#9「Pianoman」
今回はシィのシマの側に別の巨大なシマが現れ、その中でピアノを弾く老人に出会う話です。「ホシ」編にも出て来たピアノマン話です。
「あぁっっ」
とあるシマの夜長に、シィの声が響いていた。
大人になりかけの少女シィは再び自慰をする様になっていた。
砂浜の小屋の手製のベッドの上で、彼女のしなやかな褐色の肌がのけぞる。
汗で頬に張り付いた黒髪が艶かしく光った。
「あぁ………」
時折もの憂げに開かれるその緑色の瞳は小屋の壁ではなく、遥か遠くを眺めてい
る様だった。
それは何処かにいる母親の存在。
そして自分たちを何処かで見ている観察者。
時々現れては干渉する巨大なクジラ。
それ以上に何かを起こす謎の緑の光、『ヒュー』。
その光の中で見た白亜の塔の上の青年の方の『ヒュー』。
シマで次々に現れる、導くモノ達。
溢れ出る快感の中で全てがないまぜになったカオスが、シィを何処かへと押し流
している様だった。
ビーバーのビーはシィの小屋から少し離れた小川の中程の巣の中で、木片を抱え
て横になっていた。
予想通りまた自慰にふけるようになったシィ。
健康そうでまぁ良いとは思うのだがーーとビーは転がったまま手足をモゾモゾと
させた。
ビーはビーで他にも思うところはあった。
前回やってきたという観察者。それはこの世界の外側にいて色んなことを見てい
るという。
だがその姿はシィには見えてビーには見えなかった。
それは何故なのだろうか。
そして観察者、という存在をシィから初めて聞いた時に感じた妙な既視感。
ひょっとして自分はそれに関係する存在なのではないだろうか。
もしそうであるのなら、自分はこのシマでシィを観察して、次はどうするという
のだろう。
「………ふぅ」
ビーは一息ついて木片を抱えたままゴロンと寝返りを打った。
「………!」
ビーは風に乗って流れてきたシィが達した声に目を向けた。今晩二回目だった。
ビーは微笑んで目を閉じた。
「………!」
シィのしなやかな肢体が弛緩する。
荒い息の中、シィは一つ思い出していた。
あの観察者と名乗るオトコは『ファントム』ーーシィのウナジにもあるタトゥー
の様な紋章で人と人とを繋ぐ通信端末の様なものーーを持ち合わせてはいなかった
筈だ。
なのに前回、『ヒュー』の光によって観察者とシィは繋がった。
それは一体どういうことなのだろう。
『ヒュー』は『ファントム』よりもより高次なものでもあるということなのだろ
うか。
「…………はぁ」
シィは深く息を吐いた。
考えても分からないことはまだ沢山ある。
それはこのビーと二人だけのシマでは、普通のことだった。
* * *
よく晴れた朝だった。
南国風の珊瑚礁が広がる砂浜。
シィは朝食を遠慮してスポーツブラと簡素なビキニに身を包み、久々に潜ろうと
していた。いつも携帯しているフライの骨のナイフも忘れてはいない。
最近シィはシマに現れた本で、前日から食事を抜いておいた方が胃や腸に血流を
集中させなくて良いので酸素がより使えるということを知ったのだった。それを試
すのは初めてだった。
「よしと」
「ホントに大丈夫?」
側にビーが来て言った。
「うん、久しぶりだけどね」
シィは波打ち際から飛び込んで、ひとまず珊瑚礁の端まで泳いでいった。ビーも
ゆったりと泳いでついて来る。
シィのシマは、珊瑚礁の先の周囲が急に落ち込んで海中の壁の様になっている。
シィは何度かそれに沿って下りて見たことがあるが、その先は実は海底とは繋がっ
ていない。つまりシィのシマは巨大な岩片で、海に浮いていることになる。それを
初めて知った時はショックだった。このシマはホシの上を静かに漂っている。なの
に他の陸地を一向に見ないということは、恐らく他にシマは無いのだ。とはいえ、
普段は普通の陸地として暮らしてはいける。ここはそういう不思議な場所だった。
そしてそのシマの円柱の底の部分よりも更に先、数百メートルの深海でシィはあ
の白亜の塔と、その頂上にいてこちらを見上げている青年『ヒュー』に出会った。
以来シィはずっと彼に憧れていた。
真実は何も分からないシマで、最初に導くものだと思えたヒトだった。
その姿はしばらく見てはいない。時々存在を感じるだけだ。
やがて、シィとビーは珊瑚礁の先の突端に立った。
「じゃあ、行って来る」
「気をつけて」
ビーに笑顔を見せてからシィは綺麗な弧を描いて外海へと飛び込んだ。
シィはしなやかに身体をくゆらせながら、奥底の方へと潜っていった。
側にはいつも通り切り立った壁がずっと下の方まで続いている。
「………」
時折、この壁にも新しい物資が隠れていたりする。時々モノが現れては消えてい
くシマでは普通のことだ。
シィは適度に壁をチェックしつつも意識は深海の方へと向けていった。その先に
