止まない調査依頼
季節は西暦太陽暦の6月下旬になった。雨期である。曇り空が続くので気温が下がり過ごしやすくなるのだが、下痢などの病気が流行する時期でもある。
雨期なので雷雨が多く、落雷でビラトナガル市でも区画停電が発生した。ちょうど学校の授業中だったのだが、先生は構わずに授業を続けていく。生徒も特に騒いだりしていない。
結局、停電が続いたままで今日の授業が全て終わり、放課後になった。ナラヤンがいる教室に放送部のジトゥがブツブツ文句を垂れながらやって来た。そのままナラヤンの肩に腕を回してくる。
「田舎だと丸二日も停電が続いたりしているんだよ。仕事しろよな電気公社」
そう言ってグチっている。
ナラヤンも教材をカバンの中へ収めてから同意した。彼の細い眉がハの字型になっている。
「僕の実家の村でも半日停電が起きたって、電話がきたよ。仕事ができないって怒ってた」
ジトゥがグチの勢いを強めた。こちらは太い眉が上下に動いて荒ぶっている。
「ビラトナガル市は工業都市なんだけどなあ。こんな有様だから、いつまでたっても工場誘致が進まないんだ。俺たちの卒業後の就職の選択肢が増えないと困るだろ」
同意するしかないナラヤンだ。
ジトゥはこれから放送部の機材チェックをするというので、いったん別れた。停電によるソフトやハードの不具合が起きているかどうか調べるらしい。
ナラヤンが手伝おうか、とジトゥに聞くが明るい声で遠慮されてしまった。
「マニュアル通りのチェックをするだけだ。ナラヤンの手は不要だよ。後で、飯屋へ行こうぜ。新しい店ができたんだ」
了解してジトゥを見送ったナラヤンに、スマホのイノシシが電話着信の通知をした。胸ポケットからスマホを取り出して画面を見る。
「あ。ムカスラさんからだ」
電話に出ると、ムカスラが新たな調査依頼を頼んできた。小首をかしげるナラヤンだ。
「前回で最後だと言ってませんでしたか?」
ムカスラが電話口で謝った。
「すまないね、ナラヤン君。人間世界の情報が各方面で注目されていて、調査依頼が殺到しているんだよ。手を貸してくれないかな」
まあ、役に立てるならと了解するナラヤンである。
「それでは、手順通りに進めますね」
ナラヤンがスマホのクジャクを指タッチして、サラスワティに電話した。
サラスワティも電話口で少し呆れている様子だ。
「……ですが、こうなるだろうとは予想していましたよ。今回は、寄生虫と生物毒、人工皮膚に使えそうな天然素材、それとガン治療で使えそうなウイルス情報ですね。分かりました」
ナラヤンが小首をかしげてムカスラに聞く。
「これらも救急救命の分野なんですか? 本格的な治療のような気がします。ガン治療とか」
ムカスラが気楽な口調で答えた。
「救急救命というか、法術治療の順番待ちをしている患者さんへの緩和療法ですね。ガンとか痛いですし」
そう答えてから、もう少しだけ話を遠慮気味に続けた。
「死んで生まれ変われば済むのですが、やはり記憶の欠損が生じてしまうんですよ。ワタシも復活した際に色々と欠損が生じてしまいまして……元通りになるのに少し手間取りました。記憶の欠損が原因で親子ケンカが起こりやすくなりますから、できるだけ死んでほしくないのですよ」
ナラヤンが何となく理解した。
「確かに、どことなくムカスラさんの口調というか印象が変わったと思います。別人という程じゃないんですけど。僕の両親がそうなったら、何かの病気かと心配になりますね」
サラスワティが電話口で平謝りし始めた。
「どうも、すみません、本当に。あんなに暴走したマタンギは久しぶりでした」
かくして、再び数万ページの論文を閲覧してサンスクリット語での音声録音を始める事になった。今回も閲覧時間は24時間である。
ナラヤンが背中を丸めた。
