#8「Barbwire&Bicycle」
今回はシマが金網に張り巡らされ、シィを知っているという人間がやって来る話です。今回はプラトニックです。
大人になりかけの少女シィは暫く、自慰を止めていた。
性欲が無くなった訳ではない。むしろそれに対する興味は増していたとも言える。
だが、前回『ヒュー』の光の中で下腹部に感じた鼓動。
それは性欲だけではなく、生命を生み出す行為でもあることを今更ながら実感し
たのだった。
今日も一人、シマの小屋でシィは眠る。
しなやかな褐色の下腹部に軽く手を添えて。
それは生まれ来る我が子を慈しむ母親の様だった。
ビーバーのビーは、小川の中程にある自分の巣の中でいつもの様に木片を抱えて
横になっていた。
ここしばらくシィの小屋が静かなのは気付いていた。
どちらかというと熱心に自慰を行っている方がシィらしいとは思うのだが……そ
れでもこの静かな夜長もまた、ビーは好きだった。
良い感じに、成長していけば良い。今のところは問題無いと思う。
まるでオヤの様にそんなことを考えている自分に気がついて、ビーは少し苦笑し
た。
* * *
朝起きると、シマのあちこちに金網が張り巡らされていた。
「えぇー?」
「痛そう」
起きてきたシィとビーは驚いた。海も山も有刺鉄線が張り巡らされ、シマの周り
がガードされている様だった。よく観るとその金網の面は幾重にも重なり、間々に
道の様なものもあった。
この二人だけのシマは、よく環境が変わる。理由は分からない。そのシマで、二
人は日々生活していた。
「何だろこれ」
「ねぇ」
シィはいつものスポーツブラに一応ガード用の長袖を羽織り、ビーと少し砂浜を
歩いてみた。
近づいて触ってみた金網はひんやりとして人を寄せ付けない様な固さがあった。
「…………」
シィは辺りをぐるっと見回してみる。
金網は幾重にも張られ、まるで何かのコースの様に間に道が形作られている。だ
がそれは一本道という訳では無く、別れたり行き止まりだったりまた合流したりと
一種の迷路の様にもなっていた。
「誰かがこれを作ったとしたら」
「え?」
ビーが鼻をクンクンとさせながら言った。
「そいつは相当イカレてるね」
「………」
そいつ、とビーは言った。
それは、またこのシマに来る誰かなのではないか?
シィは金網に囲まれたシマを見上げてそう思った。
珊瑚礁内にも張り巡らされた有刺鉄線を避けつつ穫った魚でブランチを済ませる
と、シィは山の方へと向かった。こちらの様子も見ておきたかったのだ。下から見
る限り山にも金網は張り巡らされていた。
「ビーは浜にいて」
「でも…」
「危ないから!」
「あっ」
言うが早いかビーを置いてシィは飛んだ。
パルクール。周りにある岩や枝などを利用してピョンピョンと跳ねる様に移動す
る術だ。シィはそれに長けていた。シマで色々な出来事が起きても、暇さえあれば
鍛錬をしていた。
だが今日はまたシマの様子が違う。手足をかけようとする場所場所に鉄線の刺が
光っていた。
「フッ!」
それでもシィは安全な取っ掛かりを探しながら猛速で山の頂上を目指した。
山も同じ様に鉄線が幾重にも張り巡らされ、間々に道が数本形作られていた。一
体、シマは何をさせようと言うのだろうか。確かにこれを誰かがつくったとしたら、
相当病的な何かを宿している気がする。今回シマに来るとしたら、その闇を抱えた
誰かなのだろうか?
結構早い時間でシィは頂上まで達した。シィの体力は常人を越えていた。それは
此処がシィシマであったからなのかもしれない。
「…………!」
息を弾ませながらシィは眼下を見下ろす。
そこには素晴らしく晴れた天気と、それとは対照的に金網に囲まれた収容所の様
な厳ついシマの姿があった。
「へぇ………」
どうやら鉄線は外海の方にも張り巡らされているらしく、珊瑚礁の先まで自然の
光とは違う切っ先のキラキラとした光が見て取れた。深海の方はよく分からないが、
恐らくある程度までは張り巡らされていることだろう。時々現れるあのクジラは大
丈夫なのだろうか。
じわりと嫌な感触が纏わり付くのをシィは自覚していた。何かがゆっくりと自分
を絡めとろうとしている。そんな感じだった。
「…………」
シィは小屋のある砂浜の方を見た。シィの驚異的な視力はビーの姿を捉えていた。
ポツンと一人、腹を上にして寝転がっている。
その呑気な姿にシィはフッと力を抜いた。
「……戻るか」
シィが踵を返そうとしたその時だった。
「ん!」
視界の端に何か見えた。
「………!」
近くの茂みの鉄線の中に、見慣れない鉄片の様なものがあった。
シマには、時々こうやってモノが出現する。それによってシィ達は知識を得たり
日々の糧にしたりして暮らしていた。勿論その理屈など分かりはしない。
シィはそっと近づいていった。
「これは………?」
それは、自転車だった。
「わぁ……」
フレームもタイヤも太い、マウンテンバイクと呼ばれるものだった。シマに時々
現れる映像機器で、シィも見たことがある。急斜面を走り下りたり結構な距離をジ
ャンプしたり、空中で数回転したりといった曲芸的なものも記憶にあった。
だがシィが実物を見るのは初めてだ。
「………よしっ」
シィは腰のナイフも使って注意深く有刺鉄線を外して、その自転車を取り出した。
そうっとまたがってみる。勿論シィはマウンテンバイクはおろか自転車自体が初
めての経験だった。おっかなびっくりで漕ぎ出すシィ。力の加減が分からず最初は
何度かこけた。鉄線に掴まりそうになってヒヤッともした。だが元来運動神経の発
達したシィは徐々にコツを掴み始めた。
「あはは」
シィはものの数十分で自転車に慣れ、山の頂上の周りをグルグル回ることが出来
る様になった。
「よしっと」
シィは見晴らしの良い場所でブレーキをかけて山を見下ろした。
「ふぅ………」
そう言えばマウンテンバイクはこういった急勾配を降りていくものだった筈だ。
やれるだろうか?
