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#7「Jerry」

謎の光『ヒュー』を巡る少女シィとビーお話。今回、シマの海はゼリーに変わります。シィの初体験話です。


「あんた、俺の妹じゃないのか?」

 シィよりも少しだけ歳上と思われる黒人青年はそう言った。

「……え……?」

 シィは後ろから抱かれた状態で目を丸くして答えた。

 そこはよく晴れたシマの海岸。

 そこから見える海は、いつものマリンブルーではなく小豆色をしていた。

 海水は、羊羹状に固まっていた。


  *   *    *


 数日前、少女シィは自慰にふけっていた。

 ファイ。前回シマに来た同世代の女性と身体を重ねたことが、またシィを性的にも精神的に

も一段階上へと押し上げた様だった。

 欲望は、果てしないーーーとシィは思う。

 満たされたい。いつか、男性にも。

 今は自分の指が差し込まれている、この場所に。

 そうすれば何かがーーー。

「うあっ………!」

 シィのしなやかな褐色の肢体が何度かのけぞった。

 静かなシマの夜に、シィの声が響いた。


 ビーはそれを小屋から少し離れた小川に作った自分の巣の中でさざ波の音と共に聞いていた。

 ビーはビーバーである。今のところ性別は不明だ。なので性欲的なものは理解はするが自分

のものとしてはまだ実感出来ていなかった。

 そしてシィとビーの二人しかいないこの不思議なシマでは、何故かビーは言葉を話すことが

出来た。

「ふぅ……」

 ビーはため息を吐いて目をつぶった。シィのあれはいつものことではあるがーーここ最近、

回数が増えた様な気がする。あの年頃の少女なら普通のコトではあるのだろうか。

「…………」

 そしてビーはまたいつもの考えを巡らせる。

 このシマは、一体何なのだろう。

 自分はいつまでこうしているのだろうか。

 いつか自分の性別も分かり、シマを出て行くこともあるのだろうか。

 その時、シィはどうするのだろう。

 いや、シィの方が出て行って自分が一人残ることもあるかもしれない。

 それはそれで仕方がないがーーー

 取り留めの無い考えが、今日はビーの頭を離れなかった。

 またシィの達する声が風に乗って聴こえてきた。


 自分で作った簡素なベッドの上で整いつつある息を感じながらシィは身体を起こした。

 心地よい疲れが全身を包んでいる。額に張り付いた黒髪をそっと拭った。緑色の瞳は、宙を

見つめていた。

「んーーっっ」

 シィは軽く伸びをした。

 一人のそれは、心地良いが達した瞬間、少し切ない。

 でもファイは二人でも「切ない」とは言っていたっけ。その違いは一体何なのだろう。

 そんなことを思いながらシィは立ち上がった。その時、足元にフワッとした感触があった。

「………?」

 見ると、そこには古びた人形があった。手作り風のヌイグルミの女の子の人形。使い込まれ、

また薄汚れてクタクタになっていた。

「へぇ………」

 シィは裸のまましゃがみ込んでそれを手に取った。

 このシマでは、時々こうしてモノが現れる。それが何処から来るのかは誰も知らない。そし

て知らないうちに無くなっていたりもする。ここはそういうシマだ。不思議ではあるが、これ

と言ったエネルギーの無いこのシマでは時に貴重なものだ。

 今回現れたこの人形はどうだろうか。

「………」

 少し考えてから、シィはそれをベッドの脇に置いた。

 そう言えば自分の子供の頃は、こういう人形で遊んだことはあるのだろうか。

 シィは物心付いた時には既にシマにいた。

 それ以前の記憶の無いシィには、自分の子供の頃のことはよく分からなかった。


  *   *    *


 次の日、朝目覚めると海がゼリー状に固まっていた。

「えー!?」

 いつもの様にスポーツブラにパレオ姿で外に出てきたシィは目を見張った。

 波打ち際はさざ波の形のまま青いゼリーになっていた。少し沖に目をやるとほぼ凪の状態で

綺麗な平面のゼリーが広がっていた。

 シマや海は、時々姿を変える。それはモノが現れたりする時の様に突然であることが多かっ

