6.小さな約束
暗闇と静寂が空を支配する時の刻。
エミリアは一人静かに、回廊を進んでいく。
誰にもすれ違う事もせず、床をコツコツと蹴る自身のブーツの足音のみが響きわたる。場所は魔術師の総本部【月宮殿】。限られた者しか足を踏み入れぬ最奥の廊下を、エミリアは魔術師のみが着用を許される紺地に銀色の刺繍が施されたローブを身に纏い、裾を翻す。顔色は窺うことはできない。深く被られた外套により、その顔貌を見る事は叶わない。胸には魔術師を示す蒼い宝玉が飾られた記章を揺らしながら、誰もいない廊下をぬけていく。
辺りは暗闇で包まれている。エミリアの手には小さなランプが握られており、足元を光がほのかに照らす。淡い光は、炎ではない。本来炎があるであろうランプの中央には小さな丸い石。魔力を加える事で光を放つ魔光石である。魔力がないと使用できないため一般にはまだ流通できない物ではあるが、とても便利で、こんな闇夜には重宝されるものだ。
エミリアは足元を照らしながら、ゆっくりと歩を進める。長い廊下をぬけ、少し道を逸れる。すると、一気に視界が開け、夜空が広がるに外に出た。
(今日は、朧月夜なのね…)
空を見上げると、月が昇っている。
月は霞がかっていて、ぼんやりとしままエミリアを見下ろしていた。
私のもうひとつの名である、《朧月》
(今日と言う日に、相応しい月ね――)
物語の終幕を迎えた日の夜。
偶然にも、闇夜を統べるは縁ある月だ。
エミリアは空から視線を再び、地へと向ける。エミリアの周りを取り囲むのは、たくさんの植物。整然と植えられた草木や花々は、柔らかい夜風によって揺れている。ここは、月宮殿付きの植物庭園。魔術の媒体となる植物や学術研究するために集められた植物が栽培されている場所だ。
エミリアは植物庭園の砂利道に沿ってさらに奥に進むと、やっと歩をとめた。
行き着いた先は、ガラス張りできた小さな建物。
エミリアは扉へ手を添え、そっと音を立てぬように扉を押した。足を踏み入れると、温かい風がふわりと頬を撫でる。
エミリアはゆっくりと左手を胸の前にかかげ、小さく魔法言語を呟いた。すると淡い光が手に灯ったかと思うと、すぐにそれは漂うように空中に舞い建物内に広がった。淡い光は1つ、また1つと建物内に置かれている魔光石に仄かな明かりを灯す。
小さな灯りで照らされ、視界に映ったのは一面に広がる植物たち。瑞々しく生い茂る葉やまだ芽を出したばかりのもの、花弁の咲き誇る花やまだ蕾の物もある。実を付けた樹もあれば、すでに葉が散ってしまったものもある。地に植えられているものだけでなく、天井から吊された蔦や、ガラス製の球瓶に水で浮かぶ花など種類は様々。薬草や花卉、樹木が所狭しと並ぶその場所はエミリアが管理する小さな温室――植物園であった。
ここに植えられた植物達はエミリアが自ら選び、植え、育てたものだ。
魔術師であるエミリアは、植物を扱う『地』の力ととりわけて相性が良かった。それがエミリアの生家――植物を扱う家の者として血がそうさせているのかは分からない。はたまた全く関係はないのかもしれない。よくは分からない。でも、手をかけてあげるとそれに答えるように綺麗にそして立派に育ってくれる植物が好きだったし、時に不安や混乱に苛まれた際に心を癒やしてくれる存在だった植物が好きだった。
エミリアにとって『地』の力と相性が良かったのは嬉しい事だった。
そこで上級魔術師となったエミリアは、上級魔術師の特権を使い小さな温室を手に入れた。
月宮殿付きの植物庭園より少し外れた場所にあった温室は少々寂れてはいたが、エミリアはそこを整え、自らの手で植物を育てはじめた。一般的に流通している薬草から、稀少なものまで様々な種類を手に入れて温室で栽培した。そしてそこで採取した植物を使い、月宮殿内最奥にある上級魔術師専用の個室で植物の研究を行った。植物本来の持つ薬効について調べたり、植物の有効性成分を抽出して魔力と結合させ反応を研究したりと難しくも忙しい日々であった。
「この葉は前より元気になったみたい…土を代えたおかげかしら」
エミリアはそっと葉に触れて状態を確認する。入手した時は萎れ掛かっていたその薬草が元気になっている事にほっとすると、次は隣に植えられた花に目を移し状態を観察する。それを何度も繰り返し、植物1つ1つを確認しながら温室の奥へと足を運んでいった。一通り確認が終わる頃には温室の一番奥にある小さなスペースに辿り着く。
植物に囲まれた中に置かれた小さなテーブルと、それに向き合うように置かれた小さな2つのチェア。テーブルの上には数冊の本が積まれているし、チェアの上には座り心地の良さそうなクッションが2つずつ。エミリアはそこまでゆっくりと足を運ぶと、その場で歩みを止めた。