あるのは黒々とした深淵だ。光は徐々に届かなくなっていく。だがシィの視力は深
海でも健在だった。しかもシィの目は水中でも割とクッキリとモノを見ることが出
来た。それは常人ではありえないこと、であるらしい。
自分はやはり、水生に適した存在なのではないか、此処こそ自分が生きる場所な
のではないか?とはシィは時々思うことがある。
なのに、水中では息が続かない。それはとても切ない。人生や恋愛も似た様なも
のだ、とビーは言うが言い得て妙だと思う。
「………」
シィはゆっくりと暗闇の中へ降りていった。
「………」
ビーは珊瑚礁に一人残され、暇を持て余していた。
しばらく側の浅瀬で熱帯魚と戯れたりもしたが、今日はあまり気分が乗らなかっ
た。何かが引っかかっていた。
それは既にこれから起こる何かを感じていたのかも知れない。
「………!」
ビーはふと、何かの気配を感じた。
いつも感じる人の気配ではない。もっと大きなーー生物ではないのかも知れない、
何か。
「何だろう…」
思わず口をついて台詞が出た。それはビーには割と珍しいコトだった。
………ビュワッ。
突如空気が震えた。
「!!」
ビーは思わず目を閉じて耐えた。
只の突風ではなかった。空気自体の波の様な揺れがシマを通り過ぎていった。
「………?」
ビーはそっと顔を上げた。何かが確実に変わっている予感がした。
「………わぁ!」
ビーの目の前の沖合、数十メートルという近さで巨大なシマが出現していた。
それはかつて現れたフライのシマよりもかなり大きく、シィのシマの軽く数十倍
はあっただろうか。見たところジャングルに囲まれた緑豊かなシマだった。
「へぇ………」
ビーはそれにしばし見とれた。
と同時に、その中にいるであろう誰かのことが気になった。今のところビーに気
配は感じられなかった。今回は、一体どんな人が訪れるというのだろう。
「………」
シマにはザワザワとした虫や鳥のもの以外何の気配もしなかった。
悪い感じも、良い感じもしない。全くフラットな印象だった。
「………シィ!」
ビーは気付いた。
シィから聞いていた様に新しいシマも海中に突き出た柱の上にあって浮いている
のならば。シィが潜っていったのはちょうどその辺りかも知れない。
「シィ!」
ビーはバッと目を閉じて意識を集中させた。
シィの気配はーー先程は何も感じなかったがーーー微弱ではあるが、あのシマの
中だ!
ビーは迷うこと無く海に飛び込んで巨大なシマの方へと泳いでいった。
* * *
すぐにビーはそのシマに上陸出来た。
シィのシマと同じ様に綺麗な砂浜を持ったシマ。だがその先のジャングルは深く、
薄暗かった。
だがビーは自身が感じる僅かなシィの気配に向かってズンズンと歩いていった。
「…………」
歩いていくうちに、微かな思いがビーを捉えた。
もしシィがこのままいなくなったら、自分はどうなるのだろう。
今度はこのシマで、別の誰かが来るのを待っていたりするのだろうか。
「………」
ビーは立ち止まって振り向き来た方の海を確認した。シィのシマはまだそこにあ
った。
もしかして無くなっているのでは、という考えが一瞬頭をよぎったのだった。
「………よし」
ビーは再びジャングルの奥へと歩みを進め、やがて海は見えなくなった。
「シィ!」
ジャングルの中の木に絡まった状態で、シィは気絶していた。その黒髪はまだ海
水で濡れている。
ビーは近づいて顔を近づけた。ちゃんと息はある。見たところ重大なケガは無さ
そうだ。
「フゥ……」
ビーはそれだけ確認すると胸を撫で下ろし、側に転がった。
シィが見つかって本当に良かった。普段よりも強い思いがビーを支配した。ビー
は泣けないが、ヒトが泣く時の気分がようやく分かった気がした。
しばらくビーはその気分のまま転がってジャングルを眺めていた。
遠くで、ビアノの音が流れている様な気がした。
「ん………」
「シィ?」
シィが軽く唸ったのでビーは飛び起きて顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
シィはゆっくりと目を開けた。
「あれ……ここ何処」
シィは辺りを見回して不思議そうにビーを見た。
「シマが現れたんだよ」
「ここ……?」
「うん、シィの気配がしたから来た」
「そっか……」
変に絡み付いている木をフライの骨のナイフで外し、シィは立ち上がった。
「いたた……」
「どっか痛む?」
「そういえば……」
シィは思い出す様に空を見上げた。
あの深海で潜っている時、突然何か大きな固いモノに伸し掛かられた気がした。
その巨大な圧迫感と呼吸が消えていく苦しさは覚えていた。それは突然現れたこ
のシマが乗っかっていたとでもいうのだろうか?
