナラヤンが召喚されたという経緯である。
「素体での安全性と有効性が確認されてから、我々羅刹での治験が始まります。それを済ませた薬が、救急救命キットに加わるという流れですね」
今回もナラヤンの召喚が終了してから、素体に延命処置を施して実験を続ける予定だ。最終的には体組織を採取して継代培養し、実験用の生体組織として使う事になる。
ナラヤンはこれまで何度か羅刹世界に来て素体に憑依をしていたため、素体とそれから採取した組織が十分にある。しかし役所の縄張り意識とかで、部署ごとにナラヤンの素体と生体組織を欲していると、ムカスラが申し訳なさそうに説明してくれた。
ナラヤン素体がチヤをすすりながら質問した。
「その事なんですが、素体に憑依するのが僕だけで構わないんですか? 他の人間にも憑依してもらった方が多様性が出ると思うのですが」
ムカスラがスマホの中のサラスワティと視線を交わして、困ったような笑顔を浮かべた。飲み終えたグラスの縁を指でなぞっている。
「理想を言えばそうなりますね。ですが、人間世界は魔法禁止なんですよ。羅刹魔法がかけられたスマホを大量配布すると、他の異世界から文句を言われてしまいます。人間社会も混乱するでしょうし」
サラスワティも同意している。彼女もチヤを飲み終えていた。
「そうですね。神々も人間には直接関与しない方針です。ナラヤンさん自体が特例というか例外なんですよ。ブラーマ様に感謝しなさい」
そうなのかー……と残念がるナラヤン素体である。
ムカスラが話題を変えた。テーブルの上に小さな器械を2つ置く。
「ウイルスと細菌の検出器です。これまでは主に細菌や寄生虫でしたが、ウイルスへの対策も重要なんですよ」
羅刹世界には人間世界から家畜や作物が輸入されているのだが、ウイルスも一緒に侵入していると話すムカスラだ。
「ノロ、鳥インフル、口蹄疫、鯉ヘルペスなどがありますね。羅刹には感染しないウイルスがほとんどなのですが、輸入した家畜が死んでしまうのは経済的に大きな損失となります」
基本的にウイルスは特定の動物や植物にしか感染しない。羅刹は人間世界から去って久しいので、羅刹に感染するウイルスは現在ほぼいなくなっているようだ。
ちなみに先程の抗生物質はウイルスではなくて細菌対策に使う。
2つある測定器のうち1つは、微量のウイルスでも検出できるとムカスラが説明してくれた。
ウイルスに付着できるように設計した抗体に、磁気を帯びた微粒子と近接場光という特殊な光を発生する微粒子を結合させている。
抗体がウイルスに付着すると、磁気によって抗体が光る。さらに磁石に引き寄せられるので、動いた光る粒子を数える事でウイルスの数を検出できるという仕組みだ。
「数個単位でウイルスを検出できます。病原ウイルスは既に特定されていますから、抗体をすぐに作成して田舎の現場へ送る事ができますしね」
もう1つの検出器も説明するムカスラである。
「こちらは未知の菌を現場で簡易判別する目的で試作されたものです」
細菌の場合は抗生物質などへの耐性を有する種類がある。薬剤耐性菌だ。
細菌にある波長のレーザー光線を照射すると、光を周囲に散乱する性質がある。この散乱具合は菌の種類によって違う。さらには薬剤耐性菌と通常の菌とでも違う。
その散乱パターンを類別する事で、菌の種類を特定する事ができる。薬剤耐性菌は細菌の特定の遺伝子が機能しているために生じているので、遺伝子の発現パターンまで推定する事が可能だ。
ムカスラがニコニコしながら、2つの測定器を指でコツコツ小突いた。
「これらの測定器を田舎へ配布する事で、公衆衛生と防疫環境がさらに向上します。現場でどんな菌やウイルスが流行しているか迅速に分かれば、法術による対処もより確実なものになります」
