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ビラトナガルの魔法瓶  作者: あかあかや
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怪物との出会い その二

 ナラヤンが自転車をこぎながら、背後のムカスラに聞いてみた。

「魔法って言っていましたが、ムカスラさんは魔法使いなんですか?」


 ムカスラが少し考えてから答えた。赤い短髪が風に揺れる。

 魔法使いは今から300万年前に起きた魔法大戦の生き残りと、その後に誕生した旧人などの人類の末裔だと言う。

「羅刹は、その魔法大戦で創造された魔法兵器の末裔です。でもまあ、今ではかなり劣化しまして。エルフやドワーフ、セマンなどと同じ亜人という位置づけですね」


 魔法使いや亜人たちは、それぞれ異世界を創造してそこで暮らしていると話した。羅刹の場合は羅刹世界だと語るが、ムカスラがナラヤンから視線を逸らした。

「……ですが我々羅刹は異世界創造の魔法が使えません。羅刹魔法は闇魔法の系統で、破壊や消去が得意なんですよ。ですので、空き家になった異世界を探してそこへ移住しています」


 ナラヤンが細い眉をひそめて軽いジト目になった。

「……もしかして、それって不法移民とか言うんじゃ」

 ムカスラが視線を逸らしたまま答えた。赤い瞳が青空の雲を映している。

「持ち主からは未だに文句は来ていません。ですので大丈夫です。それを言うなら、ここの神々だって似たようなものですよ。魔法禁止世界に居残った魔法使いの末裔なんですから、彼らは。不法滞在者です」


 論点をずらされたような気がしたが、興味深く聞くナラヤンである。

「ラズカランさんが話してくれた神話にちょっと似ているかも。しかし、本当にエルフやドワーフがいるんですか……一度見てみたいですね」

 ムカスラがやっとナラヤンに視線を戻した。

「エルフは引きこもりなので滅多に会えませんよ。草と虫ばかり食べていますし。ドワーフはサービスの悪い機械を高値で売りつけてくるので嫌われています。セマンは泥棒なので論外ですね」


 ナラヤンが思わず自転車のハンドルを切り損ねて、危うく転びそうになった。トラクターのワダチが刻まれている土道なので、気をつけて走らないといけない。

「えええ……ファンタジーっぽさが全く感じられないんですけど、それ」


 ムカスラが言うには、ナラヤンたちが暮らしている人間世界が魔法禁止になった理由は、魔法大戦で魔法を使い過ぎたせいらしい。

「魔法を使い過ぎると因果律崩壊が起きるんですよ」


 魔法は既存の物理化学法則を無視した現象を引き起こす。そのため限度を超えて魔法を使うと、魔法を行使した空間では既存の物理化学法則が適用できなくなり、空間がその世界から排除されてしまう。

「その空間に誰かがいれば、その人も一緒に世界から切り離されてしまうんです」

 宇宙空間は静止していないため、空間の連続性が損なわれてしまうと光速で排除されてしまう、とムカスラが話してくれたが……よく分からない様子のナラヤンである。


 ナラヤンの反応を見たムカスラが言い方を変えた。

「人間は魔法が使えないので気にしなくても構いませんよ。ですが、魔法が使われた場所は危険という事だけ覚えておいてください。元の世界へ戻るのに苦労するんですよ」


 ムカスラは加えて、極力人間や神々に発見されないように隠遁魔法やステルス魔法を使用していると話してくれた。

 しかし……とスマホを指差す。

「羅刹魔法の副作用なのでしょうが、ナラヤン君は神々も見えるようになったんですね。これは予想外でした」


 羅刹世界では法術や魔法、魔術を日常的に使っているそうだ。ムスカラが働く法術省では、法術の普及管理が行われている。因果律崩壊が起きないように調整するのが主な役割である。

