第一話 ②
2
2018年 12月 24日
吐き気がこみあげる。
いつだって、この瞬間に正気でいられた例がない。手足が振るえ、視界が揺らぐ。メイクを落とすわけにはいかないので、唯一、顔にだけは冷や汗をかかないよう強制的に脳ミソを支配する。変わりに掌にべったりと汗をかき、ギターのネックをすべり落としそうになる。
DUM SPIRO SPEROのステージが始まるまで、もう何分もない。ステージの裏には、すでにメンバーの四人がスタンバイしている。後はスタッフの一人がインカムを通じて、ステージを始める時間を計っている。2メートルもない鉄骨の階段の先に、分厚く重苦しい扉が見える。防音の扉なのだ。そう見えて当たり前のはずなのに、どうしてもそれ以上の、自分を否定するなにかに見えてしまう。緊張や恐怖は当たり前。しかしそれでも、その事実が気に入らない。怒りさえ覚える。いま自分が扉を見上げている構図にすら腹が立つ。だから絶対に目を背けない。何もかもをぶっ壊してやる。
ステージの前の飛鳥は常にこうだ。心の中のぐちゃぐちゃしたものを、全て紅く塗りつぶしていく。そんな彼の姿を見て、冷静だと評する人は多い。しかし、その実は全くの逆だった。
――壊してやる。
――踏み潰してやる。
――跪かせてやる。
確かに、集中はしている。しかしそれは、導火線に火をつけるタイミングを計っているに過ぎないのだ。
インカムを口元から離したスタッフが階段を昇り、扉のノブに手を掛ける。いよいよだ。ステージに上がる順番は決まっている。まず最初にドラム。次にベース。その次にギター。そして、最後にギターボーカル。
飛鳥はメンバーの背中を通り過ぎ、その扉へと更に意識を集中していく。導火線に火をつける瞬間を狙っている。早くしろ。爆発しそうだ。ギターを持つ手に力がこもる。歯を食いしばりすぎて、口元がゆがみ、つりあがる。早く、早くしろ。早く、早く――。
飛鳥の集中は限界まで達し、その視界からは一切のものが消え去った。もう扉さえ見えない。しかし、そんなことは関係ない。その扉が開いた瞬間は嫌でも分かる。解き放たれた歓声と、眩い光がそこに生まれるのだ。そこにたどり着く。この先何度でもだ。飛鳥は今までも、そしてこれからも、その場所以外に目を向けることなんて、ありえない。だから……、こんな経験は初めてだった。
不意に、肩をたたかれた。
「大丈夫か?飛鳥」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。そして、誰に言われたのかも分からなかった。完全に飛鳥の意識の外から、その手は伸ばされたのだ。ステージが始まる前に、こんな風に声を掛けられたのは初めてだ。目の前には一人のギタリストが、飛鳥の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「たしかに今日はでかいライブだから、いつもより緊張するだろうけど、お前なら大丈夫だよ」
そして、見透かされた。いや、ずっと見透かされていた。飛鳥が気付きもしないうちに、彼は一歩を踏み込んでいた。そしてそれは、飛鳥に改めて自分の弱さを突きつけるものだった。
「翔」
もしかして、こんなに面と向かって名前を呼ぶのは初めてかもしれない。相手のほうも少し驚いた顔をした。
「ありがとう」
そして、続けて飛鳥が口にした言葉に、今度は間違いない驚きの表情を見せた。そしてすぐに満面の笑みを浮かべ、彼はステージに昇る階段に足を踏み出した。
飛鳥はそんな彼の背中を見つめながら、一つの事実に直面していた。それは自分の身体が歓声とステージの光に包まれる瞬間を、飛鳥は見逃してしまったこと。しかも、原因は自分の弱さを他人に見透かされたことにある。それは、疑いようのない真実を飛鳥に突きつけるのだった。
「足りていなかった」
何もかもが足りていなかったのだ。辿りつかなければならない『鷹司飛鳥』に、まだ全然届いていなかった。飛鳥の口から、思わず乾いた笑いが漏れる。それと同時に、激しい自己嫌悪に苛まれるのだった。
さっき、飛鳥の口をついて出た「ありがとう」の言葉に嘘偽りは無い。おかげで飛鳥は自分が思っていた以上に、何もかもが足りていないことに気がつけた。
「もっと、もっとだ」
視界を狭めろ。光だけを見ろ。余計なものは削ぎ落とせ。自分が求めているものが何か、今一度思い出せ。それ以外の一切を塗りつぶせ。
飛鳥はゆっくりとステージに続く階段を昇った。もしかしたら、今までで一番思考がクリアだったかもしれない。思わぬところで、自分がやるべきことを再認識できたのだから。
ステージから客席を見渡す。ステージ前に張り付いているのは、いつもの見慣れた観客ばかり。それ以外の人間はまばらだ。いつも以上にチケットが売れているからといって、みんなその目的はユダヤ。前座の高校生バンドになど、たいした興味はない。ドリンクカウンターに数人と、自分たちの出番までの時間をもてあました出演者たち。
これじゃつまらない。けれど、今はこれで良いと飛鳥は思う。今の自分ではこの程度だ。それはさっき自覚した。これからもっと先に行くために、今はここにいる全員を踏み潰す。
マイクもギターも、すでにセッティングは済んである。徐々にギターのボリュームを上げていけば、アンプから音の圧力が膨れ上がる。それはまるで自分さえ押しつぶすようだ。下腹に力を入れ、自然と深い呼吸をひとつ、そしてふたつ。そうやって音圧を弾き返すたびに、意識がはっきりしていく。各々が試し弾きをしながら最終確認。そのノイズの中、観客のボルテージが高まっていく。吐き気をもよおすほどの緊張も、ここが最骨頂だ。すでに身体の震えは恐怖ではなく、爆発寸前の自分を押さえ込んでいるだけに過ぎない。
メンバー全員で顔を見合わせる。飛鳥が一つ頷くと、みんなで腕を高く突き上げた。ステージの上は無音。ステージ下の客席から上がってくる歓声を打ち消すように、ドラムはハイハットシンバルでカウントを刻む。そして、全員で一気に腕を振り下ろす。身体ごと沈みこむように、全てを叩き伏せるように。世界中を敵にまわすための狼煙となる、一撃目の音が鳴り響いた。
