召喚1回目
季節は西暦太陽暦の4月上旬になった。乾期はさらに厳しくなり、日中はかなり暑くなる。空の色も青空ではなくなり、白っぽい黄色になっていた。インドからの砂塵の影響である。
「あ~つ~い~……」
ナラヤンが寮の部屋で寛いでいると、イノシシから着信の通知が届いた。それを受けてナラヤンがイノシシを指タッチすると、ムカスラと電話がつながった。
「ハロー。こちらは暑いですよ、ムカスラさん」
「そのようですね。では、避暑も兼ねてこちらの世界へ招待しますよ。魂だけですが」
羅刹世界での実験に参加してほしいという依頼だ。
「いよいよ来ましたね」
不安ながらもワクワクしているナラヤンである。
そこへ、ロボ研のサンジャイ部長がナラヤンの寮の部屋まで入ってきた。挨拶もそこそこに汗を拭く。
「よお、ナラヤン隊員。暑いな」
「あ。部長さん、こんにちは」
きちんと座り直して挨拶を返したナラヤンに、部長がご機嫌な表情を浮かべた。
「先日の呪術師紹介のインド製の部品だけどな、なかなかに良さそうだ」
でかしたナラヤンと肩を叩いて褒める。そして、ではロボづくりへ行こうとナラヤンの手を引っ張った。
が、ナラヤンが申し訳ないと謝った。
「今日はこれから用事があるんです。すみません、部長さん」
部長がジト目になった。
「おいおい。前回もそうだったじゃないか」
今日は部活動に参加してもらうぞ、と手を強く引っ張る。その部長が突然硬直した。
部長がピクリとも動かないので驚いているナラヤンに、ムカスラが電話で警告してきた。
「ブラーマ神が来てい……」
ブツン、と電話が切れた。
「え?」
慌ててスマホをかざすと、画面にブラーマの姿があった。さすがヒンズー教の三主神の1柱なので、圧倒的な威圧感と神々しさだ。今回は白い衣装を着ていて、宗教画でよく描かれている姿である。ちなみに先日のアフロ髪はすっかり直っていた。
ひゃあ、と慌てて膝をつくナラヤンである。
「こ、これはブラーマ様。ど、どどど……どうされましたか」
「いよいよ出発か。心配で見にきたのだ」
ブラーマもこれからナラヤンが羅刹世界へ行く事を知っていたようである。荘厳な雰囲気のままで言葉を続ける。
「神としては羅刹と関わる人間は処断する対象なのだが……黙認する。サラスワティに感謝しなさい」
両膝を床につけて合掌して頭を下げるナラヤンだ。
「はい、ブラーマ様。すみません、このような散らかった部屋で」
ブラーマが目元を少し和らげた。
「君とは以前に、寺院での結婚式場で会ったか。神に逆らうような行動をとれば、即処断するのでそのつもりでな」
「かしこまりました」
ナラヤンが合掌したままで頭を下げて答えた。
ブラーマがため息をついた。
「まったくサラスワティは……昔から羅刹に甘いのだよ。まあ、ワシが羅刹を助ける事も実は初めてではない。歴代の善良な羅刹どもに感謝する事だ」
では警告はしたぞ、と言い残して消えた。ナラヤンの部屋に満ちていた荘厳な気配も消える。
ほっとするナラヤンである。電話口ではムカスラも緊張していたようだ。
硬直したままの部長を見て、どうしようかコレと悩む。とりあえず、部屋の外に運び出して廊下に寝かせた。
「これでよし。そのうちに気がつくでしょ」
ナラヤンが自転車でコシ河西岸ほとりの展望台へ行くと、サラスワティが待っていた。ブラーマが心配して来てくれた事を話す。
サラスワティも不安に思ったようだ。細い眉を寄せている。
「そうですか……やはり、私も一緒に行きます」
サラスワティが、素体へ複数の魂を憑依できるように神術式を改良したと話した。
「私が憑依しながら周囲の監視と警戒を行います。安心して実験を進めてください」
了解するナラヤンとムカスラである。
サラスワティが水筒の口をナラヤンの額に当てて彼の魂を吸いだし、体を浮かせて透明化させた。
次にサラスワティ自身が水筒の口を額に当てて魂だけの存在に変わり、同じ水筒の中へ入っていく。
ムカスラがそれを見て確認した。
「二つの魂がワタシの水筒に転移しましたね。では、羅刹世界へ行きましょうか」
今回のナラヤン素体は筋肉質の男だった。手術着のような服を着ている。
意識が戻ったナラヤン素体が体を動かしてみた。
「別人の体ですが、違和感は感じませんね。憑依成功です。サラスワティ様はどうですか?」
ナラヤンの問いかけに、同時憑依しているサラスワティが答えた。彼女も安堵した口調だ。
「私も問題ありません。二重憑依は成功ですね。では実験を始めてくださいな」