「法術は魔法の一種なのですが、医療行為に特化しています」


 羅刹は元々不死なのだが、法術の普及によってさらに病気にかかりにくくなり、ケガも法術で治療するようになった。

 病気の治療も全て法術で、医療はマガダ帝国臣民が加入している皆保険制度のおかげで低額負担で済むと聞き、ナラヤンが羨ましがる。


 法術はシステム上、人口が多いほど強力で効果的になるのだが、臣民の生活の質が向上する事でも同様の効果を発揮する。

「羅刹は人口がなかなか増えません。ですので、生活の質向上による強化が効率的なんですよ」


 マガダ帝国の方針では、帝国臣民の健康状態をより良いものにするために健康増進の事業が多い。

「ワタシが所属する研究部では、その事業支援をしています。ワタシの仕事は人間世界での病原体の採集と分析ですね」


 羅刹世界に限らず多くの異世界では、ここ人間世界で育種された作物や家畜を輸入して導入している。

「魔法禁止世界ですので、作物や家畜が魔法場を帯びていません。これって、多くの世界で使えて汎用性が高いんですよ。ああでも、決して密輸行為はしていませんからね」

 力説するムカスラであった。彫りの深い顔にある赤い瞳が、真面目な光を帯びている。


 しかし、作物や家畜と一緒に人間世界の病原体も侵入しやすい。それが羅刹世界で流行してしまうと、生活の質向上に支障が出る。

「その予防と法術治療の情報収集のために人間世界へ侵入し、病原体の採集活動を行っています。この担当者の一人がワタシですね。羅刹は不死ですが病気にかかるんですよ」


 同時に、人間世界には数多くの魔物や羅刹が封印されていると話すムカスラである。

「彼らの救助も重要な仕事です。同胞ですし。どうしようもない連中は別途、再封印していますけどね」

 封印されているのは多くが水差しやツボだと言う。羅刹世界から救助隊がその封印結界内へ侵入し、救助しているらしい。

「救助後の封印物は、ワタシたちが人間世界へ行き来する通路として再利用しています。封印物が割れていると、特に利用しやすいですね」


 ナラヤンが理解した。水牛が道の真ん中にいたので、尻尾に注意しながら回避する。

「あー……あの石製の水差しもフタが割れていました。なるほど」

 次に気になっている事を聞いた。

「このスマホですが……もしかすると今は、その石製の水差しの代わりになっているんでしょうか。ムカスラさんが出入りしているみたいですし」


 ムカスラがニッコリと笑った。凶悪な形相のままなのだが、何となく愛敬がある。

「察しが良いですね。ナラヤン君が水差しの写真を撮ったでしょ。その時、写真データに羅刹魔法の術式を移し替えました。今はこのスマホがワタシの出入り口になっています。なので、姿が見えて声が聞こえるでしょ」

 がっくりするナラヤンである。再びハンドルを切り損ねて自転車を傾かせてしまった。

「そうかー……写真を撮ったら憑りつかれるって、こういう事かー……」


 ちなみに、ナラヤンが情報工学部のムクタル教授へ送信した写真データには、この術式は付いていないらしい。

「一つの水差しに二つ以上の出入り口ができてしまうと、因果律崩壊が起こる恐れがあるんですよ」

 ムカスラの答えに、ナラヤンがひとまず安堵する。

「それは良かった。ホラー映画だと、写真をコピーすると怪物もコピーされる話があるんですよ。それじゃあ、ムクタル先生は安全ですね」


 ビラトナガル市が近づいてきた。土道を自転車で走りながらナラヤンが質問を続ける。

「おおよその事は分かりました。このスマホですが、気をつける点はありますか? 壊れるとムカスラさんが出入りできなくなってしまいますよね」


 ムカスラが少し考えてから答えた。

「多分、あんまり理解できていないと思いますよ。でもまあ……そうですね。この羅刹魔法はスマホの演算素子と記憶素子にかけられています。この二つの部品はくれぐれも壊さないようにしてください」