上級魔術師《朧月》の温室。
温室の一番奥に位置するそこは、植物に囲まれた小さな休憩の場。
そこでエミリアは何度癒やされた事だろう。時には研究が上手くいかなくて苛ついた合間に、時には家族の事や婚約者の事で落ち込んだ合間に。誰にも干渉されない、エミリアがホッと気をぬける場所として何度エミリアの心を落ち着かせてくれたことだろう。
ガラス壁から差し込む陽光と、温かな部屋の中で過ごす穏やかな時間。
この場所で何度、うたた寝をしてしまったことだろう。何度、本のページを捲り読書に明け暮れただろう。
エミリアはテーブルに開きっぱなしだった本に手を伸ばし、ぱたりと本を閉じた。
この場所で過ごした日々を1つ1つを思い出す。
そして、最後に思い出したのは――彼のこと。
今、エミリアが心残り思う事も――彼のこと。
今日の昼間。
彼はエミリアの終わらない物語の最中に、エミリア自身の目の前に突然現れた。
その姿を見た時に、驚愕で息を呑んだのは言うまでもない。
彼はその力強い腕でエミリアを庇い、助けてくれた。
そして、彼の手によって、エミリアの終わらなかった物語は終幕を迎えた。
漆黒に染まる黒髪に、黒曜石のような鋭い瞳を思い浮かべる。
彼と初めて出会ったのは、この場所だった――
*****
あれは、運命の時をエミリアが迎える数週間前――
寒さ凍てつく長い冬も終わりをみせ、春の芽吹きが始まろうとしていた時期。その日は春の訪れを告げるように温かな陽光が辺りを包む日であった。
穏やかな昼下がり、エミリアは魔術師のローブを身に纏い、エミリア専用のこの温室で植物達の手入れをしていた。私生活では学園で学ぶ生徒であるエミリアは、自由にできる時間は少ない。それでも放課後や休日を利用して月宮殿へ通い魔術師の仕事をしていたが、ここ最近は運命の時も近くそのことで色々と調べ物も多く酷く忙しい日々を送っていた。
必然的に植物の手入れをする時間も減っている。今日はそれを挽回するかのように集中して作業を行っていた。学園が休日である今日じゃないと、時間を取るのは難しい。エミリアは1つ1つの植物をじっくり見て触れて状態を確認しながら作業に没頭していた。
自分より少し高い所に位置する樹木につく花を確認しようとした際、エミリアはふと手を止めた。外套を羽織っているせいか、視界が悪い。今までは手元だけ見ていたため良かったが、上を見るとなるとかなり見えづらい状態である。頑張って顔を上げようとすると、フードが外れてしまう状況に少し嫌気がさす。
それに、なんだかちょっと暑い。じんわりと顔が火照るのを感じたエミリアは、手で顔を仰いだ。温室である事に加えて、今日は春の兆しである温かな陽光がガラス張りでできたこの温室に容赦なく降り注いでいた。
「これからもっと春らしくなるから、温室の温度も調整しなくてはいけないわね…」
植物に今の所影響はないが、もっと温かくなるようであればもう少し温度調整が必要になるだろう。例年の栽培環境を思い出しながら、これからやらなければいけない事を思案する。
それにしても、少し暑い。作業をしていると動いているせいか、どうしても暑くなってくる。それに加えて、外套を羽織っていると熱がこもってさらに暑く感じる。エミリアは逡巡した。
暑さと作業効率――手を顎に添えながら、首を傾げる。少し悩むものの、意外とすぐに結論を出す。
どうせこの温室には自分しかいない――エミリアは顔を隠すために常に羽織っている動きにくい外套にそっと手をかけ、はらりとフードを取った。
濃い灰色の大きく結わえた三つ編みがふわりと揺れ、アメジストの様な紫瞳が顕わとなる。
外套は汚れぬようにと休憩スペースであるチェアに掛けて、再び作業に戻るためエミリアは植物の元に足を向けた。
* * *
低い樹木に向かって枝と葉を剪定する。
パチリ、パチリと銀の鉄鋏の音が一定のリズムで鳴り響く。
その最中、彼は私の前に現れた――
「よぉ、お前が《朧月》か?」
突然背後から話しかけられた低い声に、エミリアは驚き勢いよく振り返った。
そして、紫色の瞳を大きく見張った――
そこに立っていたのは1人の男性だった。
漆黒に染まる黒髪に、黒曜石のような鋭い瞳と精悍な顔立ち。見上げるような長身に、はたから見ても鍛えている事が分かるしっかりとした体格。身につけている服は、騎士団の物であるだろうが上着は着ていないし、ずいぶんと着崩した状態である。それでも、だらしなさを感じないないのはひとえに彼の凛々しい顔立ちと、堂々とした身のこなしのお陰ではないだろうか。
エミリアは、突然現れたこの人物に驚く。
(だ、誰…?)
