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#6「PHI」

今回は、絵描きの少女ファイがシマにやってくる話です。

「男に抱かれるってどんな感じ?」

 その日、大人になりかけの少女シィは同じく大人と言うにはまだ未熟な少女ファ

イと穏やかな午後を過ごしていた。側にはビーがいて、その様子をじっと眺めてい

た。

「んー、切なくて哀しいけど、時に満たされる」

 ファイは絵筆を動かしながら言った。

 二人は浜辺の岩場で沈む夕日を見ながらそれを絵にしていた。

「へぇ……」

 いまいち絵筆の扱いに慣れていないシィは、隣のファイの絵を見て圧倒されなが

らも自らの絵に筆を走らせていた。最も、今は絵のことよりもファイの話をもっと

聞きたいと思っていた。特にオトコ関係の話。自分もまだ体験していない筈の色々

なことを。

 ファイはクリクリとした蒼い目をシィの方に向けた。

「シィは、まだってこと?」

「うーん……覚えてないだけ、ってビーは言うけど」

「このビーバーくんが?」

「うん」

 ビーはファイのまっすぐ過ぎる視線に少し目を逸らしてグルルと言った。

 ファイはすっとまた絵に戻る。

「でも、女同士もいいけどね」

「え?」

「ううん」

 おいおい、とビーは目をぱちくりとさせた。

 シィとファイ、二人はまるで姉妹の様に会った瞬間から打ち解けていた。


  *   *    *


 ファイとの出会いは、その一日前の午後だった。

 その日シマは何の変哲もない良い陽気で、南国風のいつもの空と海が広がってい

た。

 シィとビーはシマの山を一通り探索した後、休憩がてらシィの小屋がある浜とは

別の海沿いの岩場に降りてきていた。

 この不思議なシマには、時々ある筈の無いものが落ちていたりする。時に貴重な

物資だったりするので二人だけのこのシマでは必要なものだった。だがたまたまそ

の日の収穫はゼロだった。

「今日は何も無かったね」

「まぁそんな時もあるよ」

 そんな話をしながら歩いていると、突然ビーが飛び上がった。

「わっ?!」

「どうしたの、ビー?」

 ビーはソワソワと落ち着かなそうなそぶりを見せた。

「気配がーーー突然現れた」

「え」

 シィは辺りをササッと見渡した。

「あの岩の向こうーー」

「……あれね!」

 シィはビーが指し示す岩へと走った。

 ビーは何故か人の気配を感じる事が出来た。だがこんなに近くまでビーが人の気

配に気付かないというのは普通ではない。また特別な何かがシマに起ころうとして

いるのだろうか。そしてそれはーー?まさか、あの白亜の塔の上にいる青年『ヒュ

ー』?