ビーがやれやれという顔をするのが頭に浮かび、シィは自然に笑顔になった。
そうだ。
自分はこういう時、大体挑戦してきた筈だ。
「………フッ」
シィは足に力を込め、目の前の斜面へと落ちていった。
* * *
シャーーッ。
風がシィの全身を掠めていく。激しい振動と次々に訪れる激突と落下への恐怖。
シマの山の斜面は初心者には少々キツすぎた。しかも今は所々に有刺鉄線の壁が
ある。
「く……」
普段の山でやってみたかった、とシィは思った。
だが今は降りるより他にはない。今走っている道が行き止まりでないことを祈る
だけだ。もしもの時はケガ覚悟で自転車を捨ててパルクールに移行、だ。
「………!」
だがシィはその緊張の連続の中で、思ったよりも自転車で走ることが楽しいこと
に気がついていた。自分で走る、自分で跳ぶのとはまた違った疾走感、跳躍感。人
は道具を使うことで、ここまで重力から自由になれるのだ。
やがてシィは自然に笑みを浮かべていた。
「いい!」
わざわざ口に出してみたりもした。
もっと早く出会いたかった。そう思った。シィは漕ぐ足に更に力を込めた。
「!!」
コースを曲がった途端、壁が迫ってきた。行き止まりだ!
シィは咄嗟に片側の岩の上へと自転車を向かわせた。そのままバク転の要領で跳
んだ。
「………くっ!」
しばしの浮遊感。その間にシィは素早く着地点を見定めていた。大丈夫、道だ!
着地の衝撃はあったものの、シィの自転車は何とか別の道へと戻れた。そしてま
たしばらく難コースが続く。
シィは全身に吹き出るアドレナリンを感じながら、次々に現れる難所をクリアし
ていった。
* * *
シィは山の中腹まで降りてきていた。
その類いまれな運動神経は、自転車と斜面とを何とか攻略していた。ブレーキの
オンオフとバク転とで緊急回避、時には止まってバランスを取りながらコース移動。
既に知っている自分のシマの斜面ということもあるだろうが、それは乗って一日目
にしては見事な操縦だった。
シィはその新鮮な感覚に身体を震わせていた。
「いい……!」
思わず口をついて出る言葉。
それはシィにとって久しぶりの新しいイベントだった。
と、視界の端に見慣れぬシルエットが入ってきた。
「!!」
シィは突然現れた人影に一瞬迫る壁への回避が遅れた。
「あっっ!」
慌てて急ハンドルを切ったシィは、崖から自転車ごと放り出された。
「ーーー!」
それでもシィは自転車を離さなかった。空中でも素早く着地点を確認する。
この先は広葉樹ーーバランスさえ崩さなければ!
シィは空中で器用に自転車にまたがり、タイヤで枝葉を受けた。
バサバサーーッ。
途中で枝がフレームに当たり一回転したがシィはそのまま自転車に乗った体勢で
見事に着地した。意図したものでは無かったが妙な達成感があった。
「………フーッ」
シィは呼吸を落ち着けながら自分が落ちてきた方を見上げた。
枝の中にも有刺鉄線は入っていて、奇跡的にその間を抜けてきたのだった。かす
り傷だけで済んだのは本当に運が良かった。
「…………!」
ーーーそれにしても。
シィは素早く落ちてきた崖を見上げた。
あの時見た人影は、誰だったのだろう。
「危ないだろ」
「!!」
突然声をかけられてシィは飛び上がった。
「危うく落ちるところだった」
いや、実際シィは落ちたのだがーー?
「………?」
シィは自転車から降りてそのオトコを見た。
中肉中背でシィよりも少しだけ背が高い。年は二十代後半といったところか。丸
い古びた眼鏡にしわくちゃの銀髪。癖のある濃い顔立ち。服装は古びた革のパンツ
に革ジャケットだった。
「……あたしが?それともそっちが?」
ようやくシィは口を開いた。シマの金網のこともある。ここは警戒しておくべき
だった。
オトコはジロッとシィを見ていった。
「そりゃあ、こっちだけど」
「…………」
何だか、意地の悪い感じだ。シィは更に警戒した。
思えば、今までシマに来たのがいい人達ばかりだったのだ。合わない人も世の中
には当然いて、時にはシマにも来ることもある。
「まぁ、悪かったーーかな」
シィはそれでもそう言った。
「まぁ、いいさ」
オトコは丸い眼鏡の奥で目を細めて言った。眼鏡の奥だからか、何かを企んでい
る様にも見える。
「知らない仲じゃなし」
「……え?」
シィはポカンとした。
勿論、目の前のこの男は知らない。だが、向こうは自分を知っている?!