「……あれ」
「どうした?」
ビーは何かに気付いた風なシィの顔を見やった。
シィは辺りに目を泳がせ、そして目を閉じた。
「……ピアノの音がしない?」
「あぁ……」
ビーは空耳かと思っていたが、本当にピアノの音が微かに聞こえて来ていた。
それは淡々とした旋律で、普段音楽を聞き慣れていないシィとビーにも分かる確
かな腕を持った誰かが弾いている感じだった。
「行ってみよう」
「うん」
二人は歩き出した。
* * *
ジャングルをしばらく歩くと、少し開けた場所に出た。
そこだけは木々が無く芝生の様な下草が繁り、その真ん中にこの場所には不釣り
合いな白いピアノが鎮座していた。
「…………」
シィとビーはそっと歩いていった。斜めになった天板に隠れて演奏者の顔はまだ
見えない。
辺りに溢れるピアノの音は澄んでいて、ジャングルの中でこの場所だけは聖なる
雰囲気に包まれていた。
「あ………」
回り込んでいったシィと演奏者の目が合った。
白いリネンのシャツとブラウンのチノパンツに裸足の、初老の男だった。だがそ
の眼差しは何処か生活感が無く、優しそうでそれでいて凛とした雰囲気を持った短
い金髪の白人だった。
「………」
演奏者は弾きながらシィに軽く会釈した。
シィも立ち止まって少し頭を下げた。
しばらく演奏は続き、シィ達は聞き入った。
聖歌の様な綺麗な旋律が静かに終わった。
シィは思わず拍手していた。
「すごい……」
「ガウガウ」
ビーも何か言っていたが演奏者がいるので既に言葉は話せなかった。
シィはもう少しだけ近づいていった。
演奏者は座ったままシィを見ている。
「やぁ、お嬢さん」
演奏者から声をかけた。
「あ、どうも、初めまして」
シィはピアノに手をかけて言った。ひんやりとした白いピアノはそれ自体が何か
の生き物の様にも見えた。
「寒そうな格好だね」
「あ…泳いでたので」
演奏者は優しく微笑んでいる。シィは少し身体をモジモジとさせた。
シィが出会った中では、とびきりの歳上だった。シィは少し緊張している自分を
自覚していた。
「えっと、ここはーーあなたのシマ?」
演奏者は首を傾げた。
「シマ?」
「ええと………」
シィは少し考えた。
「あなたは、ずっと此処にいるの?」
演奏者は頷いた。
今までの人達と同じなのかもしれないが、シマという概念は無さそうだった。
シィは素早く演奏者の手を見た。左手の手の甲にタトゥーの様な紋章ーー『ファ
ントム』があるのは確認出来た。
「あの……これ」
シィは自分の黒髪を束ねてウナジの『ファントム』を見せた。
演奏者は驚いた様に目を丸くして自分の手の甲の『ファントム』と見比べた。
「同じでしょ」
「同じだね」
演奏者はゆっくりと立ち上がった。意外と背が高かった。
外見は歳を重ねては見えるが、演奏者は生活感の無いすらりとした人生を送って
来た様に見えた。シィは、いつか自分もこんな風になれるのだろうかと思った。そ
うなるには、どんな人生を送ればいいのだろう。シマだけでは無理だろうか。
演奏者は変わらず優しく笑んでいた。
ビーはそんな二人を側で見つめていた。
* * *
シィと演奏者はしばらくその聖域のピアノの側で座って話をした。
他の多くの人達と同様、演奏者も自身の記憶は持ち合わせてはいなかった。
それでも、話していると分かる演奏者のヒトとしての大きさの様なものはシィを
感銘させていた。恐らくただ年月を重ねただけではここまでの深さは出ないのでは
ないか、と思った。こ
のシマの大きさも、あるいは演奏者の大きさを象徴しているのかもしれない。
「そんなことはないよ」
演奏者はすらりとした話し方をした。
「むしろ何も知らないのかも知れない」
その驕らない、歳上風も吹かせない姿はシィが想像していた老人のそれとはだい
ぶ違った。
シィはそれに好感を持った。シマではそうそう歳上の人間には出会わない。出会
ったとしてもすぐに別れてしまう。
とまで考えてシィはハッとした。この演奏者も、いつか帰るのだ。
シィは俯いて言った。
「……色んなことを、もっと知りたい」
それは演奏者のことだけではなく、シマのこと、人生のこと、この世界のことも
だった。
「………」
演奏者は答えず少し笑んで、それから立ち上ってピアノの前に座りまた弾き始めた。
静かなソナタだった。
シィは座ったまま顔を上げて聞き入った。
相変わらずこの場は、この演奏者は、澄んでいる。この心地良さはどうだろうー
ー自然にシィは笑んでいた。
「本当にーー」
演奏者は弾きながら呟く様に言った。
「何も知らないんだ」
「……え?」
「多くのヒトに会った様な気がするが」
演奏者はそれでも哀しそうな顔は見せなかった。弾きながらゆったりと揺れてい
た。
「その全てを、覚えてはいない」
「…………」
シィは思った。
それは、このシマに来たヒトには普通のことだ。だが、演奏者は沢山の人間と会
っている、という感覚だけは持っているのだ。前の世界での職業は、一体何だった
のだろう。やはりピアニストだったのだろうか。それも幾多の公演をするような。
演奏者は更に続けた。
「側にいたのは、このピアノだけだ」
演奏者の目には年齢なりの皺が刻まれていたが、それは決して哀しみなどではな
かった。
静かなソナタは少しも乱れず、綺麗な旋律がその場に響き続けた。
「…………」
シィはその音色にしばし身を任せていた。
「ねぇ…」
側にいたビーがポツリと言った。
「このシマ、どんどん大きくなっているみたい」
「そうなの……?」
ビーはシマの気配も分かるんだっけ、とシィはボンヤリと思った。
「………!」
シィはハッとした。ビーがしゃべっている?!
