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7.運命が変わる時



夜中の温室の最奥。

エミリアはここで過ごした日々と、彼との出逢いを思い出し、伏せていた目をゆっくりと開いた。暗闇の中に所々(とも)る魔光石の小さふな淡い光が植物に囲まれた休息の場にいるエミリアをうっすらと照らしていた。



「ごめんなさい…」



エミリアは再び謝罪の言葉を繰り返した。言葉はすぐに暗闇に溶けるように消えていく。


謝罪の相手はもちろん漆黒の色に包まれた彼。


懺悔のようなその言葉は彼に届く事はない事は分かっているが、口にせずにはいられなかった。



守る気のない約束――



《今度会った時に名前を》


《またお会いしましょう…》




守る気のない約束をした。


もう、会うこともないだろうと思った。


また会いましょうなんて言っときながら、私はそんな機会を作ろうともしなかった。


自分から動かなければ、再会なんてするはずもない。


会うつもりなんて無かった。




でも、彼は私の前にもう1度現れた――



そして、彼は言った。



耳触りの良い低い声で、愉快そうな表情をして。



《約束を果たそうぜ》、と。



黒に身を包んだ彼は、私をその力強い瞳で真っ直ぐと見つめて、そう言った。




突きつけられた約束に、約束を守る気のない私。





そして私は、逃げ出した。


彼がステラ・バラークが起こした事件の後始末のために私から目が離れた隙を狙って。隠れるようにして薔薇園に咲き誇る薔薇たちに《まぎ》紛れて、身を隠した。





あの時した約束を思い、心がぎゅっと痛むのを押さえるようにエミリアは胸に手をあて握りしめた。

彼の力強い真っ直ぐな瞳…。邪険さも蔑みもない瞳を思い出す。今までエミリアを取り囲む人々――家族や婚約者達が見せた嫌悪の滲む瞳とは違う、誠実そうに真っ直ぐと見つめてくる瞳にエミリアは戸惑い、罪悪感が(つの)った。


後悔――エミリアはその思いを振り払うように首を揺った。



彼を欺き、偽ってしまった事実は変える事はできない。



エミリアは守る気のない約束をその偽りが必要な事であったのだからと、自分に言い聞かせるように心の中で繰り返す。

この世界の《物語》で悪役令嬢を担うエミリア。自分が関わる事で《物語》が変わってしまうかもしれないという懸念。自分の存在がどう影響するか分からず、たとえ出逢いが偶然であっても、再び再会する事をエミリアは望まなかった。だから、私の名前を求める彼から逃れる為に欺き偽りを述べた事は仕方がない事だったのだと、心の中で無理矢理自分を納得させていた。






けれど、本当はーー、



本当は――私は怖いのだ。



人というものが。




人は誰かと出会う。

出会った先で得られるものは、のちに友人だったり、恋人だったり、家族かもしれない。ともに笑い、喜びを分かち合い、信頼して、信頼されて。それは心満たしてくれる温かい気持ちを与えてくれる物なのだろう。


でも、エミリアは知っている。出会いには、いや、人と関わるにはそんな綺麗な感情ばかりではいられない事を。嫌悪、怒り、軽蔑、嫉妬。仄暗い感情は時に相手を傷つける刃となって、体を、そして心を傷つける。エミリアはその事を幼い頃から身を持って経験していたゆえに知っていた。



だから、人と関わりを持つことに恐れを抱くようになった。





私の頭の中を支配するのは、


お父様の、お姉様の、お兄様の、そして婚約者の、


仄暗い瞳――


私に向ける、憎悪と嫌忌と冷酷が混じあったあの瞳が恐ろしくてたまらない。



私の心までも、少しずつ、少しずつ冷たくなっていくあの感覚が怖い。



私は怯えた。


人から嫌われる事を。


私はひどく臆病になった。


人と接する事を。



幼い頃から続くその冷たい感覚に、いつしか心にわだかまりができ、不安が満ちるようになった。家族や婚約者だけでなく、他の誰かと接するたびにあの冷たい感覚に陥らないかエミリアは恐怖するようになっていた。


そんな事もあり、エミリアは幼い頃から人間関係を築くのがとても苦手だった。それは王立ネベルチア学園に入学しても、変わる事はなかった。エミリアは伯爵令嬢。貴族令嬢である以上、社交は必須である。貴族の令息令嬢が多く学ぶこの学園で社交をしない訳にはいかない状況であり、例え同じ生徒相手であっても人付き合いはどうしても苦手だった。