「あたしをーーー知ってるの?」
「………?」
オトコは少し首を傾げた。
「覚えて、ない?」
シィは黙って頷いた。ずっと思い出そうとはしているがやはり何も出ては来ない。
もし本当にこの男の言葉が正しいのなら、自分の知らない記憶に初めて触れる機会
かも知れない。
シィはある時からシマにいた。それ以前の記憶は無い。
「……話」
「ん?」
「しよっか?」
シィは警戒を解かないまま自転車を押して浜の方へと向かった。
シィの小屋はもう森を抜けてすぐだった。
* * *
砂浜ではビーが待っていた。
「遅かったねーーー何それ」
「あぁ、山で見つけた」
「また無茶したんでしょ」
擦り傷だらけのシィを見てビーは笑った。
「で話だけど……あれ?」
振り向いたシィは先程のオトコがいないことに気がついた。
「どしたの」
ビーが訝しげに首を傾げた。
「えっと……」
シィはビーと話せたのを不思議に思うべきだった、と思った。ビーは言葉を話す
ビーバーではあるがシィ以外の他人がいる前では話せない。
「オトコがいたんだけど」
「何処に?」
「山の上でさ」
ビーは更に首を傾げた。
「そんな気配はしなかったけどな……」
ビーはある程度の距離なら人の気配を感じることが出来た。少なくともシマに誰
か人が現れたのなら気がつかない筈は無かった。
「そう……?」
シィは森の入り口まで行って様子を窺ってみた。勿論誰もいなかった。
夢だったのだろうか?いや、確かに会話をした筈。「知らない仲じゃない」とも
言っていた。
「…………」
それが本当なら、話をしたかった。自分が覚えていないことを、教えてもらえる
かも知れなかったのだ。もしかしたらこのシマが何なのか、自分がどうして此処に
いるのか、そもそも自分が何なのか、分かるのかもしれない。
シィは焦って辺りを見回した。だがそこには普段と同じ森が有刺鉄線に囲まれて
あるだけだった。
「…………!」
突然、シィは激しい嘔吐感に見舞われた。
「ウグッ……!」
シィは小走りで少し森に入って胃液を吐いた。
「大丈夫?」
ビーがやってきた。
「珍しいね、何か食ったっけ?」
「いや……」
ブランチはいつもの魚だった筈だった。
「………?」
シマでは毒のある魚やクラゲやキノコに当たって高熱を出したりすることもある。
それで何度か死にかけたこともあるのだがーーそれでも基本的にシィは胃腸は強い
方だと自覚していた。
なのに何故ーー?ひょっとしてこの金網のせいなのか?それともーー?
シィは再びじわりとした不安に包まれつつあった。
このシマで、何かが起きているーーー?
だがその日それ以降は特にシィの体調に変化は無かった。
相変わらずシマは金網に覆われていた。
夕食に、シィは再び浅瀬で有刺鉄線に気をつけながらカニを捕って食べた。昼間
のことがあるので恐る恐るではあったが、結局胃腸は普段と変わりは無かった。
同じく食したビーにも何も変化は無かった。
その日の晩、小屋で寝付く前にシィはそっと下腹部に手を伸ばしたが、やはり気
分ではなかった。
シィはそのしなやかな褐色の身体を一杯に伸ばし、そしてゆっくりと力を抜いて
いった。
「…………」
シィはそっと綺麗な緑色の瞳を閉じた。
既に二週間程、自慰は行っていなかった。
* * *
次の日、シィは自転車で再び山を目指した。
「まぁ、また会えるといいね」
オトコの話を一通り聞いたビーが声をかける。
「うん」
シィは二日目にしてもはや手慣れたマウンテンバイクを駆って山を登っていった。
登りはまた別の感覚だった。明らかに自身のパルクールよりも遅いが、歩くより
はまだ早い。そしてそれなりに太ももがキツい。普段の動きとは違う筋肉を使う感
覚が、シィを弾ませていた。それはとても新鮮で心地良かった。
それでも、シィは辺りに目を配るのを忘れてはいない。昨日会ったあのオトコに、
もう一度会わなければ。
太ももがパンパンになりながら頂上までシィは登り切った。
「………ふぅ~」
シィはシマを見下ろした。いつも通りよく晴れた空だがシマは金網が覆い、まる
で監獄島の様な風景だった。
「………」
シィは自転車を降りて側に立てかけ、そして岩に座った。張った太ももの感触も
心地良い。
そしてシィは自分の身体を観察した。
やはり昨日の体調不良のことが引っかかっていた。今まで自身の体力には自信が
あった。だが昨日の妙な吐き気は何処か違う。何が原因なのだろうか。それはこの
シマの今回の変化とは関係があるのだろうか?
