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SPIRO SPERO  作者: 天馬聖
5/14

第一話 ⑤

5


 足元には街の灯りが広がる。ビルを軽々と飛び越え、三人はまさに空を駆けていた。建物の屋上を足場にして、ジェットコースターのように上昇と下降を繰り返す。

 飛鳥の前には、真白を背負った恭一の姿がある。飛鳥が幹久の注意を引いていた隙に、恭一もまた『律』を発動させ、真白を連れて逃げ出していたのだ。飛鳥の目元に赤黒い紋様が浮かんでいるように、恭一は左の掌に紋様が浮かんでいる。

「ほえ~っ。すっご~い」

「お前ね、緊張感なさ過ぎるぞ」

 全く状況にそぐわない間の抜けた声を出していたのは、恭一の背中におぶわれた真白である。この瞬間にも今までの価値観がひっくり返っているというのに、まるで平常運転だった。

「いや、でもね?ここまでいろんな事があると、逆に何に驚けばいいのか分かんなくなっちゃうよ」

「まあ、そういうものかもしれんけど……」

 眼前に広がる景色も、確かに普段では見ることが出来ないものだ。いくら小さな街とはいえ、その街の終わりを空から眺めるなど、そうそう経験できるものではない。足元から広がるビル群が少しずつまばらになり、やがて道路だけが暗闇の中へ続いていく。その先に光って見えるのは、フェリーターミナルだろうか。

 移動する光は車のヘッドライト。今日はその中に赤色がよく目立つ。そして、人の流れもよく分かる。さすがに人の表情までは分からないが、皆んなが神社の方から一斉に避難しているのが見える。

「欲を言えば、こんな変な事件に巻き込まれずに、私を背負っているのがキョーちゃんじゃなくてトリちゃんで、しかもお姫様抱っこで、私が『夜景が綺麗だね』っていったら、トリちゃんが『お前の方が綺麗だよ』っていってくれて、そのまま二人でどこまでも愛の逃避行、っていうのならよかったのに」

「除夜の鐘は終わったばっかだってのに、欲望にまみれ過ぎだろお前。そんな都合のいい話があるか」

 まさに恭一の言う通り。どんなに現実逃避をしようとも、自分たちの置かれている状況に変わりはない。目下変な事件に巻き込まれており、真白を背負っているのは恭一であり、そして、三人がどこまでも逃げられるほど、追ってくる相手は甘くない。

「やっぱり追ってくるよな……。まさに猪突猛進ってやつだ」

 飛鳥が後ろを振り返ると、幹久が確実に距離を詰めているのが見えた。分かっていたことだが、明らかに力の使い方が飛鳥たちより慣れている。

「まずは音姉と合流しよう。この近くで、人目につきにくくて、なおかつ分かりやすい場所といったら……」

「そんな都合のいい場所なんてあるのか?」

 飛鳥はこの辺りの地形を思い出しながら、目を凝らして周りを見渡した。恭一も同様に頭をひねっている。すると、突然真白が何かに気がついたように声を上げた。

「トリちゃん!そのメイク超カッコいい!」

「これはメイクじゃないんだが……。まあ、俺がカッコいいのは確かだな」

「次のライヴはそういうのにしたらいいよ!」

「なるほど。コープスペイント近い感覚か?」

 さすがに白塗りや血糊はやり過ぎだが、これくらいならお絵描きの範疇で楽しそうだ。飛鳥は、自分の新しい魅力を観客に届けることができるのではと、顎に手を置いて頭をひねった。

 「お二人さん。打ち合わせは後にして、今は待ち合わせのことを考えてもらえます?」

 恭一のひどくもっともな意見で、飛鳥は我に返った。

「待ち合わせか……」

 飛鳥はその言葉から、音寧と一緒に学校へ通っていたころを思い出した。1年前までは、この三人に音寧を加えた四人で毎朝一緒に登校していた。待ち合わせ場所は、いつものコンビニだった。

