召喚3回目
季節は西暦太陽暦の5月下旬になった。雨期が近いので、湿度が上がり始めて蒸し暑くなってくる時期だ。
学校の授業が終わると放送部のジトゥがやって来た。ご機嫌である。
「よお、ナラヤン。カメラとモニターありがとうな。よくぞ盗品市場から買い戻してくれたぜ。故障せずによく働いているぞ」
それは良かったと喜ぶナラヤン。
「修理が必要になったら知らせてくれ。格安で請け負うよ」
ジトゥがナラヤンの肩に手を回して、こっそりと話しかけてきた。彼の太い眉が意味深に上下している。
「実はあの後も、東岸の草むらの中にカメラを設置しててな、盗撮を続けていたんだ」
ナラヤンが細い眉をひそめてジト目になった。
「おいおい……そんな事してたら盗まれるぞ」
ジトゥがナラヤンをじっと見た。太い眉がさらに意味深に上下する。
「ナラヤンじゃないのか、そうか……」
実はカメラを設置している間に、何名もの盗人がやって来てカメラを盗もうとしたそうだ。しかし全員が謎の発狂状態になってしまった。歌いながら40キロほど堤防をマラソンして、暑さで脱水状態になり倒れるという事件が立て続けに起きていたと話す。
ナラヤンが目を点にして聞いている。
「マジか……今の時期に走るとか、暑さで病院送り確実だぞ」
ナラヤンの表情を見て、ジトゥがやっぱりナラヤンは関係ないのかと残念がった。さすがに警察からカメラを撤去しろと命令されたので、仕方なく盗撮は中止したと話す。
「明日撤去するよ」
内心でほっとするナラヤン。
(神罰ってやつなのかな……凄いな。しかし、今の日中の気温って35度くらいあるんですけど)
ナラヤンが話題を変えた。
「実はロボ研の資金が貯まってきたんだ。遠征旅行を計画しているんだよ。ダランとか行く予定みたいだ」
ダランも今はクソ暑いんだが、とジト目になるジトゥ。
「まあ、暇だったら付いていってやるよ。放送部は資金が潤沢にあるからなっ」
放送部はネットラジオをやっていて、政府機関や大学、企業からの情報や呼びかけを配信放送している。その手数料収入がかなりあるのだ。帳簿上では謝礼金だが。
「今は熱中症や食中毒についての予防を呼びかけているんだぜ」
ナラヤンがジトゥに、ロボ研に無利子融資してくれと頼むが速攻で断られてしまった。
「あ。そうだ忘れてた」
ジトゥが自身のスマホを取り出して、映像をナラヤンに見せた。
「盗撮の映像なんだけどさ」
ナラヤンが右手の平をクルリとひっくり返した。
「大した度胸だなオイ、盗撮している相手に見せるか」
盗撮したのを動画投稿サイトに上げたのだが、たったの数千円でしか売れなかったと正直に話す放送部の友人だ。
ナラヤンが細い眉を大いにひそめてジト目になる。
「後で何かおごれよ」
「で、だ」
無理やり話題を戻したジトゥが、映像を指差した。
「ナラヤン、オマエ……この炎天下で一時間も身動きもせずに、展望台に立ちっぱなしでコシ河を見続けているんだが。変人にもほどがあるぞ。苦行者かオマエは」
映像を早送りすると、確かにナラヤンが身動きもせずに川面を眺めている様子が強調された。展望台に人形が立てかけられているような印象である。
ナラヤンが頭を抱えた。
(サラスワティ様……これはあんまりではないでしょうか)
とりあえず、熱中症に強くなるための練習をしていたと苦し紛れの答えを返す。
映像が早送りされて1時間経過後、画面のナラヤンが不意に動き始めた。展望台から下りて、画面の外に歩いていき……見えなくなる。
ほっとするナラヤン。
(カメラの枠の外で多分、あの後、偽ナラヤンが消えたんだろうな)
本人はその頃、王宮跡公園に到着している。
ジトゥがナラヤンに、興味半分・心配半分の表情で聞いた。
「砂漠横断でも考えてるのか? めっちゃ、暑さに強くなってるように見えるが」
「ははは……自転車であちこち移動しているからね、暑さ慣れは必要だよ」
愛想笑いで誤魔化すナラヤンであった。平野部のネパール人は基本的に笑わないので、かなり怪しい反応にしか見えないのだが。
ジトゥがスマホで時刻を確認した。
「おっと。もうこんな時間か。これからインタビューの予定があるからまた明日な」
見送ったナラヤンも時刻を確認した。
「仕方がない。暑いけど、これから展望台へ向かうか」
その後、自転車で展望台へ向かった。暑いので途中何度も日陰で休んで、水筒の水を飲んでいる。
(……この水筒、心なしか水が美味しく感じられるんだよなあ。やっぱりサラスワティ様のご加護かな)
汗を拭いて青空を見上げる。
(しかし、自転車はつらい。早くバイクか車が欲しいなあ。干からびてしまうよ)
展望台へ到着したが、汗だくでフラフラのナラヤンであった。サラスワティが彼女の水筒の水を頭からドバドバかけて、ナラヤンの体を冷やしてくれた。