「……………」
「また、会ったね」
後ろから声がした。昨日聞いた声だった。
「………」
シィはゆっくりと振り向いた。
そこには、昨日と同じ革の上下に銀髪に丸眼鏡のオトコがいた。
「……どうした?」
そのオトコは昨日とは打って変わって静かな表情だった。
シィは何故か少し涙が浮かんでいた。
「……昨日はなんで、いなくなったの」
オトコは哀しそうに笑んだ。
「どうしようもなくて」
「……お願い、話を聞かせて」
「了解」
オトコは側に座った。昨日の嫌な印象は既に感じなかった。
「あたしのことを知ってる、って?」
シィは目を合わせずに聴いた。
「悪い、ヘンな言い方して」
オトコは素直に謝った。力を抜いたくだけた印象だった。
「どういうこと」
シィはまだ訝しげだった。
「……多分、知ってる」
「多分?」
「いや、確実に知ってる筈なんだ」
「………?」
オトコは少し眉を歪ませた。
「でも、それが何なのかが、思い出せない」
「じゃあーーー」
「だからあんたの望みは、叶えられそうにない」
「そう………」
シィは俯いた。
「ごめんな………」
オトコは少し近づいて右手でシィの黒髪の頭をポンポンとやった。
それから、二人は少し話をした。
オトコはやはり他の人と同じ様にそれまでいた場所や自身の名前などの記憶は無
かった。ただ、何処かの世界でシィと会っている。
シィは最近のシマでの出来事の中で「別の世界」というものが存在することは受
け入れつつあった。そもそもこのシマに来る人たちが、此処とは違うそれぞれの世
界からやってきているのだ。それ以外の世界も、当然ある筈なのだ。
「…………」
シィはオトコの丸眼鏡の奥の細い瞳を見つめた。嘘を言っている様には見えなか
った。容姿だけなら今までのフライや他の人の方が上だったかも知れない。だが、
シィを知っているーーただそれだけのことで、どうしてこんなに惹き付けられるの
だろうか。それ以外の何かが、このオトコにはあるというのか。シィは何故かオト
コから目を離せなかった。
オトコは呟く様に言った。
「何だったんだろうーーーあんたと俺は」
「そうだねーーー」
しばらく、シィはオトコと見つめ合っていた。
突然、昨日感じた嘔吐感が再びシィを襲った。
「ウッ……!」
シィはバッと立ち上がって側の岩陰で吐いた。
「うぅ………」
また、じわりとした恐怖が上がってきた。やはり今は、自分の身体が思う様にな
らない…?
シィは震えた。
その時背後にゆっくりと、オトコが近づいてきた。
* * *
「妊娠してるんじゃ?」
「!?」
後ろからそう声をかけられシィは振り向いて絶句した。
妊娠?自分が?どうやって?!
「え、えっとーーーーー」
オトコは黙って見ていた。シィはやがて恥ずかしさを覚え俯いた。
「そ、そうなのかな……?」
「俺は医者じゃないけど」
オトコは元の岩に戻って座り海の方を眺めた。
「ひょっとしたら、ね」
「…………」
シィは考え込んだ。そんなことがあるのだろうか。前回初めて体験はしてから二
週間程が経っている。前にシマに現れた家庭の医学書ではそんなに早く兆候は出な
いと書いてあった筈。せいぜい三ヶ月頃から嘔吐感が現れるらしかった。
ならばそれより前に、自分は知らないうちに他の誰かとーー?
いやいや、やはり前回ので早く兆候がーー?
「…………」
シィは思った。
思えば此処はシマなのだ。何が起こっても不思議ではない。
シィはそっと下腹部に手を当てた。
ここに、いるというのだろうか。新たな生命が。
シィは暫く考えた。だがいくら考えてもどうしようもない気もした。
「………帰る」
シィはフラッと立ち上がり、無意識に立てかけた自転車に手をかけようとした。
オトコの手がそれを止めた。
「もう無茶はするな」
「え…?」
「一人じゃないなら」
「あ……!」
そうだった、とシィは慌てて自転車から離れた。
「先に行く。気をつけて下りな」
オトコは自転車にまたがって斜面を降りて行った。シィは黙ってそれを見送った。
シィ程ではないがそれなりに達者な動きだった。
「………」
ポツリと山頂に残ったシィは、何だか変に気を使われたと思った。と同時に送っ
てもらっても良いのではないか?とも感じていた。
一体どちらなのだろう。ともかく、シィは妙な感覚に包まれてぼうっとしていた。
まだ赤ん坊がいるという実感は無い。
「…………ふぅ」
シィは一つ息を吐いた。
そしてゆっくりと山を下りていった。
* * *
夕方近くになってシィは浜に下りてきた。
「遅いよ」
ビーがまた砂浜に寝そべったまま言った。暇を持て余している感じだった。
相変わらず金網は浜を埋め尽くしている。
シィは側に座り込んだ。
「ねぇ……」
「ん?」
「子供が、出来たかも知れない」
ビーは目をパチクリとさせた。
「どういうこと?」
「あの人が、そう言った」
「あの人?」
ビーは腹這いになってシィの顔を覗き込んだ。
「今日も来たってこと?」
「ってことはーー」
シィはぼそっと言った。
「また気配を感じなかった?」
シィはハッとして振り返った。自転車に乗ったあのオトコの姿は無い。
また消えたというのだろうか?