ナラヤン素体が感嘆している。
「うは……人間世界でも使ってほしいですね。ビラトナガル市内は言うまでもないのですが、僕の実家の村でも病気にかかる人が多いんですよ」
スマホの中のサラスワティがジト目で微笑んだ。
「気がついているのでしたら、環境を浄化してくださいね。私が近寄れないじゃないですか」
すみません……と頭をかいて謝っているナラヤン素体に、小さくコロコロと笑う。
「それにしても、羅刹も変わりましたよねえ……すっかり綺麗好きになって、私も嬉しいですよ」
ムカスラが恐縮しながら照れた。
「浄化の女神様にそう仰ってもらえると、ありがたいですね」
ちなみに、ここの茶店でも早速実用化している物があると話した。
「マガダ帝国の版図って広大なんですよ。北の方はオホーツク海に面しています。そこで養殖しているホタテ貝の殻を使って、消毒剤として使用していますよ」
貝殻を焼くと焼成カルシウムになる。主成分は水酸化カルシウムなのだが、これに低濃度のエタノールと乳酸ナトリウムを添加してつくった殺菌液を、この茶店で使っている。
「この殺菌液に生肉を浸して、高速洗浄と超音波洗浄を5分間行います。途中で殺菌液を新しいものに入れ替えることで、殺菌効果がさらに上がりますね」
生肉料理は羅刹の間で人気なのだが、食中毒が発生して問題になっている。この処理をしてから生肉の表面をそぎ落して使うという事だった。
「果物や野菜、魚介類の殺菌にも使えますね。この殺菌液は毒性が非常に低いので、扱いやすいと評判です。厨房機器や手袋、トイレ周りでも使用していますよ」
茶店で使用ノウハウを蓄積してから、本格的な普及を始めると話すムカスラであった。
ナラヤン素体が小首をかしげた。
「……茶店で生肉料理を提供しているんですか?」
素直にうなずくムカスラである。
「ですね。寄生虫対策をしているのも、これが理由の一つになります」
先日シカの寄生虫を採集していたのも、これに関係するのだろう。
召喚時間が終わるまで時間が残っているので、日本で見てヒントを得たという温泉に招待されるナラヤン素体とサラスワティであった。
ムカスラが羅刹魔法の術式を起動させて、目的地の座標を入力する。
「これもまだ実験段階ですので、山の中に設けています。この空いた時間に立ち寄ってみましょう」
ヒマラヤ山脈はインド亜大陸がユーラシア大陸に衝突して生じている。そのため、温泉が点在している。ネパール語で『タトパニ』と呼ばれている場所では温泉がある確率が高い。
ムカスラが転移魔法で連れてきてくれた場所も、その一つだった。南北に切り立った崖が続いていて、岩を噛む激流が流れている。その一角を掘削して整地し、簡易の温泉宿が設けられていた。
ナラヤン素体が目を輝かせる。
「あ。ここはネパールと中国の国境にある温泉地ですね。人間世界でも温泉宿が建ち並んでいますよ」
首都カトマンズから乗り合いバスで北東へ1日の距離にある。温泉宿といっても日本のような風情のある建物ではなくて、地元民が使う普通の木造家屋しかない。交易トラックが行き来していて結構騒々しい温泉街なのだが、ここ羅刹世界ではそんな騒音とは無縁だ。
ナラヤン素体が浮かれてスキップし始めた。
「ここに来るのは実は初めてなんですよ。乗り合いバスがいつも満員で乗れなくて。へえ……なかなか深い谷にあるんですね。激流の音が凄いや」
確かに重低音を含んで地響きを伴った轟音である。この川に流されたら、無事では済まないだろう。
ムカスラが温泉宿のスタッフに挨拶してから、魔法を使ってチェックインを済ませる。
「魔法場って、個人ごとに異なるんですよ。ですので、こうして個人認証にも活用されています。さて、宿の中へ入りましょうか」
