情報提供の反響 その一
季節は西暦太陽暦の三月下旬になった。ロボの地方予選会があったのだが、ロボが用意できなくて棄権する事になったガンガトール高校のロボ研である。
サンジャイ部長が飯屋にて部員たちに棄権を報告し、涙ながらに訴えた。
「この悔しさを次回に晴らすぞ!」
おおっ! と気勢を上げる部員たちである。その中にはナラヤンも交じっていた。
そのまま会食となり、ナラヤンもビュッフェ形式での食事を始める。
(お金は結構貯まってきてるようだし、次回は大丈夫そうだね。僕もできるだけ協力しようっと。就職に有利になるだろうし)
その次の日。
ムカスラがナラヤンの部屋に転移してきて、ナラヤンが行った情報提供の結果が出たと伝えた。ナラヤンがムカスラに冷えたジュースを渡し、スマホのクジャクを指タッチしてサラスワティを呼ぶ。
サラスワティがすぐに出現して、ムカスラと挨拶を交わした。
「ああそうそう、ムカスラさんに道具を渡しますね」
ナラヤンがそう言って、マジックハンドを手渡した。
「さすがに、いつまでもトングを使うのは問題だと思いまして」
ムカスラは神と違い、羅刹魔法で体をステルス化しているだけだ。霊体や非実体化になっているわけではない。
ムカスラがナラヤンに礼を述べて、マジックハンドにもステルス魔法をかけた。
「これでより安全に使えます」
サラスワティが困ったような笑顔を浮かべている。
「トングはもう使ってはいけませんよ。怒りますからね。ではムカスラさん、説明を始めてくださいな」
ムカスラが恐縮しながら赤い髪を撫でて整え、話を始めた。
医療実験は、人工の医療用素体に魂を憑依させて行う。そうしないと素体が生命活動を開始しない仕様らしい。
素体というのは、長期保存できるように加工した人工の肉体である。水分を抜いているため、見た目はミイラのような感じだ。これに水分を補給する事で生体活動ができる状態にする。
この素体は魔法世界から購入したものなので羅刹の体ではない。そのためどうしても不具合が生じてしまうらしい。羅刹のスタッフが憑依すると、魔力過剰で素体が崩壊してしまうそうだ。
ナラヤンが素直にうなずく。
(……でしょうね。羅刹って人間の姿をしていませんし)
今までは崩壊するまでの数分間で実験をしていたとムカスラが話す。
「人間であれば長時間の適用が可能なのです。ですのでぜひ参加してほしいんですよ。痛覚などはあらかじめ遮断しているので負担はないはずです。眠っている間に全ての実験を終えますから」
ナラヤンが少し考えながらも了解した。
「痛くないのでしたら、特に断る理由はありませんが……その実験をここで行うんですか?」
寮の個室とはいえ色々と物が散らかっているので、とても実験を行える雰囲気ではない。
サラスワティも深く同意している。
「徹底的に掃除と浄化を行う必要がありますね」
ムカスラが慌てて否定した。せっかく整えていた赤髪がボサボサ状態に戻っていく。
「いえ。ここではなくてですね……羅刹世界へ魂だけ来てもらえないでしょうか」
予想していた提案だったのだが、それでも大真面目な表情にならざるを得ないナラヤンだ。
「困りましたね……」
サラスワティも予想していた様子だが、こちらは特に驚きもせずに普通の表情でじっと聞いている。
実際、本当に大いに困ったのだが、ムカスラが泣きついてきたので結局了解するナラヤンであった。
サラスワティが呆れながら見ている。
「軽率に判断すると良くありませんよ。ナラヤンさん。人間の魂はとても弱いんです。ちょっとした事で消えてしまうんですよ。消えてしまえば、私でも復活させる事はできません」
ナラヤンが明るく答えた。
「もう2回も死にかけましたが、サラスワティ様がいらっしゃれば何とかなると信じています。復活できなければ、素直に諦めて来世で頑張りますよ」
マデシ族はカースト制度の中では奴隷に堕ちうる清浄階級という位置づけだった。この階級は聖なる紐を身につける事が許されていないために、来世での再生は約束されていない。約束されているのはバフンやチェトリ階級だけで、公園管理人のラムバリなどが該当する。
今ではそのようなカースト制度は法制上廃止されている。