ズブ濡れになるナラヤン。
(どうして神様ってのはこうも雑なのか。おかげで回復したけどさ)
慌てた様子でムカスラが出現した。
「ナラヤン君っ、スマホは防水加工されてませんよ!」
スマホをナラヤンのポケットから引き抜いて保護する。ムカスラがスマホについた水滴を拭きとって、魔法で起動確認をする。
「……良かった。大丈夫です」
壊れていないようで安堵するナラヤンとムカスラだ。
「あらら、ごめんなさい」
サラスワティが謝った。
「では羅刹世界へ行きましょうか」
サラスワティが水筒の口をナラヤンに当てようとしたので、ちょっと待ってもらう。
「サラスワティ様、僕が羅刹世界へ行っている間に偽物を出してくれるのは、とてもありがたいのですが……」
と切り出した。
「この炎天下で身動きもせずに1時間も立ったままですと、さすがに怪しまれます。実際に、放送部の友人から怪しまれましたし」
あらら、そうでしたか。と了解するサラスワティ。
「でしたら、適当に堤防を散策するように調整しておきますよ」
ナラヤンが追加で頼む。
「できれば日陰伝いに散策するように調整してください」
ムカスラも報告をした。
羅刹世界のマガダ帝国が管轄している法術省研究部では、これまでの召喚で用いた素体をさらに組織培養して大量に生産しているらしい。コピー魔法の一種を使っているそうだ。
「実験用の体組織として十分な供給体制が確立しました。今後はナラヤン君の生体情報がある素体を基にして、応急措置や救急医療の研究が行われます。そのため、今回が最後の召喚ですね」
そう言ってから、ムカスラが軽く肩をすくめた。
「実は、他の部署からもナラヤン君の魂を召喚して、実験に使いたいという要望が殺到しているんですけれどね……」
ナラヤンの背筋に悪寒が走った。ムカスラが慌てて話を続ける。
「ですが、まだ決まった訳ではありません。確実なのは、今回で応急措置や救急医療の実験が終了するという事ですね」
仕方なく了解したサラスワティが、改めて水筒の口をナラヤンの額に当てた。
「では、行ってきなさい。私もすぐに追いかけます」
ナラヤンの意識が戻ると、研究部の一室だった。白衣姿のムカスラと羅刹の研究者たちが出迎える。今回は華奢な成人男性の素体だった。すぐにサラスワティも素体に憑依してくる。
ムカスラがニッコリ笑った。
「憑依は問題なくできましたね、では実験を始めましょうか。今回は2つあります」
羅刹は不死なのだが、人間と同じく肥満の問題があると話す。
「生活習慣病が深刻なんですよ。魂までは太りませんので、いざとなれば死んでもらえばいいのですが……やはり、予防するに越した事はありません」
恒温動物が寒さに直面すると、褐色脂肪組織が寒さを感知する。そして急速な熱産生を行う。寒さが長期に持続すると、白色脂肪組織が活動してベージュ脂肪細胞を新たに作る。
このベージュ脂肪組織は、熱産生のために糖や脂肪を活発に消費する。
ムカスラが申し訳なさそうにナラヤン素体に話しかけた。
「ですが、ワタシたち羅刹は寒さに耐性があります。人間でまず実験しないと羅刹に応用できないんですよ」
サラスワティもナラヤン素体に憑依したままで同意した。
「私たち神々も同じですね。耐性がありますので、人間向けの治療神術の作成に困るんですよ。今では医療機器や薬品が充実してきていますので、医療関係者への加護や祝福に留めています。神術と医薬品との相性問題もありますし」
ナラヤン素体が了解した。
「分かりました。ですが、寒さに慣れないとベージュ脂肪細胞って作られないんですよね。今回の召喚時間内では無理なのでは」
ムカスラが肯定した。
「はい。ですので、この実験はナラヤン君が人間世界へ戻ってから行います」
羅刹の研究者たちがティーセットを運んできた。それを見たナラヤン素体が小首をかしげる。
「あれ? 今回も僕が人間世界へ戻ってから、他の実験を行うんですか?」
ムカスラもチヤを受け取り、すすりながら素直にうなずいた。
「はい。応急措置の実験ですので、サラスワティ様が不快になると思いまして」
サラスワティがナラヤン素体の口を強引に借りて反論した。
「生ゴミがダメなだけですよ。血は耐えたでしょ」
口は一つしかないので、ナラヤンは発言ができない。ムカスラが軽く腕組みをしてから話し始めた。
「……田舎での負傷ですが、傷口を清潔に保つ事がなかなか難しいのです。病原菌が傷口で繁殖したり、死んでいる体組織が自己分解すると、前回の実験で取り上げた敗血症につながります」
ようやくナラヤンに発言権が戻ったので、聞いてみる。