 そんな風に、全員の共通認識がある場所がいいのだが、この近くに何かあっただろうか?と、そこまで考えて、飛鳥は一つの考えに思い至った。

「そうだ、学校だ。確かこの先に、学校がまとまって建ってただろ」

 ここは飛鳥たちには縁がない学区だが、小・中・高・大と四つの学校が隣接していたことを思い出した。

「確かに、元旦のこの時間なら学校なんて誰もいないだろ。よし、だったら多分一番近いのは県立大だ」

 恭一がすぐに方角を確認する。上から見下ろせば、その場所はすぐに分かった。住宅街の中で、そこだけポツンと灯りがない。

「いや、大学は見通しがよすぎる。それよりその先の中学にしよう。確か周りは駐車場ばかりで、人通りが滅多になかったはずだ」

 飛鳥はうろ覚えの記憶を総動員して、何とか最善の場所を考える。おそらく、あそこなら音寧もすぐにわかるはずだ。

 三人はとあるビルの屋上に降りた。そして、中学校の方へ移動を始めようとした、その時。

「飛鳥!」

 恭一の声と表情。それが危険を訴えていると頭が理解するより速く、飛鳥はとっさに身をかわしていた。次の瞬間、幹久の蹴りが飛鳥の数センチ横を通り過ぎた。

「ハハッ」

「っ、危ねえ!」

 予想より早く追いつかれてしまった。さっき振り返ったときは、まだ距離があるように思えたのに。

「真白は音姉に連絡を!恭一は真白を頼む!」

 幹久の敵意は、明らかに飛鳥一人に向けられていた。だったら、ここは自分が時間稼ぎをしたほうがいいと、飛鳥はそう判断した。もちろん、自分を犠牲にするつもりなどない。さっきと今、二度の幹久の攻撃を見て、自分一人で対応できると思ったのだ。

「分かった。無理すんなよ」

 恭一はそう言うと、真白を背負って飛び去っていった。

 飛鳥としては、追い詰められているわけではなかったが、余裕があるわけでもなかった。だから、無理をするつもりはなくても、無茶をするつもりはあった。

 もちろん、恭一にもそれくらいは分かっている。だが、心配くらいはするし、それと同じくらい信頼もしている。だからこそ、素直に飛鳥の言うことを聞いたのだ。

 飛鳥が幹久と対峙すると、彼は余裕の笑みを浮かべていた。

「ここは俺に任せて先に行け!って?お前、どこの勇者__」

 幹久にとっては余裕。だが、飛鳥はそれを油断と受け取った。

 幹久が軽口を叩いている隙に、相手との間合いを一気に詰める。その距離は5メートル程度。今の飛鳥の身体能力なら、まさに一瞬。

 しかし、幹久もそれにしっかりと対応してきた。両手を上げてガードを固める。まずは飛鳥の一撃を受け切って、そこから反撃するつもりだろう。

 先手を取られている以上、その判断は正しい。だからこそ、__飛鳥は絶対に先に攻撃してはいけないのだ。

 見る。

 まずは見る。

 全てを見る。

 相手の目の動き。僅かな肩の揺れ。握る拳の圧力。一挙手一投足まで目を光らせる。

 距離を詰められるだけ詰める。なるべく近く。もっと近くに。僅かな情報さえ見逃したくない。

 飛鳥がいる場所はすでに死地。幹久にとっては理解不能だろう。ただ攻撃のチャンスを不意にしようにしか思えないはずだ。

 まず、幹久の顔に浮かんだのは僅かな動揺。そして、次に怒りを押し殺した、冷静な殺意。標的が無防備に突っ込んでくるのだ。ならば、それを撃ち墜とさない理由はないだろう。何一つ無駄のない動きで、幹久から右の拳が繰り出された。それは、絶対にかわすことが出来ないタイミングだった。しかし__

 飛鳥は、その攻撃を紙一重でかわしてのけた。そして、逆に隙だらけになった幹久の横顔に、思いっきり右拳を叩き込む。

 幹久の射程に超接近してから、その身をかわしたのだ。幹久の目には、一瞬飛鳥が消えたように映っただろう。受け身の体勢も取れないまま、幹久は屋上のフェンスに叩きつけられていた。

 そして、その隙を逃さず、飛鳥は何の迷いもなく、その場所から逃げ出したのだった。

「ーー!!」

 飛鳥は全力で空を駆けていた。すでに幾つものビルを飛び越えていたが、それでも背中から幹久の怒号が聞こえて来る。

「やっぱり、向こうの方が力は上か……」

 自分の力では幹久を倒せない。飛鳥はそう判断して、追打ちではなく逃げることを選んだ。そして、その判断は正しかったようだ。

 幹久からは、全く力の衰えを感じない。時間稼ぎは出来たが、その分そうとうな怒りを買ってしまった。

「早く音姉と合流しよう」

 飛鳥は全てを合理的に判断する。その全く無駄のない動きは、まるで脚本になぞらえたように、最善の一手を選択していくのだった。

 

 