壊せ。今までの自分をもぶち壊せ。新しく、更なる先へ一歩を踏み出せ。これはその為の開戦宣言だ。
飛鳥は幼い頃から、自分が他人とはズレていることを理解していた。しかし、それはお互い様だ。誰も飛鳥を理解できないように、飛鳥もまた、誰も理解できないのだから。
何故上辺だけの言葉で、上辺だけの笑顔で、日々を誤魔化して生きているのだろう。何故嘘をつくのだろう。取るに足らない、くだらない存在にさえ気を使い、優しい言葉で、誰も傷つかない世界を作り上げる。そんなもの、どうやって理解すればいいのだろう。
飛鳥は分家とはいえ、藤ノ宮の人間。しかも、『本家』に引き取られるということは、いずれ特別な役割をになうことになる。幼い飛鳥は、周囲の大人たちからとても気を使われて育ってきた。露骨な特別扱い。それこそ、腫れ物でも扱うかのように。
――上辺だけの言葉で。
――上辺だけの笑顔で。
あまりにも皆同じ顔をするものだから、飛鳥は他人というものを区別できなくなってしまった。そして、人間というものは自分とそれ以外しかいないと気が付いたとき、飛鳥は世界に一人ぼっちだということを理解した。
人間は他人がいて、初めて自分自身を知ることが出来る。他人との距離感をはかり、実力差をはかり、ズレをはかり、その中で自分が一番良いと思ったものを積み上げ、自分自身を形作っていく。しかし、世界に自分しかいないのなら、一体何をはかったらいいのだろうか。そもそも、今自分が持っているはかりは、本当に正しいのだろうか。
飛鳥は考えた。自分の外側には何も無い。ならば、ひたすら内側に内側に潜っていくしかない。答えは自分自身の中にしかなかったが、幸いそれを見つけ出すまでの時間はいくらでもあった。そして、飛鳥はいつしか一つの答えへと辿り着く。それは、感情と理性とを切り離すということだった。
直接人間に接することは出来なくても、感情の痕跡になら接することが出来る。感動とは?怒りとは?悲しみとは?心だけはひたすら自由に、この世界のありとあらゆるものに触れていく。
喜怒哀楽。自分の心が震える瞬間だけは、確かな真実だ。ならば、自分の心を振るわせてくれた人たちと同じ場所に立てれば、自分も誰かの心を振るわせることが出来るんじゃないだろうか。
心だけはひたすら自由に。そして、その心に追いつくためにはどうすればいいのか。理性をフル回転させて、その答えを考える。そうやって考え付いたことは、全て行動できることである。行動できることならば、それは全てやらなければいけないことである。
そうやって自分を高めていけば、誰も無視することが出来ない存在になれる。そうなれれば、自分の価値を認めてもいいんじゃないだろうか。自分を誇ってもいいんじゃないだろうか。
歪んだ環境が生み出した答えは、飛鳥の中ではすでに不文律となっている。それがさらに他人との溝を深めることになることだとしても、どうでもいいことだ。ただ何よりも、自分で自分を認められるようになること。その為に、自分を高め続けている。
そんな飛鳥にとって、考えつきもしないことがある。それは、他人の力を頼るということ。
そして、飛鳥にとってどうしても許せないことがある。それは、自分の言葉に責任を持たないこと。
これは自分にだけ向けられたものではない。今の飛鳥にとって、他人を計る唯一の物差しだった。
彼らの言葉が耳に入らない。聞こえているはずなのに、どうしても理解が出来ない。
「くだらない」
ライブハウス・メフィラスの控え室で、飛鳥はひとりごちる。状況はまさに一触即発。いや、もうすでに爆発は始まっていた。まだ爆発が小規模なものであるだけで、これからどれほど膨れ上がるかといった状況だ。
飛鳥たちは、僅か数分前までステージの上だった。決して悪くないスタートを切り、観客もいつも以上に盛り上がっていた。その場にいた全員がその感触に手ごたえを感じ、今日は今までで一番のライブになると確信していた。それなのに、そのステージは唐突な終わりを迎えた。それは、誰も予想しなかった最悪の結末だった。
控え室に戻った瞬間、飛鳥は胸ぐらを掴まれたまま壁に押し付けられ、面と向かって怒声を浴びせられた。胸ぐらを掴んだ手が、怒りに震えているのが分かる。今にも殴りかかってきそうなほど、その眼光が激しく突き刺さる。
彼らが怒っていることくらい、飛鳥にも分かる。しかしそれでも、どうしてもその言葉が頭に入ってこない。
――お前のせいだ。
――ステージをメチャクチャにしやがって。
――一人で勝手なことばっかやってんじゃねえ。
おそらく、要約すればこんなところだろう。ただ、実際は聞くに堪えない罵詈雑言が各所に含まれている。
飛鳥にとっても、その言葉を否定するつもりはない。確かに、あれは自分がとった行動の結果だ。
DUM SPIRO SPEROのステージは、持ち時間30分。全7曲の予定だった。MCなどを一切排除して、楽曲だけをギリギリまで詰め込む。これは彼らにとっても、今の自分たちの力を試す挑戦だった。
1曲目のときは顔見知りばかりだった客席にも、2曲目、3曲目と進むにつれ、徐々に人が増えていった。ホールにいた人たちが、ステージフロアに足を向けてくれたのだ。その様子は、ステージの上からなら一目両全。ラストの7曲目を迎えたときには、1曲目のときとは全然違う光景がそこには広がっていた。
確かな手ごたえを感じていた。残り時間3分弱。あとは彼らの最速ナンバーで、一気に駆け抜けて終わるはずだった。だが、そのステージはそれから5分経ち、10分経っても終わりを見せなかった。
ラストの曲のギターソロから、それは始まった。アドリブという言葉では誤魔化せない。完全な暴走。
飛鳥はギターを弾き狂い、ひたすらに客を煽り始めた。それに扇動されるように、一部の客のボルテージが異常に高まっていく。彼らは楽曲など無視して、ただ暴れたいように暴れ始めた。モッシュにダイブ。危険行為を繰り返し、ステージは無法地帯と化した。それでもひたすら客を煽り続ける飛鳥。しかし、他のメンバーはこの状況を受け止めきれずにいた。ただでさえ、自分達の最高速で走り続けているのだ。その上、いつ終わるとも知れないこの狂乱の中。自分達はどうすればいいのか、何をするべきなのか全く分からない。肉体的にも、精神的にも限界だった。