「消毒液とかガーゼ包帯は、救急救命キットに入っているんですよね。それなら大丈夫じゃないですか?」
ムカスラが軽くうなずいてから、否定した。
「擦り傷や小さな切り傷でしたら、それで十分です。ですが、骨にまで届くような深い傷ですと、消毒液が患部まで届きません」
「あー……なるほど」
納得したナラヤンに、ムカスラがチヤをすすりながら話を続ける。
「ナラヤン君が紹介してくれた論文には、ハエの幼虫を使う研究がありました。これですと、死んだ組織だけを食べますし、抗菌成分が含まれる唾液を分泌しますので傷口の殺菌もできます。生きている組織は食べません」
ナラヤン素体がガタガタ震え始めた。不安になっていくナラヤンである。
(うわー……サラスワティ様が黙り込んでしまったよ)
ムカスラがチヤをお代わりして、穏やかな口調で話を続けた。
「この幼虫は再利用はせずに使い捨てにします。ハエの卵って意外と丈夫なんですね。簡単な法術をかけて保護すれば、かなり長期間保存できそうです。救急救命キットに加える事を検討中ですよ」
そして、研究者から小さな箱を受け取ってナラヤン素体に見せた。
「区分けしてあります。手前が孵化させた卵、奥は孵化を許可していない卵です」
白いハエの幼虫が箱いっぱいに蠢いていた。
「ウジ虫 イヤー!」
サラスワティが悲鳴をあげて、ナラヤン素体がマタンギ化した。
肌の色が緑色に変わり、酔ったような表情になる。衣装は白から赤に変わり、額に大きな三日月型の冠が生じた。鮮血のように真っ赤な衣装と冠である。
手には早くも曲刀スチミタールと、ゴード斧が握られていた。ゴードは象を調教するために用いる道具なのだが、これに大きな斧の刃が付いている。
マタンギが暴れ始めた。チヤをすすっていたムカスラが斬りつけられ、蹴られて床を転がっていく。近くにいた不運な他の研究者たちも同様だ。
ナラヤンの魂はマタンギの中にあった。
(お。今回は気絶していないぞ。でも、体を動かせないな。見ているだけかー……)
マタンギの大暴れはナラヤンの想像を超えていた。研究施設が全壊して、ムカスラ含めた研究者が全員ゴード斧で斬り伏せられてバラバラにされ、赤い炎型の魂が飛び出てきた。魂の群れは大いに困惑している様子である。
さらに駆けつけた警備部隊に対しても三又槍を矢のように投げ、返り討ちにして壊滅させてしまった。警備部隊は先日の兵長が隊長をしていて、赤い目をキラキラと輝かせている。
「素晴らしい! ドゥルガ様並みに強いぞ」
兵長に称賛され、サラスワティのコールが起きる。
マタンギがドヤ顔で長柄のゴード斧の石突で床を叩いた。ゴード斧は伸縮自在のようで今は長柄だ。
「私は今、マタンギだぜーっ。マタンギと呼べやああーっ」
今度はマタンギのコールが起こった。苦笑するナラヤン魂である。
(性格が変わっていませんか?)
マタンギがヴィーナを召喚し、それをメタルギターのような音で爆音演奏してデスメタルを演奏し始めた。ヘドバンしろと命じられて、一斉にヘドバンし始める警備部隊。兵長は特にノリノリである。赤い炎型の魂の群れも参加して、炎の先を振り回している。
施設の瓦礫の中から、数匹のヘビ魔物ムシュキタが悲鳴を上げて逃げ出してきた。それらをマタンギが切り刻んで食べてしまう。生食なので口の周りが血まみれだ。さらにドン引きするナラヤン。喝采する警備部隊。
デスメタルの一曲を演奏し終えて、ようやくマタンギが落ち着いてきた。
ナラヤン魂が念話で知らせる。
(このウジ虫は無菌飼育されてるから汚くありませんよ)
ウジ虫をつまんだマタンギがパクリと食べて、キョトンとなる。鮮血色の冠が青色に変わった。
「……あら。本当に汚染されていないのね」
これでサラスワティに戻り、我に返って平謝りを始めた。しかし周囲は瓦礫の山と化した元研究施設と、バラバラ死体だが。
魂の状態になっていたムカスラたち羅刹は、まだそのままだったのだが特に気にしていない様子である。警備部隊の兵長もご機嫌な顔で、マタンギとサラスワティを称えながら警備仕事へ戻っていく。
感心するナラヤン魂だ。
(不死って凄いですね……)
なお、建物だけは直せなかった。サラスワティ素体が謝ったが、ムカスラ魂は気楽な口調でフワフワ飛んでいる。研究者たちも魂状態のままだが、ちょうどいい休憩になると寛いで漂っている様子だ。
「これは法術使いの神官を呼んで修復してもらう事になりますね。ログを定期更新していますので、そのログを基にして建物を修復できます。すぐに直りますよ」
建物も法術で直せるのか……と感心するナラヤン魂であった。
ヴィーナを使ったメタル曲って少数ですがあったりします。シタールという別の楽器ではメタルバンドがインドにありますよ。