転移先は研究部の建物の中で、石造りの堅牢な部屋だった。数名の防護服を着た羅刹研究者たちが出迎えてくれている。やはり全員が人間の姿ではない。
ムカスラも防護服を着ていて、憑依状態が安定している事を喜んでいた。
「了解しました。では1時間ほどしか時間がありませんので、早速始めますね」
続いて今回の実験内容を話した。今回は応急措置の実験ばかりなので、素体を切り刻み、その間ナラヤンには眠っていてもらうと改めて説明する。
ナラヤン素体が了解した。
では……と、ムカスラがナラヤン素体に睡眠魔法をかけた。深い眠りに落ちていくナラヤンである。
以下が今回実験して確かめる内容だ。3つある。
羅刹世界では負傷時の応急措置として、接着剤を用いている。神官が現場に到着して法術治療を行い、その効果が現れるまでに時間がかかるためだ。
最寄りの病院まで転移できる魔法具もあるのだが、病院に神官が常駐しているとは限らない。
この接着剤の成分は豚由来のゼラチンを加工したものなのだが、低温や高濃度になると固めのゼリー状になって使いにくくなるという欠点がある。
そのため、これまでの応急措置では接着剤を温めてから、適度に薄めて使用するという手間がかかっていた。
今回新たに実験する接着剤は、論文情報では海魚のタラ由来のゼラチンを使っている。羅刹世界では人間世界のタラはいないので、近縁種の海魚を使用したという事だった。さらに海藻由来のゼラチンも加え、ポリエチレングリコール系の架橋剤を添加して接着剤を作成していた。
「一番重要なのは、血圧に耐える接着力があるかどうかの確認ですね。分子設計上では血圧の3倍に耐えるようにしていますから、その確認も行います」
ムカスラがナラヤン素体に説明を続ける。ナラヤンの魂はすでに眠っているのだが、サラスワティの魂は起きたままである。
サラスワティが念話で応えた。
(確かに、失血死が応急措置では気がかりですね)
ムカスラによると、この新規接着剤は塗布後30秒ほどで硬化し、高い生体親和性も有しているらしい。
「この素体に延命措置を施して経過観察をする予定です。論文では8週間以内に体内の酵素によって分解されるそうですので、その確認もですね」
という事で、眠っているナラヤン素体を切り刻む作業が始まった。
研究者の羅刹たちが刀剣や槍で斬ったり突いたり、ハンマーで殴り潰したり、攻撃魔法を撃って様々な状態の傷をつくっていく。あっという間にボロボロにされていくナラヤン素体である。
傷をつくりながら、同時に応急措置として傷を接着剤で接合していく。完全に切断された動脈はいったん血管を糸で縛ってから切り口を接合し、30秒後に糸をほどく事をしている。
ナラヤンはすやすやと眠ったままだ。ムカスラが返り血をかなり浴びながらも、冷静に生体情報を確認していく。
「良い接着剤ですね。出血量が規定値を超えましたので、輸血を開始します。サラスワティ様の方は大丈夫ですか?」
(……予想以上に血みどろになりますね。少し気分が悪くなってきました。憑依の強度を下げます)
口調が弱々しくなっている。彼女は病院の医療関係者へ祝福や加護を与えているのだが、それでもキツイ様子である。
しかし、気にしないで続けるようにとサラスワティが伝えたので、実験を続行する事にしたムカスラたちだ。
「では次に素体から脾臓の組織片を採取して、それを使って血液を製造する実験を始めます」
一般には人工血液が入った輸血パックを使うのだが、これは日持ちがしない。期限切れだった場合、負傷者の体組織を使って血液を現場で製造する事が求められる。
体内での造血は骨髄の細胞が行っているのだが、骨の中にあるため採取が難しい。そのため脾臓組織を採取して、それを魔法で活性化させて造血能力を発現させる……というのがこの実験の目的だ。
「法術治療では万能細胞のミューズ細胞をよく利用するんですが。これも日持ちがしないんですよ。ですので、論文情報を基にしてこういった魔法具を試作してみました」
ムカスラが半透明のタッパ容器みたいなモノを取り出した。この容器の底を素体の腹部に押し当てると、赤い組織片が転移してきた。
「脾臓組織を自動で切除して転送する術式です。後は、これまた自動で造血が始まります。魔法が苦手な羅刹もいますからね、全自動で行えるようにしていますよ」
タッパ容器内に水と栄養剤の粉末を加えると、みるみるうちに真っ赤な血液が生産され始めた。それが素体の心臓へ向けて全自動で転送されていく。
ムカスラたち研究者が安堵の表情を浮かべた。
「成功ですね。これで大量に輸血できます」