やがてステージの前から人が引いていく。もはやそこに残っているのは、暴れているというよりケンカをしているような人間だけだった。それにも関わらず、飛鳥はギターを弾き続けた。その姿は、もはや滑稽を通り越して哀れだった。
誰も望んでいないステージ。もうそこに、音楽など存在していなかった。
聞くに堪えない。見るに耐えない。
結末は唐突に。一人の男が、ステージにビール瓶を投げ込んだことで訪れた。さすがにこれは暴動といわれても仕方がない状況となり、男はスタッフに取り押さえられ、メンバーは全員ステージから引き摺り下ろされた。ライブが始まったときには誰も想像が出来なかった。まさに目を覆うような最悪の終わりを迎えたのだ。
最高に気持ちのいい場所から、たった一人の暴走によって、最低の場所へと突き落とされたのだ。誰だって怒りを覚えないはずがない。もちろん問題はそれだけじゃない。ケガ人でも出れば、間違いなく警察沙汰だったのだ。もしそうなれば当然ライブは中止。飛鳥たちに責任が取れるはずもない。バンドどころか、人生の痛手になりかねない。
しかし、今回はかろうじて、そこまでの問題にはならずにことが済んだ。それは偏にユダヤのおかげだった。ライブハウスの混乱が収まらない中、まず彼がステージに立って観客を黙らせたのだ。
ユダヤはただ無言でパフォーマンスを始めた。たった一音が高く鳴り響く。それだけで、そこにいる全員の視線を集めた。あれほど騒がしかったフロアが、嘘のように静まり返る。言葉など要らない。彼はただギターを掻き鳴らすだけだ。何もそこまでの超絶技巧を持っているわけではない。それでも、彼の姿は人をひきつける。問答無用に、ただカッコいいだけ。ギターを弾く姿、いや、もしかしたらギターを弾くことすらしなくてもいいのかもしれない。ただギターを持って立っているだけで完成される。ギターヒーローとでも呼ぶべき風格がそこにはあった。
たったの一言も発することなく、ユダヤはステージを降りた。その頃には、数分前までの騒ぎなど皆の頭から掻き消えていた。
ライブが中止にならなかったとは言え、飛鳥が起こした問題がなくなったわけではない。まずはマスターのところに行って、しっかりと謝罪をしなければならない。おそらく、出入り禁止くらいは覚悟したほうがいいだろう。警察沙汰にならなったことを考えれば、それでも感謝するべきだ。
こんなことになったのも、全て飛鳥が暴走したせいだ。それは自分でもよく分かっている。だからこそ、彼らの怒りを黙って受け止めている。だがしかし、それでも飛鳥に異論がないわけでなかった。確かに、飛鳥の行動は許されることではなかった。では、何故飛鳥はそんな許されない行動をとったのだろうか?
メンバーにも飛鳥に対して言いたいことがあるように、飛鳥にとっても、彼らに言いたいことがあった。これ以上聞くに堪えない罵倒を繰り返すのならば、せめてそのツラの皮の厚さくらいは問いただしたい。飛鳥は自分の中に、ふつふつと湧き上がるものを感じながら、静かに言葉を発した。
「2曲目、間奏後のブレイク。3曲目、出だしと最後のタム回し。5曲目、変調のときにテンポがズレる。リズムに関して言えば、全体的にムラが目立つ。リズムキープが出来ていない」
これは飛鳥が練習中に何度も言ったことだった。
「どの曲もベースのアレンジが中途半端。完全に曲の中に埋もれている」
飛鳥は何度も何度も言葉にしてきた。
「ギターに個性がない。俺の後ろを着いてくるんじゃなく、自分の色を見せろ」
何度も何度も問いただしてきた。
「プロになるんだろう?お前ら、自分の口で言ったよな」
口にすればするほど、怒りが込み上げてくる。無気力のまま壁に押し付けられていたが、どうにも我慢が出来なくなってきた。飛鳥は手を出すことなく、相手を睨みつけて押し返す。
思えば、このライブの出演が決まったときもそうだ。たかだか有名人と同じステージに立てるというだけで、彼らは舞い上がっていた。たったそれだけで、まるで自分たちもそうなったかのような口ぶりだった。あまつさえ、ユダヤが新人ミュージシャンを探しているという噂を耳にし、それに自分たちが乗っかろうなどという夢想さえ語りだした。
冗談ではない。彼らは自分の夢を、他人にかなえてもらうつもりなのか。目標に向かって自分を高めることもせず、そのくせ、理想だけを吐き続ける。そんなものはただの妄想に過ぎない。価値のないものしか生み出さないのならば、それも同様に価値がない。
『ああ、そうか……』
一瞬怒りが最骨頂に達したが、その後すぐに自分が冷めていくのを飛鳥は感じていた。目の前にあるものに、価値がないと気が付いたからだ。
『俺の目の前にいるヤツらに、価値は無い』
ならばそれは、もう、人間では無いのだろう。この事実に気が付いたとき、飛鳥の中で彼らの存在が消失した。
飛鳥はゆっくりと辺りを見回した。蛍光灯の光によって、部屋の中が白く浮かび上がる。周りの景色が、徐々に鮮明になっていくのを感じていた。
今のいままで意識を集中しすぎていたせいか、目に映っているものをちゃんと認識できていなかった。飛鳥は心を落ち着け、真っ直ぐに視線を向ける。頭の中の霧が晴れるように、クリアな世界が広がる。そうしてようやく、飛鳥ははっきりと自分が見ている世界を認識した。白く広がる世界の中に、必要のないものが三つまぎれているのだ。
それはまだ霧がかかったようにぼやけて見えるし、空のペットボトルのように透明にも見えた。どちらにしても、ゴミはゴミ箱へ入れるべきだ。
「えっと……」
飛鳥には聞き取れないノイズを発し続けるそれらに、言葉が通じるのか不安だったが、それ以上にちょっと困ったことに気が付いた。声をかけたいのはやまやまなんだけれど、それよりも何よりも――
「お前ら、名前なんだっけ?」
人間でないものと、コミュニケーションはとれない。
殴られたのが腹でよかった。もしも顔を殴られたりしたら、どうあっても我慢などできない。多少の痛みと引き換えに、飛鳥の世界から必要のないものが消えた。まあ、それはそれで良しとしておこう。