冷たい瞳を相手から向けられぬように、嫌われぬように、と考えては心の中でひとり(あせ)って、混乱して、不安になって。結局言葉をのんでしまう。言葉少なく、表情があまり豊かではないエミリアを人は「人を寄せ付けない人」と称した。元婚約者は「陰鬱」「根暗」「無愛想」だと評価して影で馬鹿にしていた事を知って、エミリアはさらに人と接するのに怖じ気づいてしまっていた。


それでも、伯爵令嬢エミリア・セドラーシュは頑張り続けなければならなかった。


セドラーシュ伯爵家の令嬢として不名誉な評判をたてる事は許されない。もし醜聞のなる何かがあれば伯爵家当主であるお父様はエミリアをお許しにはならないと理解していた。エミリアが気にしたのは、家柄というよりも、家族がエミリアをどうみるかが重要であった。


いつかきっと家族が優しく微笑んで、エミリアを受け入れてくれる日が来るかもしれない…という一縷(いちる)の望みを胸に抱きながら、家族から向けられる冷たい瞳を必死に受け入れて頑張り続けた。お父様の命令に貞淑に従い、品行方正な淑女であらんとして精一杯努力を重ねた。



諦めきれない願いを夢見て、エミリアは必死に自分を奮い立たせて頑張ってきた。




でも、結局物語(ゲーム)の終焉を迎えた今、私が手にできたものはなんだろうか――




エミリアは自身の手のひらをじっと見つめて、そっと胸に手をあてた。




残されたのは、この命。



(この命は幸運にも守る事ができた)




お母様の命を犠牲にして生まれた私。お母様を死に追いやっておきながら、ゲームの通りに死ぬなど許されるべきではない。

そして、死ぬために生まれてきたなんて思いたくもなかった。


だから、必死になって生きる術を考えた。思考を重ね、着々と然るべき準備を進めた。ゲームの設定と相違があった、この身に宿る魔力。それを足がかりとして拙い魔術を自分のものとするまで、何度も訓練を重ねた。そしてそれは、努力のかいもあって実を結び、成長した私にとって魔術師として得た知識や技術は得がたい能力となった。





(でも、本当に欲しいものは手に入れられなかった…)




家族と微笑み合える未来――それは儚く夢と散った。


家族から愛される未来は、一生やってこない。


時に一緒に笑い、時に一緒に泣き、楽しそうにおしゃべりする事も、食事を共にする事も、共に外出する事もすべて叶わない。名前を優しく呼ばれる事も、微笑みかけられるも一度もないまま、家族を失った。




幼い頃から夢見た家族みんなで過ごすという何気ない日常は、これまでも、そして、これからも叶わない。



お父様、お姉様、お兄様に私を受け入れてもらえる事はもう二度とない。



前世の記憶を知って、頑張ってもなお手に入れられなかった。



努力しても、望み全てを手に入れられるとは限らないだと思い知った。



頑張ってきたはずだった。思い出した前世の記憶と同じ未来を辿らぬように、運命の時(婚約破棄)に向けて未来を変えるため行動してきた。伯爵令嬢としても、魔術師としても。でも努力だけで、なんでも上手くいくはずはなかった。



努力しても成果が出せなければ意味がない。

エミリアは元婚約者や家族の望むような完璧な令嬢にはなることはできなかった。どんなに頑張っても、努力だけでは変えられない事だってある。



役立たずの邪魔者は捨てられる。

不要なものは、排除される。




嫌悪と憎悪で縁取られた家族の瞳を思い出すと、心を締め付けられるように痛む。こみ上げてく想いを必死にエミリアはじっと一人で堪えた。



(最初から…)



(最初から、分かってはいたわ…)




エミリアだって家族や元婚約者が自分を受け入れてくるはずだと、ただただ盲信していたわけではない。

幼い頃から人に嫌われる事に敏感になっていた。だから成長して学園に入学しても変わらぬ家族や元婚約者の冷たい瞳に気づいていた。




薄々悟っていた。



物語と同じように、運命の時(婚約破棄)はやってくる。



そして、運命の時(婚約破棄)を終え、もし私が生きている事ができても――



家族は私を捨てる。



ずっと、ずっと昔から分かってた。


邪魔な存在なんだと。


いらない存在なんだと。



家族からはいない者として扱われ、


婚約者からは蔑み見下された相手として扱われ、


存在を否定されて、誰にも好かれなることはない。





私は時々思う。


嫌われてばかりの私は存在してもいいのだろうかと。


否定ばかりされた存在は、相手の瞳に映ることもなく、いつかきっと消えてしまう。




(そう、まるで《朧月(おぼろつき)》のように)