「ビー!?」
「あ……ホントだ」
「!?」
シィはバッと辺りを見回した。ピアノも演奏者も目の前から消えていた。
「えっ!?」
「わ」
そこはジャングルの中の開けた場所のままだった。シィはあっけに取られた。
今まで一晩寝たらいつの間にかその人がいなくなっていた、とか付いて来ている
と思ったらいなかった、ということは何度もあったが、目の前で瞬間にいなくなっ
たのは初めてだった。しかもピアノを聞いていた最中だったというのに。
気がつけばピアノの音は遠くなっていた。
「ビー、今のヒトって夢じゃないよね?」
「うん、今回はちゃんと見えたよ」
「じゃあーーー?」
シィは耳を澄ませた。
ジャングルの遠くで、微かにピアノは聴こえている。
「行こう!」
「うん」
二人はまたジャングルの奥へと入っていった。
* * *
ピアノの音は風に乗って微かに流れていた。
だがそちらに向かっていてもいつの間にか聴こえてくるのが別方向に変わってい
たりする。
「これは……」
「シマのあれかな」
言いながら二人はジャングルの中を彷徨っていた。
途中何とか小川にたどり着いて二人は休息を取った。食べられそうな木の実も少
し取って来ていた。このままロストしても直ぐに飢え死にすることはなさそうだっ
た。
「今回は変だね」
「まぁ、いつも変と言えば変だけど…」
ビーは水を飲みながら慎重に言った。
「思い出したんだけどさ……」
「何?」
「あのヒトの気配って、突然消えたと思う」
「さっきのこと…?」
「うん。あの場所に出たときも多分突然現れた気がする」
「今までの人とはどこか違う、ってことか……」
「そうだね………」
ビーは首を傾げた。
シィは山の方を見上げた。林の間から、斜面の途中に突き出た岩が見えた。
「あそこまで行ってみようか」
「うわ!」
シィの肩に乗ったビーはパルクールで跳ぶ速度に驚いていた。
今まで何度か乗ったことはあるが、その時よりも更にスピードが増していた。鍛
錬を欠かさず続けているのだな、とビーは激しく揺られながらも少し感心した。
パルクールとは自然の岩や枝などを利用してヒュンヒュンと飛ぶ様にスムーズに
移動する術の名だ。シィはかつて出会った青年フライからそれを習った。
「ちょ、ちょっとゆっくり!」
「弱っちいよビー!」
岩の出っ張りを器用に利用してヒュンヒュンとシィの身体は上へ上へと向かって
いった。
早い時間でシィとビーは突き出た岩に到達した。
「ふぅー」
少し上がった息を整えつつシィはジャングルを見下ろした。
「わぁ……」
シィはこんなに広い陸地を見るのは初めてだった。
見渡す限り緑が広がる。海は水平線近くにしか見えなかった。大陸と言うのはこ
ういう感じなのだろうか。
「シィのシマは……?」
ビーが鼻をクンクンとさせた。
「……あそこ!」
シィがその驚異的な視力で先に見つけた。二人の右方の水平線近く。もはやこの
巨大なシマの端っこにちょこんとある小さな小島にしか見えなかった。
「良かった、まだある」
「縁起でもないよ」
「でもさぁ……」
ビーは漠然とした不安を隠せなかった。
「前にも一度無くなった気がするし」
それは骨のナイフをくれたフライのシマに上がった時のことだった。
「でも今は、あのヒトを探したい」
シィはいつもの意思的な表情で言った。
ビーはため息を吐いた。
「ま、仕方ないね………ん?」
ビーは微かに香る焦げ臭い匂いに気付いた。
「あれは……?」
「どしたのビー」
「あっちーーー!」
ビーが頭で指し示した先、数キロ向こうで微かに煙が上がっているのが見えた。
「何ーー?」
「何か、死の匂いがする」
「死の……?」
それは山火事だった。
原因は雷だったり雫のレンズ効果だったり。だがその炎は時として燃え広がり、
森中を焼き尽くす。運良くシィのシマでは起こったことはないが、シマに現れた映
像機器で知識としては知っていた。
「此処まで来る?」
「うーん……」
シィは空を見上げた。
「今は風がほとんど無いけど、もっと強くなれば……」
「来るもしれないか…」
ビーはその上がっていく煙を見つめた。その下では、数々の生物たちの居場所が
今まさに消えようとている。
シィは目を閉じて手を自身のウナジに当てた。
『ファントム』であの演奏者と繋がるかも知れないと思ったからだ。番号合わせ
の様な作業はしていないが、今までそれをせずに繋がった例はある。
シィは『ファントム』でそっと呼びかけた。
”ねえ………何処にいる?”