ライブハウスの控え室。飛鳥は一人その場所に取り残されていた。他のメンバーは、『もう飛鳥とは一緒にバンドを続けられない』という旨の言葉を残し、部屋を後にしていた。
「まあいいさ。毎度のことだ」
飛鳥自身、こうなることは予感していた。それに、今回に限ってはわざとそうなるように持っていたとも言える。あまりに自分の不甲斐なさが許せず、努力も実力もなにもかもが足りていないと気付かされた。
「さあ、次だ」
ならば、もっと自分を高めなければ。立ち止まることは許されない。今日のことだって、もっと自分に他人を魅了する何か、他人を納得させる何かがあれば、こんなことにはなっていない。みんなが飛鳥を賞賛し、ひれ伏していたはずだ。そのための何かを、手に入れなければならない。
飛鳥はすでに次のことに目を向けていたが、それでもその前にやり残していることがある。何よりもまず、マスターのところに行って謝罪をしなければ。どれほど怒られようが、どれほどの処罰をうけようが、それらは当然受け入れなければならないことだ。
飛鳥が意識を切り替え、控え室から出ようとしたまさにその時、控え室のドアをノックする音が聞こえた。そして、ドアをノックした人物は、中にいる人の返答も聞かずにドアを開くのだった。
「……どうも、お疲れ様です」
飛鳥は、ドアの前に立つ意外な人物に面食らったが、それでもとりあえず挨拶だけは口にした。
「お疲れ。お前、鷹司飛鳥、でいいんだよな?はじめまして。ユダヤだ」
自己紹介などされなくても知っている。長身で赤い髪。眉毛がなくて、目つきも悪い。簡単に言えば、人相が悪い男がそこに立っていた。顔つきで判断して申し訳ないが、相手が友好的だとはどうも思えず、飛鳥は少し身構えた。今日の自分の行いを思えば、和やかな談笑とはならないことは十分に理解できる。しかし、それを差し引いたところで、この自分の感覚は変わることがないと感じていた。
そんな飛鳥の心情を読み取ったかのように、ユダヤは口元を歪ませた。それは、まるでいじめっ子が新しいオモチャを見つけたときのような、そんな笑みだった。無邪気とか子どもっぽいとか言えば可愛いものだが、ユダヤの切れ長な目には、冷徹とか残酷という言葉のほうがよく似合う。人を見る目が無い飛鳥にでも一目で分かる。こいつは絶対に性格が悪い。
「何か用ですか?」
「いやいや、お前のほうが俺に用があんじゃねえの?何か言うことあんだろ」
ユダヤが飛鳥に歩み寄る。口調は軽いが、その長身から放たれるプレッシャーに気圧される。飛鳥とユダヤでは20センチ以上の身長差がある。当然、飛鳥がユダヤを見上げ、ユダヤが飛鳥を見下ろすかたちになる。
「今日は迷惑をかけて、すいませんでした。それと、ステージを立て直してもらって、ありがとうございます」
その高圧的な態度に腹が立たないこともないが、言われていることは当たり前のことだ。飛鳥は素直に頭を下げた。
「何だ、意外と素直なんだな。ステージ見てた限りじゃ、もっと頭悪いかとおもってたぜ」
それは間違いなく、わざと飛鳥を怒らせようとする口ぶりだった。だが、わざわざそれに付き合ってやる義理はない。
「ありがとうございます」
「ほめてねーよ。ふてぶてしいヤローだな」
ユダヤはそう言って、今度は僅かに噴出して笑った。表情が綻ぶと、ユダヤの態度が少しだけ和らいだ。おそらく、最初の高圧的な態度は、飛鳥をビビらせようと遊んでいたのだろう。
「ホントの所、謝罪なんてどーでもいいんだよ。お前以外のヤツらから散々言われたし。ライブのハプニングなんて、アレぐらいでちょうどいい」
ユダヤの軽口は、自分ならどうにかできる自信があったという現れだ。しかし、実際にどうにかしてしまったのだ。そのことに口出しできない。
「まあ、俺ならどうにかできる自信あったしな」
実際に口で言われてしまった。
「俺がわざわざ来てやったのは、そんなことじゃない。お前にちょっと聞きたいことがあったからだ」
ユダヤから敵意のようなものは感じられない。これはただの興味、好奇心といったものだろう。しかしそれでも、この男の人を見下したような笑みは信用できない。
「なんでしょうか」
相手が友好的ではないのなら、飛鳥も警戒心を隠すような必要はない。相手を迎え撃つように、まっすぐユダヤを見上げた。それがお気に召したのか、ユダヤもまた嬉しそうに飛鳥を覗き込み、そして問いかけた。どこまでも、心の奥底を覗き込むように。
「お前、音楽嫌いだろ。そんなもんに何であんなに自分をかけられるんだ?」
そのユダヤの言葉にどんな意味があるのか分からない。そもそも、その質問自体が的外れだ。飛鳥は一度たりとも音楽を嫌ったことなどない。それより何より、初対面の人間に自分のことを決め付けられるのに腹が立つ。しかし、ここで怒りを表せば図星を突かれたように見えてしまう。飛鳥はゆっくりと、そして真っ直ぐにユダヤの顔を見上げる。決して彼の空気に飲まれないように、はっきりと答えた。
「それが、真実だからだ」
飛鳥は決してユダヤから目を逸らすことはなかった。しかし、ユダヤのほうは途端に飛鳥から興味を失ったように、顔から表情を失った。そのあまりの感情の落差に、戸惑いさえ覚えた。
「ふ~ん。あっそ……」
ユダヤはあっけなく踵を返し、部屋にやって来たときと同じく唐突に立ち去っていく。その後姿に、飛鳥は自分の中で激しい感情がわきあがってくるのを感じていた。
再び一人部屋の中に取り残され、飛鳥は胸元で強く手を握り締めた。そうやって、強い感情の揺り戻しに耐えなければならない。他人から向けられる、敵意、悪意、害意などは気にもならない。しかし、どうやっても揺さぶられてしまう感情がある。
ユダヤの背中から向けられていたものは、紛れもなくそれだった。飛鳥にとって、何があっても立ち向かわなければならない感情。
――それは、憐れみだった。
「かわいそう……」
以前、そう言われたことがある。飛鳥が憧れ、道を示され、何よりも尊く、そして誰よりも愛しい女性。そんな人から、憐れまれたことがある。それから、飛鳥にとってその感情だけは、どうしても乗り越えなければいけないものになった。
――何故?
――どうして?