この人に見覚えはないはずだ。もし前に会っていれば、こんなに印象に残る人覚えているはず。それに、私には騎士の知り合いはいない。
エミリアは心の中で狼狽しながらも、すぐに冷静になるように自分に言い聞かせる。
ここは上級魔術師《朧月》が管理する温室。滅多に訪れる人はいないし、訪れる人も限られている。魔術師ではない、一見騎士のこの男性がなぜここへ来たのか。
《朧月》を探してこの場所に来たのだとすれば、何が目的であろうか。
初めて見る目の前の男性に、エミリアは警戒の色を強めた。
「何のご用でしょうか…?」
言葉が少しだけ強張っているのを自分でも感じながら、エミリアは真っ直ぐと男性を見つめる。男の切れ長な目元からのぞく黒い瞳と視線が合う。その鋭い瞳はまるで獲物を見つけた肉食種の様で怯みそうになるが、エミリアは必死で自分を奮い立たせた。返答次第ではこの不審な男性への対応が変わってくる。エミリアは相手に気づかれぬように体の中に巡る魔力に意識を集中させた。
エミリアと視線が合った男は、エミリアとは反対に少し狼狽えたようにエミリアから視線を外した。
キョロキョロと上下左右に視線を漂わせ、ちょっとだけ落ち着かない様子で男は自身の頭をわしゃわしゃとかき回した。先程までの堂々とした所作が嘘の様で、エミリアはどうしたのだろうかと疑問が浮かべながらも彼を見つめた。
そしてすぐに、再び男性の視線がエミリアに戻り、再度目が合う。
「…その実」
「えっ?」
実――男が言う実とは、エミリアが先程まで手入れしていた実の事だろうか。丁度エミリアの横には、青々しい葉と小さな赤い実をたくさん付けた樹木があった。
「これですか?」
「…そうだ」
「あの…、これが、どうかしましたか?」
「……うまそうだ」
エミリアは男の言葉を聞いて、少し固まった。
確かに、赤々と色めくこの果実はその表面に傷1つ無く、瑞々しくとてもおいしそうに見える。エミリアが手塩をかけて育てた実であるため、エミリアの栽培技術を褒められたようでなんとなく嬉しさを感じながらも今はそんな事重要ではないと自分に言い聞かせる。気にすべきはそこではない。
彼は言った――うまそう、と。
突然エミリアの前に、音もなく現れた不審な男性。
その彼から発せられた言葉は、不穏さを一切含まず、なおかつエミリアを呆気にとらせた。
がっしりとした長躯を持つ彼は、いかにも体を鍛えている事が分かる。騎士団の制服も普通であればきっちりと着なければならないのを今は着崩しているのを考えると、もしかして彼は訓練帰りなのかもしれない。騎士団の訓練は過酷な物だとよく聞く。激しい訓練の後だと、お腹も空くのも当たり前で、もしかして彼はお腹を空かしていて、たどり着いた先がこの温室だったのかもしれない。
最初は凛々しくも雄々しい、まるで狼の様な鋭さだったのが、エミリアが何の用かと問いかけた次の瞬間には落ち着きなくなったのも、もしかしてお腹を空かしていると話すのを躊躇ったからかもしれない。
そう考えると、少しだけ彼に対する怖さが薄れていく。
「すみません」
エミリアは、そっと赤い実に手を添える。
「この実は食べる事ができないのです」
この赤い実を付ける樹木はルコの木と言う。小さい果実はとてもおいしそうにも見えるのだが、実は食用ではない。この実はあと少しだけ熟すと紫色へと変化し、その時に木から摘む。その後、実に塩を加えて揉みすり潰すことでできあがるのは傷薬の軟膏だ。
彼はがっかりするだろう。
目の前にはおいしそうな実があるのに、食べられないのはとっても切ない。
そして残念な事に、この温室でちょうど食べ頃の果実は実っていなかった。
でも…1つだけ準備できるものがある。
エミリアは彼に提案をする。
「でも、よろしかったらお茶でもいかがですか?」
腹ぺこな彼がちょっとだけ可笑しくて、エミリアは知らぬうちに小さく微笑みをこばした。
その表情を目にした男が、黒い瞳を大きく見開かせていた事にエミリアは気づかない――