計画としては、この造血タッパ容器と接着剤を救急救命セットに加えるらしい。接着剤には法術を付与して、ケガによって切断されている血管や神経、筋組織や骨と内臓などを自動で接合、修復していくようにする。
「もちろん仮接合と応急修復ですので、後で神官による法術治療を受けないといけません。では、最後の3つ目の実験に移りましょうか」
負傷は他に、岩や倒壊した建物などに押し潰されて生じる場合がある。下敷きにされて筋肉が壊死する事によるショック症状が多い。症状としては急性の腎障害がある。
「応急措置として、この腎障害を防ぐ自動法術を組み込んだ生理食塩水を負傷者の体内へ転移します。輸血と並行して行うという手順になりますね」
という事で、ぐっすり眠っているナラヤン素体の上に次々に大きな瓦礫が転移されてきた。ドスンドスンと地響きを立てて落ちていく。あくまでも筋組織の壊死が目的なので、頭には瓦礫が当たらないように工夫しているようだ。
時計を確認したムカスラが、ドン引きしている様子のサラスワティに告げた。もはやコメントすら返ってこない状況である。
「そろそろ1時間が経過しますね。今回の実験はここまでにしましょう。潰された素体は、ワタシたちの方で延命措置を施しながら実験を継続しますね」
「……ん。終わりましたか?」
ナラヤンの意識が戻り、展望台の床から起き上がった。今はもうナラヤン本人の体に戻っている。
「気がついたら、実験が終わってました。あー……素体じゃないんですね。元の体だ」
ナラヤンがスマホを動かすと、心配そうにしているムカスラの姿があった。
「ナラヤン君、体調はどうですか? 検査上では問題ないはずですが……」
肯定的に首をふって応えるナラヤンだ。
「大丈夫ですよ。むしろ調子が良いくらいです」
ほっとするムカスラとサラスワティである。そのサラスワティは顔を青くしていた。
「予想以上に衝撃的な光景でしたね……何とか耐えましたが、次回は無理かも知れません。マタンギ化してしまいそうです」
えええ……と困るムカスラ。
「サラスワティ様の協力がないと続けられません。そこを何とか」
ナラヤンは眠っていただけなので、よく状況を理解できていない様子である。とりあえず、お菓子と果物を供物に捧げて機嫌をとろうとしてみる。
しかし、視線を逸らしてしまうサラスワティであった。
そこへブラーマとカーリーが飛んでやって来た。ブラーマがサラスワティとムカスラ双方に同情する。
「情報は共有したが……潔癖症のサラスワティにはキツイ現場だな」
カーリーは不服そうな表情をしている。
「私がこの人間を攻撃して穴だらけにした時は非難されたのに、羅刹が人間を切り刻んだら称賛されるとは納得がいかないぞ」
「称賛はしておりませんよ、カーリー様」
ムカスラが反応した。ナラヤンも続いて反論した。
「科学のためと、ただのイジメとの差ですよ。僕が納得しているかどうかでもありますけど」
カーリーがナラヤンを睨みつけた。
「あ? 女神に対して、ずいぶんな非礼だな。人間」
そう言って、三又槍の穂先をナラヤンの首筋に当てた。しかしナラヤンは平然としている。
「今の僕は不死身ですからね。そんな脅しは通用しませんよ」
ドヤ顔で答えたのだが……
「そうか」
カーリーが迷いもなく三又槍でナラヤンを叩き潰して、ただの肉塊にした。
それを見てため息をつくサラスワティ。
「そういうところですよ、カーリーさん」
サラスワティが肉塊から離れたナラヤンの魂を水筒に入れる。そして、ヴィーナを鳴らして一瞬でナラヤンの体と服を復元した。
感心するムカスラと、水筒から顔を出して見ているナラヤン魂。
(おお……)
水筒を手にしたサラスワティがコシ河の川面に水平移動していく。
「カーリーさんも手伝いなさい」
「嫌なこった」
カーリーが赤い舌を出して断り、さっさと飛んで逃げていった。
まったくもう……とジト目になるサラスワティと、逃げやがったー! と怒るナラヤン魂である。ムカスラとブラーマはノーコメントだ。
水筒にコシ河の水を注ぎ入れて、それをナラヤンの体にかけるとナラヤンの意識が戻った。すぐさま起き上がって、カーリー女神が飛び去っていった空に叫ぶ。
「何度も殺すな、バカヤロー!」
そんなナラヤンを苦笑しながら見ていたブラーマが、サラスワティに提案した。
「お主の姉君を代わりに呼んではどうかね。素体への憑依は君以外の神でも問題ないのだろう?」
同じようにサラスワティも苦笑していたが、真面目な表情になって考え込んだ。
「今は私だけが可能なのですが、そうですね……術式を改良してから、姉のドゥルガに相談してみます」