 部品交換も不可だというムカスラだ。

「同じ術式をコピーすると、やはり因果律崩壊が起きる恐れがあるんですよ」


 しかし、それ以外の部品は自由に交換できるらしい。ナラヤンが感心している。それ以上に、この羅刹がスマホを完全に理解している事にも驚いている様子だが。

「結構、自由度が高いんですね。分かりました。スマホの部品を良いモノに替えると、ムカスラさんも利用しやすくなりますか?」

「ですね。演算素子や記憶素子を増設したり多層化すると、その分、ワタシができる事も増えます」


 この他にも出入り口はあるのかとナラヤンが聞くと、ムカスラが視線を逸らした。

「他の封印物って、博物館とか水の底、土中にあるんですよ……博物館では神々が見張ってますし、水中とか土中ですと出入りするのが大変なんです」


 ナラヤンが同情する。

「ズブ濡れとか泥だらけってのは嫌ですよね……神様ってそんなに厳しいんですか? 僕は会った事がないのでよく分かりません。あ。さっきカーリー様には会ったか」


 ムカスラがジト目になって、鼻で笑う。

「問答無用で襲ってきますよ。話が通じないっていうのは、ああいう状況を指すんでしょうね」

 そして、大真面目な表情になってナラヤンを見つめた。

「マガダ帝国法術省としても、このスマホの出入り口は確保しておきたいんです。どうか、協力をお願いします」


 困るナラヤンである。細い眉を寄せて呻いた。

「できる範囲で協力しますよ。でも、僕もヒンズー教徒なんですよね……神様とケンカするのは、できれば避けたいというのが本音です」


 ビラトナガルの市街が見えてきた。住宅地に入ったので人通りが一気に増える。道はまだ土のままだが。

 ムカスラはまだ後ろの荷台の上に立っていたのだが、しゃがんでナラヤンの肩に両手を乗せた。

「病原体の採集をしたいのですが、構いませんかね? 結構、ウヨウヨしてますよ」


 ナラヤンが自転車をこぎながら了解した。しかし、同時にスマホをあちこちに向けている。

「菌は映らないか……神様もここにはいない様子ですね。でも、きっと探し回っていると思いますよ」

 ムカスラがドヤ顔になった。

「対策は考えていますよ」


 ムカスラの姿が一気に小さくなり、ナラヤンの白い制服シャツの胸ポケットの中に滑り込んだ。胸ポケットの中から顔を出す。

「ここなら見つからないはずです」


 ナラヤンには胸ポケットに入った小人型ムカスラの体重や形は感じられなかった。何となく存在を感じる程度である。スマホにはしっかりと映っているが。ただ、小さくなっても凶悪な形相のままだった。


「ついでにスマホにも細工をしておきましょうか」

 小人型ムカスラがそう言うと、スマホの画面に一匹の小さなイノシシ型の動くアイコンが生じた。イノシシが口をパクパクさせると、ムカスラの声がスマホのスピーカーから聞こえた。