 シィは驚くべきスピードで岩を駆け上がり、飛び越えた。

「!!」

 落下に入るシィの視線は一人の人間を捕えた。

 女性だ。こちらに背を向けて大きな板に向かって何か作業をしている。

 着地するが早いかシィは音も立てずに腰のフライの骨のナイフに手をかけた。

 まだその女性は振り向かない。

「………」

 シィはしばし迷い、そして声をかけた。

「ねぇ!」

 女性のシルエットが反応し、そして振り向いた。

 黒髪に黄色人種の肌、そして印象的な大きい蒼い目を持ったシィと同じくらいの

少女だった。白のワンピースに裸足という格好だった。

 その少女はシィを認め、そして屈託の無い笑顔を見せた。

「あぁ、ここ誰かいたんだ」

「………え?」

「何か違うなって思った」

 シィはナイフから手を下ろした。

 どうやら危険は無さそうだ。後ろを振り向いてビーに頷いてから、シィはゆっく

りと近づいていった。

「………」

 その少女はシィから目を外さずにずっと微笑んでいる。

 今までシマに来たのは男性ばかりだったが、そう言えば世の中には当然自分と同

性もいるしシマに来る事もあるよな、とシィは思った。

「……あなたは誰?どうして此処にいるの?」

 シィが目の前に来るとその少女は話し出した。

 シィはドギマギしながら答える。

「あ……あたしはシィ。ここはあたしのシマだよ」

「あなたの?」

「うん、物心ついたころからいる」

「一人で?」

「あぁ……ビーがいるけど」

 シィは後ろを振り返った。ビーは岩陰から顔半分だけ出して覗いていた。

「ビーバーだから、ビー?」

 ちゃんとビーバーだと判断出来たらしく、その少女は印象的な蒼い目を丸くした。

「すごぉい、アタシ初めてかも、ビーバー見るの」

「そうなんだ……」

 シィはそこで初めてその少女の後ろにある板に目をやった。それは水彩画だった。

「わぁ……」

 描かれているのはその場所から見える海だった。ただし、そこには大小様々な動

物たちが戯れ生命に満ちあふれていた。そしてよく見ると奥の方で顔を出している

クジラの上には誰かが乗っている様にも見えた。力強くそれでいて繊細な、絵心な

ど無いシィにも分かる圧倒的な画力だった。

「すごい……」

「あんまり見られると恥ずかしいな」

「あ……ゴメン、でも良い絵だね」

 そこで二人は再び目を合わせた。

「アタシはファイ。よろしくね」

 ファイと名乗った少女は、軽く左手を差し出した。そう言えば絵を描いているの

も左手だった。その甲にはシィのウナジにあるタトゥーの様な紋章……『ファント

ム』は無かった。

「あ……よろしく」

 シィはその手を握った。シィの割と筋肉質で日々の作業で固くなった手とは違う、

繊細で柔らかな手だった。

「このシマのこと、色々教えてよ」

 ファイはまた屈託の無い笑顔を見せた。

「うん!」

 シィもそれを返した。いつの間にかこの女性とは気が合う、と感じていた。

 ビーがようやく警戒を解いて近づいてきた。

「ビーもよろしくねっ」

「ガウッ」

 突然持ち上げられたビーは驚いてジタバタもがいた。シィ以外の人間の側では、

何故かビーは話せなくなる。

「あはは、意外と重いね」

 ファイは笑った。


  *   *    *


 その日はシィの小屋に戻って、僅かな魚を分け合って食べながら二人は話をした。

 ビーも側で魚を食しながらそれを眺めていた。

「へぇ、ずっと此処で一人だったんだ」

「ファイは?」

 ファイは首を傾げた。

「うーん、問題はそこだよね」

「やっぱり……?」

「あ、今まで来た人達みたいにってこと?」

 シィは頷いた。

 今までこのシマに来た人達は、その前に自分がいた場所や名前などの記憶が無い

事が多かった。

「確かにーーあまり覚えてないかも」

「でも、名前は覚えてるんだね」

 その点は特別だなとシィは思っていた。そう言えばあの中年、フライも自分で名

乗ったっけ。

「そうだねーー何でだろ」

「………」

 シィは更に尋ねた。

「……そう言えばさ、ファイには『ファントム』って無いの?」

 ファイは首を傾げた。

「『ファントム』?」

 シィはビーと顔を見合わせた。

「知らないの?」

「何それ」

 シィは皿を置いて自分の黒髪を片側に寄せてウナジの『ファントム』を見せた。

「あぁ…これのこと」

 ファイも皿を置いて自分のワンピースの片方の肩を外して自分の胸を見せた。

「………!」

 シィは目を丸くした。ファイはノーブラだった。自分よりも明らかに大きい乳房

が顔を出していた。

 シィは少し照れて視線を外した。

「…そうじゃなくて」

 ファイは笑って自分の胸を指し示した。

「あ」

 そこにはーー左の乳輪の近くには、微かに『D』っぽいタトゥーの様な紋章があ

った。

「これーーー」

「気付いた時からあると思う。これがそう?」

「………?」

 シィは少し顔を近づけてみた。自分の『ファントム』とそう大差はない様に見え

る。

「……触っていい?」

「うん」

 多分同性のものを初めて触る、と思いながらシィはファイの『ファントム』に手

を伸ばした。

「ん……」

 シィの手に触れられたファイが少し艶っぽい声を上げた。

「…………」

 シィは妙な気分だったが、今は『ファントム』に対する興味の方が勝った。今ま

で来た人達はそれを持たないフライ以外、皆左手の甲にあった。自分の様にそれ以

外の場所に存在するのは初めて観た。

 今までシマに来た人達によると、『ファントム』とは人類が手にした通信端末で、

ある時代以降は生まれた時から生体的に存在しているものらしい。単に会話だけで

はなく本来は奥底まで繋がるものではあるーーとのことだが、シィにそれが現れた

のはごく最近だった。

 ーーー繋がるのだろうか。最初は番号交換、と言うのが本来の『ファントム』の

使い方ではある様だが、実は今までそれをしなくともすぐに繋がる人達もこのシマ

では普通にいたのだ。ファイはどうだろうーー?

 シィは目を閉じた。

”繋がるかな”

 ファイはピクリと反応した。

「……何これ!」

”聴こえた?”

「何だろうーーー何かは感じるけどーーー何?」

 ファイはもどかしげにシィを見た。

 ……そうか、ファイはこれが『ファントム』というものであることも知らなかっ

たのだ。最初の自分みたいな感じか。

 シィは少し考えてから自分のウナジに触れて言った。

「あたしの此処と合わせてみていい?」

「これ同士を?」

「うん」

「いいよ」

 ファイはあっさりと了承した。

 そのスピードの速さにシィは少し惹かれた。


 ファイがシィの後ろ側に回り、自分の胸を近づける。

「…………」

 巨大な柔らかいマシュマロの様な感触がシィの後頭部を包む。

 ”………あっ!”

 シィの脳裏にファイの声が響いた。

”なんだ、すぐに繋がった”

 ”……すごいね!”

”でしょ”

 二人はそのままファイがシィを後ろから抱く形で目を閉じた。

 『ファントム』によって、お互いのイメージが流れ込んで来る。

 ”……何でも分かるんだね”

”うん………”

 シィはファイの鼓動を感じた。

 絵を描く事が好きなのだろう。ずっと絵を描いて過ごしてきた様だった。何人か

男の影もあった。深く繋がった人もいたのだろう。だが別れてしまった。それは自

分の中の何かが溢れてきた為。

 そんなイメージが流れ込んできた。

 だが、それ以上の事は分からなかった。今まで『ファントム』で繋がった人達と

は圧倒的に情報量が少ない気がした。

 ”……そう、何も無いんだ”

”え…?”

