サイクロン襲来 その一
季節は西暦太陽暦の7月上旬になった。雨期の最盛期である。
サイクロンがバングラデシュを襲撃して、海岸の町が水没したというニュースがテレビやラジオで流れている。
このサイクロンの名前はアムファンで、バングラデシュ上陸前の中心付近の気圧は925ヘクトパスカル、最大瞬間風速は秒速65メートルという規模だ。
サイクロンは上陸すると急速に勢力を弱めるので、明日には普通の低気圧になるという予報だった。
ネパールは内陸にあるため、サイクロンの直撃を受ける事にはならない。暴風圏にも入らない。しかし、ヒマラヤ山脈という巨大な氷雪の壁があるため、大雨と洪水には注意する必要がある。
また、大気が不安定なので雷雨と竜巻にも要注意と話すテレビやラジオの予報官だ。
学校近くにある病院の前にある小さな祠では、ナラヤンが供物としてマンゴを差し出していた。そのマンゴにミニスワティが手をかざして休憩している。
「は~……寛ぐー。やっぱり旬の果物は良いですね」
どこかのオッサンのような声を出して、首を肯定的にふっている。
ナラヤンが追加のマンゴを捧げてから気遣った。時節小雨が降る天気で、上空の分厚い雨雲が高速で流れていく。路面には大きな水たまりがいくつも生じていて、場所によっては道路が池になっていた。
「お疲れのご様子ですね、ミニスワティ様。インドやバングラデシュでは洪水で大変だとニュースでやってました」
ミニスワティが新たなマンゴに手をかざしながら、軽く肩をすくめた。
「疫病対策専門の女神がいるので、あの程度で済んでいるんですけどね。シターラちゃん、オラちゃんが頑張ってますよ」
そう言ってから手に持っているニームの枝葉を振り回した。
「これもシターラちゃんの神具なんですよ。殺菌消毒によく効きます」
インドの神々は互いに神具を融通する習慣がある。ドゥルガの武器もブラーマ、シヴァ、ヤマ、ビシュヌや仙人から与えられたものだ。
ミニスワティは目下、ビラトナガル市内の病院に多く配属されているらしい。もちろん他の市町村でも仕事をしているようだ。
(あ、そうか。分身だと仰っていましたね。ミニスワティ様が大勢いるのか)
ナラヤンが理解するが、実際にはミニスワティはネパールだけではなくてインド全域に配属されている。そのため、人数はかなり多い。恐らくはビラトナガル市の人口よりも多いだろう。
とはいえ、医療関係者への祝福や加護に留まるが。
ミニスワティがマンゴから手を離して、小さくため息をついた。
「雨続きで衛生状態が悪くなっています。病魔や魔物が湧き出してるんですよね。コレラとか腸チフスの発生も気になります。分身がどれだけあっても足りないぞ、うがーっ」
同情するナラヤンである。
「サイクロンの影響が内陸まで及ぶので大変ですねえ。しかし、小人になると性格が変わりますね。うがー、とか……」
ちなみにサラスワティ本人はコシ河のほとりに立って、堤防が決壊しないように見張っているらしい。
(……引きこもりかな?)