エミリアは彼の返事を待つ。
実は温室の休憩スペースには、茶器セットが常備してある。言うまでもないが、自分用である。作業の合間の休憩時間や、まったりと読書を楽しむ時のお供として紅茶や薬草茶を淹れて楽しんでいた。果実はないけれど、それなら彼にすぐにでも出すことができる。お腹は膨れないけれど、少しの足しにはなるのではないだろうか。
「よろしく頼む」とすぐに返ってきた彼の返事に、エミリアはこくりと頷く。自分で誘っておいてなんだが内心断られなかった事に安堵しながら、「こちらへどうぞ」と一緒に歩き出した。温室の最奥にある休憩スペースへと彼を誘導し、植物に囲まれた中に置かれた小さなテーブルと、小さなチェアの場所まで連れてくる。席に座るようにと勧めようとした際に、エミリアはハッと自分の失敗に気づいた。
(どうしようっ!外套を羽織ってなかったわ!)
チェアに掛けられた外套を目にして、やっと自身の視界が良好すぎる事に思い至った。魔術師のローブの上に外套を常に羽織って顔を隠してたのに、暑さと動き辛さを感じ、結果作業効率を考えて外套を脱いでいたのだ。
上級魔術師《朧月》が管理するこの温室には自分以外人はいないと思って。誰か訪ねてきても扉の前で声をかけるだろうし、その時になったら再び外套を羽織ればいいのだと思っていた自分が今はひどく情けない。音も無く突然背後に人が立っているなんて予想していなかった。
エミリアは過ちを後悔しながら、ちらりと男へ視線を向ける。
(い、いける…かしら…?)
そっと外套を手にして、何気ない様子を偽りながら顔を隠すために再び外套を羽織ろうとする。
「どうして温室にいるのに、なぜ外套を羽織る?」
すかさず男から発せられる言葉にエミリアは言葉に詰まる。朧月の名前を呼ばれ、振り返った時点で顔はすでに見られている。だからと言って、エミリアだって簡単に割り切れない。
何気ない様子を装って顔隠そうとしてみたのに、彼はあざとくもエミリアの行動を見ていたらしい。
(ここで、顔を見られないため、知られないためです…なんて正直に言ったら、余計に顔を見られてしまうわ…)
顔を覚えられるのは困る。今後どこかで会う可能性も否定できない。魔術師として顔を会わせるならまだいい。もし街中や学園、貴族令嬢として過ごす本来の私の時に出会ってしまったら――伯爵令嬢エミリア・セドラーシュが魔力持ちであるという事がばれてしまう。
父にも婚約者にも告げていない、秘密。秘密が暴かれる事は酷く恐ろしい事だった。
「…これが、私の正装なのです…」
苦しい。苦しい言い訳だと自分で思いながら、言葉を返す。魔術師のローブに外套姿がいつもエミリアの常であっても、脱いでいた外套を目の前でいそいそと着られたら不思議に思うのは当然だ。
「外套はない方が良いだろ。動きつらくないか?」
「…そうですね、でも…」
「一緒にお茶をするのだろう?相手の顔は見えた方が良いだろ」
そこでエミリアは、はたと気づく。確かにエミリアは、お腹が空いているだろう男にお茶を飲みませんかと誘った。それは、彼にお茶を準備しますよという意味で、一緒にお茶をしようと誘った訳ではないつもりだった。
でも、一般的に考えて、相手にお茶を出して、私は作業に戻りますね…はありえないと思い至る。
そして、お茶を一緒にするのに顔を隠したままというのも酷く相手に失礼な態度だ。これでも貴族の令嬢として淑女教育を受けたエミリアである。礼を欠いた行動をするべきではないと思う。でも、顔を見せたままなのも嫌だ。しかし、再び外套を羽織るのも彼に指摘された時点で強行しても不審にしか思われないし、顔を見せぬ理由が何かあるのではと勘ぐられてしまうかも…と考えが堂々巡りして、躊躇する。
しかし、ジッとエミリアの様子を見る鋭い瞳に、エミリアは折れるしかなかった。
(たった一度だけ、今回だけだったら大丈夫…)
(また会う事がなければ大丈夫…)