日本式とは言っていたのだが、実際はほとんど参考にしていないようだ。建物の構造自体が異なっている。
ナラヤン素体が建物の中をキョロキョロしながら小さく呻いた。
「……魔界の礼拝堂って感じですね」
クスクス笑うサラスワティだ。
(そうですね。闇魔法は物質を浸食する作用があるんですよ。木材を使うとすぐにボロボロになってしまいます。こうしてレンガと土壁で建てないと長持ちしません。柱は合成水晶を使っていますね)
温泉も日本式ではなくて、温水プールのような見た目だった。他に客はいないので、貸し切り状態だ。温泉のそばに設けられているベンチに腰掛けるナラヤン素体とムカスラである。
ムカスラが温泉宿のスタッフからメニュー表を受け取って、ナラヤン素体とスマホの中のサラスワティに話し始めた。
「私たち羅刹って、見ての通り容姿が厳ついでしょ。おかげで今でも魔法使いや亜人に警戒されるんですよ。美容によって印象を和らげる事は、マガダ帝国としても重要な関心事になっているんです」
素直に同意するナラヤンと、スマホの中のサラスワティだ。
温泉には日本酒を混ぜていると話してくれた。
「アルコールを抜いた日本酒を使っています。成分調整をしていますので、日本酒のような風味ではなくなっていますけれどね」
どちらかというと味醂に近いようだ。これに皮膚のコラーゲン密度を増やす作用のある有機分子を添加している。日本酒は湯の量に対して千分の一になるようにしているらしい。
皮膚は生体バリアなので通常は外部から物質を取り込まないのだが、分子組成を工夫する事で皮膚からの吸収ができるようにしたという。皮膚炎を引き起こす毒物の分子構造を参考にしたらしい。
ちなみに皮膚にコラーゲンそのものを塗っても吸収される事はない。そのため、生体内でのコラーゲン生成を促す手段を採用している。
同時に温泉宿の食事でも、生体内でのコラーゲン生成を促す成分が含まれているそうだ。ムカスラが赤い髪をかいて照れた。
「これまでの所では良い効果が出ています。ワタシは忙しくて、なかなかここへ来られませんけれどね、ははは……」
ナラヤン素体に出された飲み物は甘酒だった。これもムカスラが説明する。
「アルコールは除去してありますので、未成年のナラヤン君でも安心して飲む事ができますよ」
確かに酒臭くない。
それでは……と一口飲んでみたナラヤン素体が目を輝かせた。
「美味しいですねっ。米の味と香りがして良い感じです」
米麹と米で仕込まれた甘酒には、難消化性のタンパク質が多く含まれている。食物繊維のような役割をするため、整腸作用が期待されている。また甘酒の成分も栄養のバランスが取れているため、健康飲料や栄養補給目的でも注目されている。
この甘酒はアルコールが除去されているので酔う恐れもない。闇魔法でアルコール分子を指定して除去していると話すムカスラだ。
「除去というよりは消去といった方が正確ですね」
続いて料理が運ばれてきた。チャパティと骨付き鶏肉の香辛料煮込みだ。ナラヤンがネパール人なので、そのような料理にしているのだろう。
ナラヤン素体が手を洗ってからテーブルに戻り、早速食べ始めた。
「ん? 甘口ですね。蜂蜜を使っていますか?」
ムカスラも同じ食事を摂りながら、肯定的に首をふった。
「もう分かりましたか。通常、ネパール料理では蜂蜜を使わないそうですが、これも美容対策です。というか健康増進の目的が大きいかも」
ナラヤン素体がうなずいた。
「確かに料理では使いませんね。ローティとかのオヤツに塗ったりはしますけど。ですが、十分美味しいですよ」
蜂蜜にも色々あるのだが、今回はナツメの花の蜂蜜を使っているそうだ。この蜂蜜を180度で1時間ほど加熱すると、成分に変化が生じる。腸内での免疫を強化する成分が多くなる。ただし1時間以上加熱すると、その成分の活性が低くなってしまうが。