そう連想してしまったが、今はそれ以上考えない事にしたナラヤンだ。
そこへムカスラが転移して姿を現した。スマホ画面で確認して、合掌して挨拶するナラヤンである。
「こんにちは、ムカスラさん。論文情報はどんな評価ですか?」
ムカスラが微妙に視線を逸らした。ゲジゲジ眉もあまり動いていない。
「関係各所へ送信してますので、彼らの反応待ちですね。待ち時間の間に人間世界で採集してこいと、上司から言われてしまいまして……こうしてやって来ました。お邪魔ではないですよね?」
ムカスラにも同情するナラヤンであった。
「……羅刹世界も大変そうですね。ですが、病原体の採集に関して今は適していると思いますよ」
ムカスラにサイクロン被害の事を話すと、がぜん、赤い瞳をキラキラさせ始めたムカスラだ。
「運が良いのか悪いのか分かりませんが、頑張って採集しますっ」
ナラヤンが小首をかしげた。
「ええと、以前にコシ河の展望台の欄干を採集装置にしましたよね。それだけでは不十分なんですか?」
ムカスラがさらに視線を逸らした。
「ああ、アレですね……自動採集術式はまだ起動していません。今もワタシが人力で採集する形態です。これも新人研修の一環だと上司に言われてしまいまして……ははは」
ナラヤンが右手の平をクルリと返した。ムカスラの代わりに上司へ抗議の意を伝える。
「あ。そう言えばムカスラさんって、まだ新人でしたね。楽はまだできませんか……」
ミニスワティがマンゴをムカスラに勧めた。
「甘い果物でも食べてリラックスしてくださいな。でもそうですか、こういう事は神も羅刹でも一緒なのですね」
マンゴの皮をナラヤンが器用にむいて、バナナの葉の小皿に乗せてからムカスラに手渡した。ナラヤン自身も食べる。ちょうど雨が降ってきていたので、あまり人目についていないようである。
「ちょうど2個買ってきていて良かったです。どうぞ、ムカスラさん」
礼を述べたムカスラが早速マンゴをパクパク食べ始めた。厳つい顔があっという間に緩んでいく。
「お。香りも良くて甘さも乗っていますね。これは美味しいな」
「でしょー」
ドヤ顔になるナラヤンだ。
そんな人間と羅刹の様子をニコニコしながら見守っていたミニスワティが、ヴィーナを呼び出した。がすぐに消去した。
「羅刹さんにはヴィーナの音色は危険でしたね。今はマタンギ化すると仕事に支障が生じますので、ごめんなさい。羅刹さんに対して無害なように術式を工夫しておきますね」
代わりに、昔の歌だと断ってから一曲歌い始めた。羅刹のムカスラに配慮してか、ネパール語の歌詞だ。
ムカスラが目を点にしている。
「その歌……羅刹世界でもよく知られていますよ。羽化した蝶が山々を越えて花畑を探しに旅に出る……という内容です」
ミニスワティも少し驚いた様子だ。
「あらら。元々は山の民の流行歌だったんですよ、これ。もう2300年も昔の古い歌ですのに、よく今まで伝わっていましたね」
意気投合したムカスラとミニスワティである。さすがにハイタッチは寸止め形式に留めたが。
ナラヤンが小首をかしげた。近くを通りかかった放牧山羊に、食べ終えたマンゴの種と皮を与える。
(んー……もしかすると、伝説の中であった歌の一曲かな?)
そんな事を考えていると、雨雲の中から1柱の女神が飛んできた。背中に白鳥の翼を生やしている。ムカスラと談笑しているミニスワティを上空から見つけて、急降下してきた。しかし、地面には着地せずに宙に浮かんでいる。
「あー! 分身のサラスワティ様っ。休憩しててずるいー」
ジト目になったミニスワティが、ムカスラとナラヤンにこの女神を紹介した。
「シディーダトリさんです。カーリーさんの9柱の部下女神の1柱ですね。サラスワティの分身ですが、半独立して行動しています」
ドヤ顔になったシディーダトリが、背中の白鳥の翼をバサバサさせた。インド貴族風の軍服姿なのだが、色は水色で統一している。そしてやはり裸足だ。
身長は150センチちょっとで、丸顔。セミロングの銀髪が翼に合わせてなびいている。短い眉の下には吊り目があり、キラキラ輝いている。
「サラスワティ様の加護を受けている女神といった方がいいかな。配属先はカーリー様だけどね。よろしく、ナラヤン君とムカスラ君」
合掌したナラヤンがなるほどと納得した。
(確かに、サラスワティ様とは顔立ちが違うかな。肌の色も白じゃないし)
ミニスワティがシディーダトリに用向きを聞くと、真面目な表情になった。
「シャイラプトリに助力しろって、カーリー様の命令だよ」
大雨で洪水が起きているビラトナガル郊外の農村では、ムシュキタと呼ばれるヘビ魔物が何体も発生していて、それらが暴れていると話すシディーダトリだ。さらに洪水の中から、次々に病魔が発生しているらしい。
今は、シャイラプトリが三又槍を振るって撃退している。彼女を援護してくれという内容だった。