「これでワタシが姿を見せなくても、ナラヤン君と会話ができますね」


 ナラヤンがスマホを片手で持って自転車をこぎながら目を点にしている。

「これが魔法ですか。すごいな」

 小人型ムカスラが胸ポケットの中から見上げてドヤ顔を続けている。

「羅刹世界から人間世界へ電話する事もできますよ。逆ももちろん可能です」


 ナラヤンが苦笑した。

「よほど、神様が怖いんですね。僕も槍を持ってるカーリー様を見た時はビビりましたけど」

 小人型ムカスラが大真面目になって答える。

「怖いですよ。神々は人間でも容赦なく攻撃しますから、ナラヤン君も用心しておく事です」


 ナラヤンがスマホを小人型ムカスラが入っている胸ポケットの中へ突っ込んだ。小人型ムカスラが抗議する。

「おいおい。ワタシがせっかく電話できるようにしたのに、これじゃ意味がないじゃないですか」

 ナラヤンが謝りながら、交通警察官の近くを通り過ぎた。

「すみません。人間世界の決まり事で、自転車とかの乗り物を運転しながらスマホを使うのは禁止されているんですよ。警官に見つかると罰金なんです」


 小人型ムカスラがジト目のままで、ポケットの中から警察官を見る。

「不便なのは、人間世界でも同じですか……やれやれ」

 その代わり……と、ナラヤンがスマホのスピーカーの音量を最大値にした。小人型ムカスラの声がスマホ経由でナラヤンに届く。

「拡声器みたいな使い方ですが、これで我慢してください」


 こうして、再び小人型ムカスラとナラヤンとの会話が再開された。ナラヤンが周囲を気にしていたが、すぐに安堵する。

「本当に僕だけしか、ムカスラさんの声が聞こえていないのですね。かなり大きな音量なんですけど」

 ドヤ顔になる小人型ムカスラである。

「羅刹魔法ですからね。この程度であれば因果律崩壊は起きないので安心してください」


 そう言ってから、小人型ムカスラが真面目な口調で聞いてきた。凶悪な形相のままで小首をかしげている。

「ずいぶん簡単に協力するとナラヤン君は答えましたが、君の利益にはならないと思いますよ。それでも構いませんか?」

 ナラヤンが自転車をこぎながら肯定的に首をふった。

「断定はできないと思いますよ。もしかすると実入りの良い副業が見つかるかも知れません。何事もやってみないと分からないものだと、知り合いの呪術師が言っていました」


 まあナラヤンの学業の成績は大して良くない。高校を卒業しても大学への進学は非現実的だ。そうなると就職するしかないのだが、今の所は地元の機械修理屋で細々と食つなぐ未来が関の山だったりする。

 残念ながらこの手の仕事は収入が少ない。副業を学生のうちから探しておく事は重要なのである。


 ナラヤンが人混みを巧みに避けながら自転車をこいでいく。

「収入が増えれば、バイクや自動車が買えますからね。自転車だと夏場は暑くて大変なんですよ、本当に」

 小人型ムカスラは人間社会の事に詳しくないようで、特にコメントせずに同情だけしてくれた。すでに羅刹魔法を使って、あちらこちらから病原体を採集しているようでご機嫌な様子である。


 ようやくビラトナガル市内に入った。インドとの国境近くで、目の前に大きな工場が見える。ナラヤンが工場の建物を見上げて説明した。ちょっと自慢気な表情だ。

「麻布工場です。国内最古なんですよ」


 小人型ムカスラが赤い目をキラキラさせている。ナラヤンと同じように見上げた。

「おお。すごい汚染状況ですね。腐敗菌やカビが大量に舞っていますよ。早速、収集しましょう。ゆっくりと走ってください」

 あんまり嬉しい表情ではないナラヤンであった。

「そんなに汚れていますか……」


 国道沿いに自転車で走り、北へ向かう。採集を続けている小人型ムカスラが少し呆れた声で感想を述べた。

「……観光地としてはショボくないですか?」

 ナラヤンが静かに同意する。

「ですよねー……」


 国道沿いには多くの店や建物がひしめいていた。買い物客や工場からの仕事帰りの人が多く繰り出している。

 彼らを巧みに避けるナラヤンだ。労働者や地元民向けの店ばかりなので、確かに観光地としては派手さに欠ける。

「工場労働者は色々な地域から来ているんですよ。それで、寺院や教会が多く建っているんですが……近寄らない方がいいですよね」


 採集を続けている小人型ムカスラが素直に答えた。

「そうですね。連中から見れば、ワタシたちは魔物とか悪魔の部類ですし。特に女神カーリーの寺院には近寄らないでくださいね」


 国道を北上してビラトナガル市内を走り、二又交差点を東へ曲がる。交差点には信号機はなく、ピンク色のマジックペンのような変な形の碑があるだけだ。ロータリー交差点である。


 小人型ムカスラが胸ポケットの中から顔を出して、その交差点の西側を見た。

「西側には大きめの公園があるんですね」

 ナラヤンがチラリと後ろを振り返って、その公園を見た。

「ビラトナガル市内では一番大きな公園ですね。僕も学校の授業の合間に行って昼寝していますよ。本当は大学の構内なんですけどね」


 そして、国道を外れて路地に走り入れた。すぐ目の前に三階建ての大きな建物が見えてくる。赤いレンガ造りで、大勢の緑色のズボンをはいた生徒たちがいた。男女ともに緑の制服で、女子も男子と同じ縞模様のネクタイを締めている。