自分に言い聞かせるように心の中で呟き、エミリアは羽織ろうとしていた外套を再び小さなチェアの脇にかけた。
エミリアは顔をさらしたまま、戸棚から茶器セットを取り出す。脇には水差しと小さな丸石。最初に石に手をかけ、魔力を流す。すぐにそれを水差しの中に入れると、水は湯へと一瞬にして温度変化する。熱くなった湯は紅茶を入れるに最適な温度。茶葉を入れたポットに少しずつ湯を注ぎ、蒸らしてからカップへと注ぐ。良い香りが漂う紅茶が出来上がった。
エミリアは心の中で上手に淹れられたと満足しながら、目の前の男性へと差し出すと、彼は無骨な手で茶器を持ち上げ口をつける。結局一緒にお茶をする事になったエミリアも、彼と向き合う形となる席に座り、彼に倣って自身の前に準備した紅茶を口に含んだ。
少しだけ居心地の悪さを感じながらエミリアは目の前の男性と一緒にお茶をする。
もともと人見知りがあるエミリアは口下手である。会話を盛り上げる様な話題は頭の引き出しには入っていない。ただ無難な事しか話せない。彼の方も、口が回る方ではないらしく、ぽつりぽつりと話す程度である。それでも悪い感情は抱かせない、穏やかな時間ではあると思う。
天気の事とか、ほんとに何気ない話。二言三言で話して言葉は途切れ、紅茶を一口含んで、またちょっと話して沈黙という繰り返しであるが、彼の言葉に邪険さはない。エミリアに対して蔑み嘲笑る感情がない事に少しほっとした。
エミリアは彼を盗み見るようにチラリと目を向ける。
彼の髪色、瞳の色。
鍛えられた体格。
研ぎ済まされた、堂々とした所作。
凛々しく、勇ましい整った顔立ち。
(もしかして、この方は――)
エミリアの中で悪い予感が頭をよぎった――
伯爵令嬢エミリア・セドラーシュとして学園で過ごすうえで、やはり話題に上る男性達というのは複数存在する。将来有望で、見目麗しい男性達というのは注目の的なのである。時に学園の男子生徒、時に社交界を賑わす男性達。人見知りながらも招待をうけたお茶の席で、同じ年頃の令嬢達が何度も花を咲かせる話をエミリアは思い出す。
《――・・様って、本当に素敵・・》
《あのワイルドな所が・・・》
《―剣を振るお姿なんて凛々しすぎて―》
《あの力強そうな腕で、抱きしめられたいわ》
《私はあの瞳が好きですわ・》
《黒い髪に、鋭い黒い瞳がまた素敵で―…》
《―・・まるで黒い狼のようですわ》
この王国で、話題に上るような優秀で見目麗しい男性。
それがどういう意味であるのか、エミリアは理解していた。
エミリアは忘れてはいない、前世の記憶を。
ゲームでは7人の見目麗しい男性達が登場する。エミリアが幼い時に思い出したゲームの記憶は、自分の最期と婚約者アロイス・ウォーレンの情報のみだった。他の攻略対象者については顔はおろか、名前も知らない。しかし、成長するにつれて自然と耳に入って来る情報もある。優秀で見目麗しい男性というのは、必然的に人々の話題になるものだ。
ネベチア学園に入学したエミリアは、すでに学園編の対象者である3人の人物を確認している。主人公であるステラ・バラークの取り巻きで彼らはすぐに目に入った。
特進科に所属する、伯爵令息。
騎士科に所属する、第二王子。
魔術科に所属する、魔法少年。
そして、王宮編の攻略対象者となる人物は4人。その内の1人は、はからずも顔を知っている。魔術師《朧月》と同じ上級魔術師。彼こそ本当の魔術の天才だとエミリアは思う。圧倒的な魔力量に、卓越した魔術センスの持ち主。エミリアなんて彼の足元にも及ばない。
彼とは話をしたことはないが、数度だが顔を合わせた事がある。といっても、こちらは外套を羽織っていたため顔は見せていないが。そんな彼も、とても端正な顔立ちをしていた。彼が対象者の1人である確信はある。
エミリアが顔を知らないのは、あと3人。
この時までは、他の攻略対象者の人達については知らなくてもいいとエミリアは思っていた。いや、知らなくてはいいは語弊かもしれない。正しくは――近づいてはいけないと思っていた。