(う~……また徹夜か。仕方ない頑張ろうっと。飯をしっかり食べておかないとな)
しかし、ジトゥと二人で行った飯屋で食あたりしてしまったナラヤンであった。
寮の自室に戻ってから腹の具合が急速に悪化して、トイレに駆け込む事になる。
「鶏挽肉団子の揚げ物のせいか? これは。何てこったい」
ちなみにネパール語で『何てこったい!』は『ハッテリカ!』だ。短縮形は『ハッッ』である。しばしばコレを口走るとケンカに発展するので、用法には注意した方が良いだろう。
トイレで水をガブ飲みしながら、スマホでジトゥとチャットを交わす。どうやら彼も同じ症状を呈しているようだ。
彼が書き散らした激怒の文章を読みながら、まさしく同意と返信する。
腹の具合を自己診断してみて、難しい表情になるナラヤンだ。チャットを終了してから、クジャクを指タッチしてサラスワティに電話をかけた。
「すみません、サラスワティ様。実はですね……」
サラスワティが電話口でナラヤンを気遣ったが、返事は厳しいものだった。
「24時間の契約は変更できないのですよ」
まあ、そうだろうな……と予想していたので、特に気落ちする事はなかった様子である。サラスワティが話を続けた。
「ですが代わりに、私の分身をそちらへ送りますね」
ナラヤンが感謝した。
「ありがとうございます。この下痢を治してもらえると、とても助かります」
ナラヤンが電話を終えてトイレから出て、水筒の水をガブ飲みしていると、小人型のサラスワティがやって来た。小型の白鳥から飛び降りて、軽快に室内に着地する。小型の白鳥はそのままどこかへ飛び去っていった。
それを窓から見送ってから、呆れたような笑顔をナラヤンに向けた。
「困った人ですね」
「すみません、ミニスワティ様。食あたりだと思います、治してもらえないでしょうか」
「仕方がないですねもう。私は治療用にできていないのですよ」
そう言いながらも、ミニスワティがニームの枝葉を呼び出した。そして、ナラヤンのズボンに手をかけて引っ張った。
「えい!」
ナラヤンの衣服が下着も含めて全てはぎ取られて、乱雑に床に散乱した。
「うわっ」
驚くナラヤンに構わず、ミニスワティが素っ裸のナラヤンの尻と腹をニームの枝葉でバシバシ叩き始めた。
「小人になると性格が凶暴化していませんかっ」
悲鳴を上げて部屋の中を逃げ回るナラヤンだが、下痢で体力が削られていたので足が絡まって転んでしまった。
そのまま部屋の外に転がり出てしまい、階段を転げ落ちていく。加護が働いていたようで、ケガは負っていないようだが。
そして転げ落ちた先で寮生に見られてしまい、姿をスマホで撮影されてしまった。この区画の寮生は男子学生ばかりだったのが唯一の幸いか。それでも、寮生が大爆笑を始めている。
騒動を聞きつけて、別の区画からも男子学生がスマホを手にして駆けつけてくる有様だ。
部屋のドア付近に浮かびながらケラケラ大笑いしているミニスワティに、懇願するナラヤンである。
「このままでは社会的に死んでしまうので、記録消去とかしてください」
笑いながら了解するミニスワティ。こういう時の笑い声はドゥルガに似ている。
「はいはい、ご心配なく」
ミニスワティがそう言った瞬間、全裸のナラヤンを取り囲んでスマホで撮影していた寮生たちが、何事も起きなかったかのように普通に歩き去っていった。
ほっとしたナラヤンが、以前にもこういう事があったっけ……と気がつく。
「……もしかすると今、僕はそこら辺のゴミ程度の認識なんでしょうか」
ニコニコしながら肯定的に首をふるミニスワティ。ニームの枝葉を肩に担いで仁王立ちしている。
「お。察しが良いですね。ついでに食あたりも治療しておきましたよ」
「……あ。本当だ。痛くない。神術すげえっ」
すっかり腹痛が治まっている事に気がついて感心するナラヤン。
