第一話 ⑦
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飛鳥が覚えている中で一番古い記憶は、『 』だった。
その頃はまだ幼すぎて……、それでも、それが良くないものだということは分かっていた。ただ相対しているだけで、それは心の奥底まで覗きこんでくるようで怖かった。
__おまえは誰だ?
__おまえは何ものだ?
ずっとそう問いかけられているようだった。
答えたくても答えがわからない。考えれば考えるほど何もなくなっていく。
自分が空っぽの人間だと、突きつけられてしまう。
「自分には何もない。何も持っていない」
そんな結論で許して欲しかった。諦めさせて欲しかった。それなのに、ずっとその声は飛鳥を問い詰め続けた。
もうこんな場所にいたくないと、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。もちろん、そんなことは許されるはずがない。
それは出口のない暗闇の中を歩いているようで、余計に何もかもが分からなくなってしまう。
少しづつ、少しづつ、身体が削り取られていくようで、今動かしている足が自分のものなのか、そうでないのかもわからなくなっていた。
それでも、飛鳥は必死で心と身体を動かしていく。とにかく何かを見つけなければいけない。それは何でもいいはずなのに、何でもいいわけではなかった。
ずっとこんなことを続けなければいけないのなら、いっそ死んでしまいたかった。しかし、そんなことが出来るはずもない。
そうやって、自分が生きているのか死んでいるのかわからない時に、飛鳥は音寧と出会った。
まず飛鳥の中に入ってきたのは、美しいピアノの旋律だった。いや、その演奏が大して上手くない__むしろ下手なことくらい、当時の飛鳥にもわかっていた。美しいのはそこではない。
明らかに上手い場所と下手な場所があり、音が大きな場所と小さな場所がある。何度も練習した場所と、もっと練習しろよという場所。その旋律は、まさに音寧という個性そのものだった。
自分はここが好きだ。こういう風に聞いてほしい。自分を他人に知ってもらうために、最大限の努力をしていた。そのあり方、生き方が美しかった。
それは地元の公民館で開かれた、小さなピアノコンクールだった。その程度の規模のコンクールで、音寧は入賞すら出来なかった。
当然だ。素人でもわかるくらい、音寧の演奏はメチャクチャだった。それなのに、最後にステージで行われた受賞式のとき、音寧は必死に悔し涙をこらえ、スカートを両手で強く握りしめていた。
音寧だけは、本気で自分が優勝するつもりでいたのだ。
他の誰も信じていなかったことを、悔し涙が溢れそうになるくらい音寧だけは信じていた。その在り方が、飛鳥にはとても尊く、美しく見えた。
コンクールの後、一言だけ飛鳥と音寧は言葉を交わした。
「ピアノ。とっても綺麗だった」
その言葉だけは、どうしても伝えておきたかった。
すでに音寧の顔に悔しさの影はなく、年長者らしい凛とした姿を見せていた。
「ありがとう」
そう言って、音寧は微笑んだ。そして、一歩踏み出して飛鳥との距離をつめ、その右手でそっと飛鳥の頬に触れて来た。
「あなた、とても綺麗な顔をしているわね。きっとステージに映えるわ」
この時の音寧の微笑み、手の感触、眩しい光が差し込むテラス。すべての情景を、飛鳥は今でもはっきり覚えている。
それはまさに、この瞬間に飛鳥の生き方が決まったからだ。
ずっと暗い場所をさまよっていた。
それが、たった一言で救われた。
飛鳥が音寧を美しいと思った。これは飛鳥にとって、初めて自分の中から湧き上がってきた感情だった。その相手から認められるものを、自分でも持っていた。ならば、飛鳥の顔は、今自分が感じているような救いを、他者に与えることができるのではないか。
本気でそう思った。
無理矢理でもいい。
ハリボテでもいい。
空っぽだった自分をとにかく埋めていく。
それは不思議と、嬉しくもあり、楽しくもあった。
さながら、地を這う芋虫が、空を舞う蝶へと変身したような気分だった。
当然、空を舞ったからといって苦しいことが何もないわけではない。空を飛び続けることも、また違った苦しさがあるものだ。
それでも、出口のない閉鎖感に比べれば、その苦しさも心地よく感じられた。
努力した。頑張った。見つけたものにしがみついた。それなのに……。
『 』はまた、飛鳥を一瞬で喰らい尽くしてしまった。
「ん~。なあに、ようやくお目覚め?」
悪夢にうなされるのはいつものことだ。しかし、目を覚ました後まで悪夢が続くというのはどういうことだ?