エミリアにとって、《運命の時》は生死の分岐である。エミリアは自分の《運命の時》で精一杯だった。学園編の攻略対象者へは、同じ学園の生徒であってもエミリアは必要以上な接触はせず、自分の婚約者以外とは話もした事はない。だが、万が一の場合も考えて彼らの動向を窺ってはいた。
しかし、王宮編の対象者となる人達とは関係性はほとんどない。関係もないのに自ら進んで接触しようなどとは一切思わなかった。それどころか彼らに接触する事は、エミリアには恐ろしくてできる事ではなかった。
私は怖い、
私はあくまで悪役令嬢だから
エミリア・セドラーシュは伯爵令息アロイス・ウォーレンのルートにおける悪役令嬢である。
しかし、悪役はどこまでいっても悪役なのではないだろうか。
悪役令嬢である自分が、別の攻略対象者にとっても悪役と成りえないという確証はない。
エミリアは恐れた。他の攻略対象者と接触する事で、悪い影響が出てしまう事を。だから、近づいてはいけないと思った。自分の為にも、相手の為にも――。
だから、知らなかったのだ。
知ろうとしなかったのだ。
攻略対象者の顔を。
目の前の彼が誰であるかを。
(もしかして、この方は――)
エミリアは背筋に冷たいものが走った感覚に襲われる。
確証はない、でも確信はある。
偶然とは、ひどく恐ろしい。
* * *
「うまかった」
男の声でエミリアはハッと意識を戻した。男が手にしていたカップは、すでに空っぽ。全部飲んでくれたた事に、胸をなで下ろした。彼の言葉通りとはいかないかもしれないが、エミリアが淹れた紅茶は少なからずまずくはなかったのだと思える。
そろそろ、この小さなお茶会も終了だろう。エミリアも自分のカップに残っていた最後の一口を口に含んだ。
「そいえば、名を名乗っていなかったな」
男はエミリアと視線を合わせ、低い心地よい声で告げる。その言葉を聞いて、エミリアはピクリと反応した。確かに彼が現れてからお茶を飲み終わるまで、ぽつりぽつりと話はしたがお互い名乗りを上げていなかった。
「俺の名は――」
エミリアは椅子から軽く身を乗り出した。そして、向かいに座る男の口元へ手をそっと伸ばした。人差し指を唇に触れるか、触れないかの所で手を止めて、彼の言葉を遮る。
彼にそれ以上言わせてはいけない――
彼が名前を名乗ったら、私も名乗らなくてはいけなくなる。
ここで、私が上級魔術師《朧月》と名乗っても彼は満足しないだろう。
彼は求めるだろう、《朧月》の本当の名前を。
彼は知りたがるであろう、本当の私の名を。
「また、今度にいたしましょう」
彼が言いかけた言葉を遮ったエミリアは、静かに告げた。
「どういう事だ?」
言葉を遮られた男の表情が少し不機嫌そうに顔を歪めた。エミリアはそれに気づかないふりをして言葉を続けた。
「また、今度会った時に名前を教えてください」
エミリアは知られたくない。
《朧月》の本当の名前を。
本当の私の名を。
だから、彼を欺くことにした――
「今度だと?」
「えぇ、その方が楽しみが増えませんか?」
「…楽しい、か?」
「はい」
「その時、お前も名を教えるんだな」
「えぇ」
エミリアは躊躇なく了承する。ここで言い淀んだら、彼はすぐにエミリアの騙り事に気づくだろう。だから、心の中だけで彼に謝罪する。
「約束だぞ。次会った時、必ず約束を守れよ」
「はい。約束します」
たぶん、次はないだろう――
エミリアの《運命の時》は近い
《運命の時》を終えたとき、エミリアはどうなっているのだろうか
死ぬために生まれてきたとは、思いたくない
そのために頑張ってはきた
それでも、私が迎える結末は
生か、それとも死か―
どっちにしろ、私は彼ともう会うことはないだろう。
この出逢いが偶然ならば、偶然に二度目はない。
「では、またお会いしましょう」
エミリアは静かに微笑んだ。
約束を守る気がないのを、悟られぬように。