#4「Cloud」
今回、シマは雲の上の世界に変貌してとある格闘家がやってきます。
少し変わった世界をお楽しみ下さい。
その日、シマは低い雲に覆われていた。
雲は本当に低く、百メートル程しかないシマの山頂がすっぽりと雲に隠れていた。
かと言ってどんよりとした雰囲気ではなく、青空は見えないものの白々とした雲が
そこかしこにあってそこそこ明るいという微妙な状態だった。
「……ヘンな天気」
褐色の肌に黒髪としなやかな肢体を持った自称二十歳前の少女シィは、火打石を
打ちながら空を見上げて言った。
ブランチ用に火を起こそうとしているところだった。
シマには火打石となる硬質の石が時々見つかった。電気もガスも無いこのシマで
は重要なものの一つだ。簡単に火が起こせないとなるとたちまち生命に危機が及ぶ。
「だねぇ」
側でグルルと喉を鳴らしながらビーバーのビーは言った。彼が普通に人間の言語
を話せるのはこのシマでは普通の事だ。ちなみに彼、と言っても性別は今のところ
不明のままだ。
パチパチと焚き火が音を立て始めた。今日のブランチはハマチを切ったものだ。
「あの雲、手で触れそうだね」
「山まで行けば、ホントに触れるよね」
「でもあれ、触ってみると実は手応え無いんだってさ」
前にシィはとあるドキュメンタリーの映像を見たことがあった。プロペラ機で雲
の側を飛んで手を出してみるものだった。
「へぇ…」
「あれ、ビー知らなかった?」
珍しく自分の方が詳しく知っていたのでシィは微笑んだ。
確かに、ビーバーの生態にとって雲に触れるか触れないかはさして重要ではなか
った。雨が降るか降らないかの方がよほど重要だ。
「まぁ、全てを知ってる人間はいないよ」
ビーは何処吹く風で焚き火に当たっていた。その黒い目玉にはチラチラとした炎
が映っている。焼けたハマチがパチパチと音を立て始めた。
二人だけが住む、時々姿を変えるシマ。
「新しいシマと新しい人がやってきて、やがて帰っていく」「このシマに時々モ
ノが現れ、そして消えるのと同じ様に」というのはシィ達の中でそろそろ定説とな
りつつあった。
その時シィ達は一緒にその別世界に行けないのか?という考え方もあったが二人
ともそれに関しては「ムリ」ということで意見が一致していた。はっきりとした理
由がある訳ではない。ただ、まだ時々現れる謎の光『ヒュー』のことも、シィのウ
ナジのタトゥーの様な通信端末『ファントム』のことも、まだまだ分からないこと
だらけだったのだ。
その日、林の中でシィは赤いスニーカーを見つけた。
それはとても小さな乳幼児用で、シィが使えるものではなかった。
「……可愛い」
それはただ、シィに赤ん坊という存在がこの世界の何処かにはいる、そしていつ
かは自分も、という事実を思い起こさせただけだった。いつもの様に胸の奥が少し
ザワザワとした。
「…………」
一応、シィはそれを小屋に持って帰ることにした。
ビーは何も言わなかった。
* * *
格闘家がいた。
彼は子供の頃から身体を動かすのが好きだった。ただ、チームプレーが嫌いとい
うか何故か集団行動がうまくいかないタイプだったので自然と格闘方面へと進んだ。
身体は格闘家としてはそう大きくはない。ただ長年の訓練で彼の身体は鋼の様に鍛
え上げられていた。センスもそう悪くはない。割と俊敏に動けたし、人の予測を裏
切ることが彼は簡単に出来た。何度か大きいリングで番狂わせを演じてみたりもし
たが、人に騒がれるのも性に合わなかった彼はどんどんインディーの方へと進んだ。
大して観客もいない場末のリングを転々としながら、彼は活動を続けていた。年齢
もピークを過ぎ、同期の連中がどんどんいなくなっても彼は辞めなかった。勝った
り負けたりを繰り返しても彼は腐らなかった。いや、腐るという意味が分からなか
った。周りは貧困や妬みや虚栄が渦巻いていたが、彼は特にそれに触れずに生きて