自分の身体が横になっているということは、すぐに分かった。しかし、見上げる先に天井はなく、かわりによく知る女の顔が飛鳥の目の前にあった。
妖艶である。
そう言えば色っぽく聞こえるが、その女の整いすぎた顔立ちはまるで人形のように作り物めいていて、いつ見ても不気味さを覚えてしまう。
いったい自分はどんな状況に置かれているのか。それは、飛鳥の後頭部から伝わる、馴染みのない感触が教えてくれた。
触覚、視覚、聴覚、嗅覚。さらに、何となく味覚でさえ不快感を覚える。
飛鳥の全細胞が、この状況はまずいと警鐘を鳴らしていた。
「何かしらその顔は。嬉しさのあまりに声も出ないの?」
女が小首を傾げると、みだれ髪がするりと肩から流れる。その髪の先端が飛鳥の頬をくすぐった。
顔から背筋、そして全身に薄ら寒いものが走り、飛鳥は逃げるようにして飛び起きる。
「あら、人がせっかく膝枕をしてあげていたのに……。その態度はないんじゃない?」
ねっとりと絡みつくような声。そして、着崩れしている真っ赤な着物から、陶器のような真っ白い足が覗く。細長い指先には掌ほどの盃。注がれた酒はゆらゆらと揺れ、はだけた肩はほんのりとした桃色を帯びていた。そして、気分良さげに歪んだ真紅の唇。
藤ノ宮六道。
女の色香、いまだ全盛であるとばかりに魅せつけてくるこの女性こそ、現藤ノ宮家当主だった。
「黙れ妖怪。酒臭いんだよ」
飛鳥の悪態にも、手を唇に当てくすりと笑う。
どこまで本当かわからないが、この女はすでに百歳近いという。
この姿でそれは現実的にありえない。しかし、もしそれを可能にしているのが彼女の律だとしたら、その力は計り知れない。
「トリちゃん!」
聞き慣れた声。飛鳥が振り向こうとする前に、背中へよく知った感触が抱きついてきた。
「トリちゃん、ごめんね。ババアの膝枕なんて嫌だったよね。ほんとは私の胸枕で傷を癒してあげたかったんだけど」
「いや、それもいい」
心配してくれる真白には悪いが、まさにその腕が顔の傷に触れて痛い。
「そうだ!音姉は!」
ズキリとした痛みから、飛鳥はようやく冷静さを取り戻す。怪我の具合で言えば、自分よりもよほど音寧のほうが酷いはず。
「うん。飛鳥、私は大丈夫よ」
声はすぐ近くから聞こえた。少し視線を下げればそこに音寧と、そのすぐ後ろに恭一の姿があった。
「音姉!」
飛鳥の目に飛び込んできたのは、音寧の右の太ももに巻かれた包帯。ミニスカートの裾から膝上まで巻かれたそれが、重く痛々しい。
音寧の前で膝を落とし、飛鳥は思わず涙ぐんだ。
「ああ、音姉の脚になんてことを……」
「え~と、それは何に対して悲しんでいるのかな?」
「俺。目覚めるなら、音姉の膝枕がよかった……」
「そんな事だろうと思った……。お姉ちゃん、エッチな子は嫌いよ!」
お姉ちゃん面して怒る音寧だったが、その肩にポンと軽く手が置かれ、何かを諭すように恭一が優しく声をかけた。
「あのな音姉。男はな、一番好きな部位が胸だったり脚だったりするだけでな、別にそれ以外のところもそれなりに好きなんだぞ。ただ一番じゃないっていうだけでな。だから音姉の硬ったいおっぱいでも__」
「ねえ?あんた、それ以上は戦争だって分かって言ってんの?」
お姉ちゃん面をしたまま殺気を放つ音寧と、ギリギリのチキンレースに挑む顔をした恭一を見て、飛鳥はようやく心が落ち着いた。何だか日常とはかけ離れてしまったけれど、ここには安心できる顔が揃っていた。
飛鳥は改めて現状を把握する。
ここは藤ノ宮家本堂。光が差し込む隙間もなく、季節による気温の変化もない。この場所にいると、まるで時間が止まっているかのように感じる。飛鳥は先ほどまで、ここの木張りの床の上で寝ていたが、真冬にもかかわらず全然寒さを感じていない。
飛鳥たちを囲むように蝋燭が立てられていて、その光がの向こうはずっと暗闇が続いている。この建物がどれくらいの広さなのかは知らないが、天井を支える柱は一本もない。これは現代の建築基準においても、建築技術においてもあり得ないものだ。それが2千年近く前からここに建っているのである。
時間が止まった空間に、時間の止まった女。これこそが藤ノ宮家の象徴。
「この熟れた身体の良さがわからないなんて、飛鳥はまだまだ子供ね。その点、恭一は年上好きだから大丈夫よね?」
「は?あんた何言ってんだ?」
六道はあくまで軽いノリで話を振ったのだが、帰ってきた言葉は激しい怒気を孕んでいた。意味がわからず小首を傾げる六道に対して恭一は立ち上がり、目線も態度も上から言い放った。
「よく聞けよ、当主様。良い事を教えてやる。年上とな、年増はな、違うんだよ!」
その言葉のあとに、飛鳥は何も言わずに視線を逸らし、女性陣はクズを見る視線を恭一に向けた。
