3.11
もう少しで3.11から5年も経つんですね。この時気になるとテレビで色々特集される度にあの時を思い出し出します。大きな揺れ。職業の中の物が色々落ちてきて外に出たのは良かったのですが中々揺れが収まらず、その内県内停電、雪も降って来た事を今でも思い出します。携帯も中々繋がらずメールで会社の人達や家族の安否は取れましたが、帰る際道路は停電の為大渋滞。やっと家の近くまでたどり着くと、真っ暗の中に明かりが…。電車が家の近くで止まっていてその明かりでした。その夜は-5度以下で、幸い反射ヒーターが有った為家族で台所に身を寄せ合っていましたがひっきりなしに携帯の地震アラームと揺れで眠れませんでした。ラジオからの情報だけが頼りでしたが、その内容は沿岸が津波で流された事。何処に何人が避難したとか、町が燃えているとか。夕方には沿岸への道が全て通行止め。眠れないまま、朝方雪が積もった透き通った様な朝の中に前日に止まったまままの電車を見に行きました。その朝はとても綺麗でした。その内携帯も規制が掛かったか全く繋がらなくなりました。地震アラームも電源がなくなったとかて揺れても鳴らなくなり、津波の惨状や福島の原発の状況を知ったのは電気が着いた3日後でした。食べ物は幸い近くのスーパーが停電の中、外でカップラーメンとかを電卓使って販売していたので買って食いつなぎましたがそれでも十分ではなく、家族で色々買い出しに回りました。ガソリンも殆んど手に入らなく、ネットで何処かのスタンドにガソリンが入ると言う噂が入ると前の日に車をスタンドの前に置いて帰る人達や日中のガソリン渋滞か至る所で有り、解消したのは4月半ばでした。でも私は未だ良い方です。住んで居たのが内陸側だったから。沿岸部の取引先はほぼ流されました。会社の人達が取引先の人達に物資を持って行った時は沿岸はひどい有り様だったそうです。道を船が横たわり、其だけではなく、ビルの上に待て乗っていて、常に埃が立ち、回りは瓦礫の山。会社の社用車か沿岸から帰ってくると毎回タイヤが瓦礫の性でパンクしてました。私は忘れません。いえ、一生あの時を忘れないでしょう。