私のもうひとつの名前。


上級魔術師《朧月(おぼろつき)》。


その名前を拝命した時、私は納得した。名は体を表すのだと。


《朧月》


(かすみ)(もや)によって隠れている、ぼんやりと朧気な月。




それは、まるで私みたいだとひとりで自嘲した。


もともと朧気であるその月は、ひとたび霞や靄が濃くなればいとも簡単に見えなくなってしまう。


人の瞳に映らなくなてしまう。誰の瞳にも映らなければ、無い存在と同じになる。




(今の私と同じ状況でしょう?)



月宮殿の最奥。温室の植物に囲まれながら、エミリアは独り佇んでいる。

暗闇と静寂が身に染みこんでくるようでエミリアをよりいっそう孤独に感じさせた。




(あぁ、もう…、疲れたわ…)



エミリアは幼い頃から頑張り続けてきた。自分が死ぬかもしれない運命と闘い続けてきた。でも、もうそれも終わりを遂げた。物語は前世の記憶(乙女ゲーム)と違う顛末で終焉をむかえた。




もう、いいのではないだろうか。


疲れてしまった、頑張り続けることに。

疲れてしまった、魔術師であるという秘密をもつことに。




私のまわりには誰もいない。

誰からも求められない私。

嫌われ続けた私は、ひとりきり。


疲れ果てた私は、ひとつの決断をした。



(私は、この地《王都》を離れよう)



王都から離れ、もっと人の少ない場所に行きたい。

人とできるだけ関わることの少ない、静かな場所へ。

誰にも好かれない私だから、人と関わるのも少ない方がいい。



(嫌われるのは、もう嫌…)



華やかで賑やかな王都を離れ、どこか遠い遠い、人の少ない小さな村へ。できれば森の近くの静かな場所。そこに住まいを構えて、森の植物に囲まれた穏やかな生活をしよう。

例え女性1人の暮らしであっても、なんとかなるだろう。貴族令嬢ではあるが孤独に過ごした幼少期や寮生活、魔術師となって学んだ家事能力がある。魔術も多いに役にたつだろう。金銭にしても、魔術師として勤めた報酬を貯めていたものがある。それを使えば、しばらくは生活に困らないはずだ。




さぁ、何も心配はいらない。

たとえ、ひとりであっても大丈夫。

人から嫌われる事に臆病な私は、ひとりでいる方が心穏やかにいられるはず。

だから、大丈夫、大丈夫――。



エミリアは自分に言い聞かせるように心の中で何度も「大丈夫」と繰り返すと、ふっと閉じていた瞼と開け、ぐるりと辺りの景色を見回した。エミリアの植物園。丁寧に世話をしてきた植物達。エミリアがこの景色を見れるのも今宵で最後。



(さぁ、この場所ともお別れね…)



そしてここから離れるという事は、月宮殿を出るということ。つまり宮廷魔術師を辞すということ。上級魔術師《朧月》の名はもう私のものでなくなる。この温室に来る前に月宮殿の最奥にある上級魔術師に与えられる個別研究室は片付けを終えている。そして先程、宮廷魔術師の最高位である魔術師長宛てに、宮廷魔術師の称号を返還する旨をしたためた伝達魔法を届けている。




準備は終えた。


さぁ、行きましょう。


闇夜に紛れて身を隠し、まだ見ぬ土地へ。


私の事を誰も知らぬ、遠き場所へ。



エミリアは歩を踏み出した。魔術師のローブの裾が(ひるがえ)るのと同時に、胸に飾られた魔術師を示す蒼い宝玉が揺れる。身分証を兼ねたこの宝玉を身につけるのもこれで最後。

深く被った外套は視界を狭めるものであったが、エミリアは迷うことなく温室の中を進んでいく。草木の香りに、木々のざわめきを肌で感じなが植物の間をぬって出口に向かう。エミリアの跡を追うように、温室内を淡く照らしていた魔光石も次々と光りを失い暗闇が広がっていく。温室の出入り口に着くとエミリアは一度足を止め、小さく深呼吸をして、再び歩を踏み出した。