いた。「おまえみたいなのがいるとこじゃない」「表でヒーロー気取りでもしてい
ろ」そう言う者も多かったが彼は特に聞く耳を持たなかった。故に彼は独りが多く、
余計な妬みを買うこともあった。
格闘家はその日、とある歓楽街の地下リングで闘っていた。
相手はまだ若く荒削りだが中々パワーとスピードがあり、立ち技では少々不利と
言わざるを得なかった。だが格闘家は恐れず前へ出た。避けられないと見るやなる
べく額で受け更に頭を捻って衝撃を逃がし、組み付いて腕を取ろうとした。スンデ
のところでオープンフィンガーのグローブから相手の手が抜けた。マズい、とガー
ドをとったが間に合わず一発食らった。一瞬意識が飛んだが格闘家は構わず向かっ
ていった。タックルにいこうとしたところに膝が来る。読み通りだ。その膝を取り
つつ脇へ抜け、バランスを崩した相手の軸足を刈る。倒れたところにヒールホール
ドーーーと思った瞬間、相手の無理な体勢からのパウンドをまともに食らった。上
半身だけの手打ちだったが、意外に効いた。
格闘家はぐらつき、意識が遠のいた。
* * *
シィが目を覚ますと、そこは霧の中だった。
「………え?」
いつの間にか眠っていたのだろうか。何だか身体がフワフワとしていた。
「何………?ビー?」
またシマが一晩で姿を変えたのだろうか。いや、先程までは昼過ぎだった筈で…
…それともまだ夢の中なのか?
「シィ……ヘンだよ」
何処からかビーの声が微かに聞こえてきた。だが目を凝らしても霧の中で何もか
もがうっすらとしか見えなかった。
「…ビー?」
シィがフラフラしながら立ち上がるとーーーー
「えっ!?」
突然スカッと抜けた青空が見えた。シィが驚いて足元を見ると、胸から下は霧の
下に潜っている状態だった。上空には真っ青な空が見える。
「??!!」
訳が分からなかった。足元はずっとフワフワとした感触だった。まるで浮いてい
る様な、バネの利いたベッドの上の様な。
その時、コツンと足に何か当たった。
「あ」
「……シィ?」
「ビー……ちょっと待って」
シィはかがんで手探りでビーに触れ脇の下に手をやって持ち上げた。
霧の中から顔を出したビーも驚いた。
「何これ」
「ビックリだね」
「これはーーー」
二人は顔を見合わせ、そして同時に言った。
「雲の上?」
本当にそこは上空数百メートル位と思われる雲海の上だった。何処まで行っても
雲が広がり、軽く風が吹いていた。足元はずっとフワフワとした不思議な感触のま
まだった。
最初シィ達は今いる場所がシマの上空にあった雲の上ではないかと考え、突き出
ている筈のシマの山頂を探したがそれは無かった。結局、シマの地面が雲へと変化
したのではないか、との考えに至った。確証はないが、シマはまたドラスティック
に姿を変えた様だった。
「雲とはね………」
どういう状況かはまだはっきりとはしないが、シィは歩いているうちにやがて楽
しくなりそのフワフワ感を利用してジャンプし始めた。
「危ないよーーーいつ底が抜けるか分からない」
ビーは懐疑的だった。
だが地面(?)近くにいると自分の視界はずっと雲の中なので、仕方なくシィの背
中に乗っていた。
「あはは」
シィはジャンプを繰り返す。いつもよりも断然高くまで飛べた。重力が軽いホシ
に行くとこんな感じなんだろうな、とシィは思った。そう言えば宇宙服を来て衛星
上を歩く映像を見たことがあった。
ビーがか細い声を上げる。
「ちょっとシィ、ストップ!」
「弱っちいよビー!」
シィはどんどん高く飛ぶ様になっていた。
「そうじゃなくてーーーあれ?」
「ん?」
ビーが何か見つけた様だった。シィは着地してビーの指した方を見た。
シィ達がいる割と平坦な雲よりも若干大きな積乱雲が斜め上方から近づいてきて
いた。
そしてその上に、一瞬微かに人影らしきものが見えた。
「誰かいる?」
「うん、気配がする」
「ーーーー行ってみよう!」