ドヤ顔でもっと褒めなさいと要求するミニスワティである。
「ついでにお菓子が食べたいから、何か買って私にお供えしなさい」
「仰せのままに」
合掌するナラヤン。まだ全裸のままだが。
そこへ、ロボ研のサンジャイ部長がやって来た。今日もナラヤンが部活動に参加しなかったので、怒り気味の表情だ。
「おー……ぃ」
全裸のナラヤンが、階段下で誰も居ない空間に向かって合掌している。その姿を見て、部長が頭を抱えた。ミニスワティの神術は、新たにやって来た人には効かなかったらしい。
「……また奇人病を発症してるのか。寮生も見慣れているようだな……注目すらされていないとは」
そのままナラヤンに声をかけず、そっと背を向けて寮から出ていった。
「さて、お腹の具合も良くなったし、再開するかな」
ナラヤンがすぐに自室に戻って作業を再開した。その前に服を着る。
こうして夜が明けた。ミニスワティに感謝の供物を捧げた後で学校にも登校したが、さすがに教師も慣れてしまったようだ。教室からの追放には至らなかった。学生たちも特に注意を向けていない。
おかげで今回は校舎外の空き地に行く必要はなかった。教室で存分に作業を続ける。大したメンタルである。
下校して寮に戻り、さらに延々と作業を続けたが時間が来たようだ。スマホ画面から論文情報が全て消失した。論文読み上げの途中だったが、仕方がない。
「よし、終わった……」
「さて、と……レコーダーに接続して」
早速ナラヤンがムカスラに音声と画像データを送信した。
今回は下痢騒動があったので、情報量が少なくてすみませんとチャットで謝る。返信を待てず、そのままぐったりとベッドに倒れ込んで、気絶するように眠ってしまった。
巡回で小さな白鳥の背に乗って飛んできたミニスワティが、窓から部屋の中へ入る。そして爆睡しているナラヤンに回復神術をかけて優しく微笑んだ。
「今回もお疲れさまでした、ナラヤンさん」
ヴィーナを呼び出して子守唄を歌い始める。
ナラヤンが送信した論文情報は多数あったが、その一部はこのような内容だった。以下、簡単に列記しておこう。
〇マラリアなどの寄生虫は、体内の血液中の赤血球ヘモグロビンを取り込んで消化することで栄養を得ている。しかし、この際にヘムと呼ばれる毒物が副生成される。その仕組みについての論文が一つ。
〇同じくマラリア蚊は鶏が発する臭気を嫌うという論文が一つ。しかし、鶏を入れたかごの下で眠るわけにはいかない。糞が直撃する。
そこで、羽から臭気成分を抽出した液体香料を使っての実験結果を記していた。
〇もう一つマラリア関連では、土壌放線菌が産生する物質を服用した人間の血液が、蚊に対して毒性を有するようになるというもの。
〇北米に生息する有袋類オポッサムの血液中に、ヘビ毒を中和させる効果を持つ成分があるという論文が一つ。ジリスやラーテルなど、一部の哺乳類はヘビ毒に対して自然免疫を備えている事が知られている。
〇黄色ブドウ球菌は病原菌だ。この菌が赤血球を破壊する仕組みを研究した論文が一つ。敗血症にも関わる情報といえるだろう。この菌が分泌した毒素が、細胞膜に付着して穴を開ける事で赤血球が破壊されるという内容だ。
〇野生のシカの体内には、住肉胞子虫や槍形吸虫などの寄生虫が潜んでいる場合がある。潜んでいる可能性が高い臓器や筋肉は何かという論文が一つ。
〇サソリ毒は肺に激烈な炎症応答を起こし、肺が肥大して呼吸困難になることで死亡率が跳ねあがる。この肺での炎症を抑える薬を処方することで緩和できる。この論文では非ステロイド系の薬物治療について研究していた。
〇人工皮膚の需要は高い。これまではブタコラーゲンを主成分とした人工皮膚が多く使用されていた。