 シィのその感覚は、ファイにも即座に伝わった様だった。

”じゃあーーじゃあ、あたしは?”

 シィはファイに尋ねた。それは、実はずっと思っていた事だった。数々の人と『

ファントム』で繋がった時、シィは時々その人達本人が忘れている事柄にも触れる

事が出来た。そしてその人達にもそれが呼び起こされ、そして元の世界に帰ってい

くことが多々あった。ならば、シィが本来経験して忘れていることも、ファイには

今まさに見えていたりするのではないのか?

 ”……うーん……”

”……見えないね……”

 だがその予測は違っていた様だった。シィがこのシマに来て以降のことしかファ

イには感じ取れてはいない。そのことはシィにも伝わった。

 二人は顔を見合わせた。

”ーーーじゃあーーー”


 ”同じだね”


 同時に二人は思った。

 お互い、覚えていない事がある。それは何処かもっと深い奥底にしまい込まれて

いる様だ。

 届きそうで届かない。

 その感覚を、この世で二人だけは共有出来る。

 それはとても幸せな事だ。


 抱き合ったままじっとしているシィとファイを見ながら、ビーはどうしたものか

と考えていた。

 『ファントム』で繋がっている、というのは分かる。その表情が妙に艶っぽくそ

して充足感に満ちている事から、それが二人にとって素晴らしく心地よいものであ

ることも分かった。

 だがーーー同時にビーは一抹の危うさを感じ取っていた。

 それが何かと言われると答えようの無い、微かな何か。


  *   *    *


 次の日、二人は姉妹の様にはしゃいで過ごしていた。

 波打ち際で戯れ、一緒に魚を捕り、二人で料理をして二人で食べ。

 ビーは側でポツンとそれを見ていた。

 午後にシィは小屋の裏の林でパルクールをやってみせた。ファイはそれを目を丸

くして見ていた。少し試してはみたが、流石にそこまでの体力はファイには無さそ

うだった。

「あたしは長くやってるから」

「ずっとシマでサバイバルしてたんだもんね」

「まぁね」

 二人は笑った。


 夕方、二人は浜辺で絵を描き始めた。

 道具はファイが持っていたものを二人で共有した。最初に会った時の大きめのキ

ャンバスを外して新しい紙を貼り、二人でそれぞれ夕日の絵を描いた。

 描きながらも二人は饒舌だった。

「ねぇ、男に抱かれるってどんな感じ?」

「んー、切なくて哀しいけど時に満たされる」

 ファイは絵筆を動かしながら言った。

「へぇ……」

 いまいち絵筆の扱いに慣れていないシィは隣のファイの絵を見て圧倒されながら

も自らの絵に筆を走らせていた。最も、今は絵のことよりもファイの話を聞きたか

った。

 側にはビーがいてその様子をじっと見ていた。

「今まで来た男たちとは、そうならなかったんだね」

「まぁ……色々あって」

「まぁ、知ってるけど」

「あ、そうだったね」

「『ファントム』でね」

「ね」

 そうやって二人はいつまでも微笑んでいた。

 ビーはやはりその様子をじっと見守っていた。


  *   *    *


 その夜、小屋で自然に二人は抱き合っていた。

 『ファントム』で繋がりながら、お互いを求め合っていた。

 身体だけではない、精神的にもほぼ同じものが、繋がり合う。その感覚が全身を

満たす。

 二人の指は相手の中へと潜り込み、全てを求めようと動き続けていた。

 流れ込んで来るお互いの感情や皮膚感覚がフィードバックされ、快感がより増幅

されている様だった。


 ビーは自分の巣の中でそれを聞いていた。

 とうとうここまできたか、とビーはため息を吐いた。

 それにしてもーーーとビーは思う。

 あの何処か危ういファイと言う少女は、どうして此処に来たのだろう。

 今のところ、彼女のシマは現れていない様だ。

 今までシマに来た人間たちはそれぞれ自分のシマを持ち、、あのフライを覗いて

は皆『ファントム』を持ち合わせていた。そして元いた世界と何か繋がりがあり、

そこへ戻ろうとはしていた。

 ファイは違う。『ファントム』は一応あるものの、その知識は無かった。元いた

世界にも何の未練も無い様に見える。いや、「何も無い」とすら言っていた。

 彼女は、フライの様に特別な何者かなのではないだろうか。だとしたらどういう

ーー?

「ーーーーーっ!」

 遠くで、二人が同時に達した声がした。

 それでも、ビーはシィを見守っていたいと思った。

 そういう自分を肯定したいと思った。

 それが、自分の役割なのだから。

「………!」

 その時ビーは思い出した。

 「このシマ、何かが違うなって思った」ファイは、そう言わなかったか?

 それはつまりーーー?


 達した瞬間、シィはファイの奥底にいる何かのイメージが見えた様な気がした。

 それはぼやけてはいたが、恐らくシィが見たことのある白亜の塔とそこで暮らし

ている誰か。

 ーーーそれは『ヒュー』ではないのか?