た。

「わぁ……」

「こんなの初めてだね」

 先に出ていたビーはクンクンと匂いを嗅いでいた。

 シィはしゃがんでそのゼリーに触れてみた。思ったよりも固い。押すとプルプルとした弾力

のあるゴムの様な感触だった。

「………?」

 腰からフライの骨のナイフを抜いて端を切ってみた。ナイフの刃はすっと通る。

 シィはそのゼリーの切れ端を口に含んでみた。

「…大丈夫?」

 心配そうなビーをよそにシィはそれをしばし味わい、やがて目をパチクリとさせた。

「……普通の海の塩味」

「なあんだ」

「でも……」

 シィは立ち上がってゼリーの海を眺めた。

「魚たちはどうしてるんだろ」

「そうだね……」

「ビーの川は?」

 シィはその支流がある方を振り返った。

「まぁ、まだあったよ」

 ビーは目をクリクリとさせながら言った。

 ビーの小川は水量が少ないながらもまだ存在していた。小川が海に接するところに行ってみ

たが、水はゼリーで固まった下の方へと染み込んでいた。見える範囲の珊瑚礁周りは全て固ま

っているものの、外海の下はまだ海水の状態であるのかもしれない、と二人は想像した。

「でも……」

「何だかキレイだね……」

 二人はしばし空の映っているゼリーの海と空の綺麗なコントラストに見とれていた。


 ランチは陸地の木の実と梨で済ませた。

 その時に出た話で、ゼリーの海の上を歩いてみようということになった。勿論シィから言い

出した。あのゼリーの弾力感なら大丈夫そうだ、と。

 一応万が一の時の為に水と食料も手製の革のバッグに入れ、二人は歩き出した。

「………」

 最初はおっかなびっくりだったビーもプニプニしたゼリーの感触に徐々に慣れ、やがて軽快

に歩き出した。とは言え、ビーバーの足はそう早くはない。

「キレイだね………」

 雲が流れているのもハッキリと分かる程、ゼリーの表面に映った空は澄んでいた。一体どう

やって固まったのだろう。ちょうど凪の状態で変化が起こったのだろうか。それともーー?

「まぁ、そこはシマだからね」

「ね」

 二人は歩き続ける。

「こんな楽しい散歩久しぶり」

「そうだね」

「砂浜よりも歩きやすいよ」

 シィ達はそんなことを話しながらシマの周りを回った。

 その後、二人はシマを取り巻く珊瑚礁の縁まで行ってみた。その向こうは下の全く見えない

 青黒い外海だ。

「……どうする」

「行けるかな……」

「ずっとゼリーのままとは限らないよ」

 ビーが心配そうな声を上げた。

「う~ん」

「薄くなってていきなり落ちるかも」

 だがこういう時に限って、シィは行く。言いながらもビーには分かっていた。やれやれーー

とビーが頭を掻いた時だった。

「あれ………」

 シィが目を細めて水平線の方を見やった。

「どうした?」

 と言ったビーも既に気付いていた。何故かビーには感じ取れる、人の気配だった。

 遠くから人が歩いてきている。

「誰かーーー」

「うん、黒人だ」

 シィの視力10はある目は既にその姿を捉えている様だった。

 ビーにはまだ見えない。

「オトコ?」

「うん」

「…………」

 また、このシマにヒトが現れた。いつも、誰かがその人自体のシマを伴って現れる。その度

に何かが起こる。それが今のところシマでのシィとビーの常だった。

 シィはじっと水平線の方を見つめていた。

 ビーにもようやくその人影を捉えることが出来た。

「何だかフラフラしてる……あっ」

「どうした?」

「倒れた!」

 シィは革のバッグを置くと走り出した。

「シィ!気をつけて!」

 ビーも向かおうかと思ったが外海のゼリーが気になって結局その場に残った。


 シィはゼリーの外海の上を走る。

 深く下が見えないゼリーは確かに少し不安だったがシィはスピードを落とさなかった。落ち

たら落ちたでその時はその時だ。シィの並外れた体力ならそうそう溺れはしないだろう。

 黒人はヨロヨロと起き上がり、不安定な足取りでこちらに向かって歩いてきていた。脱水症

状なのだろうか?それとも何かの病気ーーー?