温室から出たエミリアはゆっくりと扉を閉める。

そして、ある目的の為にそっとガラス張りの温室の扉に左手で触れたまま、エミリアは瞼を閉じてた。



小さな唇から、小さな言葉をつむぎ始める。

それはまるで歌のような音調で美しく、そして切なさを含んだ声であった。


左手に淡い光が灯りはじめ、小さ魔法陣が浮かび上がる。小さな魔力の粒子がきらきらと散って、やがて空気に溶けるように消えていく。エミリアは詠唱が終わると、閉じていた瞼をゆっくりと開けた。


温室の外からは変化は分からない。

だが、温室の中の植物達は目に見えぬ魔法がかかっている事であろう。

土に、水に、空気に溶け込んだ魔力の粒子。それらはやがて植物を形成する根や葉や茎、花に実に混じりあう。そしてそれはエミリアが望んだ結果をもたらしてくれることだろう。



植物の成長を限りなくゆっくりとしたものにとどめる魔術。



植物達を一時的に休眠状態と成す魔術をエミリアは温室全体に施した。だが、あくまでも一時的。永遠に止める事はできない。人の命が永遠に続かないように、植物もまた同様で、芽吹きそして枯れる。その理を曲げる事はできないが、植物の成長を緩やかにする魔術がこの世界には存在している。その中でも大規模な空間や、限りなく成長をとどめるという植物の命の時間をも制御する魔術は魔術師としての能力が高く、かつ『地』の力と親和性の高い者でない完璧に施すのは難しい。その数少ない使い手であるエミリアはこの温室に魔術をかけた。



(私が残していける唯一のもの)



この温室で育てられている植物は一般的な薬草から、絶滅危惧種まで様々な種類まである。学術的にも稀少なものや、薬効の高い薬草も少なくなく貴重な植物の宝庫である。丁寧に世話をしただけあって、この温室の植物の状態としてはとても良質だと自負している。



(いつかきっと、誰かの役にもたてるはず)



伯爵令嬢としては役に立たないけれど、魔術師として手をかけて育てたこの植物達はエミリアの誇りだ。

何か有事があった際やこの植物達の研究を引き継ぐ誰かが現れたらこの温室は有益な場所となるだろう。だから、この温室を残していこう。

エミリアが施した魔術によって、エミリアがこの温室を去った後、次の温室の管理者が見つかるまでの時間は植物達はゆうにこの良好な状態を保っていられるはずだ。


エミリアは最後に扉の錠の部分を人撫でする。すると、錠前に蕾がついた蔦が絡みつく。次にこの扉を開ける者のために封じを施す。蕾が花開いた時、錠前に絡みつく蔦は消え、扉は開かれる。その時までこの温室の植物達は眠りにつき沈黙を続けるのだ。







「次の主が来るその時まで、静かな眠りを」








エミリアは最後に小さく呟いた。



想い出と、誇りに別れを告げるように。











* * *





「主はお前だろう、朧月」






エミリアがこの地との別れを告げると同時に、ドンっと大きな音がエミリアの耳の傍で鳴り響く。



誰かの低い声と、大きな音。深く被った外套から僅かに見えた何かが背後から伸ばされた誰かの腕だと気づいた時には、エミリアは温室の扉と後ろいる人物に挟まれた状態であった。背後を取られた形で、エミリアからは見えぬ男の声が頭上から聞こえた。



「この温室はお前のだろう」



「それとも…、お前はどこに行くつもりだ。朧月?」





頭のすぐ上から聞こえる低くても耳触りの良い声にエミリアは動揺した。エミリアは扉と向かい合っているため、背後にいる人物の顔は分からない。だがすぐに気づいた。その声は昼間にも聞いた声。そしてそれは、エミリアが先程温室の中で懺悔のように謝罪の言葉を向けた相手であったからだ。



(なぜっ…!)



エミリアは束縛のように追い込まれている状況から逃れようと身を(よじ)らせ、ローブの裾を翻す。彼の腕の隙間をぬって、よろめく足を必死に動かした。動いた拍子に外套のフードが外れ、エミリアの長髪が動きとともに大きく揺れ、狭かった視界が一気に広がる。顔貌が露わになりながらもエミリアは逃れようと必死に動いた。


背後をとる人物も本気でエミリアを拘束するつもりはなかったらしい。簡単に逃れることに成功したエミリアは彼から数歩の位置ではあるが距離をとると足を止め、ゆっくりと顔を上げた。この場に現れた人物の顔を確認するように、じっと見つめる。先程逃れようとした拍子に外套のフードは外れており、今ははっきりと相手の顔を見ることができた。