――よりによって、あなたから。
悔しさや怒り、様々な感情に苛まれた。そんな中、飛鳥自身が一番驚いたことは、その感情の中に僅かな喜びがあったことだ。何せ、他人に対してそんな感情を持ったことは初めてだったからだ。
憧れの対象でありながら、怒りの対象でもある。そんな人のことを考えるだけで、心の中がぐちゃぐちゃになって、冷静ではいられなくなってしまう。それとは対照的に、これが混乱するということなんだなと、頭の中では正確な状況判断を下していた。
そして、心と体が引き離されるような苦しみの中、飛鳥は一つの結論を導き出した。それは、これまでと何も変わらない。自分自身を貫くということ。その覚悟を決めただけだった。
憧れた人がいた。自分もその人みたいになろうと決めた。だから、飛鳥は何があっても進み続けなければならない。何度つまずくことになろうとも、絶対に起き上がらなければならないのだ。
今日の出来事には感謝しなければならない。悠介は飛鳥の弱いところを気付かせてくれた。ユダヤは飛鳥の目的を再認識させてくれた。おかげで飛鳥はまた新しい一歩を踏み出すことが出来る。
「まずは曲を作ろう。今ならきっと、新しい曲が書ける」
飛鳥の顔は美しい。その美しい自分が歌うに相応しい曲は、美しい自分にしか生み出すことは出来ない。それはまさしく、自明の理だと、飛鳥はそう思った。
「トリちゃん、いま音姉のこと考えてるでしょ?」
「ああ、その通りだ」
「真白相手とはいえ、よくそこまで自信満々に他の女の話が出来るな……」
ライブハウスからの帰り道、飛鳥は真白と恭介と三人で歩いていた。
マスターのところへ謝罪をしに行った飛鳥は、当然のように出入り禁止を言い渡された。しかし、どうせバンドは解散してしまい、新しいバンドを組むまでライブは出来ない。好都合とまで言うつもりは無いが、都合が良いことには違いない。しばらく時間をおいてから、また反省の意思を伝えにこようと飛鳥は思った。怒りは時間と共に風化する。そんな事を思いながら飛鳥が楽屋裏から出ると、そこには真白と恭介が待っていてくれたのだ。
恭介が苦笑いで言う。
「まったく、メチャクチャやりやがって」
真白が満面の笑みで言う。
「トリちゃんメチャクチャカッコよかった!」
真白が飛びつくように、飛鳥の左腕に絡み付いてくる。当然、二つのたわわに実った果実が腕に押し付けられているが、飛鳥はそんなことにはお構いなしに、真白の二つ結びを触ってふわっふわに癒されていた。
「お前、髪の毛フェチだっけ?」
「いいや。美脚派」
精神的な安らぎと性的な興奮と、フェチには二通りが存在する。
「キョーちゃんはどーせおっぱいが好きなんでしょ」
「好きか嫌いかで聞かれれば、そりゃ好きだが。別にそれだけで女の子を選んだりしないぞ」
「なるほど。穴があればなんでもいいと言うことか。男子高校生としては非常に健全だ」
「さすがキョーちゃん。お猿さんだね」
「ちょっと待て。なぜ常識的な答えをして、そんな風に責められるんだ?」
ライブハウス『メフィラス』は、駅前の中心街からは離れた住宅街に立っている。少々交通の便が悪いが、周りに大きな駐車場があるため、機材搬入がしやすいことがメリットだ。社会人バンドや遠征バンドからはその点が重宝されているが、飛鳥たち高校生からすれば、あまりいい立地条件とはいえなかった。
ライブハウスから少し離れただけで閑静な住宅街となり、街灯が照らす道には飛鳥たち以外の人通りはない。彼らはくだらない話をしながら、その道を歩いた。飛鳥も真白もその様子があまりにも普通で、唯一恭介だけが今日の出来事を気にかけているようだった。
「なあ飛鳥。お前今日のライブのこと、何も気にしてないのか?」
その疑問は当然のものだった。出演時間を無視して暴走した挙句、ビール瓶を投げつけられての強制終了。そんなショッキングな出来事の後に、これほどいつも通りでいられるほうがおかしい。
「反省していないわけじゃない。だが、決して後悔はしていない。今日はいい経験をさせてもらった。自分がどれだけ足りていないか、はっきり分からせてくれたからな」
結論は出ている。今日のステージは、完全に自分の実力不足。飛鳥がもっと人をひきつけることが出来れば、あんな結果にはならなかった。
「次だ。次はこうは行かない。必ず全員ひれ伏させてやる」
飛鳥は強く拳を握りこむ。その瞳の先は、すでに次の場所を見据えていた。
「だよな……。お前ならそう言うよな……」
恭一が明らかに疲れた表情になる。肩をすくめて大きなため息。冬空に浮かぶ大きな白い吐息が、恭一の気苦労の表れだ。
「何だよ。そんなに呆れなくてもいいだろ」
露骨な恭一の態度に、飛鳥は僅かにむくれ顔になった。そうなるということは、多少なりとも自分が馬鹿なことをやった自覚があるということだろうか。
「バーカ、違うよ」
恭一はもう一度疲れたように息を吐き出した後、しっかりと飛鳥を見据えて自分の気持ちを口にした。
「安心したんだよ」
その言葉に多少面食らったが、その気持ちは素直に飛鳥の中に入っていった。それはとてもありがたい。自分のことを認めてもらえるということは、とても力になるものだ。
「さんきゅー」
そう答えた飛鳥の表情から、ようやく険しさが消えていた。
飛鳥の左腕にぶら下がりながら、真白が二人の様子を微笑ましく見つめている。そんなときに、真白のポケットから短い着信音が聞こえた。
「あ、音姉からだ!」
ポケットから携帯を取り出した真白は、画面に表示された名前を見てうれしそうな声をだした。
「音姉、年末には帰ってくるんだって」
「げっ、マジかよ。めんどくせえな」
「キョーちゃん、音姉が帰ってくるときいっつもそんなだよね」
「そりゃ、お前たちにとっては良い姉なんだろうけど……」
恭一の顔が露骨に雲る。飛鳥たちからすると、別に恭一と音寧が仲が悪いようには見えないのだが、なぜ恭一がこんな顔をするのか分からなかった。
しかし、いまの飛鳥はそんなことに興味がない。彼が知りたいことは唯一つ。
「真白。音姉は今日のライブについて、何か聞いてきてないか?」
好きな人からの、自分に対する関心度だけだった。
「うん、きてないよ」
真白はいつも通り屈託のない無邪気な笑顔で、残酷な答えを聞かせてくれた。だが、飛鳥にはそこから別の真実が見えている。
「さすがは音姉。どうせライブは大成功するから、わざわざ聞くまでもないということか」