シィはビーを見下ろして尋ねた。
「ビー、誰か自転車に乗って来なかった?」
「ううん、見ても感じてもいないよ」
ビーは首を振った。
「シィだけに、見えるんだね」
「一応ちゃんと触れたんだよ」
頭をポンポンとされたのは、夢ではないと思う。
「そっか………」
ビーは落ち着いて考える様に目を閉じてから言った。
「その人が、シィが妊娠してるって?」
「うん、その吐き気はツワリじゃないかって」
「ふぅん………」
シィは座り込んでビーと向き合った。
「どう思う?」
「そうだねぇ……」
ビーはハコを組んだ。そして言った。
「やっぱり、今回のこの金網も含めて、ちょっと変だよね」
「うん……」
「気配が感じられないのはひょっとしたら金網のせいかも知れないけど…」
「あ……」
「時々消えるその人は変だよね」
「あたしのことを多分知ってるって言ってた」
「多分、だったんだ?」
シィは唇を噛んだ。
「本人も何か確信はあるけど、分からないみたい」
「八方塞がりだね」
「うん………」
ビーは鼻先を伸ばしてシィのお腹に触ってみた。
「本当にいるのかは分からないけど…」
ビーに触られながらシィは思い出した様に言った。
「そう言えば、この子の気配は?」
「……まだ小さすぎて分からないよ」
ビーは首を振って苦笑した。
「あ、そうだね……」
「とりあえず、様子見かな」
ビーはザワザワとした胸の内を隠す様にそう言った。
何かが起こっている。それだけは二人とも感じていた。
* * *
その夜、シィは寝付けなかった。
自分のお腹の中に赤ん坊がいる?どうしてもそれが確信出来なかった。
それでも、自分の体調が何か違うということは事実だった。
そして、あのオトコのこと。
何故ビーには感じ取れないのだろう。どうして消えたのだろうか?
さっきビーが言っていた。
「金網は実はどんどん増えてる」
「こんがらかっていってる」
「それがあの人の心の中を象徴するものだとしたら……」
ビーは更に目を細めて言った。
「ところでその人は、『ファントム』を持ってるの?」
そう言えばシィは確認するのを忘れていた。シィのウナジにもある、人と人が繋
がる端末の様な存在。シマに来る人には大抵左手甲にあってシィと繋がることが多
かった。
……あのオトコには多分無かった、様な気がする。
『ファントム』で繋がることが出来れば、あるいは全て分かったのだろうか。
いや、今までの経験で『ファントム』が全てではないことは分かっていた。そし
て本人が嫌がっていることまで伝わる訳でもないことも。
「…………」
シィは頭を振った。
とにかく、次に出会ったら、必ず聞かなければ。
そう思いながらシィはいつまでもモンモンとしていた。
* * *
結局寝付けず、シィはスポーツブラに下着姿のまま小屋の外に出た。
ずっと何かが纏わり付いて離れない、そんな感触だった。
「…………」
砂浜は金網が張り巡らされたままだ。ビーが言う様に、有刺鉄線は増えている気
がした。
今までの例で言うと、おそらくはあのオトコの心象風景の様なもの。それが、あ
のオトコのシマ。
確かに初めて会った時は刺々しかったかも知れないが、次に会った時にはそうで
もなかった。
逆にそれが混乱している、ということでもあるのかもしれない。
分からないことだらけだった。
「………フッ」
シィは砂浜をゆっくりと走り出した。全力疾走後のスローダウンの様な、ゆった
りとした走り。今はただ、モヤモヤと纏わり付く気分を晴らしたかった。
すぐに金網に行き着いた。シィはそのまま曲がって森に入った。
「………」
また直ぐに金網に突き当たる。シィは跳んだ。そのままパルクールで幹から枝へ
と跳んだ。何処までも有刺鉄線が絡み付いてくる様な気がした。シィはやがて全速
でそれらから逃れるかの様に跳んでいった。
自分の身体は、今は思い通りに動く。いつも以上に。だが、そうではない時がや
ってくる。それがシィには恐ろしかった。
シィは山頂の方へと跳んでいった。月明かりに照らされ所々で有刺鉄線の切っ先
が光る中、シィは進んでいた。
開けた場所に出た。夜のパルクールは、静かにシィの身体に染み渡る様な気がた。
「ダメだろ、無茶しちゃ」
「!!」
空中で、シィは何処かからの声を聴いた。あのオトコのものだ。
焦って目線を送ろうとしてシィはバランスを崩した。
「あっ」
次の岩を掴み損ね、シィは落下した。普段なら難なく着地しただろう。だがその
先には有刺鉄線の固まりがあった。
「!!」
シィは痛みを覚悟して身体を丸め目を閉じた。無意識に腹を守っていた。