微かにノイズの様なものは聴こえる。だが、結局返事が帰って来ることは無かっ
た。
「ダメか……」
シィは眼下に目をやった。
先程からずっと微かにピアノの音は聴こえているが、方向はまた変わった様な気
がした。
「ビー、やっぱり気配はしないんだよね?」
「うん」
「とりあえず、今聴こえてる方に行ってみよう」
シィは立ち上がった。
* * *
足早にジャングルを歩くシィ達。
微かなピアノの音は、遠くでずっと聴こえている。
「近づいてるのこれ」
歩きながらビーが首を傾げた。
シィも訝しげに答えた。
「どうかな……」
でも、あの演奏者はピアノと共にいる。シィはそれだけは確信していた。
「…………」
だがビーは気付いていた。このシマはどんどん大きくなっている。そしてあの焦
げ臭い匂いも共に。しかもそれはじわじわと近づいて来ている。
このシマにいられる時間は、そう多くはないーー。
更にビーは考えていた。
このシマに来てから実はかなり時間が経っている。本来ならもう日が沈んでもい
い筈だ。時間の感覚さえおかしくなっているのか、それともこのシマが白夜の様に
ずっと日が沈まないのか。
とにかくこのシマは何処か違うーービーは背中に冷たいものを感じていた。
トンネルの様な大木のウロを抜けると、いきなりピアノが現れた。
「えっ!?」
突然近くに変わった音色にシィとビーは驚いた。
そこはまたジャングルの中の小さな平地だった。中央に白いピアノがあり、演奏
者がいた。
演奏者は目を閉じて優雅に鍵盤に指を走らせている。まるで波にたゆたっている
様に。
「………」
シィはビーと目配せをした。やはりビーに感じられる演奏者の気配は突然現れた
のだろう。
二人はピアノに近づいていった。
「何処に、行ってたの?」
シィは呟く様に言った。演奏者は答えない。静かにソナタが流れ続けていた。
「………?」
回り込んでシィは演奏者のすぐ横に立った。
「ゴメン、聞こえる?」
返事は無かった。時折演奏者は目を開けシィの方にも目線をやるがそれはシィで
はなくもっと遠くの風景を流して見ている様だった。
やがてシィは気付いた。演奏者には自分のことが見えていないらしかった。
「ね、ねぇ」
シィは少し焦って声をかけた。
演奏者は静かにピアノの前で揺れているだけだった。
悪いとは思ったがシィは手を伸ばして演奏者の肩に触れようとした。
「!?」
その手は演奏者をすり抜けた。
「えっ!?」
何度やっても、演奏者に触れることは出来なかった。
「どうして………?」
シィは少し手先が震えてくるのをどうしようもなかった。
「ねえ、ピアノは触れるみたい」
ビーも演奏者の足に触れようとしてダメだったが、ピアノの方は何故か触れた。
そういえば先程もシィはピアノには触れていた。どういうことなのだろう?
というかそもそもビーがこの場所で普通に話せている時点で演奏者はこの場には
いない、違う世界にでもいると考えるべきだった。
「なんで触れないんだろう」
「…あのヒトみたいだね」
「……うん」
と言ったのは前回現れた観察者のことだった。彼も愛した唯一の女性には触れら
れず、認識すらされなかったのだという。
「………」
そうか、こんな気分なんだーーシィは今更ながら思った。こんなにも側にいるの
に、自分を分かってもらえない。これがずっと続くなら、こんなに哀しいことはな
いのかもしれない。
「…………」
シィは改めて観察者の絶望を思った。
だが、自分は一度は演奏者と話が出来たのだ。それとは何処かが違う筈。
「ねぇ……」
シィは顔を間近に持っていって話しかけた。だが返事は無い。
「………」
シィは右手を自分のウナジの『ファントム』に当て、左手を触れられない演奏者
の左手甲の『ファントム』の側に持っていった。
”お願い………”
シィは再び『ファントム』で呼びかけた。
”あたしに気付いて……”
だが、演奏者が気付く気配は無かった。
”…………!”