シィは走り出した。というか、それは延々と続く三段跳びの様な妙な感じではあ
った。
「シィ、ゆっくりでいいから!」
「あはは、すごーい」
シィは笑いながら積乱雲の方へと移動していった。
* * *
「ちょ、ちょっと待って」
雲の端の方まで来た。
肩に乗っているビーが毛を逆立てていた。
「端まで行ける?どっかで落ちるんじゃないの」
遥か下は白く霞んでいる。ひょっとしたら数百メートルどころではない高さなの
かも知れなかった。今いる場所も、いつ底が抜けて自由落下になるか分かったもの
ではない。
だがシィは、下ではなく空の方を見据えていた。
先程人の気配がした積乱雲はもうすぐ先だ。
「…………」
その距離は、どんどん縮まりつつある。
「…ほっとけば渡れる様になるんじゃない?」
「うーん……」
言いながらシィは数歩下がっていった。ビーはじわりと嫌な予感に包まれた。ま
だ積乱雲までは十メートル以上ある。
「ちょっと、シィ」
「多分大丈夫!」
「多分って、わっ」
シィは走り出した。なるべくバランスを崩さない様に、端に近いところで踏み切
ってーーー
「!!」
ビーは目を閉じてシィにしがみついた。
シィの身体は宙へと飛び出し、大きな弧を描いた。なるほど重力が弱い系だけあ
って異常な滞空時間だった。その後、ふんわりとしたマシュマロっぽい感触の中に
二人は飛び込んだ。
「わぁ」
「……ビー、大丈夫?」
予想はしていたがあまりのふんわりさ加減に驚きながらシィは背中のビーに声を
かけた。
「な、何とか」
ビーは毛を逆立たせながら答えた。
積乱雲の斜面は、シィ達がいた雲と同じ様に雲内の下数十センチのところで足を
かける事が出来た。最初の雲より浅いがフカフカ感は同じ様だ。それがどういう理
屈でこうなっているのかは分からないが、とりあえずシィ達は時に手も使って斜面
を登り、そして開けた場所に立った。
「気配はまだある?」
「うん、強すぎる位にある」
「そうなんだ……」
言いながらシィは積乱雲と空の壮大な景色を眺めた。
積乱雲は巨大だった。それに風で刻一刻と形が変わっていく。そこはシィのシマ
と同じ感じだった。
シィは一度来た方を振り返った。周りはいつの間にか雲が増え、シィが元いた雲
がどれだか既によく分からなくなっていた。
「…………」
このまま元いたシマには戻れなくなったりはしないよね?
シィはふとそう思った。
このまま雲の上だと、食料や水はどうするのだろう。最悪雨雲の下に行けば水は
手に入るかも知れない。トイレ等はそのままするかーーーなどと少し考えた結果、
もしそうなったとしても、自分はどうにか生きては行ける筈だとシィは思った。
ビーに小川や木が無いのはちと辛そうではあるが。
ーーーでも。ワクワクする。そして、また『ヒュー』……あのビジョンで見た白
亜の塔の頂上にいる青年に、この新しい場所ならまた会えるかも知れない。
そんなことを考えながらシィは再び歩き始めた。
やがて、辺りがオレンジ色に染まり始めた。
「キレイ……」
「夕方だね」
既に二人は数時間歩いていた。だが二人とも結局腹も空かなければ喉も乾かず。
トイレも必要無い様だった。これは身体が雲仕様になっているということなのだろ
うか。
「てことは、ホントはもう死んでたりしてね」
ビーが物騒な事を呟いた。
「じゃあ、ここは天国?」
「サンズの川とか」
そんなことを言い合っていた時だった。
ザッ。
「!!」
逆光の中一羽のスワンが飛んだ。
一瞬そう見えた。
それは両手を広げて宙へと飛んだ一人の男の姿だった。
「…………!」
シィは少しそれに見とれた。
「あ、あれ!?」
だがその美しいシルエットは突如空中でバランスを崩し、手足をバタバタさせな
がらシィ達を掠め遥か下へと落ちていった。
「あぁーーーーー!」
叫び声も長く雲の斜面に響き渡った。シィは突然の事に驚いた。
「え!?」
飛んだ、のではなく落ちた?って誰が?積乱雲の上に見えていたのはあの男か?
