#5「Rainbow」
今回、シマを取り巻く海が七色に変化し、小さなシマととある研究者がやってきます。さて、シィとビーは……っていうお話です。
一晩寝ると、雲海だったシマは元通りになっていた。
このまま雲の上で食欲も性欲も水も排泄すら必要なく、生きているのか死んでいるのか分か
らない状態なのか?という懸念はとりあえず無くなった。
そしてシィとビーは日常に戻っていた。
大人になりかけの少女シィは今日も朝から自慰にふけっていた。
「あ……」
最近、疼くという表現が本当に理解出来る様になったと思う。
誰かが側にいないから、見る人もいないから、よりその欲望が解放されている感覚。
もっと。
奥まで。
シィの指は自身に深く差し入れられ、その奥のコツンと当たるところを何度も刺激していた。
筋肉質だがしなやかなその肢体が軽くのけぞった。
あの時の感覚が、繰り返し脳裏に蘇る。
今ある記憶の中では初めて触られたことで、何かが弾けた様だった。
* * *
二十四時間前、シィは研究者に後ろから抱かれていた。
思えば最近、この体勢になる事が多い様な気がする。それは周りの状況による事も多いのだ
が、結局そういうことが嫌いではないのだと思う。自分は一体どうしてしまったのだろう。勿
論、自分にとってそれが嫌ではないタイプの人間がたまたまシマに来ているのだ、ということ
もあるだろうが……。
でもーー本当に触ってほしいのは、そして触れたいのは、あの白亜の塔の上にいる青年ーー
『ヒュー』なのだ。だがしかし、彼はいつかは触れられる存在なのだろうか?
「ん……」
研究者の吐息が耳にかかり、シィはその身が切なく捻られていくのをどうしようも無かった。
「あ………」
研究者の手は後ろからシィの脇に差し入れられ、そっと鍛えられた腹筋に触れている。
その手はゆっくりと上がっていきーーーそしてシィの乳房に触れた。
* * *
その一週間前、シマを取り巻く海は朝から赤く染まっていた。
その鮮やかな赤は何処から来ているのかは分からない。シマの小川はそれよりも幾分薄い赤
色がついていて、飲むのも洗濯等をするのも少しためらわれた。
シィはいつものスポーツブラに短いパレオ姿で海岸に立っていた。
「水、大丈夫だった?」
ビーバーのビーは巣を出るのに小川の中を通らなければならない。当然その水をくぐる訳だ
が、触れても特に身体に変化は無い様だった。
「味もしないねぇ」
ビーはプルプルと身体を震わせて薄い赤の水を弾き飛ばしながら言った。
「キレイだけどさ……」
よく晴れた天気ではあるが、海だけが赤い。だがその赤はどす黒い血の様なものではなく、
ロゼの様な透き通った赤だった。
しばし逡巡した後、シィは波打ち際に寄ってその海水を少し口に含んでみた。普通の塩味が
した。少なくともいつもと違う成分が入っている訳ではなさそうだ。
やがてシィはその海に潜ってみた。
生態系は特に変化は無い様だ。魚たちも普通に泳いでいる。彼らは大丈夫なのだろうか。
見た目はいつもと同じ海。ただ、海水に色がついている。
「ふぅん……」
シィは数匹魚を捕っただけで上がった。
久しぶりにシマを取り巻く海底の崖を降りてみようかとも思ったが、流石に今回の変化はま
だどれだけ危険なのか分からない。
ランチにその魚を焼いて食べてみたが、特に変化は無かった。一応一匹は刺身で食べてみた
が、味にも変化は無い様だ。
「……ま、今のところは大丈夫かな」
ビーはすぐに慣れ、自分の魚にがっついていた。
次の日、海は緑へと変化した。
また次の日は紫。そして黄色からオレンジ、蒼と次々に変化が来た。
「何コレ」
「何だろうね」
シィとビーはその度にシマのあちこちを回っては見るが、本当に水の色以外は何も変化が無
かった。味はしなくても時間が経ってから何か変化が、と何処かで警戒はしていたが今のとこ
ろ別状は無い。何故色がついているのかは分からないままだ。
そもそも、こんな小さなシマの水源が元々不明だったのだ。雨は降る時には降るがそれも定
期的という訳ではない。だが山の中腹からはよほどの事が無い限り何本か湧き水があり、それ
が数本の小川となって海へと流れ込んでいる。
今その流れは薄い蒼色が付いていて、海は更に濃い色が付いていた。これはどういうことな
のだろうか。
シィ達はその日シマの山頂に登ってみた。
見えたのは見渡す限り、蒼の海だった。いつもの海水とは違う、もっと藍色に近い色が、地
平線まで広がっていた。
シィはその色が変化する時を見たいと思い、次の日の朝まで見ていようと提案した。
「シィ、起きてられるの?」
「んー、頑張る」
シィは笑ってビーに見張りを頼み焚き火用の薪を探し始めた。
* * *
小さなシマがあった。
そこは本当に小さく、十メートル四方程の広さしか無かった。そこにヤシの木に囲まれた小
さな研究所が建っていた。木で作られた南国風のオープンカフェの様な建物の中に、見た事も
無いシンプルな器械やアンプルなどが雑然と並んでいる。一角にはレンズやレーザー発生器な
ども見えた。デスクの端にはデジタルフォトスタンドがあり、虹の映像がループして流れてい
た。
そこにワイシャツに白衣を羽織った研究者がいた。自分がいつ此処に来たのかは知らない。
ただ、自分が何事にも邪魔されず研究出来るこの場所が今は気に入っていた。