シィは絶句した。
ビーも哀しそうに俯いた。
* * *
演奏者は飽きずにピアノを弾いている。
優雅で静かに、涼やかに。
その側で座り込み、ピアノに寄りかかりながらシィは考え込んでいた。
「………」
こんなに側で音を聴けるのに、何故演奏者とは繋がらないのだろう。
だが、前回観察者が来てすぐ今回はこういうことが起きる。これはシマ、もしく
は『ヒュー』が何らかの意思を持って起こしているのではないだろうか?シィは初
めてそう思う様になっていた。
「どうしようねぇ……」
ビーは独り言の様に呟いた。
ビーは、前回からずっと思っていることがある。
それは、自分もその観察者と何処か同じ存在なのではないか?ということ。
今のところシィと暮らせてはいるが、いつか自分は今の演奏者とシィの様にシィ
からは見えなくなるのではないか、ということ。もしくは話せなくなって、意思の
疎通が出来なくなることも考えられる。
それはビーにとって恐怖だった。そのことは未だシィには言えないでいた。
「…………」
ビーは俯いて目を閉じた。今は時間がないというのに、自分も何処か囚われてい
る。
「ビー……」
シィが驚きの声を上げた。
「ん?!」
ビーが顔を上げると、ピアノと演奏者がスウっと透き通ってきていた。
演奏者は何かを感じたのか、空を見上げている。
「これは……?」
「また、どっかに行くの?!」
ピアノにしがみつこうとしたシィの手は空を切った。
演奏者は何が起きたのか理解しているかの様に少し笑んで、そして消えた。
その瞬間、聴こえていたピアノの音はまた遠くで微かに聴こえる様に変わった。
「まただ………」
「まただね」
シィはがっくりと草地に膝を突いた。
ビーが近づいて来た。
「シィ……帰ろうよ」
「………」
シィは少し顔を上げた。
「このシマは何か違う」
「でも……」
ビーは真剣な顔で静かに言った。
「このシマはずっと昼だ」
「時間が止まってるみたいだよ」
「そして今もどんどんこのシマは大きくなってる」
「火事も広がってる」
「シィのシマも、どんどん遠ざかってるよ」
それはシィも薄々感じていたことだった。
シィは考えていた。
確かに、このままシマに帰ることが出来ないとなると大変だ。今までの生活がガ
ラリと変わる。それでも、あの演奏者を追うべきだろうか。
答えは分かりきっている。
でも、それでもーーー。
微かに聞こえて来るピアノが、何かを促している様だった。
* * *
「うわ!」
ビーはまたシィの背中で風を受けていた。
早い。シィは全力のパルクールで跳んでいた。岩や枝を器用に掴んでは蹴り、反
動をつけてまた跳ぶ。その繰り返しで、辺りでは一番高い木の上へと二人は上がっ
ていった。
「………ふぅ」
ビーはぐったりとしていた。完全な乗り物酔いだった。
「………!」
シィは素早く辺りを見回した。
「あ……!」
見渡す限りのジャングル。それは地平線まで広がり、既に海面は何処にも見えな
かった。
「し、シマは……?」
ヘロヘロのビーが言った。
「何処だろう……」
シィは焦った。元いたシマの痕跡は全く無い。
海面が無い以上、既に見えない程遠くにあるのか。それともこのシマに飲み込ま
れてしまったのか。
そして山火事は四方から発生し、周り中からシィ達のいる方へと向かって来てい
る様に見えた。
既にシィにもその焦げ臭さは認識出来る程だった。
「…………」
シィは唇を噛んだ。
確かに、状況はかなり悪くなっている。自分が迷っている間に実は取り返しの付
かないことになっているのかもしれない。だがーーー。
まだ微かに聞こえるピアノは、遠くにも感じるしすぐ近くにも聴こえる。まるで
誘うかの様に。
どうするーーーーどうするのだ!
シィはもう一度『ファントム』で呼びかけてみた。
”お願い!答えて!”
”もう一度だけ!”
それでも、返事は無かった。
シィは叫んだ。
「お願いーーー!」
「シィ………」
ビーが哀しそうにその顔を見上げた。
やがて、ピアノの音は聴こえなくなった。
代わりにパチパチと木々が焼ける音が近づいて来た。
「わぁああああああ!」
シィは絶叫した。それはビーが初めて見るシィの激高だった。
* * *
シィはビーを肩に乗せジャングルの中を全速で走っていた。
恐らくはシィのシマがあるであろう方向へ。太陽の位置やシマの地形など既に当
てにはならなかった。ただの勘だった。だが今はこれしかない。
「ごめんビー、死ぬ気で走る」
叫ぶだけ叫んだ後、それだけ言ってシィはあの時ビーを抱き飛び降りた。
今、ジャングルのあちこちで火の手が上がっている。その中を縫う様にしてシィ
は走っていた。時には幹を蹴り枝を握って跳び、とにかく目指す方向へと突き進ん
でいた。
「………」
一度決めたら、もう迷わなかった。やれるところまでやる。
シィはそういうタチだった。
ビーも覚悟を決めていた。シィがやるだけやってダメなら、それはもう仕方がな
い。一緒に死ぬなら上等。ビーももはやそう思っていた。
ビュワッ!
その時空気が震えた。
「!?」
「何?」
シィはザッと立ち止まった。
巻き起こる火事の風ではない。まるで空気の厚みのある波が、一気に通過した感
じだった。だがビーは分かっていた。恐らくこのシマが現れた時と同じだ。
「多分このシマが……」
「ビー?」
ビーが震えながら言った。
「また膨張してるんだと思う」
「膨張……」
「もう海もシィのシマも、無いんじゃないかな……」
「…………!」
「もしかしたら、このままシマと一緒に別世界に行っちゃうかも……」
「……!!」
無くなる?自分のシマが?
そんな事は今まで考えたことが無かった。
ではどうする?これからはこのシマで、このジャングルで、生きていくのか?今
までのホシとは別世界で?!