ナラヤンが記憶をたどる。
(ええと……水牛に乗ってる赤い軍服の女神様だったっけ。オウムが悪さして、すみませんでした)
しかし、ミニスワティは難色を示した。小さな白鳥の背に乗って、あぐらをかいている。
「私は病院に詰めているので無理ですよ」
そう答えてから、ナラヤンに視線を向けた。悪寒が背筋を走り抜けるのを感じるナラヤン。
「私の代わりに加勢に行ってくれませんか? ナラヤンさん」
「と言われましても、僕は魔法を使えませんよ」
そう答えるしかないナラヤンだ。ムカスラも私は羅刹ですし、と遠慮している。
「あー、もう。面倒だなっ」
シディーダトリがジト目になって、ナラヤンのスマホをひったくった。
そして勝手にシャイラプトリに電話をかける。
(いつの間に電話番号を登録していたんだ……)
ナラヤンがドン引きする。それと共に、いつの間にか神が、スマホを手に持つ事ができるようになっていた事にも驚いている。着々とサラスワティによって術式の改良が進んでいるようだ。
すぐに電話がつながった。
「シャイラ? アタシだけど。これからナラヤン君とムカスラ君を、そっちに送るわね」
シャイラプトリからの返答を聞いたシディーダトリが、ニンマリ笑顔をナラヤンに向けた。
「歓迎するってよ。話は通したから、さっさと行きなさい。私たち女神の声は人間に聞こえないから、ナラヤン君が代わりに伝えてくれると助かるのよ」
それを聞いて、ようやく納得するナラヤンだ。スマホを返してもらう。
「あ。なるほど。承りました」
そしてナラヤンがスマホを操作して、放送部のネットラジオを流した。放送部のジトゥがアナウンサー役をしていて、各地の被害状況と救護所情報を伝えている。
「これも活用してみましょうか」
シディーダトリがネットラジオを興味深く聞いて、ニッコリと微笑んだ。
「この情報をシャイラプトリにも伝えなさい。女神の分身や眷属が情報収集をしているけど、情報源は多い方が良いからね」
これも了解するナラヤンだ。ムカスラも了解し、小人化してナラヤンの胸ポケットの中に収まった。
「では、早速向かいますねっ」
ナラヤンが全力で自転車をこいで走り去っていった。それを見送るシディーダトリとミニスワティ。
シディーダトリが興味深そうにつぶやく。
「昔は神々と人間とが一緒に働いていたって話だけど、こんな感じだったのかな」
うなずくミニスワティ。
「自転車のような便利な道具はありませんでしたけどね。羅刹が関わっていた時代もあったんですよ」
そこへ別のミニスワティが伝令役として転移してきて、状況を報告した。
「伝令、伝令。あ、シディーダトリさんもいましたか。ちょうど良かった。感染症が発生しました。病気にかかったインド人が、ネパールへ押し寄せてきています」
シディーダトリがそれを聞いて表情を曇らせた。
「……国境の病院が忙しくなりそうだな」
ミニスワティが2柱同時に答えた。情報を統合したようである。
「そうなりそうですね。では、私たちは仕事へ戻りますね」
そう答えてから、すぐに各地の病院へ転移していった。それを見送るシディーダトリだ。
「忙しくなるのかー……面倒だなーもー」
そこへ呪術師のラズカランがひょっこり現れた。彼も自転車に乗っている。ナラヤンが走り去っていった方向を見て、心配そうな表情になった。
「おいおい……この大雨とつむじ風の中、あんなに必死な顔になってどこへ行ったんだナラヤンは。もしかして、まだ悪霊が憑りついたままなのか?」
シディーダトリがジト目になって失敬なとつぶやく。しかしカーリーやサラスワティと違い、攻撃する気はなさそうだ。
ラズカランが自転車をこいでナラヤンを追いかけていった。それを見送るシディーダトリ。
「あらら……追いかけていっちゃったよ。雨なんだから家の中で寝ていれば良いのに、あの人間も心配性だな」
土道が大雨のせいで泥沼になりつつあり、水しぶきを上げて自転車をこいでいる。時々ヨロヨロして転びそうになっているが、特に手助けする気はなさそうなシディーダトリだ。
「どうせ、神々や魔物の姿は彼には見えないんだし、行った所で無駄足……んーでも、ナラヤン君の奇行を鑑賞する良い機会になるのか。だったら別に阻止しなくても構わないかな」
シディーダトリが白鳥の翼を大きく広げて、背伸びした。
「さて、アタシも休憩終わり。仕事再開だ!」
翼を何回か優雅に羽ばたかせて、南の空に顔を向けた。
(パトナにいるカルナ様に助力を仰ぐとするか。スマホがあれば電話だけで済むんだけどなー。まだ試作品の段階だってサラスワティ様が出し渋ってるのよね、もう)
シャイラプトリに持たせているのは試作品だったりする。
ふわりと上昇したシディーダトリが、病院の上空に向けて飛び上がっていく。そのままインド国境へ向けて大雨の中を飛んでいった。雨は体を通り抜けているので、翼が濡れて重いという事もなさそうである。