 シィは遠ざかる意識の中でそう思った。


  *   *    *


 夜が明けた。

 シィとファイは心地よい疲れに満たされて目が覚めた。

「おはよう」

「おはよ」

 二人は裸のまま身体を起こし軽くキスを交わした。

 だがシィはその奥底で昨日最後に見たビジョンが引っかかっていた。

「…アタシも見たよ」

「………!」

 ファイの言葉に、シィははっとした。

 ファイは少し哀しそうな顔をした。

「初めて観た。でもあれがシィの言う『ヒュー』なのかな」

 シィは少し俯いた。

「分からないーーぼんやりとしたイメージで」

「そうなの?」

「うん。いつもは塔の屋上にいてこっちを見てるから」

 ファイの中で微かに見えたビジョンは、白亜の塔ではあるものの塔の上ではなく

下の方で暮らしているらしい姿だった。

「もし、それが『ヒュー』だったとしてーー」

「え?」

 ファイが一糸まとわぬ姿で立ち上がった。あまり筋肉のついていない、綺麗なラ

インを持った裸だった。シィは少し見とれた。

「アタシはどうなるんだろ」

「……どういうこと?」

 シィも立ち上がった。

「今までの人は、シィと一緒に『ヒュー』を見て、それで帰ったんでしょ」

「まぁ、そう……」

「アタシは?」

 ファイは哀しそうに目を伏せた。

「アタシは何処に帰るんだろう」

「ファイ……」

 シィはファイを後ろからそっと抱いた。シィのものより大きな胸の感触が腕にか

かる。

 ファイは俯いたまま言った。

「ずっと、ここにいたい」

「あたしも………いてほしいよ」

「帰る場所なんて、あるのかな」

「いていいんだよ」

「何にも無いのかも、アタシ」

「…………」

 シィはそれ以上何も言わずファイを抱きしめていた。

 朝の海風が二人を柔らかく薙いでいた。

 ずっと、こうしていられれば良いのにーーーシィはそう思った。

「おはよーー」

 そこへビーがやってきた。既に魚を数匹捕えていた。

「朝食だよ。服着な」

 それだけ言うと、ビーは踵を返した。


  *   *    *


 少しずつ、シマが変わっていく気がした。

 シマの上空はずっとよく晴れた青空のままで、海も穏やかだった。

 だが何かが変わっていた。

 あれから、ファイは少しふさぎ込んでいた。絵も描こうとしなかった。こういう

時は何を描いてもダメなのだ、そう言った。『ファントム』で繋がるのも嫌がった。

自分の暗い部分をさらけ出したくないのだ、と。

 シィはファイがそう言うなら無理にとは思わなかった。

 ビジョンの中の『ヒュー』らしき存在を確かめたくはあったが、それでも焦りは

しなかった。

 ただ、「側にいていいよ」とだけ言った。本当は、ずっと一人でいて二人でいる

事に戸惑っている自分が何処かにいることも自覚していた。でも、それでもーーー。

ファイは自分と同じく何処か足りない部分を持った、この世でたった二人の女性な

のだ。そう思っていた。

 ビーはそんな二人の様子を淡々と眺めていた。

 確信めいたものを内に秘めながら。


 ある午後、シィは一人でシマの周りの海底の崖へと降りていた。

 思えば久しぶりのフリーダイブだった。

「…………」

 煌めく珊瑚礁に色鮮やかな魚たち。自身の身体も思い通りに動く。肺の中の酸素

もまだ十分だ。

 いつもと同じ、素晴らしい海の世界。なのに、今は何処か違って見えた。

 側に誰かがいるとは、こういうことだろうか。

 そしてその誰かの助けになれないとは、こんなにも哀しいことなのかーー。


 ビーは浜で日向ボッコをしていた。

 シィに付いていっても良かったのだが、ふさぎ込んだファイが気になったのだ。

 今ファイは少し離れた砂浜に座り込み、枯れ枝で砂をいじっていた。少し近寄り

がたい雰囲気だった。

「…………」

 ビーは思う。ビーが思っていることがもし真実なら、この関係はやがて破綻を迎

えるのではないだろうか。初めてシィに同性の親友らしきものが出来たことは良か

ったが、女子同士の諍いとは時に行き過ぎる時もある。今のところそこまではきて

いないもののーー。

 ビーは心配していた。また、シィが独りになるのではないか。単に誰もいないよ

りも、繋がってそしていなくなることの方が寂しいものだ。

「あぁーーーーーーーー!」

「え?!」

 突然絶叫が聴こえた。驚いてビーが振り向いた先で、ファイが頭を抱えて立ち尽

くしていた。

「あぁ、あぁーーーーーーー!」

 どうやら砂浜を見て何かを恐れている様だった。

 ビーは急いでファイの方へ向かった。とはいえ、ビーバーの足はそう早くない。

「あぁ、どうして、あぁーーー!」

 ファイは錯乱していた。髪に突っ込んだ手ををぐしゃぐしゃと動かしている。ど

うしたのだ?彼女が恐れているのは何だ?それともこうなること自体を恐れていた

のか?

「ファイ!」

 と叫んだつもりだが、既に近づいたビーの声は「ガウッ」という声にしかならな

かった。

「あぁ…………」

 ファイは天空を見上げ、息が止まった様に叫び声が消えた。

「!?」

 ビーは目を見張った。

 ゆっくりと倒れつつあったファイの身体が緑色の光に包まれ、そして消えた。


  *   *    *


「!?」

 シィは突然何かに伸し掛かられて慌てた。

 そこは既に水深百メートルを超えた海溝の縁だった。今日の調子なら『ヒュー』

を目撃した二百メートル近辺まで行けるか、と思った正にその時だった。

 シィはもがいてその物体から離れ、それを目にした。

「……?」

 それは、死体に見えた。長い黒髪が波に舞い、手足が弛緩したその姿。

「!!」

 だがようやく認めたその顔は、ファイのものだった。一体何故??