「……!」

 シィは黒人の姿を間近に捉えた。まだ若い。シィと同じ位か少し歳上の感じだろうか。長め

のドレッドヘアが印象的だった。麻っぽい素材のTシャツにチノっぽいパンツ。どこか薄汚れ

ている様だ。ホームレスまではいかないものの、荒れた生活が想像出来た。

「………」

 そして端正な顔立ちの割にその表情は虚ろだった。単に今の体調だけではなく、内に秘めた

何かがありそうだった。

「……あっ」

 黒人がこちらに気付いた様だ。シィはスピードを更に上げた。

「…………」

 僅かにシィに笑いかけた様な気がした時、辺りにガシャーンという大音響が響いた。

「!?」

 何処から聴こえたのか分からなかった。だが辺りには何も起きてはいない。一面の空とゼリ

ーの平面だ。シィはハッとしたが走るのは止めなかった。その音に黒人はビクッと反応し、や

がてフラリと倒れかかった。

「あっ!!」

 シィは倒れそうになる黒人をギリギリで抱きとめた。

 その身体は細かった。背はシィよりも少し大きかったが、体重は恐らくシィより軽いだろう。

その左手甲には確かにタトゥーの様な紋章『ファントム』があるのを確認した。

 『ファントム』。シィのウナジにもある、生体的に結合した通信端末兼お互いを分かり合う

感覚器官の様なものだ。シィには最近現れたもので、その全てはまだ分かってはいない。

「シィ、大丈夫?」

 遠くで微かにビーが呼びかけている。

 シィは黒人の顔を覗き込んだ。シィより濃い褐色の肌に旧インド系の端正な顔立ち。

 微かだが息はある。気を失っているだけの様だ。

 シィは後ろに向けて叫んだ。

「多分!小屋に運ぶよ!」


  *   *    *


「ごめんね、行けなくて」

「まぁ来てもビーじゃ運べなかったけどね」

 日が落ちたシマの小屋の側で、ビーとシィは焚き火を前に話をしていた。

 黒人はシィのベッドに寝かせてある。

「あの時も……」

「え?」

 珍しくビーは目を伏せつつ言った。

「初めてシィが『ヒュー』に会った潜水の時も、やっぱり途中で行けなかったし」

「でもあれはビーには無理だよ」

「分かってるけどさ……少し気になってて」

「そうなんだ……」

 シィはビーの頭をそっと撫でた。ビーは目を閉じてグルルと喉を鳴らした。

 やがてビーは口を開いた。

「こないだのファイ、さ」

「うん?」

「二人でいい感じなのは、見てて良かったよ」

「……えっと……?」

 シィは二人で抱き合っている時のことを少し思い出した。そう言えばビーは見ていたのだっ

け。ファイの指の動きを身体で感じてシィはモジモジと足を擦り合わせた。

「……そうじゃなくて」

 ビーは笑った。

「あ、……そうだよね」

 シィもはにかんで笑った。

「……『ヒュー』とファイだったら、どちらを望む?」

「え……」

 ビーは少しだけ真剣な顔になって言った。

「何となく、思っただけなんだけどさ」

「………」

 シィは少し考えた。

 勿論『ヒュー』だ、と前なら迷わず答えただろう。だがファイとの出会いは素晴らしかった。

身体を繋いだことだけではなく。初めてシィに精神が同化する様な感覚を教えてくれた。

 ずっとそれが続くなら、それも良かったのかも知れない。

 対する『ヒュー』は、『ファントム』の奥底でシィが見たイメージの中の青年だ。白亜の塔

の頂上にいて、恐らくヒトを導くもの。シィを何度も助けてくれた。シィが初めて深海で『飛

ぶ』ことを体験して以来、ずっと憧れている。

 シィは間を置いてから言った。

「でも、『ヒュー』……かな」

「……だと思った」

 ビーはゴロンとお腹を向けて大の字になった。最近よくやるポーズだ。

 動物としてはどうなのかと思うが、人の言葉をしゃべるビーバーなのだからそれ位は普通な

のかもしれない。

「………」

 シィはフッと笑んだ。ビーは、やっぱり側にいるだけで色々と助けられる。

「そう言えば…ガウッ」

「!?」

 ビーの声が変わった。ビーはシィ以外の人間の前ではしゃべれない。

 どうやら黒人の青年が目を覚ました様だった。


  *   *    *


「………?」

 黒人の青年はまだ事態がよく飲み込めていない様だった。

 シィとビーが入っていくとハッと恐れた様な表情になり、それからシィを認めると笑顔にな

った。

「……会いたかった………」

 黒人青年は立ち上がって懐かしそうにシィに近づき、そしてハグした。

「え……?!」

「グゥ?」

 ビーが不審そうな声を上げた。

「………!!」

 シィは動けなかった。ハグされた瞬間、黒人青年の左手甲の『ファントム』がシィのウナジ

の『ファントム』に触れ、黒人青年のイメージが一気に流れ込んできたからだ。

 それは、哀しい別れのイメージだった。何かに追われ、離ればなれになった大事なヒト。そ

のイメージの中に、確かにシィらしき人物の面影はあった。そしてそれはファイやフライと別

れた、ずっとシマで独りのシィのイメージそのものと結合して同化する感覚をもたらした。フ

ァイと『ファントム』で繋がった時と同じ様な感覚だった。

「………!」

 シィは目を閉じてゆっくりと両手を挙げ、黒人青年の背中に回した。

「グ?」

 ビーが首を傾げた。

 二人は、抱き合っていた。まるで長年連れ添った二人の様に、もしくは大恋愛の末ようやく

お互いの気持ちを確かめ合った二人の様に。

 しばし時間が経った。

「あ………?」

 黒人青年はハッと我に返って抱いているシィに気付き、離れた。

 ビーはその時のシィが一瞬見せた名残惜しそうな表情を見逃さなかった。

「何か、……ゴメン」

「ううん……あ、身体大丈夫?」

「あぁ、何とか」

 ぎこちない二人を見ながらビーはそっとため息を吐いた。また一騒動ありそうだぞ、と思っ

ていた。

 その日は軽く魚で食事を済ませ、黒人青年は再び眠りについた。

「……………」

 シィは先程抱きしめられた感覚をずっと思い返していた。今までのどの人とも違う、これは

一体何なのだろうか?