あえてチキンレースに挑むことは誰も止めはしないが、なぜ彼がそこまでの覚悟を背負うのかは誰にもわからない。
「ふ~ん、そうなの……」
これを恭一からの挑戦だと受け取りった六道は、居丈高な恭一に向かって両手を胸下で組み、自身の熟れた肉体を強調させた。さらに少し肩を揺らすだけで、それは今にもこぼれ落ちそうな危うさを見せる。それはまさに、風に揺れるたわわな果実。
「うっ……」
そして何も言わずとも、身体が前かがみになったことが、恭一から六道への回答だった。
「あらあら、ずいぶんと脆いこだわりねえ」
「恭一……」
「最低」
「お猿さん」
「だってしょうがないじゃん!目の前にあるとさ!」
己の性に頭を抱える恭一を見ながら、六道は満足そうに微笑んでいた。
「あの……六道様。そろそろ真面目にやってもらえますか?」
音寧は額に手を当て、大きくため息をついた。一体何のために自分たちはここへ呼ばれたのか。
「頭硬ったいわね。それだから、おっぱいも硬ったいのよ」
「関係ない!」
全方向に喧嘩を売っていくスタイルなのか、六道は一通り全員を煽って、さらに盃をあおった。
「はいはい、分かりました。そんなに怒らないの」
六道は空になった酒瓶を転がして、朔に次を持ってくるように促す。
一体いつから飲んでいるのか知らないが、まだ飲むのかこの人は。という、飛鳥たちの呆れ顔とは違い、朔は一切表情を崩さずにその指示に従った。ファミレスの店員のほうが、まだ表情が豊かだろう。
「話すことなんていくらでもありすぎて、どうしようかしらね……」
六道はその真紅の唇を歪ませ、飛鳥たちを値踏みするように目を細めながら問いかけてきた。
「あなた達から聞きたい?それとも私から話して欲しい?」
ああ、本当に嫌いだ。どこまでも主導権を握ろうとしてくるその余裕が。
頭に血がのぼりそうな飛鳥を抑えて、音寧が問いに答える。
「『器』って、何ですか?」
「はいダメ~。何にも知らない子だっているんだから、いきなり本題に入っちゃダメでしょう?」
自分から話を振っておいて、この有様である。
今度は音寧が頭に血がのぼり、飛鳥がそれを抑える番だった。
「私、酔っ払い嫌い!」
「落ち着こう音姉。たぶん認知症も入ってんだよ」
何がおかしいのか、当の六道はその様子を見ながらお腹を抱えて笑っていた。
「もっとも、その本人が一番興味なさそうなんだけれど?」
六道はニヤニヤと笑いながら、今度は真白に絡んでいく。しかし、目だけはずっと飛鳥から離れていなかった。
「うん、全然興味ない」
「だ、そうだけど……。どうする?飛鳥」
真白の答えは予想したものだったらしく、六道は満足そうな笑みを浮かべていた。
「わかってるよ。真白だってもう無関係じゃいられないんだ。色々と知っておいたほうがいい」
「わかった!じゃあ聞く!」
これまで真白は、藤ノ宮の関わることに一切関心を持つことはなかった。それだけに不安も大きいが、このいつもと変わらない無邪気さに安心感もあった。
「本当に、真白の頭はふわふわだな」
「わ~い!ふわふわ~!」
飛鳥はいつものように、真白の髪をわしゃわしゃしてやった。しかし、どうにも周囲の空気は微笑ましくならなかった。
「音姉。あれは褒めているのか馬鹿にしているのか、どっちだろう?」
「致命的にセリフが良くないわね」
今ひとつどんな反応をしていいのかわからない音寧と恭一。しかし、それとは違い、六道は感動すら覚えていた。
「あら、2人とも何を言っているの?あの飛鳥が他人を思いやっているんだから、幼い頃から思えば随分と感慨深いじゃない。成長したものね」
「「あ~、たしかに……」」
今でも、他人を値踏みすることに関しては右に出るもののいない飛鳥だったが、幼かった頃は値踏みではなく、ほとんど拒絶だった。その頃を思えば、たしかに随分と丸くなったと言える。
「勝手なことを言いやがって……」
飛鳥としては何か反論したかったのだが、自覚がないわけではないので何も言えなかった。
とにかく、真白が藤ノ宮に関わりを持つことを決め、飛鳥もそれを覚悟した。ならば六道は、当主としてそれに応えなければいけない。
「当主様、お待たせいたしました」
ちょうど新しい酒を持って朔が帰ってきた。六道はそれを受け取ると、さっそく口をつけた。視界がボヤけるのと反比例して、テンションは上がっていく。飛鳥たちとしては、このまま酔いつぶれてしまっては何のためにここにいるのかわからない。
「酒も来たんだし、そろそろ話を始めてくれないか?」
飛鳥はもう覚悟を決めた。どうせ六道は自分のペースでしか話さないのだ。だったら、まずは六道にすべて任せ、自分はそれを受けきるだけだ。
六道にもその覚悟は十分に伝わっている。だから、酒に溺れた思考と身体で、さらにこの場を楽しむために、
「じゃあやっぱり、『忌人』についてから話そうかしらね……」