「ふむ……」
自分が何処の所属であったか、その辺りの記憶は曖昧だった。
またそのことを特に気にしなくて済む、そういった雰囲気がこのシマにはあった。
食料や水は部屋の端に置いてある冷蔵庫にある。不思議な事に中身を出してもいつのまにか
また増えていたりする。冷蔵庫や電子機器の電源もソーラーで十分まかなえていた。
一角には簡素なトイレやシャワーコーナーもある。寝るのは古びたソファで構わない。
結局、此処で全てが完結しているのだった。
研究者はそこで、色の研究をしていた。
* * *
「……あっ?」
シィは飛び起きた。やはりいつの間にか眠り込んでしまっていた。
まだ朝方だったが、既に水平線上は太陽が顔を出していた。
「ビー!」
同じく側で丸くなっていたビーを起こし、シィは辺りを見回した。
水平線上は太陽のラインが反射しキラキラとしていて海水面の色はよく分からなかった。だ
がそこから少し外れた場所に目をやると、藍色から黒へと今まさに変化している様が確かに確
認出来た。
「…………!」
「変わったところ、見れたね」
起き出したビーがシィの足に手をかけて二本足とシッポで立っていた。最近よくやる体勢で、
そのうち人間の様に歩き出したりするんじゃないかとシィは思っていた。
「うん……」
シィはすっかり色の変わった海面を眺めた。黒の色ですらどす黒くはなく、どこか澄んだ雰
囲気を感じるのが不思議だった。
「問題は、何でかってことだけどね」
「まぁね……」
シマだから仕方ないよ、と言おうとしてシィはふと目を凝らした。
ちょうど太陽のラインがキラキラと輝きを放っている中に、黒い影が見えた様な気がしたか
らだ。
「…………?」
「どうした?」
ビーが鼻をクンクンと言わせて顔を上げたので、シィはビーを抱き上げてその方角を指差し
た。
「あそこ……影が見える」
間違い無かった。日の光が無ければシィの驚異的な視力でも黒い海面に紛れて見えなかった
かも知れない。
「んー?」
ビーも目を凝らしたが、元来ビーバーの目は強い光は苦手だ。
「見えない?」
「んー……微かに気配はするね」
「ってことはーーー新しいシマ!?」
シィは目を見張った。また、新しい人が新しいシマと共にやってきたのかも知れない。
「行こう!」
「わっ」
シィはビーを持ち上げるが早いかバッと岩場を飛び降りた。「パルクール」と呼ばれる体術
にシィは精通していた。岩や木や枝を巧みに使ってジャンプや滑空を繰り返し、走るよりも早
くスムーズにシマの山を下りていった。
* * *
海岸に着いたシィは、岩場に立ててあった筏を出して太陽の方へと漕ぎ出した。
ビーも置いていかれまいと慌てて飛び乗った。
久しぶりの筏は少し朽ちていて少々不安だったが、シィは構わず櫂を振るった。水平線上の
波間にはまだ点の様ではあるがくっきりとしたシルエットが見えていた。シィの視力10はあ
る目はそれが意外と小さなシマである事を見抜いていた。山などは無い、本当に小さな陸地に
小さな建物があるだけのシマ。そこには、一体誰がいるのだろうか。
もしかして、『ヒュー』……?
そんな思いもシィの頭をよぎった。いや、まだ彼はあの白亜の塔以外では見ていない筈。
でもとりあえず、自分が着くまで消えないでそこにいてーーー!
「シィ、また!」
水面を眺めていたビーが声を上げた。
「!?」
シィが見ると、今まで黒かった海面がにわかに白くなり始めていた。底から違う色の水が上
がってきて混ざっている訳では無い。それはまるでモーフィングの様に、辺り一帯の海水の色
が一斉に変わりつつあった。その白の色ですら、ミルクの様な濁ったものではなく何処か透明
感のあるのが不思議だった。
「わぁ……」
「キレイだけど、何か恐いね」
ビーが筏の真ん中で丸くなった。
「………」
ミシッ。
その時、異音がした。
「!?」
「何か、やばいよ」
確かに朽ちた筏が危険な匂いを発していた。
このシマではあまり時間軸が関係無いのか、置いてあったものが突然古くなったり、ずっと
あったはずなのに時々新しくなったりもする。この筏も一ヶ月程前に作ったものなので本来な
らここまで朽ちる事はないのだがーー
「!!」
ブチッと音がして、筏を繋いでいたロープが切れて筏がバラバラになった。
「あっ」
シィとビーは海へと投げ出された。シィはすぐさま一本の木にしがみついて顔を出した。
「ビー!」
「ほいほい」
見ると、シィの後ろからビーが顔を出して木に這い上がるところだった。
お互い泳ぎは達者なのでそうそう溺れる事は無い。ただ、白い色が付いた海が少し奇妙な感
じはするのだがーーそれでもシィは顔を上げた。
「とりあえずあのシマまで行こう」
「シィ、後ろ!」
ビーが声を上げた。
ハッと振り向いた瞬間、流れてきた筏の一番太い木がシィのコメカミを直撃した。
「!!」
あ、と思う間もなくシィは気を失った。
* * *
「これは光のスペクトル」
「…………」
シィはうっすらと目を開けた。まだ頭がボウッとしている。
遠くで、誰かが話している。誰だろうか。優しい声だ。……もしかして天国なのか?
「これで簡易的に虹が見れる」
「ガウガウ」
あれ?ビーの声もする。ということはここはーー?
「あ、起きたね」
本当に優しい声だ。あれはーーもしかして『ヒュー』!?