  *   *    *


 次の日、黒人青年とシィはシマを歩いていた。やはり海はゼリー状のままだった。

 黒人青年は、やはり名前や前いたホシの情報などは持ち合わせていなかった。シマに現れた

時の記憶も朧げだった。ただ、何かに追われていたのだ、と。

 昨晩ハグされ『ファントム』で繋がった時に流れ込んできたイメージも、同じ様なものだっ

た。誰かを失い、追われている。そしてその失った誰かは、何処かシィに似ている。同じ様に

感じる。それ故に思わず抱きしめてしまったのだ、と。

「そっか……」

 実のところ、シィはもう一度抱きしめてもらった時のあの感覚を感じたかった。

 黒人青年はずっと海を眺めていた。

「本当に、ヘンな海だね」

「あ、昨日からだよ」

「よくこうなるの?」

「変わるのはよくあるけど、こうなったのは初めて」

「そう」

「………」

 シィはそっと黒人青年の方を見た。

 決して不健康そうではないが、細くて朧げな印象だ。今はこのシマに現れた時の様な恐れも

無く、普通に過ごしている。その涼やかさはシィを和ませた。

 昨日ハグされた時、妙な安心感があった。自分でも驚く程内部に溶け込んで、無意識のまま

自分からハグに応えた。自分の褐色の肌とそれよりも濃い肌のコントラストが、不思議にマッ

チしているのも新鮮だった。あぁ、この人かもーーーそれはあの白亜の塔の頂上にいる青年『

ヒュー』とは違うものの、別の感覚でのその人かも知れない。何故かそう思っていた。

 シィにしては珍しく惹かれ、自分から望む何かを持っているオトコに見えた。

「…………」

 シィは自然にフッと笑んでいた。

「ねぇ、これ……」

「え?」

 気がつくと黒人青年がゼリーの上を歩いて浅瀬の上まで出ていた。しゃがんで何かを見てい

る。慌ててシィが近づいて覗き込むと、そこにはゼリーの中に取り込まれた状態の熱帯魚がい

た。

「生きてるのかな」

「さぁ……」

 熱帯魚は微動だにしなかった。

「………」

 シィは腰のナイフを抜いてゼリーを掘っていった。黒人青年もじっと見守っていた。

「……取れた」

 シィは熱帯魚を手に乗せて覗き込んだ。熱帯魚は冷たく、呼吸もしていない様に見えた。黒

人青年も覗き込んだ。

「死んでるの…?」

「…………!」

 シィは間近に来た黒人青年の顔をそっと横目で見た。思ったよりも長いまつ毛が印象的だっ

た。褐色の肌にドレッドヘア、旧インド系の様な端正な顔立ち。だがその顔には独特の哀しさ

が残っている。それでも笑うとふわりと涼しげな風が吹く。

「あっ」

 黒人青年が声を上げた。

「え?」

 また慌ててシィが覗き込むと、掌の上の熱帯魚がピクッピクッと動きを始めた。突然息を吹

き返した様だ。どうやら酸欠で苦しんでいる様だった。

「えっと……」

 シィは焦って辺りを見回した。辺りの海は全てゼリーになっていた。苦しがっている熱帯魚

を入れる海水は存在しなかった。小川は一応生きてはいるが、この熱帯魚はどう見ても海水魚

だった。

「ごめん……」

 シィは掌の中で熱帯魚の断末魔を目撃した。

 見上げると、黒人青年も哀しそうな顔をしていた。

「余計なことした……」

「そうだね……」

「………」

 普段食べる分の魚は捕って感謝して食べてはいるつもりだった。それなのに。只の興味本位

で死なせたことは意外にシィを傷つけていた。食べること、自分の身を守ること以外の、初め

ての殺生であったかもしれない。

「ほら、貸して」

 黒人青年は特にシィを責めるでも無く熱帯魚を自分の手に移し、それをゼリーの穴に入れて

掘ったゼリーの欠片で覆った。

「………」

 シィはその顔を見れなかった。

「もしかしたら、この海が戻った時に生き返るかも」

「………!」

 その言葉に、シィはようやく顔を上げた。

 黒人青年はシィの肩に手を置いてポンポンとやった。

 暖かいものがシィの胸に広がる。やはり、この人ならーーーそう思った。

 黒人青年も微笑みを返した。

「ガウッ」

 小屋の辺りで待っていたビーが迎えにきて少し声を上げた。


  *   *    *


 その夜、焚き火を囲んでやはり山のもので食事をしながら二人はそっと寄り添っていた。

 ビーは話せないまま見守るしか無かった。

「このシマは、静かだな」

「今は波の音が無いから余計にね」

「そうだね……」

 そんな他愛のない言葉を繋ぎつつ、いつしか二人はじっと見つめ合っていた。

 ビーはハラハラしながらそれを見ていた。


 ビーの巣のある小川はまだかろうじて水が残っていた。

 ビーは歩いて巣の中に入り、そしてネコの様にハコを組んだ。

 恐らくこれから、シィとあの黒人青年は事に至るだろう。

 それはシマに何をもたらすのだろうか。

 でも、どうなっても、自分はシィの側にいることだろう。

 そう思いながらビーは目を閉じた。

 側には枕代わりの木片がいくつか転がっている。

 ビーはその一つを抱えて丸くなった。


 自然に、シィは服を脱いだ。

 黒人青年も全てを脱ぎ捨てた。

 二人は抱き合って唇を重ね、お互いを強く抱きしめた。

 やがて二人はベッドに崩れ落ちた。

 シィは自分の声を聴く。まるで別人の様に歓喜の声を上げる自分の姿に驚いていた。

 いつもは自分の指がーーそして前回はファイの指が入った場所に、オトコの指が優しく出入

りしている。シィは何度も達した。やがて、自分の上に他人の重みが伸し掛かる。それを全く

嫌だとは思わなかった。黒人青年が、メリメリと音を立ててシィに入ってきた。一瞬の痛み。

出血。だがそれは徐々に快感へと変わった。

”切なくて哀しいけど、時に満たされる”