ーーーそれならそれで、生きていく。すぐにシィはそう思った。
だが。
やるだけ、やってみる。
「!!!!!!!」
シィは再び叫んだ。
既に言葉にはならなかった。
獣の様なその咆哮は、遠くジャングルの先へと響いていった。
* * *
キィーーーーン!
「!!」
ジャングルの一角で、緑色の光の柱が立った。
「あれはーー!」
「『ヒュー』の光?!」
この状況では、何処か懐かしさを感じる光だった。
それはシィの身体にも変化をもたらした。
「あ……!」
シィの身体は緑色の光を放ち始めた。
と同時にあの身体の中から何かが沸き上がってくる様なあの独特の感覚がやって
きた。
『飛ぶ』ーーシィに時々起こる瞬間移動をそう呼んでいたーーのだ!
シィは確信した。
「ビー、行こう!」
「うんっ」
ビーがシィの腕の中へ飛び込むが早いか、シィは光の柱の方へと走り出した。
『飛べ』ば、その先はあの光の柱の麓なのは何故か分かっていた。
そこは恐らく、シィのシマがあった場所。そう『ヒュー』の光が教えてくれてい
る。
そして、あのピアノと演奏者もいる筈ーー!
「!!」
ビーは自身の身体もどんどん緑色に光っていくのが分かった。
シィは全速力で走る。
そしてその姿を包む光は強くなりーー一瞬強く光った後、その場から消えた。
跡には緑色の小さなパーティクルがライン状にチラチラと光っていた。
”……!?”
シィとビーは流れ行く光の中を『飛んで』いた。
そしてシィにはあるイメージが見えた。
『飛ぶ』その先に、見慣れぬゴツゴツとした岩の塔がある。
それはビーにも感じ取ることが出来た。
あの塔は何なのだろう?それが放つ何処か異質な感覚が二人を包んだ。
* * *
一瞬の後、シィとビーは光と共に降り立った。
そこはジャングルの中のとある開けた場所。だがピアノと演奏者の姿はない。
それでもそこは前と同じ様に聖なる雰囲気が漂っていた。
「……………」
空を見上げると辺りの林からは緑色の光が上空へと吸い上げられていて、この場
所はあの緑色の光の柱の中だと思われた。その向こうでは迫り来るオレンジ色の炎
が見て取れた。
「…………?」
シィはビーをそっと下ろすと、その場所の中心へと歩いていった。
ピアノの代わりにあったのは、先程イメージで見た灰色の岩の塔。
二メートル程の高さで太さは両手で抱える程度、ゴツゴツとして異質な雰囲気を
漂わせてはいるが何処か懐かしさも感じさせるものがあった。
「これは………」
「何だろう……」
シィもビーも、これが何なのか知っている様な気がした。
シィは近づいて、手を近づけていった。
「…………?」
キンッッッ。
触れた瞬間、透き通った鉱石が砕ける様な乾いた音がした。
「ーーーーーー!」
「あっっ」
シィも、同じく塔に触ったビーも、瞬間に様々な風景を見た。
”えーーー!”
その感覚は『ファントム』で誰かと繋がってイメージのフラッシュが流れ込んで
来る時のものと似ていた。
それは、塔に封じ込められでもしていたかの様な無限の記憶の連なりだった。
シィとビーは無数のイメージの氾濫の中にいた。
”あれはーーー?”
幾多の世界で、誰かがこの塔に触れていた。
まるでフライの面影を残した様な骨太で筋肉質な青年がそれに触れていた。
スナイパーライフルを手にした長身でオッドアイの兵士が触れていた。
褐色の肌に黒髪の芯の強そうな女性が触れていた。
その誰もを、シィは知っている様な気がした。
”あぁーーーー”
ファイの面影の女の子もいた。
細い目に眼鏡の観察者風のオトコもいた。
誰もがこれに触れている。
この塔は一体ーーー?。
キィーーーーーン!
その時『ヒュー』の緑色の光が、塔の内部より溢れ出た。
”!!”
その光の中で、シィは理解した。
”あぁーーーー!”
あの演奏者ーーピアノマンは、本当はこの場にはいなかったのかもしれない。
今触れている塔は記憶の塔ーーー遥か昔から存在する、膨大な量の記憶が溜め込
まれたもの。そのイメージが巨大なシマとなって今回現れたのだ。
幾多の世界で記憶の塔が現れる時に、その先導者として現れる存在があのピアノ
とピアノマン。
先程シィが見た様な塔に触れるヒトだけが、ピアノマンの微かな存在に出会って
いる。
その度にピアノマンの記憶はリセットされ、また違うヒトに会う。
だからピアノマンはシィ達の様な普通の記憶は本当に無かったのだ。
観察者とは違うが、彼もまた永遠に続く哀しい存在であったのだ。
”そうなんだーーー”
それでも、彼のピアノは静かで優しく、美しい。
シィはいつの間にかピアノの音が流れて来ているのを自覚した。
それは耳ではなく脳に直接響いていた。
あのピアノは今も何処かに存在して、ピアノマンと共に次に記憶の塔に出会う者
を待っているのかも知れない。
”ビー……”
”聴こえてるよ”
”キレイだね……”
”うん……”
二人は『ファントム』の世界でその感情を共有した。
”思ったんだけどーーー”
”え?”