「僕が通っているガンガトール高校と付属寮です。草刈り機を借りていたので事務所に返してきますね」


 ナラヤンが自転車を事務所の前に停めて、草刈り機を荷台から下ろした。そのまま事務所へ入っていく。そこへ、同年代の男子学生がナラヤンに声をかけてきた。

「よお、ナラヤン。この暑いのに草刈りかよ。大変だな。ロボ研のサンジャイ部長に文句言ったほうがいいぞ」


 ナラヤンが草刈り機を返し終えて、右手の平をクルリと回転させた。これは諦めの意味合いの手の平返しである。

「部長さんがそんな殊勝な人格じゃないのは知ってるだろ。それよりもジトゥ、今日は放送部の当番じゃなかったっけ?」


 ジトゥと呼ばれた男子学生が、ドヤ顔になった。身長はナラヤンよりも少し高いか。色黒で彫りが深い顔立ちだ。太い眉はキリリとしており、短い茶髪は結構な癖毛である。

「先輩に急用ができてね、シフト変更したんだよ。親戚の家で悪霊祓いする事になったみたいでさ、呪術師のラズカランさんを呼んだばかりだ」


 悪霊祓いは土着信仰の一種なのだが、身内に不幸が起きた際にはよくやっている。一晩中、太鼓を打ち鳴らすので近所迷惑が甚だしい。これと結婚式は騒音公害のツートップである。


 ナラヤンがジト目になって、その先輩に同情した。

「うわー……そりゃ大変だね。寝不足にならなきゃいいけど」

 ジトゥも大いにうなずいてから、ナラヤンの肩に手をかけた。

「寮の電話がまた故障したんだよ。リダイヤルのボタンが壊れたって。ちょちょちょいと直してくれ」

 ナラヤンが素直に了解した。

「またかよ。力任せに押すなって何度も言ってるだろ」


 寮のロビーには固定電話がある。寮生であれば無料で使えるので混雑しているのだが……故障がよく起きるらしい。

 電話回線が少ないため、ダイヤルしても回線を割り当てられずに不通になる事が頻繁に起きる。そのため、リダイヤルして何度も電話をかけ直す必要があるのだ。首都向けに電話する場合では、10回くらいリダイヤルすればつながる。

 そのリダイヤルボタンが押され過ぎて壊れたのだろう。よくある故障である。


 ジトゥが右手の平をクルリと回した。これは『俺は壊してないけどな』という意味合いだ。

「寮長とロボ研部長には、俺から話をつけておくよ。ちゃちゃっと直しておいてくれ。俺はスマホ持ちなんで関係ないけどなっ」

 そう言って、さっさと事務所から出ていった。ジト目で見送るナラヤンだ。短髪の癖毛をかく。

「まあ、スマホの回線ならつながりやすいけどね。通信網が別だし」


 ナラヤンがスマホを胸ポケットから取り出して、気配がする方向へ向けた。元の大きさに戻ったムカスラがナラヤンの隣に立っているのが、スマホ画面に映ってる。

「すみません、ムカスラさん。五分ほど待ってもらえますか。固定電話を修理してきます」

 気楽な口調でムカスラが了解した。

「構いませんよ。ワタシはここで採集でもしています」


 固定電話を診断すると、やはりリダイヤルボタンのバネが折れていた。バネを交換して試運転する。

「うん、直った。それじゃあ、僕はこれで」

 電話をかける生徒の列ができていたのだが、皆ご機嫌な表情になって首を左右に振っている。ナラヤンへの感謝の気持ちだ。

 水筒を肩にかけて、軽く頭をかく。

(あ……水がぬるいとか言ってたな。入れ替えるか)


 ナラヤンが寮の自室へ向かうが、一緒にムカスラも同行してきた。寮内には多くの学生が行き来しているのだが、誰も彼の存在に気がついていない。それを見て改めて感心するナラヤンである。

「つくづく魔法って凄いですね。本当に誰もムカスラさんの存在に気がついていませんよ」


 ムカスラがドヤ顔になった。悪人顔なので、ドヤ顔が実によくサマになっている。

「神に発見されないための羅刹魔法ですからね。信頼と実績があるんですよ」


 ナラヤンが寮の自室へ入り、ムカスラを案内した。この寮は狭いながらも個室になっているようだ。水筒の水を流し台に空けて、冷蔵庫で冷やしていた水タッパ容器の水と入れ替える。