「実際は大失敗じゃねえか」
恭一のツッコミなど、いまの飛鳥には届かない。ただただ、音寧の慧眼に感心するばかりだった。
「今日は良い事ばっかりだったね、トリちゃん」
「ああ、そうだな」
「……正気か?お前ら」
恭一は再びあきれた顔になってしまったが、飛鳥は本当に真白の言うとおりだと思っていた。ライブでの出来事も、音寧が帰ってくるというニュースも、飛鳥にとって何にも変えがたいことだ。
吐く息は白く、街灯の明かりは薄暗い。コンクリートとアスファルトに囲まれた住宅街を三人は歩いていた。
もう今年も、あとすこし……。
別にメロンソーダとチリドッグはなくてもいいけど、酒と煙草とロックンロールがあれば生きていけると、そんな風に思っていた時期がユダヤにもあった。だが実際には金も欲しいし、名誉も欲しいし、女だって欲しい。あれも欲しい、これも欲しい、もっと欲しい。一つ夢がかなえば、次の夢が欲しくなる。人間の欲望には限りがない。
ユダヤは同じ欲望を持ったヤツらと、一緒にバンドを組んだ。そのバンドは実力もあったし、運にも恵まれた。大手のレコード会社と契約をし、一般的には成功と呼ばれるものを手に入れた。しかし、一つの欲望を満たせば、次の欲望が表れる。そして、次の欲望がメンバー全員同じとは限らなかった。
求めるものが違えば、当然考え方も異なる。最初はそれでも何とか騙し騙しやっていけた。ムカつくことを少し我慢すれば、その分より多くの見返りが手に入る。誰だって、一度上げた生活水準を簡単に落とせやしない。でかいマンションに良い車、女を物扱いしてとっかえひっかえ。誰もが一度は求めるほど、分かりやすい生活。そんなものに溺れてしまえば、世の中の殆どのことが些細なことになる。
いま思い返せば、ユダヤはこの頃の自分はどうしようもなく馬鹿だったのだと気がつく。そしてそれを教えてくれた世間の皆様に、感謝と同時に糞でも食らわせてやりたい。
どうやらユダヤたちの作る音楽は、世間様のお気に召すものではなかったらしい。早々に路線変更させられることになった。こうなってくると、もう多少の我慢ではきかなくなる。ムカつく人間が多すぎた。
綺麗なものばかりを欲しがる馬鹿な客。
そんな馬鹿から金を巻き上げることしか考えない馬鹿会社。
そしてなにより、そんな馬鹿会社からのお恵みを欲し続ける馬鹿バンド。
我慢の限界だった。あの頃のものは、自分を含めて全て死んでしまえばいいと本気で思う。
だが、そのお陰で知ることができた。
――ユダヤは我慢することが嫌いだ。
――ユダヤは馬鹿が嫌いだ。
ならば当然、こんな腐ったパーティーは終わらせるべきだ。
さっさとバンドを解散して、持っていたものを全て投げ捨てた。当然、それなりの対価を支払うことになったが、金で自由が買えるというのなら安いものだ。おかげで、いい歳こいた今でも金にもならない遊びを続けていられる。それは本当に幸せなことだし。当然、まだまだやめるつもりは無い。
とりあえず、酒と煙草とロックンロールさえあれば生きていけるものだと、そう再確認できただけでもすばらしい。
寒空の下。左手にはぬるいビール、右手にはラッキーストライク。誰にも見つからないように、ライブハウスの裏でうんこ座り。それがメフィラスでのライブ後、ユダヤのおきまりだった。
「革ジャン一枚で寒くないのか?」
声をかけてきたのは、ユダヤと同じようにビール瓶と煙草をもった井田だった。
「寒いか寒くないかは問題じゃねえ。ロックンローラーってそんなもんだろ?」
「お前、馬鹿なのは変わんねえなあ……」
「井田さんは変わったな。主に頭が」
「うるせー」
ユダヤがメフィラスのステージに上がっていた頃に比べて、井田の頭は随分と寂しいことになっていた。時の流れは無常だ。
二人は並んで座り、ぬるいビール口に運ぶ。普通ならこんなもの飲めたものじゃないが、いまはこれでいい。冬の夜は刺すように冷たく、ライブ後の身体は熱を帯びたままだ。ちょうどその中間くらいの温度で、アルコールが体の中を廻る。それらが全て溶け合うように、温度が透明になっていく瞬間がたまらなく心地良い。
「今日のライブは楽しかったのか?」
ユダヤの周りの空気が、真っ白に溶けていく。人相が悪いのは変わらないが、いつもの近寄りがたさがなくなっているのが感じられる。昔から変わらない。機嫌が良いときも悪いときも、まるで隠そうとはしないのだ。井田もユダヤとは古いなじみだから、そういうところは知っている。でも、今日はちゃんと口に出して確認しておきたかった。
「ここで演るのはインディーズんとき以来だし。懐かしかったし、楽しかった」
「そうか、そりゃあよかった」
井田はそう言って、煙草の煙を吐き出した。それはため息に乗って空へと消えていく。それは安堵なのか後悔なのか、あるいはその両方。ユダヤには、井田が何を言いたいのかくらい分かっていた。
「悪くなかったよ、あのガキ」
「……お前が気遣いするようになるとはな」
お互いに苦笑い。嫌がおうにも時間は過ぎている。間違いなく年はとるし、成長なのか劣化なのか分からないが、必ず変化もする。
「まだ子どものくせに、向上心と負けん気は人一倍強い。そして、何よりもストイックだ。お前に紹介するには面白いと思ったんだが……すまん。まさか、あそこまで無茶をやらかすとは思っていなかった」
「いや、あれはあれで面白かった。まあ、演奏はつまんなかったけど」
ユダヤはホールの一番奥から、DUM SPIRO SPEROのライブを見ていた。ライブが始まる前から、ステージの前には高校生くらいの女の子が20人くらいスタンバイしていた。
いくつかの制服が違う女の子たちが集まっているということは、ただの友達付き合いではないと分かる。飛鳥たちには、すでに純粋なファンがいるのだ。高校生のバンドとしては、これだけでも十分にすごい。
ステージへ順番にメンバーが登場し、最後に飛鳥が現れた瞬間、観客からひときわ大きな声が上がった。なるほど、これだけのファンがつくことも納得ができると、ユダヤは素直に思った。飛鳥のヴィジュアルなら、すぐにでも芸能界で通用するだろう。明らかに他のメンバーとは一線を画していた。
演奏が始まってからの、客のノリも悪くない。飛鳥の人気だけでなく、楽曲もちゃんと支持されていることが分かる。音質は重めで、手を上げるより頭を振るほうがあっている。メンバーの衣装も黒で統一されていたりと、自分達の演出の仕方を理解していた。しかし、それでもあくまで高校生レベル。どこかで聞いたことがあるようなヴィジュアル系のメロディー。どこかで見たことがあるような服装と髪型。とてもオリジナリティがあるとは言えなかった。