 シィは思わずファイを抱きかかえた。

「ーーーー!!!!」

「!?」

 突如ファイが暴れ出した。意識を取り戻したのだろうか。だが此処は百メートル

の深海だ。訓練していないファイではーーー!ファイはもがき、シィに抱きついて

暴れた。

 マズい、とシィは思った。溺れる人間は藁をも掴もうと手に触れるもの全てに抱

きつく。それで救助しようとした人間も一緒に溺れるのはよくあることだ、という

のはシマに現れた本で読んだことがあった。今自分は不用意にファイに近づき、そ

の状態になってしまっている。暴れれば暴れる程酸素と体力が無駄に消費され、生

き延びる可能性が消えていく。

「!!」

 ゴメン、と思いながらシィは頭を振ってファイに頭突きを入れた。

 グッ、と一瞬怯んだファイの腹に力を込めた膝蹴りを入れ、うまく気絶させる事

が出来た。何かの映像で見た当て身だったが初めてにしてはよく出来たと思う。

 それからシィはファイの後ろに回り込み、顎に手をかけて引っ張って海上へと向

かった。シィ自身はギリギリ大丈夫だが、ファイはどうだろうか。もしかしたら、

また誰かを失う事になるかもしれない。シィは恐れた。

 ーーー誰かって誰だ?何故そう思った?酸素の少なくなった頭でそんな思いが反

芻した。

 そして同時に思った。

 何故ファイは突然海中に現れたのだ?


  *   *    *


「シィ!」

 何とか海上に出てシマの珊瑚礁の端に辿り着くと、そこにはビーがいた。

「何でファイが?」

 シィはゲホゲホ言いながらファイを海上に突き出た珊瑚礁の上に引っ張り上げる

と、人工呼吸を試みた。そしてすぐさまファイのミゾオチに掌を当て、心臓マッサ

ージを始める。

 ファイは全く動かなかった。青白い顔に黒髪が張り付いたまま、徐々に死相が現

れてきていた。

「お願い……!」

 シィは再び口をつけ、ファイに息を吹き込んだ。

”帰ってきて!”

 『ファントム』でも呼びかけた。

 だが返事は無かった。

 シィは心臓マッサージを続ける。

「ファイーーーーーファイ!!!」

 波打ち際にシィの絶叫が響いた。

 ビーが俯いた。

 ファイの鼓動が戻ることは無かった。

 シィの今ある記憶の中では、初めて側にいる人が亡くなったのだ。


  *   *    *


 いつの間にか夜になっていた。

 息絶えたファイはシィの小屋に寝かされた。

 シィはそれを見るのが嫌で砂浜にずっと出ていた。ビーは側でハコを組んでいた。

「あの時、ファイは砂に棒で絵を描いてたんだ」

「うん………」

 シィは、何処か現実感の無い自分を自覚していた。ビーの言葉も今は自分をす通

りしていく。

 夜空のホシ達はいつもにも増して深く静かに瞬いていた。なのに、それを一緒に

見るファイがいない。シィはツーッと流れる頬の涙を拭おうともせず、寄せては返

す波を眺めていた。

「その絵が、すごくオドロオドロシくて、見てて苦しくなった」

「………」

「それを見て、ファイは怖がって叫んでたよ」

「そう……」

 ビーは、こんな時に言うべき事ではないと思いながらも言葉を続けていた。

「そしたらーーー身体が光った」

 シィが少し反応した。

「……光った?」

「うん………シィが『飛ぶ』時みたいに」

「あたしが………」

 シィは、こんなに哀しいのにそのことのついて何故、という疑問が普通に湧いて

来る自分の心の冷たさに驚いていた。ファイ程の人間がいなくなっても、自分はこ

うなのだろうか?何処か欠陥があるのではないだろうか。

 だが、同時にシィは思った。

 ファイも自分と同じ様に『飛んだ』。やはり、このよく分からない世界の中で、

ファイだけが自分と繋がっていた。自分と同じ様な何かを持っていた。だからこそ

自分はこんなにファイに惹かれたのだろうか。

「………!」

 シィは涙を拭って、砂浜を歩いていった。

 ビーが言う、ファイのおどろおどろしい絵を見たいと思ったのだ。

「こっちだよ」

 ビーもノソノソと歩いていった。

「ーーー!」

 近づいていくとシィは直ぐに気がついた。暗い中でもそれははっきりと分かった。

いや、暗いからこそ毒々しさがより強調されている様だった。

「これーーー」

 二人で描いていた時の生命に満ちあふれた神々しい絵とはまるで別物だった。黒

々としたモヤモヤが辺りに溢れ、暴れている。同じ人間が描いたものとは全く思え

なかった。

「何でーーー?」

 シィは立ち尽くしていた。

「思ったんだけどさ」

 ビーがポツリと言った。

「今まで来た人と違って、何故ファイのシマが無いんだろうって思ってたけど…」

「うん……」

 ビーが真剣な顔でシィを見上げた。

「ファイのシマって、此処なんじゃないかな」

「………どういうこと?」

 シィは眉をひそめた。

「ホントに同じ様なシマで、此処と同一化してるから見えなかっただけなんじゃな

いかな」

「………!」

 突拍子もない意見だった。だがシィはそれが正解に近い解答の様な気がした。

 本当に、同じ様な二人。同じ様なシマを持っていた。ファイがシマに現れた時、

既にこのシマは変わっていたのだ。最初はそれで気持ち良かった。それでも、ずっ

と一緒いると何処かで歪みも出て来る。完全に同じものなど無いのだ。それ故に、

ファイはどうにかなったのではないだろうか?