 ファイの言っていた意味を、シィはようやく理解した。


  *   *    *


 翌朝、シィは黒人青年の肩口で目を覚ました。

 覚えている限りでは初めての経験だった。人の体温を感じながら起きるとは、こんなにも安

心するものなのだろうか。

「…………」

 シィはまだ眠りの中にいる黒人青年を眺めた。

 長めの睫毛。細いながらもそれなりにしっかりとした筋肉。そして自分の肌とのコントラス

トをしばし楽しんだ。

 やがてシィは起き出した。下腹部に鈍い痛みがある。少しの違和感も。それはそうだ。他人

のものが入ったのだから。

「ふぅ……」

 シィは少し伸びをしてから、外へと歩き出した。

「?!」

 出てすぐのところにビーがいた。

「服着たら?」

 シィは全裸のままだった。

「あ、ああ……どしたの、ビー」

「海が、変わったんだけど」

「え?」


 いつものスポーツブラとパレオを身につけたシィは波打ち際まで出て行った。空は良く晴れ

ていた。

 だが海はゼリーというか、羊羹状の小豆色に変わっていた。

「ホントだ、変わった……」

「ね、変でしょ」

「うん……?」

 シィはしゃがみ込んで再びナイフで羊羹状のさざ波の端を切ってみた。

 ゼリーのツプツプという感触が、羊羹の様なねっとりとした切れ味に変わっていた。

「何でーーー?」

「多分、いつものシマの変化だとは思うけどーー」

 側にいたビーが口を開いた。

「何?」

「もしもシィの変化、もしくはあの黒人青年の変化に連動してるとしたらーー?」

「あたしの……?」

 ビーはじっとシィを見つめた。

「……あ……」

 シィは咄嗟に下腹部に手をやった。

「そう、なのかな……?」

「だからってどうにも出来ないんだけどさ……でもガウウ」

「え?」

 またビーの口調が獣のそれに変わった。

 振り向くと、黒人青年が小屋の入り口に出てきていた。まだ全裸だった。

 シィは視線を少し下にやって、あれが昨日自分の中にーーーと思い出して、少し顔を赤くし

た。


  *   *    *


「ヘンな感じだね」

 黒人青年は服を来て浜に出てきた。

 その表情の奥底に、シィは昨日とは違い恐れの様なものが微かに戻ってきているのを感じ取

っていた。

「……大丈夫?」

「何が?」

 黒人青年は優しく笑んだ。笑うと昨日の雰囲気に戻った。シィは笑んで手を繋いだ。

「いや……何となく」

「そっちも、大丈夫?」

「え?」

「いや……」

「………?」

 黒人は少し俯いた。シィはようやく察してはにかんだ。

「あぁ……だ、大丈夫」

「……初めてだった?」

「そこなんだよね……ホントは初めてじゃなくて全て忘れてるだけなのかも」

 シィは空を見上げた。

「俺みたいに、か……」

「ね」

 シィは手を繋いだまま座った。

 黒人青年も自然に後ろからシィを抱く形で座った。

「ひょっとしてやっぱりーーー」

「ん?」

 黒人青年は間を置いて言った。

「あんた、妹じゃないのか?」

「……え……?」

 シィは振り向いて黒人青年の気配を見た。

 黒人青年は後ろから優しくシィの耳にキスをした。シィはピクリと身体を震わせた。黒人青

年はそのまま続ける。

「いやーーーちょっと思ったんだ」

「何か、思い出した?」

「どうだろうーー多分、事故か何かで亡くしたんだと思う」

「妹をーーー?」

 シィは考え込んだ。そういうこともあるのだろうか。此処は、彼にとって死後の世界だとで

もーー?ならば此処で暮らしている自分の存在は、何なのだろうか?