「ちょ、ちょっと!」
シィはビーを乗せたまま数歩降りかけ、そしてすぐさま意を決して飛んだ。
「またシィ、わぁーーーー!」
再びビーが叫んだ。今回は、こんな落下が多過ぎるーー!
勿論、落ちて行く先は白い空間ではなくちゃんと積乱雲の地面(?)がある。それ
にこの重力の感じならば激突して死ぬ事はないだろう。だがそれでもこのフリーフ
ォールの感覚はビーには少々強すぎた。
* * *
「………」
ビーはぐったりとしていた。内蔵が上がって来るあの落下の感覚は何度繰り返し
ても慣れない。自分がモモンガ等であればまた違うのだろうか、とビーはゼェゼェ
いいながら思った。その後の着地&跳ね返った何度かの跳躍も中々ハードだった。
「も、もう勘弁して……」
「ゴメンゴメン」
シィは特に気にせず歩いていた。トランポリンってああいう感じなんだろうな、
などと思っていた。
既に辺りは暗くなり始めていた。空を見るとオレンジ色と夜の部分が半々といっ
たところだ。シマの頂上で見る景色と大差ない。海の代わりに雲海があるだけだっ
た。
シィは辺りに目を配るのも忘れてはいない。先程の男の姿は相変わらず見えなか
った。何処まで落ちたのだろう?もしも地面にーーー雲の中の足が触れるところ、
に突っ伏しているのなら外からはそうそう見えないかもしれない。もしかして首の
骨でも折れて即死とか?シィは少し身震いした。
それにしても、とシィは思う。
今回のあの男は、雲と一緒にやってきた。まさか、彼のシマはこの積乱雲だとい
うのだろうか。ーーどうにも突拍子もない考え方だ、とシィは少し自嘲した。
「でも、それはあるかもねぇ」
ようやく復活してきたビーも言った。
「シマが雲にもなった以上、何でもありでしょ」
「そうだねーーー」
ふと思いついてシィはウナジにあるタトゥーの様な紋章、『ファントム』に触れ
てみた。
……………。
何かモヤッとする反応があった。
だが全く繋がらない、という訳でも無さそうだ。
「じゃあ、いるにはいる、のかな?」
「死んでても反応はあるんだっけ?」
またビーが不吉なことを口にした。
「ガウッ?」
その時、ビーの口調が獣の様に変わった。と言う事はーー!
「あぁーーー!」
また聞き覚えのある声が降ってきた。
「ええ!?」
振り仰いだシィは落下して来る男を避ける間もなく、咄嗟に踏ん張って右手上腕
と左手で受けた。
「グエッ」
「”あ」
良い感じで左手が相手の下腹部にパンチを入れた状態になった。
その男は側に転がって跳ね、股の間に手を当てて悶絶していた。
「うおおおおおお」
「ご、ごめん」
シィはその腹筋や胸筋とは違うグニャッとした感覚に驚いていた。
シマに現れた格闘系のディスクや映画でも度々目にする、男性の急所。知識とし
ては知っていても実際のその痛み具合はシィには分からない。
ビーはシィの背中から降りてその男に寄ってクンクンと匂いを嗅いだ。その左手
甲に『ファントム』があることを確認してガウガウと声を出した。
「……大丈夫?」
シィは声をかけた。
「も、もうちょっと……」
苦しげに男は答えた。
「…………」
シィはその男を眺めた。
歳は三十オーバーと言ったところか。麻系のTシャツにシャカシャカの短パンに
スニーカーというラフな格好だった。背はそう大きくはないがパンプアップしたそ
の筋肉は隆々と盛り上がり、フライの実践的なものとはまた違う男らしさを感じさ
せた。白い肌に金色の短髪が似合っていた。
* * *
完全に夜になった。
いつもなら薪を集めて火など起こすのだが此処は雲の上だ。だが不思議な事に相
変わらず腹も空かないしもよおすこともない。ただ気温はかなり下がっていて寒い
という感覚だけはあった。いつもの様にーーーというか自然に、男がシィを後ろか