 それは只の直感だった。

 ビーはシィの身体が一瞬フワリと緑色に光ったのを見た。

「………」

 シィは更に考えた。

 ならばーーーファイが死んだ今、このシマはどうなっているのだ?

「……!!」

 何かが奥底でパッと光った。シィは顔を上げた。

「シィ!」

 駆け出したシィに、ビーが叫んだ。

 シィは自分の小屋の方へと全力で走っていった。


  *   *    *


 シィは確信していた。

 今、まだシマの違和感は解けていない。

 ならばーーーならば、ファイの存在はまだこのシマの何処かにあるんじゃないの

か?

「!!」

 小屋に駆け込んだシィはシィの簡素なベッドに寝かされていたファイの方へと向

かった。そして冷たくなったその死体に触れた。ひんやりとした触感が一瞬シィを

怯ませたが、シィはその心臓に耳をつけた。

「………?」

 やはり鼓動は聴こえない。だが、何かが引っかかっていた。

 シィはそのまま左手で自分のウナジの『ファントム』に触れ、意識を集中させた。

自分の頬にはファイの『ファントム』が触れている。

”ファイ……”

 少し前に感じた、脳裏に何かのノイズらしきものは現れた。だが繋がるという感

じではなかった。

”お願い”

 シィは更に深く、念じた。

”返事して”

 ビーが側に来てそれをハラハラしながら見ていた。

”ファイ”

 シィは、やがて身体の中から沸き上がる何かを感じた。

”あなたが、必要なの”

「!?」

 その時、ビーは見た。

 ファイとシィ、二人の身体がフワリと緑色の光に包まれるのを。

「あ………」

 『飛ぶ』のだ、とビーは思った。シィが時折見せる瞬間移動。だがそれはシィが

意図するものではない。その光の色からしてあの謎の光『ヒュー』と関係がある様

だがまだその理由は分かっていない。

 今回は、何処へ行くのだろう。

 しかも、死体のファイと?

 そんな思いが脳裏を掠める間に、一瞬の光と共にビーの眼前から二人の姿は消え

た。


  *   *    *


 そこはおどろおどろしい空間だった。

 モヤモヤとしたどす黒い何かの中で、不気味に怪しい赤紫の光が蠢いていた。

 これはーーーファイが砂浜に描いた絵の中のーーファイの暗い方の精神の中の世

界だろうか。

”ファイ!”

 シィは声を上げた。いや、既に自分の身体も見えはしなかった。何の感覚も無か

った。

 ただ心の中の叫びだった。

”何処にいるの?!”

 闇の中で、声がした。

 ”結局、シマはアンタにとって気分のいい人間しか来ないのか!”

”!?”

 それは誰の声だったろう。ファイのものでもあるような、そうでもないような。

”どういうこと?”

 ”来ちゃいけないのか!”

 ”アンタは我がままだ!”

”そんなことない!そんなことないよ!”

 シィは思わず言い返していた。

 だがその声は歪んだ悪意をぶつけてくる。

 ”アタシに言わせりゃ、ここで色々起こしてるのはアンタだよ”

”違う!”

 シィはありったけの力で叫んだ。だがそれ以上の力で声が降り掛かる。

 ”違わない!”

”違うよ!”

 やがてそのモヤモヤ達は、群れをなしてシィめがけて飛んできた。

”!!”

 シィは感覚のない筈の自分の身体が、バラバラになっていくのを感じた。


  *   *    *


 シィは立っていた。

 辺りは白く何も無い空間だった。

 ただ潮騒の様な音だけが響いていた。

”…………?”

 シィは自分の手を見た。いつも通りの掌に見えた。

 身体も見てみた。褐色の肌に黒髪。スポーツブラに短いパレオ。腰にはフライの

ナイフ。

 何も問題無い様だが、まるで現実感が無かった。

 誰もいない。

 白い空間に、シィはただ独り立っていた。


 遠くで、誰かが呼んだ様な気がした。

 振り返ったが、白い空間以外何も見えはしない。

 シィは今までに感じたことのない孤独感に包まれていた。

 ビー。

 ファイ。

 フライ。

 そして今まで会った人達。

 誰かが、自分を呼んでくれているのだろうか。

 

 声のする方へ足を踏み出そうとした。

 だが動けなかった。

 先程の言葉が脳裏に響いていた。

 シマで起こる全ては、自分のせいなのか?

 足の先から、全身が砂になって崩れていく様な気がした。

”ーーーーーーーー!”

 叫ぼうとしたが、声も出なかった。


 シィは自分の存在が無になっていくのを感じた。

 シィは限りなく孤独だった。


 キィーーーーン!