「どうして…」



エミリアは信じられず思わず言葉をこぼした。



どうして、どうして彼がここにいるの…?。



闇夜に溶け込むような人物。

彼の全ての色は漆黒で縁取られている。髪や瞳、そして騎士団服。唯一、胸元には王国騎士を表す紅い宝玉が色を添えている。そしてその隣には、部隊長の証。



「どうして、だと?決まってるじゃねーか」




エミリアが彼を見るのと同様に、彼もエミリアをじっと見つめた。



夜の暗闇に映える月にかかった(もや)が偶然にもはれ、彼の表情を月明かりで照らす。精悍な顔貌の目元は少しだけ不機嫌そうに歪められ、エミリアを見つめていた。



「やっと見つけた。今度は逃がさねぇぞ」

「えっ?」

「なぜ、待っていなかった。俺はお前に待っているようにいったはずだろ」



その言葉を聞いて、エミリアはすぐに言葉の意味を理解した。昼間の出来事。ステラ・バラークが学園で起こした事件の際、最後に彼はエミリアに待っているように言っていたがそれをエミリアは反故(ほご)にして姿を消した。あの時、エミリアはすでに心の中で王都を離れる決心をしていた。だから、この地でもう人と関わる事をしたくなくて逃げ出した。



「…申し訳、ありません」

「そのせいで、お前を捜し回るはめになった」

「…え、あの…探したのですか?」



エミリアは目を見開いて驚いた。探すほどの価値はエミリアにあるのだろうかと、心の中で自問する。



「探すだろ。約束しただろう」

「やく、そく…」

「この温室で茶を一緒にした時、約束しただろう。次に会ったとき、お互い名を名乗ると。それが今日だ。昼間は逃げられたが、今度は逃がさねぇぞ」





捕らえた獲物は逃がさない狼の様な鋭い瞳で、彼は口角を上げてニヤリと笑った。





「約束をはたそうぜ」



エミリアは震える手を押さえるように両手を合わせた。最初から守る気のなかった約束。彼を(あざむ)くためについた戯れ言。彼を騙した罪悪感が胸の中を支配する。




「お前の名は?」




催促するように繰り返された言葉に、エミリアしばしの無言を貫く。彼の求める言葉に応えるつもりはない。



(だって、彼はもしかして…)



エミリアはぎゅっと胸の前で手を握りしめた。

彼は何度も名を求めてくる。その事について小さな違和感を感じたのは昼間薔薇園での最中の事だった。あの時エミリアの頭に過ぎった小さな疑問。当事者じゃなければ気づかないような違和感。




エミリアは震えそうになりながらも、ゆっくりと小さな口を開いた。




「貴方様は、すでに…知っているのではないですか?」





自分の中にくすぶっていた推測を躊躇しながら口にした。彼を騙した罪悪感で隠れていた違和感。もう会うことはないのだからと、その違和感を頭の片隅に追いやっていた。だが再び再会を果たし、何度も名を求められる今、この疑問を彼に問いかけずにはいられなかった。



昼間薔薇庭園で彼と再会した時、彼はまっすぐエミリアを見て《朧月》と呼びかけた。



(彼は、なぜ私が《朧月》だとすぐ分かったの…?)



初めて彼と出逢った時。それは、エミリアの温室で一緒にお茶をした時の事。

エミリアは魔術師の姿であった。宮廷魔術師が羽織る、紺地に銀色の刺繍が入ったローブ。髪は大きく緩く結んだ三つ編みだった。普段であれば、この姿にさらに外套を深く被っているのだかあの時はエミリアの油断によりそれは取り払われ、《朧月》の顔貌を見せてしまっていた。


そして今日の昼。薔薇庭園で再会をはたした時、エミリアは学園の制服を身につけていた。大きく波打つ長い濃い灰色(チャコールグレー)の髪は、令嬢らしく丁寧に櫛を通して後ろに流したままだった。


その状態のエミリアをどうして、すぐに《朧月》と判断して呼べたのか…。


髪色も同じ、顔も同じなのだからすぐに分かるだろうと人は言うかもしれない。だが、服や髪型の印象は案外大きいものだ。実際は瞬時に同一人物であると判断するのはひどく難しい。


それに、誰が予想できる?。

たまたま薔薇庭園にいた女子生徒の1人が、国でも数少ない上級魔術師である事を。



色々考えてみると、1つの結論に至る。それは推測に過ぎなかったが、確信に近かった。




彼は知っていたのだろう。

エミリアの秘密を。

秘密を知っていなければ、あんなにはっきりと名前を言い切ることはできない。



エミリアは声が震えそうになる自分を律して、彼に再び問う。




「貴方様は、私の名をすでに知っているではありませんか?」




彼もまたエミリアはジッと見かえした。



「知っている」




まっすぐと返される返答に、エミリアは彼の視線から逃れるように瞳を伏せた。違和感は推測から確証となってエミリアに返ってきた。その事実を知って、エミリアはやはりという気持ちが強い。