ダンッ。
シィの身体は固いゴムの様な感触に包まれた。
「………!」
目を開けると、オトコが、盾になっていた。その背中や手足には有刺鉄線が絡み
付いている。
「………いたた」
シィはハッと身を起こした。
「ご、ごめん」
シィは急いでその身体から下りた。思ったよりもオトコは筋肉質な身体をしてい
た。
「悪い……外してくれるか?」
オトコは痛みに顔を歪めながら言った。
「いや……こっちこそごめん」
シィは注意深くオトコの手足に食い込んだ有刺鉄線を外していった。どんなにか
痛いだろうと思った。
「でもまぁ、女性が子供を産む時に比べれば大したこと無いよ」
黙ってされるがままのオトコはそう言った。
「………!」
それは凄まじい痛みだと言う。いずれ自分もそれを経験するのだろうか。
シィは少し身震いした。
* * *
周りから適当に薬草を見繕って傷に刷り込むと、二人は山頂近くで横になった。
少し距離は置いていた。
薬を塗る時に改めて身体を見回したが、やはりオトコには『ファントム』は無い
様だった。
「『ファントム』って……知ってる?」
「いや」
「そっか……二人目だよ、無い人に会うの」
「一人目は、どんなだった」
「そうだね……お父さんみたいだった」
それはシマに最初に来た他人、フライのことだった。シィにパルクールを教え、
骨のナイフを残した人物だ。
「へぇ……」
オトコは時々痛みに顔をしかめるが、シィには時折優しい笑顔を見せた。
少し離れて横になった状態で二人は顔を見合わせる。
「……そっち行って、いい?」
「……ああ」
シィはオトコの腕を枕にして空を見上げた。
何だか安心する。
シィはそう思った。
気がつけば自分はスポーツブラに下着姿だったが、特にそういうことには至らな
そうだった。オトコは妊娠しているかもしれないシィに気を使っただろうし、シィ
も自分からは求めなかった。
そんな距離感が、シィはとても素敵だと思った。
その心地良さの中で、いつしかシィは眠りに落ちようとしていた。
* * *
「ウブっっ」
激しい嘔吐感でシィは目を覚ました。
側の森に走り込む間もなく、シィはその場で嘔吐した。
「ゲホゲホッ」
吐き気は更に酷くなっている。やはり自分の身体が、おかしくなっているーー!
シィは心の底から震えた。
その背中を、オトコは優しくさすった。
「ご、ごめん」
「何も。吐くだけ吐くといい」
シィはありがとう、と言おうとしたが身体がそれを許さなかった。既に胃液しか
無い筈だが吐き気はしばらく続いた。
「………はー」
ようやく落ち着いたシィは大の字になった。オトコが持っていた布切れで口周り
を拭った。
「色々、ありがとう」
先程のことも含めてシィは言った。
「あぁ」
シィはやがて話し出した。
「………ひょっとして、あたしが母親じゃダメだから、なのかな」
「どうしてそう思う?」
「まだ何処かで戸惑ってる。あたしがどうしても欲しいと思ってないから、この子
がーーー」
「そんなことない」
「…………」
シィはそっと側で座っている男を見上げた。
「そうなれば、皆が経験することだ」
「あなたには……」
そう言ったシィにオトコは首を振った。
「俺には、いないと思う」
「そう……」
シィはオトコの哀しそうな目を見た。このオトコにも、何かがあるのだ。そして
もしかしたら、自分もそれに関わっているのかも知れない。
何処かもどかしかった。繋がりそうで繋がらない、何かがあった。
「…………」
シィは少し唇を噛んだ。
「………!」
オトコが、何かに気付いた。
「どうしたの?」
シィは身体を起こした。
「あ………!」
ザワザワと、金属が擦れぶつかる様な音がした。それも小さな破片が無数にーー
まるで金属の虫がざわめいているかの様な。
「何だーー?」
シィとオトコは立ち上がった。
月明かりの中で、シマが蠢いている様に見えた。
「金網たちがーーー?」
有刺鉄線や、金網が動いていた。一斉にそれぞれの方向へとうねり、擦れ、シマ
は締め上げられて悲鳴を上げているかの様だった。
「何ーー?」
シィは目を見張った。何が起きているのかは分からない。だがとてもマズい、危
険な状況なのは身体が理解していた。シィはオトコの革の袖を引っ張った。
「逃げよう」
「あ、あぁ……」
オトコは動揺していた。記憶の中で何かが繋がろうとしている様だった。
ガシャン!
音に向くと背後にも鉄線が迫り、立てかけていた自転車がそのうねりの中に飲み
込まれたところだった。それで逃げようとしていたのにーー!