「!!」
シィはガバッと身体を起こした。が、ズキッとコメカミが痛んでシィは顔をしかめて頭を押
さえた。
「……!」
そこにはパッドが当てられていた。シィのシマでは時々しか見ないものだ。
「まだ無理はしない」
近づいてきた白衣の男にシィは目をやった。
「…………?」
顔がすっと近づいてきた。
「まぁ傷は大した事無いよ」
「え、えっとーー?」
その白衣の男は中肉中背、シィより少し背が高そうだった。黒髪の優しそうな顔立ちに眼鏡
をかけネクタイ無しのワイシャツの上に着た白衣の袖をまくっていた。すっとその左手に目を
下ろすと、シィのウナジにあるのと同じタトゥーの様な紋章『ファントム』があった。更に、
その薬指には指輪があった。
その男は優しく笑んだ。
「あぁ、最初驚いたよ。ビーバー君が浮かんでた君を引っ張ってきた時は」
「そう……」
シィは側のビーに目をやった。ビーは最近よくやる二本足立ちでこちらを見ていた。
「ありがと、ビー」
「グルル」
側にシィ以外がいると話せないのでビーは微笑んだシィに喉を鳴らして答えた。
「ビーって言うんだ」
「ビーバーだからね」
「そうか…まぁ楽にして」
白衣の男はデスクに腰掛けて端末を操作し始めた。
「………わぁ……」
シィはそっと立ち上がって周りを見回した。木で出来たバンガロー風だが片面の壁が無く、
そのまま海岸へと繋がっていた。建物はヤシの木に囲まれた南国風なのに此処にある電子機器
は超未来風だった。勿論シィにはよく分からないものだらけだ。シィのシマではほとんど電子
機器は見ない。シマには電源も無いからだ。
隅の方には冷蔵庫。映像では見たことがあるがシィはほぼ初めてだった。
「あぁ、その冷蔵庫にあるものは飲み食いして良いよ」
白衣の男が目線はモニターから外さずに言った。
「あぁ、うん……」
シィはおずおずとドアを開け、中から冷えたパックの飲み物を取り出した。そして恐らく初
めてパックからストローを外して刺して飲む作業を行った。中は特に味のしない水だった。
「………」
外から来た人には、普通のことなのだろうな。そう思った。
やがて一通り室内を見たシィは日が陰ってきた海を見つめた。
新しいシマ、新しい人。新しい機材。
どうやら『ヒュー』では無いらしいが、優しそうな人間が来た。
さて、何が起こるのだろう。
シィはそう思いながらズズッとパックの水を飲み干した。
* * *
白衣の男は研究者だと名乗った。
夜になったが、研究者は端末をいじるのを止めなかった。だがそのまま研究者は目線を合わ
せず普通に話に応じた。その口調はとても優しく、シィは色んな事を聞くことが出来た。やは
り研究者は自分の名前や住んでいたホシなどの情報は持ち合わせていなかった。
研究室はモニターの明かりと小さなランプだけの簡素な照明で照らされていた。
シィは投影式のキーボードを触る研究者の左手を見ながら尋ねた。
「その『ファントム』だけど」
「あぁ」
一瞬左手に目をやったが研究者はモニターに目を戻して答えた。
シィは少し間を取ってから聞いてみる。
「使えるの?」
”あぁ”
「!!」
あっさりと頭の中に声が響いてきてシィは驚いた。
”……凄い”
「これくらいはまぁ普通かな」
「あ」
またあっさりと接続は切られた。
「…………?」
シィは初めての感覚に戸惑っていた。
前回格闘家が来た時の深い『ファントム』の接続に比べると、あまりに短く、まだ研究者の
一部しか感じ取る事が出来なかった。
「…………」
とは言え、その断片だけは分かった。
研究者は何か色に関する研究をしている。そして元いた世界では恐らく妻と子がいるのであ
ろう。薬指に嵌っているのは結婚指輪だ。それなりに愛してはいるものの、研究者の中では研
究の方が重きを置かれている様だった。そしてその奥底に、誰なのか老人の顔が見え隠れして
いた。父親か恩師なのだろうか。その顔はボンヤリとしていてよく分からなかった。
「ごめん、あまり探られたくなくて」
「あ……うん」
シィはそっと研究者の様子を窺った。怒っている様では無かった。
そうか、そういうこともあるな、とシィは初めて思った。『ファントム』で深く繋がるとお
互い隠し事などは出来ないのだろう。全てをさらけ出す相手は選ぶものなのかも知れない。今
更ながらそういう微妙な人付き合いの経験値が少ない自分をシィは少し恥じた。
ビーがやってきてコツンと足に頭をぶつけた。
「………?」
そういえば『ファントム』で繋がって分かったことなどはビーには伝わらないのだった。運
良く自分に触れてでもいない限り。
相変わらずビーは研究者がいる場所では話せない。だがビーは何かを言おうとしていた。よ
く見ると海の方を指し示している。
「あ……」
そう言えば、とシィは思い至った。
「ねぇ、海の色だけど」
「あぁ、ここ数日変わってるね……もしかしたら此処のせいかな」
「……そうなの?」
「そういや溺れてたね。その時も多少色が付いてたけど…」
そこで研究者はモニターから目を離してシィを見つめた。
「他は特に大丈夫だったろ?」
「う、うん……」
モニターを見ているときは真剣だが目を合わせると優しい大人の目だった。シィは何故か胸
の奥でキュンと音が鳴るのを自覚していた。
ビーがやれやれと言う様にアクビをした。
「『ヒュー』……」
「え?」