エミリアが必死になって隠した秘密。伯爵令嬢エミリア・セドラーシュが魔術師であること。


これを知る人物は自分の師である老魔術師だけであるが、実はもう1つ例外がある。王宮に保管されている魔術師名簿である。その名の通り、魔術師の称号を受けた者達の名を記した本である。

エミリアが魔術師になる際、書類はエミリアの事情を知る師が良きように記入してくれていたが、もし魔術師名簿から情報を得て、調べ尽くせば名はおろか身分が明らかになる事は明白だ。


ただその魔術師名簿も国家の機密書類として厳重に保管してある。大陸でも稀少な魔術を扱う者達はどこの国でも重宝され手に入れたい人員である。魔術師達の身を守るため、はたまた引き抜きなどの人員流出を防ぐため魔術師名簿は厳重に保管され、閲覧できる者は極一部。

でも、彼には伝手があるはずだ。次代の王になる王太子や同じ側近である宰相補佐など。貴族令嬢として参加したお茶会で得た情報によると、彼らは小さい頃から行動をともにする幼なじみだそうだ。彼が本気で探れば、エミリアの秘密はあっというまに暴かれた事なのだろう。



「私の名前も、身分も、そして、私の今の状況もお分かりなのでしょう?」



彼は知っているのだろう。

上級魔術師《朧月》がエミリア・セドラーシュであることを。

エミリア・セドラーシュが伯爵令嬢であることを。

そして、伯爵家から絶縁されたことも。


魔術師名簿を見たとして、名前や身分を知るだけは満足できないはずだ。名を知れば、連鎖的に色々な情報を手に入れるのは容易い。王立ネベルチア学園の生徒である事も、先日私が家族から絶縁を言い渡されている事実もすでに彼は把握している事だろう。



「お前の事は知っている」

「…やはり、そうでしたか…」



予想通りの返答が返ってきたことにエミリアは目尻を下げ、小さく呟いた。



(でも、もういいの…)


(たとえ、秘密を知っていたとしても、もういいのよ…)


(秘密は、秘密でなくなるのだから…)



秘密は今日ですべて終わりと遂げる。

上級魔術師魔術師《朧月》はいなくなる。

伯爵令嬢エミリア・セドラーシュも、もういない。家族に縁を切られたのだから。

ただのエミリアとなった私も、この王都を離れる。

エミリアの存在は、そのうち忘れ去られ、きっと消えるだろう…名と共に。




「お前の事は書類上は知ってはいる。だが、お前の名を聞かせろ」

「…えっ?」

「お前の口から、お前の名前を俺はまだ聞いていない」



どういう意味だろうか。彼の真意が分からない。エミリアは意味が分からず戸惑いをみせた。



「お前が名乗らなければ、俺はお前の名を呼べない」



エミリアは瞳を大きく見開き、一瞬呼吸が止まった感覚に囚われた。

見上げる程の逞しい長躯に、鋭い瞳。凛々しくも雄々しい堂々とした威厳と、一瞬でも気を抜けば殺されほどの畏怖さ。まるで獰猛な狼の様な彼が発した言葉に、エミリアは息をのんだ。


律儀というのだろうか…。

本人の口から名乗りを聞いてこそ名を呼ぶ権利があるのだと主張する彼の言葉に心が緩む。それ以前にエミリアは嬉しかったのかもしれない。逃げるように身を隠したエミリアを探してまで見つけてくれて、何度でも名を求めてくれたことに。約束をはたそうとしてくれたことに。


嬉しい反面、エミリアは心苦しくなる。

互いに名乗りあってしまえば、ただの他人から知人になってしまう。もうこれ以上、人と関わりを持つことは避けたい。この地を離れるエミリアは、この地に名を残したくない。心を残したくない。だからといって、今度もまた彼を欺く事はしたくない。エミリアも誠実でいたいと思ってしまう。