「つまんねえ」
それがユダヤの素直な感想だった。フロントマンが一番目立つのは正しいが、このバンドではそれが様になっていない。ボーカルはただ単に自己主張が激しいだけで、他のメンバーもそれを支えきれていない。まず、ギターボーカルなのにギターがヘタなのが致命的。本人もそれを分かっているのか、歌うほうに全力を出してギターはおざなりになっている。逆にそれは好印象だが、だったら本当にギターを持つ意味がない。ドラムとベースは、単純に実力と練習が不足している。出来ないくせに難しいことをやろうとして、とっちらかっている。前と後ろで全然息があっていない。このバンドが何とか聞ける形になっているのは、偏にサイドギターのおかげだ。基本に忠実、リズムに正確。それでなんとかメンバーを繋ぎとめている状態だ。いい仕事をしている。しかし、どうしても役割上、無個性で陰が薄くなってしまう。観客の視線がフロントマンに集中するもの、これでは無理もない。
「鷹司飛鳥、ね……」
ユダヤはステージを見ながら、井田から聞いた話を思い出していた。確かに、ヴィジュアルは整っているし、実力は伴っていないがパフォーマンスも派手だ。自信を持ってステージに立っている。この年齢でここまで出来る人間は、そうはいないだろう。しかし――
「どうにも気にいらねえな」
目が、気に入らない。
客のノリも悪くない。何かステージトラブルがあったようにも見えない。それなのに、その目はつまらなそうと言うか、苦しそうというか。やりたくもないことを、無理矢理やらされているかのように見える。とても、音を楽しんでいるようには見えない。
ライブが進むにつれ、少しずつ客がステージの前に集まっていっていたが、その頃にはユダヤの興味は右手のビールに移っていた。別に飲もうと思っていたわけではないが、ステージに興味がなくなればそうなるのは自然な流れ。ユダヤ自身、気が付かないうちにビール瓶を握っていた。後は楽曲を聞くというより、爆音を受けながら光と人の演出を眺めていた。
ユダヤは何も考えずにステージを眺めていると、いつの間にかビールが空になっていたことに気が付いた。もう一本飲もうかとドリンクカウンターへ足を向けたとき、ふとしたことに気が付く。
「なんか、長くねえか?」
開演時間が押したわけでもないのに、持ち時間を越えても彼らのプレイは続いていた。それと同時に、会場の空気がさっきまでとは違うことに気が付く。ユダヤがステージへ振り向き、まず目に飛び込んできたのは、一人の女の子が前線からはじき飛ばされ床に倒れこむ姿だった。
一瞬、息を呑む。それでもう、身体が動かなくなった。目の前の光景から目が離せない。
ステージ前では、幾人もが入り乱れトグロを巻いていた。モッシュのように見えたが、違う。身体をぶつけ合い、だれかれ構わず掴みかかる。何より音楽に乗っていない。いや、もうそこに乗れるものなどなかった。太鼓の音は不規則で、もう四弦も六弦も自分の役割が分からない。ぐちゃぐちゃな不協和音。もう、そこに音楽と呼べるものは存在していなかった。
ただその中で唯一、自分の意思をはっきりと示すものがいた。ステージの中央。まるでそこが世界の中心であるかのように振舞う。ひたすらに雑音を振りまき、人々を扇動する。誰も彼など見ていないはずなのに、その指に踊らされるように狂い舞う。それは、うねりではなく、混沌。その中心で、飛鳥は確かに笑っていた。
ユダヤの背筋に冷たいものが走る。さっきまでの、あのつまらなそうな顔はなんだったのか。客が乗っているときには、まるで興味がなく。それで何故今笑うのか。あんなにも楽しそうに、嬉しそうに、笑うのか。
ユダヤはそっと自分の顔に触れてみた。指で口元をなぞる。それでやっと気が付いた。口元がつりあがるほど、自分も笑っていることに。いまこの瞬間を楽しんでいることに。
それでも、この空間は痛い。飲み込まれることが不快な人がいるのは当然だ。前線の熱を押さえ込むように、後ろからブーイングが響く。当然だ。気持ち悪いものをずっと見ていたい人なんているわけがない。止めさせようとするに決まっている。しかし、それだって熱を帯びれば同じことだ。前と後ろで、別の混沌が生まれる。ユダヤはその間に立ち、それを生み出した男をずっと眺めていた。
鷹司飛鳥は笑っていた。初めて感情を得た子どものように、ただ笑っていた。うらやましいと思った。
永遠に続くように思えた狂ったパーティー。だが、それは突然の終わりを迎える。
ユダヤの顔のすぐ横を、何かが通り過ぎた。重く鈍い風切り音。それだけで深い悪意が伝わってくる。それは真っ直ぐにステージへと向かっていく。そこにあるものは、どうしても許すことはできないと。どうしても抗わなければいけないと。
それは飛鳥の横をかすめ、ドラムセットのすぐ後ろの壁にぶち当たり、激しい高音と共に砕け散った。茶色い破片が光を反射しながら、ステージに降る。そこでようやく、それがビール瓶だったと気が付いた。
ユダヤが振り返ると、一人の中年男性が肩で息をしながらステージを睨みつけていた。息を呑むほどのその形相は、やがて自分のやったことを理解して、青ざめた表情に変わっていく。何故自分がこんなことをしたのか信じられない。そんな風に手を震わせていた。場の空気は凍りついたまま、恐ろしく長い三秒が流れた。
一人のスタッフが、後ろからその男性に飛び掛り、取り押さえようと動いた。男性は自分の身に起きていることがわからず、パニックになっている様子だった。その光景を見て、女性の甲高い叫び声が上がった。そこまで来てようやく空気がざわつき始め、本来当たり前に起こるような混乱が訪れた。
スタッフたちは飛鳥たちをステージから引き摺り下ろし、観客たちの安全確認をしていく。誰もが怒りや恐怖を口にしても、実際にそれを行動に起こすことはない。予定調和の混乱だ。
ざわつくホールの中、ユダヤは一人思う。こんなものが混乱であるのなら、さっきまでのものは本当に混沌だった。何故、誰もが感情をむき出しにしてぶつかり合ってしまったのか。まだ前にいた人間のことは分かる。好きだから、楽しいから盛り上がる。それは当然の感情だ。だが後ろにいた人間はどうだ?