シィはソファで横になっていた。研究者は椅子を並べて足を投げ出しビスケットを口にして
いた。研究者には今日はじめての食事だった。
「知らないよね………」
シィは微睡みながら呟いていた。
今まで来た人達は、手の甲にある通信端末『ファントム』は持っていてもあの白亜の塔の青
年『ヒュー』のことについて知っている人はいなかった。それでも、シィのシマに来て『ファ
ントム』で繋がっている間にそのことを理解する人は多い。
それぞれの人間に、それぞれの『ヒュー』。導くもの。この研究者はどうなのだろうか。
「そういうのは知らないけど…」
「……!」
シィは閉じそうになる目蓋を少し上げた。
「憧れる存在、ならいる」
「そう……」
そこで研究者は哀しそうに笑んだ。
「もう会えないけどね」
「………」
その表情にシィはそれ以上何も聞けなかった。
ビーは屋外のヤシの木の根元で軽く巣を作りそこで丸くなっていた。
ビーはまた海の色が変わるのを目撃したが、やがて眠りについた。
* * *
「シィ!」
ビーの叫び声でシィは目を覚ました。そこは研究者のソファの上。いつの間にか薄い毛布が
かけられていた。
いや、それよりもビーの声が聞こえると言う事は研究者がいないということだ。
「!!」
簡素な研究室を出たシィは、巨大な津波を目撃した。そのうねりは十数メートルの高さで小
さなシマへと押し寄せてきていた。しかもその色は赤蒼紫緑橙黄黒白とあらゆる色がついて不
気味に見えた。あの透き通っていた色も今は汚く濁っている。
「ビー!」
叫ぶとビーはノソノソと物陰から這い出してきた。
「シィ、やばいよ」
「うん!」
シィはビーを抱き上げて津波を見つめた。
シィは何度か津波にも出くわした事がある。シマの海岸部の全てを押し流して跡形も無くし
てしまう天災に巻き込まれ、何度か死にかけた事もある。だがこの小さなシマでは勿論高台な
ど無い。
「……!!」
咄嗟にシィは研究者のデスクの上に置いてあったダクトテープを取り、シマで一番太くて高
いヤシの木にビーと共に登った。太いと言っても先の方は五十センチ程、両手で抱える位しか
無い。
津波はゴウゴウと音を立ててシマに迫ってきている。その濁った色はまるで何かの悪意の様
だった。
「シィ……!」
「出来るだけの事はしよう」
シィはダクトテープで自分とヤシの幹をグルグルに巻き付けた。勿論津波から影になる方に
自身を配した。ビーは自分と幹の間に置いた。
「………」
シィは下を見下ろした。研究者の姿は何処にも無かった。一体何処に行ったのだろう。シマ
だけ残して人だけ元いたホシに帰る、という例は今のところ一度もなかった筈だ。
「来るよ!」
ビーが叫んだ。津波の先は目の前だった。
「うんっ」
シィは全身の力を込めてヤシの幹にしがみついた。
ザッパーーーーンン。
津波がシマにに押し寄せ木々を薙いだ。
研究者の南国風の研究室は瞬く間に木っ端微塵になった。
「ぐっ!!」
シィ達のいる高さまで軽く第一波は押し寄せた。激しい衝撃にシィは息を止め耐えた。
巨大な水の固まりが次々とぶつかり、ヤシの幹がミシミシと音を立ててしなる。シマは海抜
十数メートル当たりまで水につかり、第二波、第三波と次々に衝撃が来た。
「プハッ」
その何度目かで波は引き始め、二人は海上に顔を出した。ヤシの木は何とか耐えていた。
「大丈夫、ビー!」
「何とか……あぁ!」
ビーが絶望的な声を上げた。
シィが見るとーーーー最初の津波の倍はあろうかという更に巨大な津波が押し寄せてきてい
た。シマの水はゴウゴウと引いていき、その水量は全てその水の壁へと吸い込まれている様に
見えた。色は全てを巻き込んでもはやドス黒く、異様な様相を呈していた。
「………!」
シィはじわりと死の恐怖が身体に取り付いていくのを感じた。
これはーーー死ぬのか?
「シィ……」
ビーが心細そうにシィの顔を見上げる。
「まだ……まだだよ」
シィはそれでもそう言った。
「ガウガウ」
「!?」
突如ビーの声が変化した。
「こっちだ!」
下から研究者の声がした。シィは眼下に目をやった。
「…えっ!?」
研究者がいた。今まで何処にいたのだろう。あれだけの津波がシマを薙いだというのに。
「早く!」
研究者はすっかり屋根の無くなった研究室の方を指差した。見るとその床の一部が開いてい
て、中には地下室らしきものがあった。さっきまでそこにいたのだろうか?だが今はそんなこ
とを考えている暇は無い。
「ビー、行こう!」
シィは腰に付けていたフライの骨のナイフを抜いてダクトテープを切った。
「フッ」
シィはビーを抱いたまま器用にヤシの木を滑りつつ飛び降り、地下室へと向かった。
巨大な津波はすぐそこまで来ていた。地響きがどんどん大きくなっていく。
「クッ」
シィはビーを抱いて走った。
そして地下室へと滑り込み、研究者がハッチを閉じると同時に衝撃が来た。
「!!」
非常電源が落ち、内部は真っ暗になった。激しい揺れが来て、暗闇の中でシィは研究者や壁
に何度かぶつかり、やがて何も分からなくなった。
* * *
暗闇の中で、シィは漂っていた。
そこはいつか見た深海。
ゆったりとした流れが身体にまとわりついていた。
だがそこは暑くも冷たくもない穏やかな空間だった。
シィはあるビジョンを見る。
それは恐らく自分の子供であろう少年と遊んでいる夢。
側にいるのはーーー誰だろう?