 ついでにコップにも冷たい水を注いで、スマホ画面を頼りにムカスラに手渡した。

「暑いですからね、一息ついてください。すみませんね、貧乏学生なのでジュースやチソとか用意してないんですよ」

 チソは炭酸飲料の総称である。


 ムカスラが礼を述べて水を飲み、イスに座って寛いだ。

「ワタシも新人研究生なので、貧乏なのはお互いさまですね。その水筒ですが、運ぶのに重くありませんか? 収納魔法を使いましょうか」


 素直に水筒をムカスラに差し出すナラヤンである。重く感じていたのだろう。

「助かります。ではお願いしようかな」

 水筒が瞬時に消えた。

「簡易結界の中に入れました。いつでも必要な時に呼び出せますよ」


 ナラヤンも水をコップに注いで飲みながら、ムカスラに聞いた。イスは一つしかないので簡易ベッドに腰かけている。

「ムカスラさんが暮らしている羅刹世界って、どんな感じなんですか? 魔界って荒涼としたイメージがあるんですけど」


 窓の外にはビラトナガル市街が広がっている。鉄筋コンクリート造りの屋根のない家や数階建ての建物が建ち並んでいて、露地には人々が行き交っている。牛や水牛、山羊も当たり前のようにいて、人力車やオートリキシャにバイクが走っていた。

 街の中にはヒンズー教寺院がいくつも建っている。目を転じると水田に覆われた地平線が見えた。この場所からは方角が違うのでヒマラヤ山脈は見えないようである。


 ムカスラが窓から外の風景を眺めながら答えた。ゲジゲジ眉が機嫌よく上下している。

「実は羅刹世界と人間世界とは同じなんですよ。魔法使いがその昔に人間世界をコピーしたんです。ですから緑と水が豊かで空も青いですよ」

 意外そうな表情をしているナラヤンに、ムカスラがニンマリと笑った。

「この辺りは、羅刹世界ですと『大湖』と呼ばれる巨大淡水湖の範囲内になりますかね。静かな観光地ですよ。ナラヤン君を招待したいところですが、人間は羅刹世界へ入るとすぐに病気になってしまうので無理ですね」


 羅刹世界を覆っている魔法場の影響で、人間は健康を害してしまうと説明してくれた。人間世界から輸入した作物種苗や家畜には羅刹魔法をかけて順応させるのだが、こうしてしまうと人間世界へ帰れなくなるらしい。

 残念がるナラヤンである。

「釣りが好きなんですよ、僕。この辺りにはバルジュ湖っていう小さな湖しかないので、大きな湖で釣りをしてみたいですね。コシ河は流れがあるので、ちょっと面倒なんですよ」


 ムカスラが赤い目を輝かせた。

「湖があるんですか。良いですね。ぜひ採集しに行きましょう」

 ナラヤンが小首をかしげた。右手の平を軽くクルリと返す。

「? もしかすると、ムカスラさんはここへ来た回数が少ないんですか」


 ムカスラが照れた。赤い短髪を手でかいている。

「察しが良いですね。ワタシは新人研修を終えたばかりでして、異世界へ出張したのはまだ数回なんですよ」

 羅刹世界のマガダ帝国では常時人手不足が続いているそうで、新人でもすぐに仕事を与えられてしまうらしい。

「羅刹は不死ですので、なかなか子供をもうけないんですよ。おかげで人口が増えなくて困っています」


「へえ……そんな苦労があるんですか。羅刹世界も大変なんですね」

 同情したナラヤンが、空になったコップを流し台の上に置いた。

「まだ夕暮れまでは時間がありますね。せっかくなので、もう少し採集しましょうか。この辺りで一番悪臭が酷いのは、牛乳工場なんですよ。そりゃもう、周辺に住んでいる人が追い出し運動をするほどに」

 ムカスラも空になったコップを流し台の上に置いた。早くも赤い目をキラキラさせている。

「それは良いですね。ぜひ行きましょう」


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