「クソがあ!!」

 裏路地での攻防は、自分のミスだと思っていた。幹久の拳が大振りだったため、飛鳥にかわされたのだと。しかし、今のは違った。

 最初、幹久は飛鳥を迎え撃つつもりだった。向かって来る相手の攻撃を受けて、それにカウンターを合わせるつもりだった。しかし、飛鳥は全く攻撃を繰り出すそぶりがなく、幹久の間合いに入ってきた。防御も固めていない。まるで殴ってくれと言わんばかりだった。

 正直、予想外の行動に少しばかり動揺した。だが、その分繰り出した拳には一部の油断もなく、真っ直ぐに相手を仕留めるものだった。

 しかし、またもその拳はかわされた。そして逆に幹久がカウンターをもらってしまった。その動きはまるで、攻撃が来るタイミングを知っていたかのようだった。

「ありえねえ」

 剣道で言うところの、後の先。相手に攻撃を出させてから、その隙を突いて自分の攻撃をあてる。しかし、飛鳥の身体の運びから、剣道や何かの武道の経験があるようには思えなかった。それに、自分が攻めるのに圧倒的に有利な状況にあって、わざわざ後の先を狙う理由があるだろうか?

 幹久は飛鳥の顔に浮かんだ紋様を思い出す。

「ただの視覚強化だとおもったが……。何か違うな、アレ」

 『律』とは、術者それぞれが布く法律である。それがどのような意志を基に組み上げられているのかは、術者本人にしかわからない。

 それにしても、一体どんな律であれば、さっきの飛鳥の動きが可能になるのか。躱せるはずがないタイミングのものを躱すなど、視覚強化や速度増加では説明がつかない。

「ああもう面倒くせえ!どーせ俺の頭じゃ考えたって分かんねえんだよ!」

 幹久はそうバッサリと切り捨て、考えることをやめた。

「相手が何をしてこようが、俺は力押ししか出来ねえんだ!」

 幹久はこれでもかというほど、全身を力ませて立ち上がった。もう理屈も主義も主張も、どうでもいい。ただ思いっきり力を込めて、飛鳥をぶん殴ると決めた。ただそれだけでいい。

 飛鳥たちが逃げていった方向に目を凝らす。まだ僅かだが、その姿を捉えることが出来た。

 絶対に追いつく。絶対に殴り飛ばす。それだけを決めて、幹久は全力で屋上のフェンスを飛び越えていった。

 

 

 夜風を切り裂き、喧騒が後ろへ流れていく。市街の中心に向かって行く、多くのサイレンが聞こえてくる。

 それまでの街の明かりは、すでに遠く。そこはぽっかりと暗闇が口を開けたように、静かな夜があった。

 飛鳥が目的の中学校へたどり着いた時、真白と恭一は校庭の真ん中にいた。

「音姉は?」

「5分で行くって」

 飛鳥の問いに、真白は携帯を手に持ったまま答えた。おそらく、ついさっき連絡がとれたところだろう。

「5分か……」

 微妙な時間だった。

 音楽ならば一曲だいたい5分くらい。演奏している方でも、聴いている方でも、そんな時間はすぐに過ぎる。

 しかし、ボクシングでは1ラウンドの3分以内にKOは珍しい話ではない。殴り合いの決着など、本気の一撃が決まれば1秒もかからないのだ。そう考えれば、300秒はとてつもなく長い。

 だからと言って、飛鳥たちに他の選択肢はないのだ。

 ここなら隣接した民家もない。加えて校舎や体育倉庫など、障害物も多い。遠くに街灯があるだけで、見通しも悪い。これ以上人目を避けられる場所も思いつかない。そして、逃げかくれするほどの時間はない。音寧が来るまでの間、ここで幹久を足止めする以外、飛鳥たちに道はなかった。

「なあ。二人がかりでかかれば、何とかなったりしねえかな?」

 恭一は歯をくいしばって、そう提案してくれた。確かに一人より二人だ。こちらが多勢であるに越したことはない。しかし、律を使えない真白を放っておくのは気にかかる。それに、飛鳥は幹久の動きを間近で見ている。性格もわかりやすい。飛鳥の律とは、相性がいい相手と言えた。

「いや……。恭一は真白を連れて、少し離れていてくれ。あいつの次の動きはすでにわかっている」

 飛鳥は振り返って、夜空へ目をこらす。飛鳥の目の周りに浮かんだ紋様が、その力を発揮する。

 暗闇にもかかわらず、その目は遥か遠くの幹久を捉えていた。身体の動きだけではなく、その表情まではっきりと見える。そして、飛鳥はその全てから京極幹久という人間を読み取っていく。