あの白亜の塔の上の青年『ヒュー』だろうか。
いや、もっと暖かくて確かな何か。
そうーー『ヒュー』とは目指す場所にあって側にはいない存在なのだ。
「………!」
シィは目を開いた。
そこは津波の時に飛び込んだ空間だった。目の前にあの時ぶつかった壁がうっすらと見えて
いる。
まだ、生きているーーーシィはそのことに感謝した。
「………!?」
シィは、自分の両脇から他人の手が出ている事に気がついた。横になった状態で後ろから抱
かれている格好になっていた。
「………?」
シィは首だけで振り向いて後ろを確認した。
そこにはあの研究者がいた。生きてはいるが気絶している様だった。
「……ねぇ」
シィは声をかけたが、反応は無かった。シィは少し身を揺すってみた。
「ねえってば」
「ん……」
研究者が呻いて身をよじった。お陰で研究者の頭が動いて吐息がシィの耳にかかる体勢にな
り、シィの肢体はビクッと跳ねた。
「あ、ちょっと」
「……ナナイ……」
「え?」
研究者はムニャムニャ言いながらシィの脇から差し入れた手を抱きすくめ始めた。これは…
気絶ではなく寝ぼけているのか?
「あ………」
研究者の手はシィの褐色の腹筋を撫でながら上に上がっていきーーーシィのスポーツブラに
包まれた胸に触れた。指先が確かにシィの胸の先を捉えていた。
「あっ!!」
シィの身体に電気が走った。
研究者の手は両手でシィの乳房を二度三度揉みしだいた。
シィは初めての感覚に声も出なかった。
だがその手は突如、力が抜けていった。
「………え?」
シィはそっと後ろを確認した。
研究者は再び深い睡眠に入った様だ。
「…………!」
シィはまだ鼓動が収まらなかった。
今ある記憶の中では恐らく初めて、他人に自分の胸を触られたのだ。覚えていないだけで経
験はしている筈、とビーは言うけれど、実際触れられてみるとそれは全く何処か違ったものだ
った。ただ映像で見るだけとは全く違う。
「何してんの」
「!!」
シィが驚いて向くと、ビーが頭の上の方の死角で丸くなってこちらを見ていた。
「あ……あ?」
ビーは目を細めてじっとシィを見ていた。
シィはあまりのことにしばらく何も言えなかった。
「……いつからいたの?」
やがてシィは頬を赤らめつつ聞いた。ビーは目を細めたまま答える。
「最初からだよ」
「……言ってよ」
「楽しんでるみたいだからさ…」
「楽しんでるってーーー」
シィはそっと研究者の腕の中から脱出してその寝顔を眺めた。眼鏡に一筋ヒビが入っている。
「ふぅ」
少し落ち着いたシィは研究者の身体のあちこちも確認してみた。打ち身はいくつかあるもの
の骨が折れたりはしていない様だ。シィには殆ど傷はない。一応守ってはくれたんだな、と思
った。
「シィ……」
「うん、もう大丈夫」
「じゃなくてさ」
「え?」
ビーは頭上を見上げて言った。
「これ……何だと思う?」
「これ……?」
ビーが天井の方を見ると、そこには天井ではなく海面があった。
「!?」
いや、海面ではあるもののその上は水だった。まるで薄い膜でもある様に地下室の空間の上
に海底の海水が伸し掛かっていた。普通の水面の様にうねりやさざ波はあるものの、何故か落
ちては来なかった。
「どうなってんのこれ」
「さぁ」
気付けば静かな地下室の中は海底独特の小さく響くうねりの様な音で満ちていた。シィは、
だからさっき自分は海底の夢を見ていたのかと思った。
「………」
小さな地下室は元々中腰の高さ位しかなかった。シィはそっと立ち上がってその不思議な海
面に顔を近づけていった。
「シィ、危ないよ」
ビーが心配そうに声をかける。
「うん………」
シィはその海面にそっと手を近づけてみた。
水の面に触れる。いつも通りの海の感触だった。ただ違うのは空気が下で水が上と逆になっ
ているだけ。そして今は海水に特に色は付いていない様だ。
「………」
シィは思い切って顔を付けてみた。
「…………?」
いつもの深海だった。ただ、『ヒュー』に出会った様な超深海ではなく、大陸棚の上と言っ
たところだ。本当の海面は百数十メートル上だ。あのシマから地下室ごと海底に落ちていった、
ということなのだろうか。ただし、辺りにシィのシマの様な海底に伸びる柱は全く見えない。
あの津波でシマごと流されでもしたのか、それとも全く別世界に来たのか?
「ぷはっ」
地下室内に戻ったシィは濡れた顔を払った。
「どんな感じ?」
「普通に海底だね」
「そう……」
「でもシマは無い」
ビーはシィの側に来て丸くなった。
「とりあえず、安もうか」
「うん……」
シィは一度研究者の方を見た。
……さっき、触られた男。
少しそんな感情も掠めたがシィは少し離れて横になった。
疲れていたのか、また直ぐに眠りに落ちた。
* * *
再びシィが起きても、研究者は眠り続けていた。
いくら揺すっても起きる気配は無かった。
「死んでるんじゃないの」
ビーはぶっきらぼうに言ったりした。
「うーん………」
シィ達は相変わらず狭い地下室の中にいて、天井には海底の水がユラユラとたゆたっていた。
「そう言えば、海の色は変わった?」
「ううん」
それは、嵐の中でも深海には影響が無いのと同じだろうか。それともやはり先程とは全く違
う場所にでも飛ばされたのだろうか?