 突然、目の前に緑色の光が見えた。

”あぁ………”

 それは、初めて『ヒュー』に会った時に見えた光。

 あれから何度も、シィを導いてくれた光。

 『飛ぶ』時も、自分の身体は同じ色に光る。

 だがそれが何なのか、自分は知らない。

 いつかビーが、その光の名前も『ヒュー』なのだ、と言っていたっけ。ならばあ

の白亜の塔の青年『ヒュー』がこれを起こしてくれているのなら、いいのに。

 今も、闇に飲まれそうになった自分をこの光が助けてくれた。

 何故かシィにはそれが分かった。


”………!”

 シィは気付いた。

 いつの間にか、周りが黒い空間になっていた。遠くで瞬く『ヒュー』の緑色の光

以外は、何も見えない。以前の様に光に照らされ見えていたあの青年『ヒュー』が

いる白亜の塔も今は見えない。『ファントム』で繋がった時に見える、無数の光が

交差する空間でもない。

 だがシィは、そこに誰かがいるのに気がついていた。

”あ………”

 それは白い服を来た、小さな黒髪の女の子だった。

 彼女は膝を抱えてフワリと浮いたまま、肩を振るわせて泣いていた。

”………どうしたの?”

 シィはそっと声をかけた。

 ”分からないーー分からないの”

”……何が?”

 シィ自身もいつの間にか側で浮いていた。

 シィは漂いながら近づいて、そっとその子の肩を抱いた。

 ”アタシが何なのかーーー”

 涙に濡れた顔を上げた少女。その表情には、確かにファイの面影があった。

”ーーー!”

 名前は?と尋ねようとしたがシィは声が出なかった。ただ、少女の肩口に見えて

いる洋服のタグが「Φ(ファイ)」だったのには気がついた。

”ーーーー?”

 何だ?これはーーー何なのだ?


 キィーーーーン!


 再び少女の身体がーーいやシィの身体も、フワリと緑色に光った。

”!?”

 『飛ぶ』ーーー内から何かが沸き上がるその感覚が、シィを包んだ。


  *   *    *


 シィは、見事な稲穂の海の前にいた。

”………?”

 何も無い一本道でを挟んで両側に稲穂が広がっている。空はあり得ない程のオレ

ンジ色に染まっていた。地平線まで、道と稲穂と空以外は何も見えない空間だった。

 シィは、この風景を何処かで見た様な気がしていた。

 ーーー何処でだったろう?

”…………!”

 シィは気付いた。

 揺れる稲穂の中に、白い帽子が見えかくれしている。

 さっきの子だ、とシィは直感的に思った。

”ねぇ!”

 シィは呼びかけた。

”あなたの名前は?”

 稲穂の中で、白い帽子が止まった。

”ひょっとしてーー”


”ファイじゃない?”


 白い帽子はフッと稲穂の中に消えた。

”!?”

 シィは思わず稲穂の中へと歩みを進めていた。

”ねえ”

”話がしたいの”

 やがてシィの目の前に、うずくまっている白い帽子に白いワンピースの女の子の

姿が見えてきた。

”……………”

 シィはその側にしゃがみ込んで、その頭を撫でた。

”大丈夫、何もしないよ”

 ”……本当に?”

 女の子は顔を伏せたまま『ファントム』で答えた。いや、既にこの空間自体が『

ファントム』の奥底であったのかも知れない。

”…………”

 シィは温かい気持ちでその頭を撫でていた。


 キィーーーーン!


”ーーーーー!”

 シィは目を見開いた。

 流れ込んで来るその女の子のーーーファイの情報の乱流にシィは揉まれていた。

 それはまだ知らなかったファイの生い立ち。出現。

 ファイにはオヤがいなかった。モヤモヤとしたどす黒い何かから、ある時突然こ

の世に出現した。そこは暗い空間だった。誰かに呼びかけても、返事は全く無い。

まるで誰かが打ち捨てたかの様に、ファイはそこに存在していた。何とかして自分

を保とうと彼女はもがいていた。だが時々、自分が自分でなくなる様なーーどす黒

い何かで自分で自分が訳が分からなくなる様な恐ろしい瞬間が度々訪れた。幼ない

自分は、何者でもない、人間ですらない。そのことだけは分かっていた。

 ある時、またファイは違う場所にいた。そこは青年とネコが住んでいる小さなホ

シで、そこにいる間だけは彼女はヒトとして生きる事が出来た。その時はその時で

違う記憶が彼女の中には存在していた。彼女は少しの間そこで楽しい時を過ごした。

だが、それも長くは続かなかった。

 それから長い時を経て、彼女は色々な場所を渡り歩いた。ファイは幼女から少女

へ、そして大人になりつつあった。

 ある時、ファイはあの不思議なホシへと再び降り立った。そこにはやはり青年と

ネコがいた。最初彼女はそれが同じ人物には思えなかった。ファイの成長に比べて

殆ど青年は変化していなかったからだ。そしてそこでも、ファイにはまた別の自分

の記憶が生まれていた。何者でもない自分が、そこでだけはちゃんと成立していら

れた。彼女はそこで楽しい時を過ごした。青年と一緒に絵も描いた。だが、またあ

のーーーどす黒い何かで自分でも自分が分からなくなる時がやってきて、それで彼

を失った。

 彼女に初めて「ファイ」と名前を付けてくれたその青年を。

 そしてその世界からも自分は消えーーーまた別の世界へ。

 それを繰り返している。ずっと。

 シィのシマで話した男たちの記憶も、本当は自分のものではなかったのかも知れ

ない。

 そして、またあの魔の時が再びやってきた。 

”ーーーーー!”