 飛鳥の律はただの視覚強化ではなく、それ自体は飛鳥の律の補助的な機能に過ぎない。

「俺の律なら、誰だろうが『知る』ことが出来る」

 他人の感情を理解できない飛鳥にとって、こういう律の使い方は必然だった。

 対象者の身長や体重。年齢なんかも重要だ。さらに、動きのクセや表情の変化。声の出し方など、様々な情報をもとに相手を分析していく。当然情報量が多くなるほど、それは正確さを増す。

 言ってしまえば、これは誰もが日常生活で行っていることである。ただそれを桁外れの速さで行っているのだ。膨大な情報を一瞬で収集し、それを高速演算する。それによって導き出される結果は、もはや予測というより予知に近い。

 飛鳥は、この短時間で2度も幹久と戦った。そしてその2度とも幹久に打ち勝っている。力だけでは幹久に敵わないが、逆に言えばそれ以外に恐る要素がない。

 単純な思考回路。飛鳥よりも小柄な体格。倒し切ることはできないかもしれないが、5分間逃げ切ることは決して難しいことではないはずだ。

 飛鳥の思考が、幹久のはるか先へと進んでいく。あとはこのヴィジョンに現実を当てはめていくだけだ。

 こちらへ近づいてくる幹久に対し、飛鳥は拳を構えた。

 幹久のスピードはどんどん増している。接敵まで数秒。互いの視線が交わる。この時点で、すでに飛鳥には次の光景が見えていた。

「死ねえ!チキン野郎!」

 幹久は大声をあげながら、飛鳥めがけて空から降ってきた。その血走った目から、先の反省を全くしていないことがわかる。ただただ全力の大振りが、飛鳥に向かって繰り出された。

 当たれば即死。だが、飛鳥はすでにその攻撃を『知っている』のだ。

 飛鳥はただ、タイミングを合わせて右腕を伸ばすだけでよかった。後は幹久の方から、勝手にそちらへ向かってきてくれる。

 飛鳥にとっては、やり慣れたアクションゲームのようなものだ。敵がどのタイミングで現れ、どんな攻撃をしてくるのか全部わかっている。プレイヤーは、ただ最速クリアを目指せばいいだけ。

 飛鳥の右拳が幹久の顔面をまっすぐ捉えた。そして、空から降ってきたスピードは、そのまま幹久自身へと反転した。

 幹久は後頭部から地面に着地し、何度もバウンドしながらグラウンドを転がり続けた。激しい砂埃と、重く鈍い地響き。大型トラックに跳ね飛ばされたとしても、こうはならないのではないだろうか。

「……死んだか?」

 恭一がそう思うのは当たり前だろう。人間が地面を跳ねながら転がる様など、見たことがない。普通に考えて助かるはずがない。

「普通ならな」

 しかし、飛鳥はこれも知っていた。京極幹久という男は、普通ではないのだ。どんな状況になろうとも、幹久は絶対に戦うことを止めない。

 土煙の中、ズルズルと耳障りな音を出しながら立ち上がる姿があった。ゴボゴボと、水中から空気が出てくる時のような音が聞こえる。それが幹久の息遣いだと気がついたのは、やがてその音に笑い声が混ざってきたからだ。それもまた、随分と耳障りだった。

 後頭部が割れて、その出血のせいで金髪が真っ赤に染まっている。髪の毛だけじゃなく、鼻が折れているせいで、顔の下も真っ赤だ。顔面がそのまま、潰れたトマトみたいになっている。せっかくの短ランとボンタンもあちこち破れ、土と出血でドロドロだ。それでも、幹久は笑っていた。

「なあ、あんたさ……」

 幹久は飛鳥を指さす。折れた鼻から流れてくる血を吐き捨てながら。潰れたザクロのような腕を真っ直ぐ伸ばして。

「あんた見下しただろ。こんなチビの拳なんて届かねえって、バカにしただろ」

 怒りも痛みも通り越して、幹久は笑う。いくら飛鳥が他人の機微に疎いとはいえ、これが完全にブチ切れている人間の表情だということくらいわかる。

「ふざけんな、馬鹿野郎。てめえだってチビのくせに」

 飛鳥だって、身長に対するコンプレックスがないわけではない。しかし、幹久ほどの熱量を持ってそれと向かい合っていない。大体、身長差やリーチの差を計算するのは当たり前で、それが相手を侮辱することにはならないはずだ。