 それでもこのシマなら、ありそうなことではあった。

「…………?」

「あ、そう思ったのは今で、昨日のは違うよ」

 黙ったシィにを気遣って黒人青年は繋いだ手をギュッと握った。

「あぁ、うん……」

「近親相姦とかじゃなくて」

 黒人青年はフワリと笑った。

 シィもギュッと繋いだ手を握り返して笑ったが、今は黒人青年の奥底に眠る何かへの恐れが

少し気になっていた。

 ビーは少し離れてその様子をじっと見ていた。

 よく晴れた空の下、海は小豆色のまま固まっていた。


  *   *    *


 その日の午後、海の色は更に濃さを増し青黒く固まっていった。

 黒人青年は明らかにそれを恐れていた。

 ランチの後、シィは黒人青年を山に誘ったが黒人青年は小屋の前から動かなかった。固まっ

た海を恐れている様なのに、そこからずっと視線を外さない。

 シィはトイレだと言っていつもの小屋の裏手の小さな支流に向かった。トイレ用の小さな流

れは何故かまだ生きていた。その流れが岩場の中へと消えていく場所の側でシィは立ち止まっ

た。この支流の地下のその先は、固まってはいないらしい。

 ビーが気を利かせて付いてきた。

「ビー、話せる?」

「うん、大丈夫」

 シィ以外の人間と少し離れれば、ビーはシィと話すことが出来た。

「……どう思う?」

「うーん」

 ビーは上目遣いでシィを見た。

「……何?」

「シィはさ、あの人に帰って欲しい?いてほしい?」

「え?」

 シィは虚を突かれた様に絶句した。

 そうなのだ。これがいつものシマの所作であるのなら、いつか彼も帰るのだ。そして彼の為

に何かすることは、それを早めてしまうことになるのかも知れないのだった。

「………でも、さ」

 シィは少し考えてから言った。

「何とかしてあげたい」

「うん」

 ビーはシィがそう言うであろうことは分かっていた。ビーは続けた。

「ジコ、って言ってたよね」

「言ってた」

「交通事故で、妹を亡くした」

「多分、そうだって…」

「で今、海は道路になりつつある」

「道路?」

 シィはようやく思い当たった。シマにそんなものは無いので今まで気付かなかったが、数々

の映像ディスクでは見たことがあった。というか、ほぼ全ての作劇に出て来るマチに、それは

必ず存在していた。

 今、ゼリーだった海は正にそうなっていた。

「昨日まで安心してたのは、このシマに道路が無かったからじゃないかな」

 シィは考え込んだ。このシマは静かでいいね、とあの黒人青年は言っていた。それは車の騒

音が無いから、という意味でもあったのだろうか?

「最初にこのシマに来た時、何かに追いかけられてたよね」

「うん、見えなかったけど……」

「で交通事故の様な音がして、気絶した」

「そうだった……」

「その何かが、また来ようとしてるんじゃないかな」

 ビーは確信めいていった。

「だからあの人は、恐れてるんじゃないかな」

「……来たらどうなるんだろう」

「それはまだ分からない…」

 ビーは更にシィに顔を近づけた。

「でも今回のあの人のシマって言うのは、あのアスファルトなんじゃないかな」

「あ………!」

 ビーはいつも正しい。今回のこともそう考えるなら筋は通る。いつも誰かはその人自身のシ

マを伴ってやって来ては帰っていく。

 ならば、とシィは考えた。

 自分はこの状況で、何が出来るのだろうか。

 最初を捧げたあの黒人青年に対して。

「…………」

「あぁ!」

「!?」

 林の向こうの浜から黒人青年の叫び声がした。

「何だろ」

「行こう!」

 シィは猛速で走り出した。


  *   *    *


「あぁ……」

 黒人青年は波打ち際ではなく小屋の入り口に立っていた。

「どうしたの!?」

 シィが走っていくと、黒人青年はあの人形を手にしていた。

「それ……」

 それは数日前に小屋に現れたものだ。ヌイグルミ素材の、古びた女の子の人形。

「あぁ、あーーー」

 黒人青年は動揺していた。じっと人形を見つめ、震えていた。シィは黒人青年の手にしがみ

ついて言った。

「その人形が、どうかした?」

「何故、此処に?……」

 黒人青年は人形から目を離さず震える声で言った。

「これも少し前にシマに現れたの」

「やっぱり、あぁ………!」

 黒人青年は膝から崩れ落ちた。涙がこぼれ落ちた。

「どうしたの?この人形って何なの?」

 シィは黒人青年を抱きしめた。胸に青年の頭を抱いて、ゆっくりと肩をさすった。

”どうしたの?”

 『ファントム』で呼びかけても返事は無かった。

 黒人青年は子供の様にむせび泣いていた。

 シィは戸惑っていた。だが今はこうすることしか出来なかった。

 ようやく小屋に辿り着いたビーはその様子を哀しげに見ていた。


 やがて、雨が降ってきた。

 深夜になっても、その雨は止まなかった。

 小川は少し水かさが増した。その水の向こう、自分の巣の中でビーはまんじりともせずに雨

音を聴いていた。

 ビーは思う。

 この水は、何処から来て何処へ行くのだろう。いつもなら海に流れ込むのだが、今は固いア

スファルトの様になっている。水はその下へと染み込んでいくのだろうか。やはりアスファル

トは表面を覆っているだけで、その下にはいつも通りの大海が広がっているのだろうか。

 あの黒人青年はようやく泣き止んだ様だ。

 シィはまだ側にいるのだろう。

 あの人形は、恐らく事故に遭ったという妹のものなのではないだろうか。あの黒人青年にと

っては形見の様なもの。

 彼はこれを探しに、シマに来たのかもしれないーーービーはそんなことを考えていた。


 シィの膝で、黒人青年は眠りについていた。

「……………」

 小屋から見える外はずっと雨のままだ。更に激しく降っている様だ。

 シィはそっと黒人青年が抱えている人形に触れた。クタクタになったその人形は、時折光る

雷に照らされどこか不気味にも見えた。

「……………」

 シィはじっと座っていた。眠気は一向に訪れない。

 黒人青年の側で、ずっと彼を見守っていた。それは愛情なのか同情なのか、それとも母性な

のか。

 色んなことがあり過ぎて、初体験の感覚など何処かへ行ってしまっていた。

 もっと幸せな気分で過ごすものだと思っていた。

 やはりこのシマでは、全てが思う様にはいかないーーー。

 シィはそれを今更ながら哀しく思った。


  *   *    *


 遠くで、がシャーンという大音響がした。

 それはゼリーの海に黒人青年が現れそして倒れた時に聴こえた破壊音と同じに思えた。

 シィはようやくウツラウツラとしたところだった。

「!!」

 黒人がハッと目を覚ました。ソワソワと辺りを見回している。

 シィはまだフラフラする頭の中で思った。これはーーやっぱりカークラッシュの音!?