この加熱加工した蜂蜜を香辛料と混ぜて鶏肉料理に使用している。
サラスワティにも料理が用意されていて、スマホの中でニコニコしながら食べている。スマホ画面の中で食べた分だけ、実際の料理も減っていくので興味深く見てしまうナラヤン素体とムカスラだ。
サラスワティがコホンと小さく咳払いをした。
(物質を情報というエネルギーに変換していますので、こうして実際に減っていくんですよ。エネルギー量は実際にはかなり巨大になりますが、このくらいの食事量でしたら私の許容範囲内です)
よく分からなかったナラヤン素体だったが、特に質問はしなかった。
「こうして皆さんと一緒に食事ができるのは、良いものですね」
食後は酒ではなくてジュースが出てきた。ムカスラがこれについても説明する。
「未熟果パパイアを米ぬか、糖蜜、ヤシ糖と混ぜて発酵させた飲料です。サンゴ砂でろ過した海水も1%加えていますね。それを乳酸菌でまず発酵させてから次に酵母菌と糸状菌で二次発酵させています」
ナラヤン素体が一口飲んでみて、小首をかしげた。
「未熟果パパイアって不味いんですけど、これは普通に飲めますね。結構酸っぱいですが、後味が良いので気になりません」
サラスワティもスマホの中で試飲して、ナラヤン素体に同意している。
(そうですね。酸っぱさは青マンゴの漬物くらいですし、私も特に気になりません。ですが、有効成分はこのジュースよりも、搾りかすの方が多いのではありませんか?)
ムカスラがうなずいた。
「その通りですね。搾りかすを粉砕して乾燥粉末にすれば、調味料として使えるかも知れません。提案してみますね」
動物実験では、この飲料を飲ませた場合、腸内細菌の組成に変化が生じたと話すムカスラだ。
「敗血症を引き起こす原因になる菌の割合が減ったんですよ。予防につながると期待されています」
感心して発酵ジュースを飲み干すナラヤンである。
「本当に、人間世界でも売ってもらいたいですね。健康維持への関心が凄く高いんですよ」
ムカスラが困ったような笑顔を浮かべた。
「マガダ帝国と交易しているのは人間世界では1社だけなんです。南アジア圏には支店がなかったような……しかし、上司に提案しておきますね」
ちなみに、この発酵飲料にはまだ名前がつけられていないと話す。
「商品化されてませんので、今はまだ開発番号だけですね」
今回はあちこち忙しく回ったので、ナラヤン素体が疲れて眠ってしまった。
このまま今回は仕事を終了しましょうと言うムカスラ。
「ナラヤン君には世話になりっぱなしですからね。こういった慰労会は必要かと」
同意するサラスワティだ。スマホから出てナラヤンと入れ替わった。素体が変身して16歳の高校生の少女の姿になる。今回はマタンギ化していない。
軽く背伸びをしてから、ナラヤンの魂をムカスラの水筒に入れた。
「人間は有限の寿命ですからね。無理をさせるのは良くありません」
ムカスラが甘酒を追加で注文して、サラスワティ素体に渡した。
「もうすっかりマタンギ化しなくなりましたね。羅刹世界で神様をもてなす経験ができるとは、研究者として本当に楽しんでいますよ」
それでもサラスワティ素体には直接触れないように注意しているが。
サラスワティ素体が甘酒を楽しんで上機嫌になった。少し目元が赤くなっている。
「私は元々人間でしたので、こうして飲食できると嬉しくなりますね」
そう言ってから温水プールに視線を向けた。
「浸かってみようかな」
ムカスラが温泉宿の屋上を指さした。
「それでしたら、屋上にある個室の露天風呂を使ってください。見晴らしが良いと好評ですよ」
ムカスラ自身はここで甘酒を飲んで寛いでいると言う。