 飛鳥には、何もかもが理解できない。なぜ幹久が、ここまでの怒りを持っていられるのか。傷だらけで血まみれな身体を意に介さず、それでも飛鳥に向かってくるのか。

「てめえの律が何だろうが関係ねえ。要は誰も避けられねえくらいの力を出せばいいだけだ!」

 幹久は何の構えは取らず、ノーガードのまま思いっきり大振りで殴りかかった。逆に飛鳥は冷静にその動きを見極める。

 この攻撃は、これまでのものに比べてはるかに避けやすい。まるでカウンターを下さいと言っているようなものだ。当然、飛鳥もそのつもりだった。しかし、そのカウンターを仕掛ける直前で、飛鳥の身体が一瞬ためらった。

「__っ!!」

 身体を思いっきりのけぞらせて、何とか攻撃をかわす飛鳥。顔のすぐ横を幹久の拳が通り過ぎていった。

 ぞくりと、飛鳥の背筋に冷たいものが走る。

 不可解な感覚だった。

 幹久の動きは、飛鳥の律によって完全に捉えている。そして、実際にそれと同一の動きをしている。丸見えの攻撃に、隙だらけの急所。簡単に決まるカウンター。吹き飛ぶ幹久。そして、彼は再び立ち上がり同じ攻撃を繰り返す。何度も、何度も。そう、何度もだ。

 一瞬、ノイズが頭の中をよぎる。

 飛鳥のヴィジョンの中に、倒れたまま起き上がらない幹久の姿は見えない。ならば飛鳥は一体いつまで、当たれば即死の攻撃を避け続けなければいけないのか。

 考えが甘かった。気づくのが遅すぎた。覚悟が決まっていなかった。それなのに、戦場に立ってしまった。

 喉の奥が乾いている。

 飛鳥は初めて知った。これが、死の恐怖。

 たった一歩が踏み出せない。

 身体と心が離れていくのがわかる。

 ヴィジョンは見える。身体も動く。しかし、心が追いつかないのだ。

 本当なら簡単に避けられる攻撃も、必死にかわさなければいけない。

 大きく身体を反らす。不必要なほど飛び退く。それなのに、幹久の拳はすぐそこに迫ってくる。

 飛鳥の律が何かも分からないまま、幹久は飛び込んでくる。無闇矢鱈に両腕をブン回す姿は、まるで癇癪を起こした子供のようだ。もちろん、それはそんなかわいいものではない。

 気圧される。

 一撃を避けるたび、次の一撃の威力とスピードが上がっていく。

 飛鳥の力では幹久を倒せない。だから飛鳥は時間稼ぎを選んだ。それ自体に間違いはない。ただ、幹久の暴挙が完璧だっただけだ。

「これだから馬鹿は嫌いだ……」

 計算も何もなく、時に直感で正解に行き着いてしまう。

 誰にも避けられないほどの力とスピード。確かにそこまでたどり着ければ、すべての問題は解決する。文字通り、力でねじ伏せればいい。

 だが、そんなことは不可能だ。それなのに、幹久はそこへたどり着こうとしている。それは、己の律への絶対的な自信からなる。

 そして、飛鳥にはそれと競えるほどの自信がない。

 ヴィジョンがブレる。0.1秒……。いや、0.01秒ごとに未来が移り変わる。もうすでに、心だけでなく身体さえもついてこれなくなっていた。

 飛鳥の律は崩壊し、幹久の律に蹂躙される。

 そしてついに、飛鳥は現実よりも0.01秒早く、幹久の拳が自分の顔面にめり込む瞬間をとらえた。

 逃れようのない死が突き刺さる。飛鳥にとってそれは、心が追いつくよりも早く、現実として訪れるものだった。

 良いも悪いもない。事実、そうなるだけだった。

「__!?」

 だが、実際にはその死が飛鳥に突き刺さることはなく、心は無事に身体へと追いついてきた。

 そして、意識をはっきりとさせた飛鳥の目の前には、鼻先数センチのところで止まっている幹久の拳と、それを押し止めている赤黒い光の壁が目に飛び込んできた。

「__どうやら、間に合ったようね」

 天から声が降ってきた。

 飛鳥にとって、それはまさに女神の声。

 幹久の拳を防いでいるのは、間違いなく律の能力。そして、飛鳥はその律が誰のものだか、よく知っていた。

 「音姉。おかえり」

 飛鳥はその声が降ってきた方へと振り返る。

 見上げる夜の校舎。その屋上では月を背にして、二条音寧が微笑みを浮かべていた。

 「ただいま。飛鳥」

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