エミリアはそっと視線を彼の瞳に向ける。そして、小さな唇をゆっくりと開いた。



「名は、名乗りません…」

「なぜだ。お前の名を呼べないだろう」

「…呼べなくてよいのです」

「どういう事だ」



彼の切れ長な瞳がスッと細くなる。それを見て少し怖さが増したが、エミリアは言葉を続けた。



「必要がないからです」

「必要ないとはどういう事だ。意味が分からん」

「言葉の通りです。名を知ったとしても、もう名を呼ぶ機会はもうないでしょう」

「なに?」


エミリが告げた言葉に不愉快そうに彼は表情を歪めた。



「私はこの地を去ろうと思います」



エミリアは静かに告げた。彼に偽ることなく、正直に。守る気のない約束をしたあの時と違って、今度は誠実に彼に向き合う。



「どういう事だ。お前はどこへ行くつもりなんだ」

「どこか遠い、遠い、静かな場所へ」

「どうして」

「王都は私にとって華やかで、賑やかで、そして眩しすぎるのです」

「だから何だ。ここから離れる理由にはならないだろう」

「私は疲れてしまったのです。秘密を隠し続ける事に、頑張り続けることに。それこそ、貴族令嬢であった私が向かえた結末を貴方様も知っておりますでしょう?」



エミリアは切ない表情で彼に問うように、首を傾げた。彼も分かっているはずだ。エミリアの事情を。




「ひとりで行くのか?」


「はい」




もちろん、ひとりきりだ。他に誰がいるというのだろう。

家族にも婚約者にも切り捨てられた。

嫌われ続けた私の傍には――誰もいない。

これまでも、きっとこれからも――。



胸が締め付けられるように痛むのに気づかないふりをする。いや、気づいてはいけない。



「お前はそれでいいのか」


「はい」


「お前はそれで大丈夫なのか」


「はい、大丈夫です」




きっと、大丈夫―― 


ひとりでも大丈夫。


ひとりでいる方が心穏やかにいられるはずだ。


遠い、静かな土地でひとりでも大丈夫。


最初からひとりでいれば誰にも嫌われることもない。


嫌われた時に感じる、あの心の痛みをもう味わう事もないはずだ。



だから大丈夫――たとえ、ひとりでも。




エミリアは心の中で自分に言い聞かせるように繰り返す。そんなエミリアを目の前の彼はジッと見つめる。考えている事すべて見通すように研ぎ澄まされた瞳を細め、低音な声でエミリアに問いかける。







「それがお前の本当の望みなのか」



「はい」






エミリアは静かに微笑んだ。


溢れそうになる気持ちを押し込めるように。









* * *





「なぜそんな表情で笑う」




目の前から聞こえる厳しい声に、エミリアはびくりと体を揺らす。空気が張り詰めたのを肌で感じる。



「本当の望みと言いながら、なぜお前はそんな顔をする」

「えっ?」

「なぜ、そんなに切なさそうに笑う」



彼はエミリアの向かって一歩を踏み出す。



「お前はその表情で何を思う」

「…どういう、意味でしょうか…?」

「お前は気づいているか?先程から無理をしている顔をしている」

「そ、そんな事は…あ、ありませんっ」

「じゃぁ、なんでそんな顔をする。お前の望みが本当であるのなら、もっと幸せそうだろう。なのに悲しい顔をするって事は違うんじゃねぇか?」

「…い、いいえっ」

「お前は本当の気持ちを押し込めてるんじゃねぇのか?」




エミリアは大きく肩を揺らした。





「お前は本当は寂しいんじゃねぇか」






その言葉は的確にエミリアの胸を締め付ける。まるで心を見透かしているようだった。



人と関わるのが怖かった。


人に嫌われるのが怖かった。



嫌われたくない――その感情の対は、誰かに好かれたいという事。



本当は誰かと一緒にいたかった。


一緒に会話して、

一緒に食事をして、

一緒にお出かけをして…


たわいのない日常を誰かと共有してみたかった。


誰かと微笑みあってみたかった



人と触れあっていたかった――




ひとりでいる事が悲しかった、寂しかった――





「俺の手をとれ」



大きな手がエミリアに差し伸べられた。



「全てを諦めるな」

「諦めて、なんて…」

「諦めてるだろう。お前は気持ちを押し込めて、逃げてるだろ」

「そんな事は…」



否定の言葉をエミリアは最後まで続ける事ができなかった。彼の言葉が、正しく事実であったから。




「道に迷うのであれ俺が側にいてやる。


 だから、行くな。


 朧月のように、霞に隠れて消えるな。


 いなくなるな。」




エミリアは躊躇(ちゅうちょ)した。

決めたはずだった。

1人、静かに生きていくと。

誰からも求められない存在なら、独り静かにその生を終えようと。



でも、心の中では慟哭していた。

人恋しいと、ひとりは寂しいと。




エミリアの目の前に差し出された手。大きく、がっしりとした手。その手は綺麗とはいえない。すでに塞がっている傷が幾つもついているし、剣ダコもある。でもそれは剣を握るこの人の努力の証。武人らしい誇りのある手。