隔絶した空間で、シィ達は途方に暮れていた。
「何だろうね、今回は……」
ビーは寝ている研究者を見ながら言った。
「ビーがしゃべれてるってことは、しばらく起きないってことなのかな」
「でも、前は寝てても近くにいたらダメだった気がする」
「……じゃあどういうこと?」
「さぁ……一度死んでるとか、魂がどっか行っちゃってるとか?」
「そう……?」
シィため息を吐いて考え込んだ。
「………」
ーーそれにしても。
シィはまだ先程触られた乳房の先の感覚を忘れられずにいた。
他人に包まれ、そして自身を触られる。身体の外側から、ズッと中に入り込んで来られる感
覚。映像でよく観る同性の痴態とは、こういう感じ故だったのだな。とシィは今更ながら思っ
た。
「ガウ」
あ、と思って振り向くと、研究者が意識を取り戻していた。
「う……?」
シィは膝を突けて近寄っていった。
「大丈夫?」
「どれ位寝てた?」
「結構」
どうやら大丈夫そうだ。シィは微笑んだ。
「あ……何も無いな」
研究者は辺りを見回して言った。
「それに、ほら」
「……!」
シィが指差した天井を見て研究者は目を見張った。
「何だこれ」
「スゴイでしょ」
「どうなってるんだ………?」
研究者は中腰になって水面に近づいた。
「顔出せるけど……気をつけて」
研究者は目鼻だけ出して口で呼吸しながら暫く水中を眺めていた。シィはなるほどそういう
やり方もあったか、と思った。
顔を戻した研究者は黒髪から水を滴らせながら考え込んだ。
「この中だけ力場が形成されてーー?でもデータは取れないし解析も……」
「そだね」
「ーーー酸素は?」
「………」
シィとビーは顔を見合わせた。そんなことは考えていなかったがそう言われてみれば既にか
なりの時間が経っている。
「となると窒息もあるか」
「……多分百メートルちょっと上がればほんとの海面に出られるけど、シマがある確証はない
よ」
今は無い、とは言わなかった。
それにもし海中に出たとして、シィやビーはともかく訓練をしていない研究者があれだけの
浮上に耐えうるものだろうか?
「………それは最後の手段として」
研究者は辺りを見回した。
白衣の中に水パックと少量のビスケットはあった。研究者はそれを三人で分け、それから壁
のあちこちを探り始めた。
「ここ、何だったの?」
「物置ーーかな」
「何も無かったけど」
「研究資材以外は特にモノを持ってなかった」
そうか、とシィは座り込んだ。
やがて研究者も成果無しで側に来て座り込んだ。
「さっき、ナナイって……」
やがて、シィと研究者は話し始めた。
「私が?」
「言ってた」
「寝言で?」
「あたしを触りながらね」
研究者は目を丸くした。
「私がーーー?」
「そう」
「ガウガウ」
ビーも何か言った。「胸も揉んだぞ」とでも言っていたのだろうか。
「それはーーー失礼」
研究者は結婚指輪のはまった自分の手を見ながら言った。本当に覚えていない様だった。シ
ィはその手を見てまた触られた感覚を思い出し少し足をモジモジとさせた。
「ナナイ……七色、かな」
既に研究者はその言葉の方に興味が移っている様だった。
「七色……?」
「虹とかのね」
「あぁ……」
シィはシマで何度も虹は見たことがあった。雨の後海上に出る虹は時に印象的だ。水平線と
空しかないキャンバスに描かれた虹の弧はそれは綺麗なものだった。
「研究って……虹について、だっけ」
「虹というかーー色」
その時、ビーが小さくガウッと唸った。
「どうしたのビー…あ!」
見ると天井の奥の水が赤く染まり始めていた。
「また変化してる……」
「これはーー」
研究者はその水の天井スレスレまで顔を近づけてその変化を見た。
何かが混ざる訳でも無い、水そのものが次第に変わっていくその様を、研究者はじっとヒビ
の入った眼鏡の奥で見ていた。その色は津波の時の様に濁っている。
「この変化を、見たかった……」
「え……?」
確か自分が沖合で溺れた時は、海は黒から白へと変わったがーーその変化の瞬間等は見てい
なかったということか。
いや、それよりもーーー
「海の色を変えていたのは、やっぱりあなたってこと?」
シィはじっと研究者の顔を見つめた。
「………多分、そう」
研究者は少し哀しそうに口の端をギュッと結んだ。
* * *
徐々に酸素が薄くなってきていた。
そのせいかどうなのか、研究者は呼吸が少し荒くなってきていた。
「……どういうこと?」
「分からないんだ、本当は何を研究していたのか」
「え……?」
研究者は続けた。
「色ーー虹ーー変化ーーそんなところだと思う」
「思うって……」
シィは、よく分からなかった。そんなことがあるのだろうか。ただ、このシマなら何でも起
こりうるし、特にシマの外からやってきた人達はそもそも記憶があやふやなのだ。
「だからそれを知りたくてずっと計器を動かしていた。その作業自体は楽しかった」
「でもーー?」
「その度に、海の色が変わる。それも知らないうちに」
「………」
「まるで私の心の中を反映でもしてるかのように」
見る間に、また海が赤から黄色へと変貌していた。
それを見てまた研究者はまた眉をひそめた。
「何故なのかは分からない。でも多分、私がやったんだ」
「…………」
シィは、どう声をかけて良いのか分からなかった。
自身の呼吸も僅かに荒くなってきているのも感じ取れる。
そして水の変化はどんどん激しくなっていった。
「私のせいだ………」
研究者はそれを哀しげに見つめていた。
シィは唇を噛んだ。
何なのだーーどうするーーどうすれば良いのだ?
ドクッ。
その時、何かの鼓動の様な感覚をシィは感じた。
それは確かな、そして優しい感覚だった。
「!?」
それは研究者も、ビーも同じ様に感じた。
「……何だ?」
遠くで響く聞き慣れた鳴き声が水中から響いてきた。
シィは呟く様に言った。
「クジラ……」
「クジラ?」
この前の雲の上の世界でも、あのクジラが助けてくれた。ひょっとしたら今回も!