シィは辺りを見回した。既に金網の間の道は蠢く鉄線で塞がれていた。周りの枝
も既に有刺鉄線が張り巡らされている。パルクールでその中を突っ切るのは無理そ
うだ。
「どうするーーー」
シィはアドレナリンが吹き出し身体を覆っていくのを感じた。
* * *
「行ってくれ」
オトコは言った。
「え?」
「一人なら、何とか突っ切れるかもしれない」
オトコはシィを真っすぐ見て言った。
「二人じゃムリだ」
シィは考えるまでもなく首を振った。
「ダメ……」
「それは記憶の為か?そんなことより命の方が」
「とにかく、ダメ」
シィは言った。このオトコを、失ってはダメだ。まだ何も分かっていない。それ
だけは確信していた。
「いいか」
オトコはシィの両肩を抱いていった。
「そのお腹の子が優先だ」
「でも…………」
オトコの言うことは分かりすぎる程分かる。だがーーーー。
シィはたった一つ、助かる方法を思いついていた。
もし『飛べる』なら。あの時々シィに起こる瞬間移動が出来るなら。
砂浜方面へと『飛んだ』なら、まだ助かる可能性はある。今砂浜がどうなってい
るかは分からないが、少なくとも此処よりは。
シィは目を閉じた。今まで『飛ぶ』のを自らの意思で行ったことは無い。だが、
どうしようもないピンチの時には、何故かそれが起きていた気がする。それはシマ
の力なのか、シマに時々現れる謎の緑色の光『ヒュー』が起こしているのか、それ
ともあの巨大なクジラが何かしているのかは分からない。だが今はそれに賭けてみ
るしか無かった。
「………!」
シィは意識を集中させた。
お願い、今はーー!
周りの金網たちは包囲を狭めてきていた。ザワザワする金属音は着々と増え、迫
ってきている。
オトコがそっとシィを抱きしめた。
「無理でも、あんたとならいい」
オトコはそう言った。
「ーーーーー!」
シィは思った。二人で『飛ぶ』のだ。助かる為に。いや、お腹の子を入れれば三
人ーーー!
この子だけは、守らなければ!
その瞬間、シィはお腹の中から、あの湧き出る様な力を感じた。全身が震え、今
なら何でも出来る様な感覚。あぁ、これはーーー!
と思った瞬間、シィとオトコの身体は緑色に光り、その場から消えた。
キィーーーーーン!
光の中を『飛ぶ』シィの中に、オトコの意識が流れ込んできた。
”ーーーーー!”
それは『ファントム』で繋がったのと同じ感覚だった。
オトコには『ファントム』は無かった筈なのに、何故だろうか。だがその無数の
フラッシュの中で、シィは見た。
かつて別の世界で、オトコはシィにーーーシィと思われる女性に、出会っていた。
オトコは観察者と名乗っていた。誰とも違う世界の中でオヤも子も無く、何も無
い空間を漂っていた。そこでシィらしき女性は観察者が初めて会った他人、そして
異性だった。だがその目には観察者は映らなかった。彼女には観察者が見えなかっ
たのだ。すぐ近くにいるのに、触れられない。向こうには自分の存在が感じ取れな
い。観察者は絶望した。そうしてずっと触れられないまま、観察者はその女性がや
がて色んな人間に出会うのを側で観察しているしかなかった。彼女が数々の人たち
に出会い、色んな経験をして恋をする。それを観察者はただ見ているだけだった。
ある世界では心ならずも世界に介入してしまい、それ故に彼女が死んでしまったこ
ともある。幾多の世界で観察者とその女性は出会ったが、今ここで初めて触れるこ
とが出来たのだった。
”ーーーーー!”
そして観察者もまた、理解した。
このシマでシィと出会ったが、観察者には元の記憶は無かった。ただシィのこと
を知っている、ということ以外は。故に不思議な感覚のまま接していたが、その姿
はまたシィの目には映らなくなった。
シィが「いなくなった」と思っていたのは本当は目には映らなくなっていただけ
で、観察者はずっとそこにいたのだ。その絶望感を、哀しさを、観察者は思い出し
た。この金網の群れはやはり観察者の絶望に歪んだ心の内が形となって現れたもの
だった。
シィと観察者は次の日また出会い、そしてまた観察者の姿は見えなくなった。
その時、観察者は何かを感じた。それはそれまでの世界での切ない思い。哀しさ。
ずっと観察だけを続けてきて、今ようやく出会えた何か。このシマで自分は、一体
何が出来ると言うのだろうか?
”あぁ…………!”
それを、シィも同時に理解した。別世界の自分と思しき女性は、全く観察者に気
付きはしなかった。今も、時々見えなくはなる。それでも、今は大切に思う。少な
くともこの世界では、ちゃんと出会えたのだから。触れられたのだから。
そして、シィの知らない記憶というのは、その中にこそあったのだから。
* * *
次の瞬間、二人は緑色の光に包まれて砂浜に降り立っていた。
そこは絡まり合った有刺鉄線が蠢く場所。その隅でビーが金網に囲まれて怯えて
いた。
「シィ!」
ビーは叫んだが、その目にはやはりオトコの姿は映らなかった。ビーにはシィが
見えない誰かと向き合っている様にしか見えなかった。
シィとオトコは、手をつないだまま見つめ合っていた。
キィーーーーーン!
その時、山の頂上に緑色の光の柱が立った。
”あれはーーー”
”『ヒュー』の光だ”
シィは目を見張った。
”知ってるの?”
オトコは頷いた。
”それが何なのかは分からないけどーーー”
シィは流れ来る観察者のイメージに目を見張った。
幾多の世界でも、『ヒュー』の光はそこにあった。時に人を救い、また全てを押
し流す。だがそこに意思があるのかは分からない。観察者もそれによって無から生
まれたのかも知れない。ひょっとしたらシィと思しき女性も。
”そうなんだーーーー”
”あぁ”
その時、緑色の柱は一際大きく光った。
”!?”