怒りに任せてビール瓶を投げ込んでしまうほど嫌なものだったら、ホールから出て行ってしまえばそれで済んだはずだ。何故そんな不快な思いをしてまで、この場所に留まった?ビール瓶なんか投げつけて、もし人に当たったらどうなるかなんて、子どもでも考えるまでもない。まして、いい年をした大人がそんな行動をとるなど理解が出来ない。
何も理解できない。だが、そんな中で一つだけ確かなことがある。それは、その混沌の中心にいた人物が、鷹司飛鳥だということだ。飛鳥に扇動された人たちと、それを拒んだ人たち。その違いはあれ、この場所にいた誰もが、鷹司飛鳥を無視することが出来なかった。
ユダヤの顔が、思わず歪む。この感情は何なのだろう。喜び?いやもっと単純に楽しいだけ?それ以上にムカつく。嫉妬に近い感情かもしれない。自分でも分からない感情に支配されている。しかし、それでもどうしても突き動かされてしまう感情がある。
ステージに立ちたい。今、立ちたい。
ユダヤがそんな自分の感情に気が付いたときには、すでにステージへと向かっていた。足早に、手に汗握る。こんなにもライブがしたいと思ったのは、いつ以来だろうか。ただひたすらに鼓動が高鳴る。
ステージ演出もない、バックバンドもない。むしろ必要ない。ギター一本あれば、それで十分だ。ガキにあんなステージを見せられ、こんな気持ちにさせられて、黙っていられるわけがない。勝ち逃げは許さない。あいつに出来たことが、自分に出来ないはずがない。
「踏み潰してやる」
ユダヤの音がライブハウスに響いた。ギターをえぐるように握りこみ、抱きしめるように抱え込む。どこまでも高く高く、音が響く。たったの一音。それだけで、場の空気が変わっていた。ざわついていたホールに、一瞬で静寂が訪れる。いきなり横から殴りつけられたような感覚。それが充満していた悪意を掻き消した。
歓声が上がる。みんなの声が聞こえる。
ギターを弾いていた時間は3分もない。演奏と呼べるほどのものでもない。ユダヤは好き勝手にギターを弾き鳴らし、ただはしゃいでいただけだ。それでも、ステージから見える人たちの顔には笑顔が戻っていた。
それを見ていると、なんかムキになっていた自分が少し恥ずかしくなり、それでいて誇らしくもあり、よく分からない感情にモヤモヤしてしまうが、とりあえず……。
ユダヤは歓声に答えるように腕を高く上げ、そして笑った。
楽しかった。
こんなに純粋に音楽を楽しんだのは、一体いつ以来だっただろうか。
懐かしい場所、懐かしい人たち。それは昔を思い出すには十分な環境だった。しかし、それでも火がついたのは間違いなく――。
「鷹司飛鳥」
その名前を口にするたびに、複雑な感情が巻き起こる。ユダヤはあえて口に出すことで、それを知ろうと思った。
「実力はないが、魅力はある。ビール瓶なんて投げ込む前に、そんなに腹が立つステージなら見なければいいんだ」
当たり前のことだ。たった一枚の扉を開ければ、簡単に外へ出ることが出来る。そうすれば防音設備のおかげで、すぐに音漏れ程度の雑音と変わる。
「しかし、どうしてもそれが出来なかった。悔しいけれど、あの時、誰もアイツの存在を無視できなかったんだ」
分かっていたことを、あえて口に出す。それによってはっきりと自覚してしまう。自分で望んでステージに立ったとはいえ、飛鳥の影響を受けていたことは間違いない。
その事実には腹が立つが、そんなことは一度置いておかなくてはならない。どこまでも冷静に状況を把握する。そうしなければ、見落としてはいけないもを見落としてしまう。
「パフォーマンスは一流。演奏は三流」
それは最初から変わらない印象だ。自分が客から何を求められているか分かっている証拠に他ならない。なら、最後のあれはなんだったんだ?誰もが理解できるようなステージの中、最後の最後に理解不能なものをぶち込んできた。だが、あれが鷹司飛鳥の本質のように思える。
どんな心境の変化かは知らないが、あれは確かに一つの進化なのだろう。形骸となったものをぶち壊し、新たに生まれ変わる。創作活動とはそれの繰り返しだ。だからこそ面白いもので、他人だけでなく自分すら魅了していく。しかし、鷹司飛鳥。あいつものは認められない。
「狂気とロックンロールは違う」
クールだとかなんだとか、言葉は何でもいい。ロックンロールには、そういう知的なものがないとダメだ。そうでないと、際限なく訳が分からないものになってしまう。
「俺は馬鹿が嫌いだ」
音楽でその身を立てていこうとするならば、実力なんてあって当たり前。必ずそれ以上の何かを求められる。だが、それは何でも良いわけではないのだ。
「ああいった馬鹿は周りを全部巻き込んで自滅しかねない」
今日のステージに渦巻いていた狂気を思い出す。こんな小屋ですら、暴力に訴えなければ止められなかったのだ。間違いなく、飛鳥はこの先もっと高い場所まで上っていくだろう。数百人、数千人がその狂気に飲み込まれたとき、それは際限のないところまでいってしまうのではないだろうか。犠牲者を踏み潰しながら。
「自分すら幸せに出来ない夢なら、さっさと諦めちまって大人になったほうがいい」
それが賢い選択というものだ。ユダヤは煙草の煙を吐き出しながら、そう結論付けた。
「まあ何にせよ、馬鹿とはバンド組めねえな」
「……ん?お前いま何て言った?」
ユダヤがあまりに自分の世界に入っていたため、それまで口を開かなかった井田だが、さすがにこれは聞き逃せなかった。
「お前、プロデューサーになるんじゃなかったのか?」
「は?あんたこそ何言ってんだ?」
お互いに相手が何を言っているのか分からず、訝しげな顔を浮かべる。
「いや、だってお前、自分でレーベル立ち上げるって言ってたじゃねえか!」
「だから、俺のバンドのために俺がレーベル立ち上げるのは当たり前のことだろ」
「はあっ?!」
井田は思わず間の抜けた声を発し、そして冬の風がまたその髪をさらっていくのだった。
「お前、一体自分がいくつだと思ってんだよ」
「年齢は関係ねえよ。夢もやりたいことも腐るほどある。やらずに死ねるか」
ユダヤはニヤリと笑みを浮かべ、まるでいたずらっ子のようにこう言った。
「な?夢なんてさっさと諦めちまったほうが利口なのさ」
井田は一つ大きなため息をついた。そして、それと同時にどうしようもなく笑顔がこぼれるのだった。
「やっぱりお前、馬鹿だわ」
ユダヤの笑顔に連れられるように、自然と井田の表情にも笑顔がこぼれる。だが、ユダヤと井田の笑顔には決定的な違いがある。
「は?井田さんこそ馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」
井田は冗談を交えた笑顔だった。しかし、ユダヤはどこまでも本気の笑みを浮かべていたのだ。
「俺は馬鹿じゃねえ。――天才だ」