シィは水の天井に顔を近づけて見つめた。
速い流れが来たと思った瞬間、巨大な黒い影が地下室の上を通過した。地下室はゴウゴウと
音を立てて揺れた。
「うあっ」
研究者は恐れて後ずさった。だがシィはじっとその姿を見ていた。
周りの海水がクジラの泳ぐ勢いで掻き混ぜられ、一瞬その時の緑の色が元の海水に戻った。
「!!」
クジラは何度も弧を描いて辺りを力強く泳ぎ回り、その度に海の色は元の深く暗い海底の色
へと戻って行く様だった。
「あのクジラは……」
研究者はやがて恐れも忘れその姿に見入った。
何なのだあのクジラはーーーもしかして、自分が汚した海を、元に戻しているのか?
「大丈夫、行こう!」
研究者が見ると、シィが手を出していた。
「いや、私は泳ぎは……それに息もそんなに」
「そんなのはいいから!おいでビー」
ビーがシィの肩にピョンと乗っかった。
「………」
「水面まで、あたしが連れて行く」
「………!」
研究者は、一瞬懐かしい何かを見た様な気がした。
「息を思い切り吸って!」
* * *
酸素のほぼ無くなった地下室を出て、シィ達は海中へと出た。
研究者はシィの背中から首へと手を回して掴まっていた。
シィとビーは海上へ向かって泳いだ。
クジラは少し離れた上の位置でターンを繰り返しては辺りの海水を掻き混ぜていた。
シィは思った。あれは、自然の意思みたいなものなのだろうか。それとも自らの環境を守る
為なのだろうか。どちらにしろ、あんなに水平線まで色が変わっていた様に見えた海の変化は
実はシィから見える表面のごく一部であったということなのか。どんどんと掻き混ぜていくう
ちに色の効果は薄れつつあった。
研究者はシィの背中でそれを見ていた。
「………」
結局、自分は何をしていたのだろう。
無駄に何かをしようとして、却って狭い環境を変化させてーーでもそんなことは全体からす
れば微々たるものでしかなかったのか。
「………!」
だが、次第に呼吸が苦しくなってきた。シィやビーと違って常人が息を止めていられる時間
は一分もない。しかもここは百数十メートルとは言えそれなりの水圧もかかっている。海上は
まだかなり先だ。そしてもし出られたとしても、そこは大海の真ん中かも知れないのだ。
研究者は思った。
ーーー届かないのか?もう会えないのかーーー
……誰に?
何かが引っかかっていた。
シィの首に回していた手の力が抜けつつあるのだろうか、シィが泳ぐのを止めて研究者の方
を見つめた。
「………?」
当然シィは察していた。
シィは迷わず研究者に顔を近づけ、唇を合わせて研究者の口に息を吹き込んだ。
「!!」
研究者は目を見張った。身体に入って来る暖かい酸素。一時的に身体の力が戻って行く。か
つて自分にそうしてくれた誰かがいた様なーーー。
思わず研究者はシィの首に回した手に力を込め、その時シィのウナジの『ファントム』と研
究者の手の甲の『ファントム』が触れた。
キィーーーーン!
「!!」
シィも、研究者も目を見開いた。
一瞬の光の流れの後、今度は、ちゃんと『ファントム』が繋がった。
お互いの中に、無数のイメージが飛び込んできた。
”………!”
シィは理解した。
あのイメージの中で見た老人は、既に他界した研究者の父親だった。昆虫か何かの博士だっ
たろうか。無数の煌めきを持つ蝶。玉虫色の甲虫たち。数々の色に囲まれ、それに憧れていた
子供時代。そして父親は現場や学会、日常や近所付き合いなど時に色んな顔を見せる。いわゆ
る七つの顔。ちゃんとした大人。そういうものに憧れつつも、上手く出来ない自分。いつしか
父親と同じ様に大学で教鞭を取る様になっても、それはずっと心の奥底に引っかかっていた。
”あぁ……”
それでも、彼はある女性に出会った。多くの女性がそうであるように、優しい顔やキリリと
した顔、冷たい顔といった色んな顔をーー彼の思う七色の顔を見せるその女性。だが彼女のそ
れだけはとても優しく気高く、その全てを研究者は安らぎを持って見る事が出来た。そしてそ
れに憧れ、その理由を知りたいと思っていた。そして幸いなことに彼女の愛情を手に入れる事
が出来た。
子供が生まれた。幼いその子はまた時に泣き、時に笑いクルクルと変わる表情を見せる。
一瞬、そこに隙が出来た様な気がする。
程なく妻は病気で亡くなった。残された研究者はまだそのことが理解出来ない子供の次々に
変わる表情にまた怖れを抱き始めた。
研究者は色の研究をしていた訳では無かった。無数の色を持つ全てに憧れ、それと自分を比
べていただけだ。
そしてーーー
ナナイ。
それは妻の名前だった。
”………!”
シィはその全てを感じ取った。研究者がどんなに妻と子を愛していたか。愛されていたか。
勿論そこに他人の入る場所は無い。
………自分に、そんな存在は現れるのか。
そして『ヒュー』ーーーあの白亜の塔の屋上にいる青年は。
キィーーーン!