そのフラッシュは、更に二人を記憶のその奥底へと導いていった。
”あれはーーー”
”そうかーーー”
緑色の光と共に、新たなイメージが流れ込んできた。
それはーーー観察者が出会ったその特別な女性は、シィではなかった。
”あぁーーー!”
それは、かつてシィがシマで出会ったあの絵描きの女の子、ファイ。
観察者が同一と思うのも無理は無い。彼女とシィは、そのシマが同化する程近し
い存在だったのだ。かつてシマに現れた時、シィはその奥底に触れた。
観察者は、そのファイと関わる人間だった。
”あんたはーー”
”そうだったんだ”
ファイの存在を、確かに観察者も感じ取った。
”ーーーそうか”
観察者は残念そうに笑んだ。シィは、観察者が望んでいた彼女とは違った。
シィもその切ない感情を同時に共有した。
お互いは、少しずつ違っていたが、その時だけは理解し合っていたのだ。
キィーーーン!
その緑色の光によって、絡まり合った金網たちは山の頂上から同心円状に光の輪
になって散っていった。
「あぁ……」
ビーは目を見張った。それはとても綺麗な眺めだった。
ゴォッ!
その光の輪はやがて砂浜を通過し、有刺鉄線たちを巻き込んで海の向こうへと消
えていった。
シィ達を一陣の風が吹き抜ける。そこにはもう金網は無かった。
その時、何故かシィは悟った。
妊娠などしていない。
想像妊娠だった。
自分の中に別の生命が宿ることを、シィの身体が疑似体験しただけ。そのトリガ
ーを引いたのは、現れた観察者の存在であったのかもしれない。
”そうなんだーーーー”
あの絡まり合った有刺鉄線たちは観察者の心だけではなく、自分のそれを、そし
て自分とオトコの奇妙な係わり合いをも象徴していたのではないだろうか。
それを、あの緑色の光ーー『ヒュー』が、解いてくれた。
微笑むシィの肩に、観察者の手が置かれた。
”………帰るの?”
”ああ”
”また会える?”
”会おう、絶対に”
シィは頷いた。
”あたしは、必ず気付くから”
”あぁ”
そしてオトコは軽くシィの額に軽く口づけして言った。
”俺の名はーーー”
”知ってる。観察者”
”そうだね”
”これからも、見てるのかな”
”見ていたい”
観察者は優しく微笑んだ。
その姿は、やがて緑色の光と共に消えていった。
* * *
夜が明けた。シマはいつもの綺麗な朝を迎えた。
シィは砂浜に座り込んで海を見ていた。
いたと思っていた赤ん坊がいなかった。
意外と寂しいものだな、とシィはチクリと痛む胸を押さえた。
側ではビーがそっと寄り添っていた。
「結局、その人には会えなかったな」
「そうだったね」
「あの金網は……」
「うん、あの人のだけじゃなくてあたしのも入ってたみたい」
「そっか……」
ビーはそれ以上何も言わなかった。
全て分かっているかの様に。
「よしっと」
立ち上がったシィは、森の入り口に何かがあるのに気がついた。
「ん?」
近づいてみると、それはあのマウンテンバイクだった。
「へぇ………」
有刺鉄線に絡めとられた跡なのだろうか、その車体は傷だらけだった。だがタイ
ヤはパンクせずに無事だった。
シィはその自転車を、懐かしそうに撫でた。
「…………!」
やがてシィはそれにまたがった。
「大丈夫?」
ビーが背中から声をかける。
「うん、もう身体も元通りだから」
残念だったけどね、と思いながらシィは足に力を込めて走り出した。
やはり自転車は気持ちいい。
シィは砂浜を何周も回った。
「…………」
シィは自転車を駆りながら海を眺めた。
子供はいなくなった。ーーーでも。
いつか、子供を作ろう。愛する人の子供を。
そう思った。
そして自分を作ってくれた母親、というものの存在も改めて感じた。
あの時見たビジョンの中では、何処かの世界の自分もファイや観察者と同じ様に
無からーーもしかしたら『ヒュー』の光の中から生まれたのかも知れない。
でも、それでもーー。
この世界では、母親的な存在は多分いるに違いない。確信は無かったが、シィは
そう思う様になっていた。
ビーはそんな様子を離れてじっと見つめていた。
シィに聞いた「観察者」の存在。それを聞いたとき、ビーは何処か知っていた様
な、妙な既視感を覚えた。しかもその姿は、結局自分だけは見ることが出来なかっ
た。
それはどういうことなのだろう。自分も別の世界でそれに関わってでもいるのだ
ろうか。
「ふぅ………」
ビーはフッと笑んだ。
それが分かるのは、まだ先のことの様な気がした。
「よっ」
ビーの視線の先で、シィが砂浜の出っ張りで自転車に乗ったままバックフリップ
を決めた。
見事なものだ、とビーは目を細めた。
笑顔のシィを見ているのは心地良い。
そして同時に、今夜辺りからまたシィは自慰を始めるのではないだろうか、とビ
ーは思った。
それはほぼ確信に近い感覚だった。
でもまぁそれも良いか、とビーは喉をゴロゴロと鳴らした。
「はっ」
今度はスピードを付けてダブルのバックフリップの軌跡がが空中に描かれた。
( 終 )