大きくため息をついたサラスワティが、真面目な表情でナラヤンとムカスラに命令した。
「気持ちは変わりませんか……では、まず実験を行いましょう。私の結界があるコシ河の展望台であれば、万一ナラヤンさんの魂が危険な状態になっても対処できます」
ムカスラが素直に了解した。
「そうですね。そうしましょう」
という事で、ナラヤンが新しい自転車をこいでコシ河西岸の展望台へ向かった。ムカスラは自重を消して後部荷台に立っている。
ビラトナガル市街を通り、病院や市場、工場から病原体を楽し気に採集している。黒い煙状になったモノを専用の容器に封じ込めているのを、ナラヤンがスマホ画面を通じて見てみた。
「あ。黒い煙じゃなくて、何か蠢いていますね。生き物みたいな感じ」
ムカスラが上機嫌な表情で答えた。赤い瞳が先程までと違って生き生きしている。
「お。ナラヤン君は羅刹魔法に少し慣れてきたようですね。ワタシが収集しているのは病原体が主ですが、他に病魔という魔物も集めています。その病魔の姿がおぼろげに見え始めたようですね。良い事です」
スマホを介して羅刹が人間に関与しているので、それなりの影響を受けるのだろう。
病魔というのは病原体の集合意識の具現化と説明するムカスラだ。あんまり理解できていない様子のナラヤンだが……
「ええと、人間に対して悪さをする魔物だという事ですね。理解しました」
ムカスラもそれ以上説明するのを諦め、普通に観光し始めた。ヒンズー教寺院を熱心に見物している。
「ブラーマ神がワタシとナラヤン君の安全を保証してくれたおかげですね。採集仕事に集中できます。羅刹が寺院観光できるなんて予想もしていませんでしたよ」
ナラヤンも自転車をこぎながら同意した。交通警察官の姿が見えたので、慌ててスマホを胸ポケットの中へ突っ込む。
「寺院の種類は豊富ですから、存分に観光してください。ビラトナガル市には目ぼしい観光地が少ないので、すみません。ヒマラヤもここからじゃ見えませんしね」
「魔物が寺院観光とか、確かに前代未聞だな。ははは」
スマホから低い女の声がした。あいにくスマホを取り出す状況ではないので、とりあえず謝るナラヤンである。
「すみません。今は自転車をこいでいますので、スマホを取り出せません。どなた様ですか?」
背後のムカスラがアワアワ言っているので、大よその察しはついていたのだが……
「何だ。私の姿が見えないのか。面倒だな、人間。カーリーだよ。自転車を新しく買ったのか、金持ちだな」
ジト目になるナラヤンである。北へ向かう裏道に入るが、この時間帯は工場勤務のシフト交替にあたるようで、結構大勢の労働者が行き来していた。そのため慎重にハンドルを切って運転していく。
「ご冗談を。学生は年中貧乏ですよ。もう自転車を攻撃しないでくださいね。破産してしまいます」
そんなナラヤンの抗議には耳を貸さず、一言も発言していないムカスラにカーリーが話しかけた。
「魔物……いや、羅刹だったな。カーリー寺院へ詣でるなら案内してやるぞ」
カーリー寺院はビラトナガル市内に多くあるが、有名処は限られている。カーリーが候補に挙げたのは、南と東にある大きな寺院だった。どちらもナラヤンが進んでいる方角とは大きく異なる。
ムカスラが恐縮しながら遠慮した。
「すみません、カーリー様。私たちはこれからサラスワティ様のいるコシ河展望台まで行かないといけません。そこで実験をするんですよ」
ムカスラがカーリーに実験の趣旨と概要を説明した。興味深く聞くカーリーに、内心で驚くナラヤンである。
(へえ……好奇心が強いのかな。口調も以前と違ってトゲトゲしくないし)
話を聞き終わったカーリーが、ご機嫌な口調で告げた。
「面白そうだな。私も見に行こう。今日は暇を持て余していてね」
マジですか……と思わず表情に出してしまうナラヤンとムカスラであった。
かくしてカーリーと一緒にコシ河の橋を自転車で渡った。ナラヤンが橋の状態を見て感心している。ここまで来ると、交通警察官もいないのでスマホを取り出していた。
「あ。この間の穴が直ってる。もう修復してくださったんですね。ありがとうございます、カーリー様」