水中の遠くで、緑色の光が走った。それはシマで幾度と無く見た、『ヒュー』の光。
”あぁ………”
そのせいなのか、海中に巨大な虹がーーーーそれも海深くまで届こうかという虹が、真円の
形を持ってシィ達の眼前に現れた。
若干緑色に振ってはあるが、それは紛れも無く煌々とした虹だった。
”…………”
研究者はいつの間にか笑んでいだ。
その光に照らされ、研究者にも見えたのだ。海底に無数に立つ白亜の塔。自分の一番近くの
塔の上には、『ヒュー』ーー女性型をした誰かがいた。
”そうか、これがーーー”
”そう。導いてくれてる”
シィも同じものを見た。
女性型も、あると言う事なのだろうか。研究者のそれは既に妻とーーナナイと同化している
のかも知れなかった。
それぞれに、それぞれの『ヒュー』。
シィも、久しぶりに自分の『ヒュー』を見る事が出来た。
”…………”
白亜の塔の頂上にいるその青年は、シィをじっと見上げていた。
そして一瞬、『ヒュー』が笑いかけた様な気がした。
* * *
「グルル」
ビーがシィの腕をツンと鼻先で突いた。
「!?」
シィが見上げると、そこにはいつの間にか研究者のシマのものと思われる海中に突き出た小
型の柱が見えていた。小さなシマだけあって、その海中の柱部分の高さは百メートルにも満た
ない。だが、人が立って生活をするには十分だった。
海中の虹は徐々に消えつつあった。
”行こう”
”あぁ、帰ろう”
本当は、研究者は何度も帰ろうとしていたのだ。あの小さなシマにではなく、愛する子のと
ころに。
何度か研究所で姿が見えなかったのは、意識だけが元の世界へ帰ろうと何処かへ行っていた
ということなのではないだろうか。だから側にいてもビーが話す事が出来た。
海上へと上がりながら、シィはそのことを『ファントム』で感じ取った。
……なあんだ。
結局自分は何もしていない。
最初から研究者は帰り道が分かっていたのだ。帰るべき場所がちゃんとあって。
シィは自分の状況をふと思った。そういう人や場所が、いつか現れるのだろうか。
勿論それも伝わっているのだろう、研究者がそっと繋いだ手に力を込めて握ってくれた。
”…………”
シィも暖かい気持ちでその手を握り返した。
* * *
「ぷはっ」
海上に出ると、そこに研究者のシマは無かった。台風一過なのか、水平線上に黒雲の群れが
あった。
「あれ?」
「あのシマ無いね」
同じく顔を出したビーもゆったりと波間に浮いた。
「さっきはあったんだけど……?」
シィがふと左手を見ると、研究者を握っていた筈の手には白衣があるだけだった。
「…………?」
やがてシィはふっと微笑んだ。
「……帰ったんだ」
「そうみたいだね……あ!」
ビーが空を見上げて声を上げた。
そこには雨上がりだったのだろうか、見事な虹が空に描かれていた。
「わぁ………」
よく見れば、メインの虹の内側と外側にも薄い虹が何重にもかかっていた。
「キレイ……」
「ね」
シィもビーとお腹をお腹を上にして海に浮かんだ。
二人は虹を眺めながらゆっくりと満たされた気分を味わっていた。
「シィ……」
「うん」
「残念だったね」
「え?」
「『ヒュー』じゃなくて」
「あぁ……」
シィは今はどうでも良い気がしていた。
自分もいつか、違う誰かとちゃんと繋がって、ああして愛されて。
それでもいいのかと。
ただ、『ヒュー』は心の中にさえいれば。
「シィ」
「まだあるの」
「じゃ無くてあっち……」
「ん?」
シィが顔を上げてみるとーーー先程までは何も無かった筈の海上に、いつの間にかシィのシ
マが現れていた。
凛とした、自分のシマ。今はここ以外何処にも行けないけれど、これが自分のいる場所。
シィは苦笑した。
「……また?」
「何とか帰れたね」
気がついて、シィは貼ったままで既に水に濡れていたコメカミのパッドを外した。いつの間
にか痛みは消えていた。
シィはフウと一息ついた。
「じゃ、行こっか」
「うん」
そして二人はシマに向かって泳ぎ出した。
* * *
朝から、シィは自慰に勤しんでいた。
初めて胸を触られた感覚が繰り返し脳裏を駆け巡る。実はその後人工呼吸とは言え自分から
のキスも経験していたのだ。
「んっ!」
今朝二度目のオーガズムを迎え、シィのしなやかな肢体が伸び切って弛緩した。
荒い息の中、シィは満ち足りた気分でいた。
それは身体的なものだけでは無かった。
一つの仮説がシィの頭に浮かんでいた。
『ファントム』の奥のあの無数の光が集まる場所でなら、研究者とその妻や父親とは会える
のだろうか。
そこまで霊的で便利なものでは無いのかも知れない。
でも、もしそうだったらいい。
いつか彼らが再会する時を思ってシィは笑んだ。
「………」
やがてシィは目を閉じ、それからゆっくりと息を吐いた。
また一日が始まる。
「よし」
シィは全裸で跳ね、シマの大地にしっかりと立った。
巣の中でビーはやれやれと後ろ足で頭を掻いていた。
そろそろ日も高くなる。
今日はどんな日が待ち受けているのだろうか。
ビーは起き上がってパシャンと水に飛び込んだ。少し冷たい水を潜って、小川に出る。既に
水はいつもの無色透明に戻っていた。
ビーは思った。
『ヒュー』のあの光はともかく、あのクジラの存在は何なのだろう。
同じ様に、導くもの、なのだろうか。
両者は一体どういう関係なのだろう。
ビーは砂浜に上がって身体をプルプルとさせた。そうしてシマを見上げた。
珍しくビーは感傷に浸っていた。
いつまで、この日常は続くのだろうか。
シィがいつか、このシマを出て行く時だろうか。
その時自分はどうするのだろう。独りでこのシマにいるのだろうか。
ーーーそれでも、それは元いた場所と同じだ。
「ビー、おはよ」
シィの声が聴こえてきた。
ビーは振り向いて答えた。
「おはよ、シィ。今日もいい天気だね」
( 終 )