ら抱いて更にシィがビーを抱く格好になった。
二人は話をした。シマの事、『ファントム』のこと。ビーはシィの腕の中でじっ
と話を聞いていた。男は、格闘家だと名乗った。それ以外の名前や生まれた場所や
暮らしていた時の記憶はやはり無かった。
「格闘ーー?」
「そう、闘うんだ」
「痛くない?」
「痛いよ」
そう語る格闘家は楽しげだった。
「…………」
シィは闘い、痛みについて少し考えてみた。
シィ自身は、痛みには強い方だと思う。クジラや熊と闘った事もあるし、何度か
死にかけた事もある。最近は月一の痛みも経験しているし。そうそう、シマでは生
理痛用の薬はあまり見かけていなかった。
「この手も、格闘してる手だ」
格闘家はシィの手に触れて言った。
「そうかなーーー」
対ヒト、ではなくシマの環境と、ではあるのだが。シィはそう思いながら自分の
手を眺めた。
「さっきのパンチは効いた」
シィは下腹部の感触を思い出して赤くなった。
「あ、あれは狙ったんじゃなくてーー」
「分かってるよ」
格闘家は笑った。
ビーがそっとその様子を見ながらガウガウ言っていた。やはり他人が側にいる時
には言葉が喋れない様だった。
「これーー使えるの?」
やがてシィは格闘家の左手甲の『ファントム』に目をやった。その歴戦の拳はゴ
ツゴツとしていて、『ファントム』の「O」の形も少し歪んでいる様だった。
「あぁーー何回か拳折れてるんだけど」
格闘家は拳をそっと眺めた。
「それは大丈夫」
「そうなんだ」
「多分ね」
「多分?」
「あまり使わないから……もう使い方も忘れた」
格闘家はそう微笑んだ。
シィはその顔をじっと見つめた。格闘家にしては綺麗な顔立ちだと思う。あまり
殴られてはいないのだろうか。そして短髪だと首の太さや自分には無い喉仏が割と
目立つ。改めて意識するとやはり男女の身体の作りは違う。そしてあり得ない程の
筋肉に覆われたその身体に、今自分は抱かれているのだ。
「………!」
途端に、シィは少し恥ずかしさを覚えた。
今まで普通に感じていた沈黙が急に気になり始めた。
「あ、……そう言えば何で落ちてたの」
「落ちてた言うなよ」
格闘家は笑った。
「練習だ」
「何の?」
「スワントーン」
「何それ」
「プロレスの技だよ」
「へぇ……」
そう言えばシィも見た事はある様な気がした。とあるカリスマレスラーの得意技。
コーナー上段からスワンの様に飛び、空中で身を翻して背中から相手に落ち全体重
を浴びせる。スワンの様に美しいセントーン、故にスワントーン。見た映像は違う
言語だったので理解は出来なかったが、その単語はシィは聞いたことがあった。
「やってる格闘って、プロレスなの?」
「んー、違う」
格闘家は空を見上げて懐かしい様な顔になった。
「普段は淡々と殴り合ってる。飛ぶのはーー夢かな」
「夢………」
「子供の頃、見ててさ」
「そっち方面には、進まなかったんだ」
格闘家は笑んだまま少しギュッと口を結んだ。
「……身長で弾かれた」
「そう………」
その辺りのことは、覚えているということだろうか。
「…………」
それにしてもーーシィにとってそういう話は新鮮だった。自分とは違う世界での
人生の話。日々色んな選択をして、仕事をして、他人と係わり合って生きていく人
達のこと。今の自分とは無縁の出来事だ。
「……………!」
もう一つ、シィは聞いておかなければならないことがあるのを思い出した。
「あのさ……」
「ん?」
「『ヒュー』って、知ってる?」
「何だそれ」
「白くて高い塔の上にいる、男の人」
「全然分からない」
シィは肩を落とした。
「まぁ、そうだよね……」
「……彼氏か何か?」
「違うけど……」
『ファントム』に関しては大体皆持っている様だが、『ヒュー』に関しては違う
のだろうか。この憧れの様な必須の様などう仕様も無い感情は、他人にはいまいち