カーリーがドヤ顔になって上空で宙返りした。今日は6本脚の獅子には乗っていない。
「直したのはクリシュナだけどな。昔から、私が壊した物を修理するのが上手いんだよ」
橋を渡り終えて、自然堤防の上を走りサラスワティが待つ展望台へ到着した。サラスワティもカーリーの姿を見て驚いている。
「あら。カーリーさんも来ましたか。くれぐれも暴れないでくださいね」
カーリーが展望台の欄干の上に舞い降りて、膨れ面になった。インド貴族の軍服姿なので、立ち姿がかっこいい。
「おいおい……いくら私が復讐の女神だからといって、いつも暴れているわけじゃないぞ」
ナラヤンがノーコメントのままで、自転車を駐輪して展望台に上った。今回も他に観光客はいない。結界を張っているため、それによって人払いしているのだろう。
「では、早速始めましょう。サラスワティ様、ムカスラさん」
「では、失礼して……」
ムカスラが習い覚えたばかりの羅刹魔法でナラヤンを攻撃して気絶させた。気絶したナラヤンを展望台の床にそっと横たえてから、頭の中へ手を突っ込んで魂を取り出し、それを自身の水筒の中へ入れる。
カーリーが見て苦笑した。
「まさしく魔物の所業にしか見えないな」
無言で同意するサラスワティ。
「ん……?」
カーリーが対岸に視線を向けた。数秒間ほど凝視していたが、少し面倒臭そうな口調でサラスワティとムカスラに告げる。
「ちょっと巡回してくる。実験を続けてくれ」
そう言い残して飛び去っていった。
サラスワティとムカスラが安堵の表情になる。
「気がかりが一つ減りました。ムカスラさん、続けてください」
「はい」
ムカスラが持つ水筒の中からナラヤンの思念が届いた。
(これが封印されたという状態ですか……すごく寂しいですね。囚人にでもなった心境です)
ムカスラが素直に同意する。
「まあ、その通りですね。封印は基本的に魂だけを対象にしますし。魔力が強い魔物や羅刹は、例外的に肉体も封印する事が可能ですけどね。封印された魔物や羅刹を、マガダ帝国が救出している理由が分かったかと思います」
魂状態のナラヤンが水筒の中でうなずいた。
(人権というか羅刹権を大事にしているんですね)
水筒はサラスワティも同じものを所有しているので、行き来できる。ナラヤン魂がサラスワティが持つ同一水筒に転移して、注ぎ口から魂状態で顔を出した。魂は炎のような状態で、色は青白い人魂のような感じだ。
(あ。移動できていますね)
再びムカスラが持つ水筒へ移動する。
(なんか楽しいです)
ナラヤン魂がサラスワティの水筒を見た。
(サラスワティ様。たしか供物には触れる事ができない決まりでしたよね。その水筒はしっかり持っていますが、どういう仕組みなんですか?)
サラスワティが微笑んで、彼女の水筒をお手玉した。
「この水筒は水差しの後継として神器にしているんですよ。羅刹魔法と神術の両方が使えますから、私。術式が複雑ですので、お菓子や果物には使えないのが残念です」
(さすが知恵の女神様ですね)
感心しているナラヤン魂に、サラスワティが注意を促した。
「水筒の中から出ないようにしなさい。人間の魂は環境ノイズに簡単にかき消されて消滅してしまいます。消滅してしまうと、私でも再生する事は不可能ですからね」
ひええ、と慌てて水筒の中へ引っ込むが、焦っていたので水筒の外に転がり出てしまった。
(ぎゃ……)
そのナラヤン魂をサラスワティが手で受け止めて、改めて水筒の中へ押し込んだ。ほっとするナラヤン魂である。
(た……助かりました。ありがとうございます、サラスワティ様)
ムカスラもほっとしている。
「気をつけてください、ナラヤン君。水筒の外には絶対に出ない事です」
サラスワティも同意した。
「では、今後は水筒の中に入っている間は魂に眠ってもらうようにしておきましょう。必要に応じて目覚めて活動できるようにもしておきますね」
少し残念な気もするようだが、仕方なく了解するナラヤン魂であった。
サラスワティが、床に横たわっているナラヤンの体に顔を向けた。
「次はこちらの対処ですね」
そう言って指さすと、ナラヤンの体が空中に浮きあがり……そして透明になった。満足そうに微笑む。
「これで、人目につかないでしょう」