 黒人はバッと飛び起きて、走り出した。

「あっ……ちょっと!」

 シィも少し遅れて走り出した。


「あぁ……!」

 外は激しい雷雨になっていた。

 闇夜に雷光がフラッシュの様に瞬き、その後雷鳴がシマを揺らす。だが先程の大音響はその

雷鳴とは全く違っていた。それは断続的に続く。

 黒人青年は人形を握りしめたまま波打ち際で立ち尽くしていた。

 あの音は……!やはり、自分を追ってきたーー!

 シィが追いついてきてその手を話すまいとしがみついた。

 ガシャーン!

 少し沖合のアスファルト状の海面にヒビが入った。

「!?」

 黒人青年は気付いていた。それが自分を追ってきているものであるかの様に、それが今まさ

にそのヒビの下から飛び出して来るかの様に。黒人青年の瞳はそのヒビに釘付けになっていた。

「………!」

 だがシィは考えていた。

 今自分は、何が出来るだろう。彼の為に、何をしてあげるべきだろう。

「……シィ!」

 遠くでビーが叫んだ。

 ピカッ!また雷光が走る。シマの林に落ちてヤシが一本黒焦げになった。

 それでもシィの頭はどんどんクリアになっていった。

 ガシャーン!またヒビが大きくなった。確かに、下から何かが出て来ようとしていた。

「……よしっ!」

 シィは黒人青年を置いて走り始めた。

 何故自分がそうしたのか分からなかった。でも。今出来ることは、彼の恐れの正体を取り除

くこと。取り除けないまでも、それが何なのか位は見せてあげられたら。それはシィの直感だ

った。

 シィは全力で走った。そう決めたら、全身に力が漲っていた。

 ビーも、黒人青年も見た。

 力強く走るシィの身体がウナジの『ファントム』を中心にフワリと緑色に光ったのを。

 キィーーーーン!

 その光はヒビの下側からも光った。

 シィは思った、あぁ、間違いじゃなかった。自分が近づくことによってあの緑色の光ーー海

の底で見た『ヒュー』が、何かを見せてくれる。このアスファルトの下の何かを。

 ヒビはその光によってどんどん広がっていった。

 ガシャーン!

 大音響と共にヒビを破って上空へと舞ったのはーーーあの巨大なクジラだった。

「えっ!」

 黒人はポカンとした。てっきり妹を奪った邪悪な車の様な存在が、自分をも襲うのだと確信

していたからだ。

 急ブレーキをかけたシィは緑色の光を纏い高々と舞うクジラの姿を見上げた。それは雄々し

く、美しい姿だった。今回も、このクジラはこの状況を打破する為に現れたのだ。そう思った。

 ドシャーン!

 クジラの巨体は再びアスファルトに落下し、そこに大穴を開けた。アスファルトの十数メー

トル下はやはり既に海に戻っている様だ。

「………!」

 衝撃に耐えたシィは再び走り出した。クジラが開けた大穴の方へ。その下にはあの光がーー

『ヒュー』がいる筈!

 シィの全身に更に力が漲ってきた。


  *   *    *


 黒人青年は、動けなかった。

 目の前の光景が信じられなかった。

 海が変化したアスファルトを破って宙に舞う巨大なクジラ。緑色の光。そして、走るシィ。

 彼女は、一体何をしようとしているのだろう。ただ、それは今此処にいる自分の為だという

ことは何故か分かった。

 こんな自分にーーー何故なのだ?自分にそんな価値などーーー

「………?」

 フッと力が抜けた。いつの間にか、身体が動く様になっていた。

 黒人青年は雷雨の中、手にしていた人形を眺めた。これは、誰のものだったろう?何かが引

っかかっていた。


 キィーーーン!


 黒人青年はハッとした。

 目の前に緑色の光が溢れていた。

 シィがクジラが開けた大穴に到達し、そこに飛び込む瞬間が見えた。その身体も、既に緑色

に光っていた。その美しさに、黒人青年は一瞬見とれた。

「………!」

 黒人青年は近くの柔らかな光に気付いた。

 人形を握りしめている左手甲の自らの『ファントム』もフワリと緑色に光っていた。

 ”あぁ………!”

 その瞬間、シィと黒人青年は再び『ファントム』で繋がった。

 光の中から、無数のイメージが飛び込んできた。

 ”ーーーー!”

 それは、幾多の世界で黒人青年が出会った交通事故と妹の連なりだった。

 ある世界では、妹は生きていた。妹の代わりに人形が挽かれていて、自分はそれを知らずに

ずっと妹を失ったのだと思っていた。またある世界では自分も妹も一緒に死んでいた。全く事

故に遭わなかった世界もある。自分が死んだ世界もある。

 ”あぁ……!”

 いずれの世界でも、妹と人形は一緒だった。そして自分はその妹のことを大事に思っていた。

 では、今の自分はーーー?

 黒人青年は『ファントム』の無数の光の中でそれを見た。

 ”ーーーーーそうだ”

 いなかった。

 妹など。

 妹のイメージで持っていたこの人形が、代わりに挽かれただけだ。

 なのに自分はそのことにショックを受け、自身を失い、やがてこのシマに来た。このアスフ

ァルトの道路を自らのシマとして。

 そこで出会ったシィに、初めて抱いたあのしなやかで気風の良い少女に、妹の影を見ただけ。

 追われていたんじゃない。

 妹のイメージを追っていたのだ。

 そして見つけた。

 ”ここにーーー!”