エミリアは戸惑うように視線を揺らめかせ、彼の瞳を見た。その瞳は、(さげす)も嫌悪もみられない。ただ真っ直ぐとエミリア力強く見つめる瞳に心が揺れた。




私の存在を見てくれる人。


私を肯定してくれる人。


忌み嫌らわない瞳を持つその人。


寂しいという気持ちに正直になって、手をとってもいいのだろうか。


誰かの手に、縋ってもいいのだろうか。


小さな希望を抱いてもいいのだろうか。


私という存在を受け入れてくれるかもしれないと言う希望を持ってもいいのだろうか。




エミリアは手を伸ばそうとしてゆっくりと腕を上げた。でも決心がつかず、躊躇して手を止めた。



「迷うな」


「迷ったら、本心に従え」



彼はそう言うと、エミリアとの距離を一気に近づけた。靴音が静寂に響いたかと思うと、次の瞬間にはエミリアは自分の足が地から離れていた。不安定となった足場に、体を強く抱きしめられた感覚に「きゃあっ」と小さく悲鳴をあげる。目線が急に高くなり、驚きで大きく目を見開いた。自分が彼に抱き上げられている事を頭で理解するとエミリアは慌てて口を開く。




「あ、あのっ!」

「動くんじゃねぇ」

「しっ、しかし、!」

「こうしないとお前は逃げるだろ。俺は逃すつもりはねぇよ」

「っ…」

「そして、離すつもりもねぇ」

「…どう、して」



彼に抱き上げられて事によって、ぐっと近くなった瞳と視線がぶつかる。



「お前はごちゃごちゃと考える性質らしい。迷って、混乱して、仕舞いには心に蓋をしちまう。自分の気持ちを押し込めながら生きて何が楽しい?お前はそれで幸せのか?」



その言葉に、エミリアは息をのんだ。返事をする事が、できない。




「躊躇して後ずさりするな。前を見据えろ」

 


抱き抱えられた体にさらに強い力が入った。それに嫌悪感を抱かないのは、なぜだろう。




「俺は引き留めるぜ、お前が辛そうに笑っているうちは何度でも。それこそ力ずくでも。」



「どう、して、そこまで…」



「俺が見たいんだよ」



「…何を、でしょうか…」



「お前が幸せそうに笑う顔を」




綺麗な黒髪がさらりと風に揺れ、力強い黒い瞳が真っ直ぐと見つめている。その瞳に映るのは悲しそうな表情を浮かべた自分の姿。幸せなんてほど遠い表情の私。





「俺の名は、グレン・ラングフォード。お前の名は?」





これからどうなるかは分からない。


でも、この差し出された手に、(ゆだ)ねてみたい。


私を唯一引き留めてくれた黒を身に纏うこの人に。





「わた、しは…」




エミリアは小さく口を開いた。震えそうになる声に力を入れて、彼をしっかりと見つめ返した。抱き上げられている体に、彼の腕から伝わる温かい感覚に勇気をもらって。





「私は、エミリアと申します…」


「そうか、エミリア…」




切れ長な目元を持つ彼の目尻が下がる。彼が笑ったのだとエミリアはすぐに分かった。





「やっとお前の口から、名を聞けた」





ニカリと口を開け破顔するように笑うグレンに、エミリアは心の冷たい部分が少しだけ砕けたような気がした――。




それは、何かが変わる小さな(きざ)し。




エミリアはまだ知らない。


幸せはすぐそこまで来ている――。








運命を避けようと辿った道、



その途中で出逢った縁もまた、別の運命に繋がっている――。









*****




あれから、いくつかの季節が巡る。






「エミリア」




私を呼ぶ声が聞こえる。


ゆっくりと振り返った先にいるのは、漆黒に染まる黒髪と、黒曜石のような瞳を持つ人。


意地悪そうに口角をあげる口元に、切れ長で冷ややかな印象を受ける目元から覗くのは、冷たさも忌みもない優しい瞳。






「はい、グレン様」






私は静かに微笑んだ。


彼と過ごして、いつしか芽生えた気持ちを携えて。





とても幸せそうに。とても愛おしそうに。







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