”この記憶の塔って、『ヒュー』がいるっていう白亜の塔と何か関係があるのか
な”
”あ……”
シィは改めて目の前で光を放つ灰色のゴツゴツとした岩の塔を見た。
”もしそうだとしたらーーー”
”そうだ”
”頂上にいる青年の方の『ヒュー』も、あの演奏者と何か関係があるかも知れな
いね”
”そうだねーーー”
シィもビーも、その可能性に心躍った。
静かに流れるピアノの旋律が、優しく身体に届いて来ていた。
キィーーーーン!
”!!”
一際大きく記憶の塔が光り、その存在がまた消えようとしていた。灰色の岩の塔
は二人の前でどんどん光の中に消えていく。
”あぁーーー”
シィは思い出した。そう言えばこの柱の記憶の中に、シマに来る前の自分のもの
は無かっただろうか?
”……………”
だが直ぐにそれは無いことが分かった。
柱はやがて静かに光と共に消えていった。
シィは空を見上げた。周りから立ち上る柱の光も消えつつある。
”………!”
だがたった一つ、シィが思いついたことがあった。
それは天命の様に突然シィの脳裏に現れた。
先程見たイメージの中で記憶の塔に触れていた、自分と同じ褐色の肌に黒髪の優
しそうでそれでいて芯の強そうな女性。
もしかして、あの人こそ自分の母親なのではないか?
”ーーーーー!”
そうなのだ、とシィは思った。
心の中でぴったりと何かのパーツがはまった。
”…………”
シィは自然に笑んでいた。
そしてそれに呼応するかの様に、あの『飛ぶ』感覚がまたやってきた。
”…シィ”
”……うん”
シィもビーも、『飛ぶ』先にあるのが今度こそ自分たちのシマであることは何故
か分かっていた。
”帰ろう”
身体の中から何かが沸き上がってくる様な感覚が二人を包む。
そして二人は、『飛んだ』。
* * *
「!?!」
シィは重いものに伸し掛かられていた。
しかもそこは海中だった。
巨大なシマが現れ気絶する前に感じた感覚だ。
もしかして時間が戻ったのか?
いや、全て一瞬の幻だったのか?
そんな思いを断ち切るかの様に重みが更にシィに伸し掛かる。呼吸がどんどん消
えていく。
「グッッ」
散々もがいて何とか沈みつつあるその巨大なモノの下から抜け出たシィはあっけ
に取られた。
「…………!」
目の前を深海に向けて沈んでいくのは岩塊ではなく、あの白いピアノだった。
シマの円柱ではない!?
「……………」
だが、あのピアノマンに出会ったのは確かに夢ではないと思えた。
シィは辺りを見回した。あの巨大なシマらしき物体は無い。
いつものシィのシマの海中の壁があるだけだった。
「………!」
シィは沈み行くピアノにもう一度目をやった。
一緒にもう少し潜ってみたいという思いもあったが、既に身体の酸素は残り少な
い。
シィは素直に海面の方へと向かった。
ーーー今はこれでいい。
出会うべき何かは、誰かは、やがて会うこともあるだろう。
そう思った。
キンッッッ。
背後で誰かが「そうだよ」とでも言う様に聞いたことのある反響音がした。
それがピアノ線が切れた音なのか、あの記憶の塔に触れた時の鉱石が砕ける音な
のか、それとも『ヒュー』が自分に答えてくれたのか、シィには分からなかった。
それでもシィの胸には暖かいものが広がっていた。
初めて母親らしき人物のビジョンが手に入ったのだ。それはシィの脳裏に深く刻
み込まれた。
また、新しい何かが始まる様な気がしていた。
シィは明るい海面の方へ向かって力強く水をかいた。
浜ではビーが待っていた。
先程、自分が砂の上に降り立つのをビーは自覚していた。
一緒に『飛んだ』のに何故別れ別れなのだろう、とも思ったがとにかくビーはシ
ィを待った。
シィが海中から上がって来ているのは気配で既に分かっていた。
「………」
ビーは、変化の予感を感じていた。
今までもそうだったが、もっとドラスティックなものがこのシマを襲おうとして
いる。
果たして本当に此処は元のシィのシマなのだろうか?
それともあのシマの山火事で焼けて、その後別に再生されたものではないのだろ
うか?
そして、あの記憶の塔とピアノマン。
それにまた出会うことはあるのだろうか。
その時は、まだ知らない何らかの記憶に出会えるだろうか。自分も、シィも。
ビーは少し身震いして後ずさった。
その時その足に何かが触れ、キンッと音を立てた。
「……え?」
ビーが振り向くと、足の下にはオモチャの白いピアノが鎮座していた。
「これは………?」
それは鍵盤が七つしか無い古びた子供用のもので後ろ半分は砂に埋まっていた。
「…………」
またシマに何かモノが現れた様だった。
これは、あのピアノマンのものだろうか。
「……まさかね」
ビーはそう言いながらオモチャのピアノをゆっくりと掘り出し始めた。
( 終 )