サラスワティ素体が興味津々の表情になった。
「そうですか? 沐浴服を着るので人目は気にしないのですが、それでは試してみますね」
サラスワティ素体はナラヤンが先ほどまで着ていた高校の制服姿だったのだが、瞬時に白い布地の沐浴服に着替えた。
これは筒状の服で、非常に長いスカートのような形状だ。胸元で紐を使って留めて、肩と腕が出る。裾は足先が見える程度なので、かなり露出が少ない。
そのままフワリと空中に浮かび上がり、屋上の小さな露天風呂に到着した。ここも酒風呂になっているが、アルコールは除去されていないようだ。
周囲を見渡したサラスワティ素体がご機嫌な表情になった。高い断崖に囲まれているので、地層の縞模様がよく見える。雨期なので崖に貼りついている木々も鮮やかな緑だ。崖の頂上は別の種類の草木で覆われていた。
何よりも、谷を流れる激流の様子がよく見える。
「川を見下ろせるのかあー……お姉ちゃんが喜びそうだな」
ムカスラが下の温水プールそばで甘酒をすすりながら、手元の小さな空中ディスプレー画面で論文情報や研究報告を読んでいると、屋上からサラスワティの歌が聞こえてきた。
見上げて微笑む。
「気に入ってくれたようで良かった。この歌は先日の舟唄かな」
と、その歌が途絶えた。少しすると沐浴服のサラスワティが飛んで戻ってくる。
「すみません、ムカスラさん……ついうっかり、酒風呂の湯を真水に浄化してしまいました」
未熟果パパイヤを発酵させた果実酢飲料ですが、以下のようにしています。熱帯果物を使っていますので、日本のような温帯では難しいですね。
広口の容器を用意します。
水の代わりにパイナップルなどの果物ジュースを使い、これに糖蜜を容積比で5%、砕いたヤシ糖を重量比で2%、米ぬかを容積比で2%、KLを容積比で5%、光合成細菌を容積比で2%、ろ過した海水を容積比で1から10%、千切りにした未熟果パパイヤを容積比で20%を加えてよく混ぜます。糖蜜とヤシ糖は完全に溶かしてください。
熱帯作物のタイ緑ナス、ホーリーバジル、トウガラシの新芽、山ゴボウの根など抗酸化成分が多い野菜も、千切りにして、容積比で合計20%程度加えると良いでしょう。加えなくても別に構いません。
密閉、暗条件で冷蔵庫内で1日1回混ぜながら乳酸発酵させます。冷蔵庫が無ければ、屋内常温で発酵させます。
pH3.5以下になったら室内常温で二次発酵させます。この際に酵母菌などによる二酸化炭素ガスが発生するので、ガス抜きチューブを付けておくと便利です。ガスの発生が起きなくても問題ありませんが、その場合は2週間ほど様子を見てください。
ガスの発生が収まったら、ろ過して液体だけを回収します。PH3.5以下であれば完成です。3.5以上であれば失敗ですが、半量にして、果物ジュースを加え、KLを容積比で5%、光合成細菌を同2%、ヤシ糖を重量比で5%加えて再発酵させると挽回できます。
もしアルコール臭が気になる場合は雨風が当たらない屋外に置き、フタを開けて細孔100ミクロンの化繊布で容器の口を覆います。こうする事で空気中の酢酸菌が侵入して、アルコールを代謝しての酢酸発酵が始まります。
こうして、果実酢が出来上がります。密閉して空気に触れないようにしておけば、室内常温で半年くらいもちます。食品として登録し、毎日100mLほどを食後に飲むのが目安です。効能は果実酢と同様です。
余談ですが、果物ジュースの代わりにオリーブ油などの食用油でも可能です。その場合、水分は弾かれてしまいますので、最初に米ぬか嫌気ボカシをつくります。1か月ほどして発酵が完了したら、これに同量の食用油を注ぎます。数か月間ほど嫌気二次発酵させて、ろ過して液体だけを抽出すれば完成です。親油性の成分をこうして利用できます。