 黒人青年は古びた人形をそっと抱きしめた。


  *   *    *


 シィは、クジラが開けた穴に飛び込む瞬間、自らの身体が光るのを感じた。

 『飛ぶ』ーーシィが時々見せる自身の瞬間移動をそう名付けていたーー時の、自身の中から

何かが溢れ出る感覚がシィを包んだ。

 だが今回は違った。光ったまま海中に飛び込むと、そこは更なる緑色の光に溢れていた。

「!!………」

 『ヒュー』の緑色の光。それはいつも優しく、シィを導く。今回は間違い無くクジラもその

力を貸してくれた。

 光の向こうで、クジラがジャンプを繰り返しているのが見えた。その度にアスファルトは壊

れ、元の海へと戻って行く。今あるアスファルトもどんどん羊羹状に、そしてゼリー状へと徐

々に変わっていった。

”あぁ……!”

 そしてその瞬間、シィは『ファントム』で黒人青年と繋がった。

 フラッシュの嵐。シィは黒人青年と妹、そして人形の奇妙な世界の群れを体感した。

 どの世界でも、彼がどんなに妹を思っていたか。その愛情の強さを理解した。

 そしてーー彼のシマ、アスファルトは歪んだイメージに取り付かれていた故の姿で、本来の

彼の姿はあの透き通ったゼリーのそれだったのだ、と言うことに気がついた。

””やっぱりーーー”

 それだからこそ、自分は彼に惹かれたのだ。シィはそう思った。

 ーーーでも。

”あたしはーーー”

 ”妹とは違う”

 黒人青年の声が流れ込んできた。

”え………”

 ”でも、だからいい”

”ーーー!”

 ”代わりなんかじゃなかったよ”

 ”シィはそれでいい”

 ”いつかーーー”

 途中からその声はもはや懐かしいーーあの白亜の塔の頂上にいる青年、『ヒュー』のものへ

と変化していった。

”『ヒュー』!?”

 ”ネジレないでいて”

 その声は、前と同じ言葉を口にした。それは優しく、力強く、シィの全身を揺さぶった。

 シィは涙ぐんで頷いた。

”ーーーうん”

 ”約束だ”

”絶対に!”

 久々に聴いた『ヒュー』の声。どれだけこの声を聴きたかったことか。

 質問がいっぱいあった。会えたら聞こうと考えていたことも沢山ある。それでも、シィは何

も言葉を発することが出来なかった。

”ーーーー!”


 ドクンッ。


 その時、シィは自らの下腹部に、鼓動の様なものを感じた。海やシマが、一緒に震えた様な

気がした。

 初めて体験した今日。

 今、イメージの氾濫の中にいる自分に、一筋の光が見えた様な気がした。

 それは自らの母親、という存在。

 いつか自分が生命を宿す様に、自分を宿してくれた存在が、何処かにいるのではないか?

 何故かシィは、今更ながらそれに思い至った。今まで自分のものとして考えたことがなかっ

た。オヤ、という存在のこと。

 シィは下腹に手を触れた。

 ここで、繋がっているーーー。 

 そして、いつか。

 ”   ”

 遠くで、『ヒュー』の声が微笑んだ様な気がした。


  *   *    *


 やがて、夜が明けた。

 雨は止み、海は元のマリンブルーを取り戻した。

 シィは珊瑚礁の外れに立っていた。

 あの夜、シィが海面に顔を出した時には既に黒人青年の姿は消えていた。

 分かっていたとは言え、シマから人がいなくなることは少し堪えた。

「満足そうな顔をしていたよ」

 ビーはそう言った。

 ビーは黒人青年が消えるところを目撃したのだという。海のゼリーが全て消えた後、シィが

『飛ぶ』時の様に緑色に光って消えたのだそうだ。その時、一瞬ビーに目をやって頷いたのだ

と。

 ……多分、そうなのだろう。そのことは『ファントム』で繋がっていたから分かる。

 素敵な青年だった。少し危ういけれど。人を愛することに真っすぐだった。

 そしてまた一人、取り残された。シィはそう思う。

 それでも、彼は今ある記憶の中では初体験の相手だったのだ。

 シィはそっと下腹に触れた。

 例え忘れているだけで既に幾多のオトコに抱かれていたとしても、今回のそれは間違い無く

特別だったのだと思う。


「………」

 ビーはそんなシィの様子を、浜辺から見ていた。

 初体験の相手さえもいなくなっていく。シィのシマでの今は、何処か哀しい。

 それでも、シィは強い。また明日には普段の笑顔を見せるだろう。

 そしてあの緑色の光『ヒュー』とあの巨大なクジラ、そしてシィのウナジにある『ファント

ム』ーーーその三つが、この場所を揺り動かしている。三者は微妙なバランスを見せながら、

シマを何処へ向かわせようとしているのだろうか。


「………!」

 シィはすうっと息を吸い込んだ。

 また日常が始まる。

 下腹部の違和感も取れた。

 また、潜ろう。色んなものを観に行こう。

 そう思った。

「………よしっ」

 シィは珊瑚礁の縁からタッと踏み切り、綺麗な弧を描いて水中へと飛び込んだ。

 ビーはその放物線を目を細めて見ていた。



              ( 終 )


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