 シィはじわりと全身に鳥肌が立つのを感じていた。

 だから、あんなに恐れていたのか。

 自分が自分でなくなる時を。

 そしてもう一つ。

 青年とネコがいるというそのホシとは、やはり『ヒュー』がいる白亜の塔が立っ

ている場所ではないだろうか。

 そしてその青年こそが、『ヒュー』なのでは?

”………!”

 シィは思った。

 やはり、ファイは違った。今までの人達とは。

 人ではなかったのかも知れない。だが自分とて人である確証など無いのだ。

 ”だから、シィのせいじゃないんだよ”

 誰かの声がした。ファイのものだと、シィは思った。

”ありがとうーー”

 シィは思わずそう言っていた。

 救われる。ただそれだけの言葉で。

”………”

 シィは目を閉じた。

 その青年と、どんなにファイが愛し合っていたかが体感出来た。

 いつか自分にも、そういう存在が現れるのだろうか。

”………!”

 そして流れ込んで来るイメージの中でのその青年のーー『ヒュー』の姿は、シィ

が焦がれているその人ではなくーーあのフライの姿によく似ていた。

”あぁーーー?”

 恐らく別世界での自分の父親であろう存在のフライと、今出会った少女ファイ。

この二人だけは、この世界で自分にとっては特別な人間だったのだろうか。

 この二人と自分は、どういう関係なのだろう。


”!!”

 突如、稲穂が消えた。

 そこは再び暗い空間になった。

 シィは辺りを見回した。

 誰もいない。

”……………”

 だが、遠くで緑色の光が瞬いていた。

 『ヒュー』の光。

 シィは温かい気持ちでそれを見つめた。

 そしてそこから、無数の光が飛んできた。前にみた光景だった。

”やっぱりーーーー”

 そう、『ファントム』の奥底の、人々の記憶や情報が集まるサーバーの様な場所。

前にそこでシィは初めて『ヒュー』の声を聴いた。

 また、色んな人々の声が聴こえてきた。

 ”オレも、いないから。誰も”

 ”まぁ、ソレはソレだから”

 ”思い出した”

 ”いないけど、いるから”

 ”人って、思ってるほど強くないけど、思ってるほど弱くもない”

 それは、誰の言葉だったろう。前に聞いたことがある気もした。

 もしかすると、ファイがーーフライが、何処かの世界で聞いた言葉だったのかも

しれない。

"ファイ"

 シィは呼びかけた。

 辺りを飛び回る無数の光の中に、ファイもいるかもしれないと思ったからだ。


”元気でね”


 ”またね”


 そうファイの声が響いた様な気がした。

 

  *   *    *


「シィ!」

 ビーの叫び声でシィは目を覚ました。

「………あれ……、ビー」

「起きた……心配したよ」

 ビーは涙目でシィを覗き込んでいた。

「……ここは?」

「シマだけど」

 シィが身体を起こすと、そこはシィの小屋から少し離れた砂浜だった。すぐ側ま

で波が来ていた。

「………!」

 そしてシィが寝ていたのは、ファイが描いたおどろおどろしい絵があった場所だ

った。満ち潮で既にその絵は消えかかっていた。

「夢じゃなかったんだ……」

「え?」

 シィは消えかかった絵に触れながら言った。

「ファイが来たこと」

「そりゃあ……」

 とまで言ってビーは口をつぐんだ。

「何?ビー」

 ビーは少し迷ってから、口を開いた。

「思ったんだけど……このシマで起きた事全て、誰かが見ている夢だったってこと

もあるかなって」

「……へぇ」

 シィは苦笑しながらも、それもあるかもーーとふんわりと思った。

「………」

 シィは立ち上がって消えかかった絵を眺めた。

 すでにおどろおどろしさは半減し、子供が何も考えず書きなぐった風にも見えて

いた。

「ファイは、帰ったの?」

「う~ん……」

 シィはシマを振り返って眺めてみた。

 いつものシマだった。ファイのシマと結合した様な違和感は見られない。

「多分、そうかな……」

 だが、彼女に帰る先は無いのかも知れない。

 彷徨い続ける魂の様な哀しい存在。

 でも、それだけに強くて美しい。

「また、会いたいな」

 シィは呟いた。

「え?」

 それは、シィの偽らざる本音だった。

 シマを一陣の風が吹き抜けていった。


 後日、思い出してシィは最初にファイが描いていて外した絵を探し出して広げて

みた。

 それはやはり生命力に満ちあふれた素晴らしい海の絵だった。

「………!」

 そしてその中にあったクジラに乗っている人物は、今見るとあのフライの姿に見

えてくるのだった。

「フライがお父さんだったら、ファイはお母さんかな」

「う~ん……」

 シィは首を傾げた。流石にそれはイマイチ現実感が無かった。

「お父さんの、元カノーーーぐらいじゃない?」

 そう返したシィの笑顔は、ビーを少し安心させた。


                   ( 終 )


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