この論文ではブタとクラゲのコラーゲンを混ぜ合わせたものを使って実験していて、ブタコラーゲンのみと比較すると皮膚の再生速度が二倍以上に上がったという事だった。
〇スズメバチへの対策として香り成分が有効かも知れないという論文が一つ。スズメバチが餌とするクヌギの樹液には、スズメバチが好む種類と嫌う種類があるという事に着目している。
この嫌いな成分をスプレー状にしてスズメバチに吹きかけるとパニックに陥り、一時的に攻撃性を失うことが分かったというもの。ミツバチには無害だったとも記されている。
〇ガン細胞を破壊するウイルスについても色々な論文があった。
一般的な風邪ウイルスであるアデノウイルスの遺伝子を改変した株を用いた論文が一つ。この変異ウイルスは正常な細胞は殺さずに、異常な細胞を殺すという性質が見られた。ガン細胞もその中に含まれるというものであった。
爆睡後、腹が減ったのでナラヤンがベッドから起きた。首を肩を回して、満足そうに首を振る。
「お。疲れがとれてる。さすがミニスワティ様。加護と祝福だけじゃなくて、疲労回復も実装されたのかな」
そのまま部屋から出て、寮の談話室にあるソファーに座った。そして他の寮生と一緒に、備えつけのテレビで放送されているローカル番組を流し見する。マデシ族向けの情報番組だった。寮生たちは全裸ナラヤン階段落ち事件について知らない様子だったので、安堵する。
そこへ、放送部のジトゥがやって来た。彼もすっかり食あたりから回復しているようだ。ナラヤンを見て、ほっとした表情になった。
「おお、奇行が終わったか。丸一日ずっとサンスクリット語の呪文を唱えているってすっかり有名だぞ。卒業後は芸人にでもなる気かよ」
ナラヤンがソファーから立ち上がって、軽く背伸びをした。
「それは嫌だなー」
ジトゥが重ねて聞いた。
「だったら呪術師にでもなるのか?」
ナラヤンが細い眉をひそめて呻く。
「知り合いに居るけど、仕事がなくて行商やってるのを見るとね……世知辛い世の中だよなあ」
ジトゥが気楽な表情になった。いつものナラヤンだと確認したのだろう。
「復活したのなら放送部の手伝いをしてくれ。故障して動かない電話とかバイクとかあるんだよ」
しかし、大あくびをしながら否定的に首をふるナラヤンである。
「悪い。まだ疲労困憊なんだ。明日ならいいよ」
そう説明して自室へ戻るナラヤンであった。
結局、ロボ研のサンジャイ部長が撮影した動画はネットに流出してしまい、また奇行のナラヤンと言われて有名になってしまった。
部長が満足そうな顔でナラヤンの肩を叩いた。
「結構売れたぞ。部費の足しになった。奇人病もなかなか役に立つじゃないか、ははは」
ジト目で背中を丸めるナラヤンだ。
「それは良かったですね、部長さん。いつ動画を撮ったんです? あの時は見かけませんでしたよ」
結局、その回答は部長から教えてもらえなかったのであった。
まあ……流出してしまったものは仕方がない、と割り切るナラヤンだ。
部活動を終えてから、学校の周囲にある菓子屋へ行く。そこで何種類かインド菓子を買ってから、寮から最寄りの病院へ向かった。
その壁に小さなサラスワティ祠があるので、菓子が入った紙箱を供物としてもう一度捧げた。
「ミニスワティ様。放送部の友人ジトゥの食あたりも治療してくれたのですよね。ありがとうございました。その感謝を込めてお菓子を持ってきました。どうぞ」
小さな祠の上に小さな白鳥に乗ったミニスワティが舞い降りた。お菓子が入った紙箱に手を添えて、幸せそうな笑顔を浮かべる。
「良い心がけですね。えらいえらい」
箇条書きの方法が分かりませんでしたので、こんな風になってしまいました。読みにくくなりすいません。
ロボ研の部長さんが使用したのはツベなどではなくて専用サイトだったりします。良い子は真似してはいけませんよ