説明しづらかった。
「………」
シィは身体を横に向け、肩を格闘家の方へつけた。
その時、昼間はグニャッとした感触だったものが固く変化しているのに今更なが
ら気がついた。シィは目を見張った。
「………!」
「ごめん、生理現象なんで」
格闘家は目を合わせずに言った。
「イエイエ」
シィも少し固くなって答えた。その辺りの事はシィも分かる。男性って、大変だ
な。そう思った。同時に、相手の対応が紳士だった事に少し感謝した。最も、この
格闘家であるならもしそうなっても、と思っている自分も何処かにいた。
ビーがやれやれという風にクアアとアクビをした。
* * *
いつの間にか、夜が明けていた。
白々とした太陽が昇り、辺りは青く輝いていた。積乱雲は変化を続けつつ、未だ
確かな大きさを持ってそこにあった。
シィが目を覚ますと、格闘家はいなかった。
「あれ」
「いないね」
ビーもシィの膝で目を覚まして言った。
「気配はあるけど」
起き出した二人は積乱雲の少し開けた場所まで出た。既に日は上がり、白く輝く
積乱雲はあちこちにある起伏が青空の中でそれぞれクッキリとしたハイライトを見
せていた。
「キレイ………」
「ねぇ、あれ……」
ビーが指し示した方を見ると、開けた空には積乱雲以外の色んな雲が点在してい
た。
「わぁ……」
それはまさしく絶景だった。羊雲や放射状の雲、薄い雲に小さい雲。本来ならば
季節や高度もバラバラな筈だが、それは同時にこの場所に存在していた。
「あぁーーーー!」
「ガウ?」
また格闘家が落ちてきた。
今度はシィも余裕を持って避けた。格闘家はシィとビーの脇を掠めて落ちていっ
た。
「わぁーーーーーーーーー」
再び積乱雲の斜面に格闘家の叫びが響き渡った。
シィはため息を吐いた。
「フゥ……」
さて、どうしたものか。
「やってみなって、難しいから」
やがて上がってきた格闘家は言った。
「ここに来る前は練習してなかったの?」
「そりゃあーーここまで柔らかい下、ないだろ」
なるほど、とシィはフワフワした地面を蹴ってみる。
「それに今までは日々の闘いで精一杯だったしな……」
一瞬遠い目をした格闘家にシィは一瞬止まった。がすぐに格闘家はいつもの表情
に戻り、シィに向かって手を出した。
「何?」
「ホラ、飛ぶなら上がろう」
「いきなり?」
「体力はあるんだろ」
「………じゃあ」
シィはその手を取った。
* * *
積乱雲の少し開けた高台に来た。
既に空は明るくなっていた。
「では」
格闘家は下を見下ろして腰に手をやった。
ビーは下の方で待っている。
「何か教える事は無いの?」
シィは肩や足首などをクキクキ動かしながら聞いた。久しぶりに違う動きに挑戦
だ。少しワクワクしていた。
「両手を広げて水平に飛び出してしばらく我慢して、後はタイミングで前回転」
「それは知ってるけどさ……」
「大丈夫、この雲ならそうそう死なない」
そりゃああなたは何度も落ちてるからね、とシィは心の中でだけ呟いた。
「よしっと」
シィは心を決めた。こういうことはグジグジしていると無駄に時間が過ぎる。
「じゃあ……行くよ!」
シィは反動を付けてから前へと飛び出した。
「フッ」
シィのしなやかな肢体が宙に舞った。
「……!」
ビーは見た。あの時の格闘家の様に羽を広げたスワンの様な綺麗な姿だった。い
やむしろ、ゴツゴツとした筋肉が無い分スラリとしていてよりスワンに近かった。
「へぇ………!」
格闘家はその姿に目を奪われた。
そのままシィは暫く滑空しーーーくるっと身を翻して半回転し、ビーの近くに背
中気味に落ちた。それは見事なスワントーンだった。
ビーはノソノソ歩いていった。
「普通に出来てたけど……大丈夫?」
「うーん、やっぱり衝撃がそこそこあるね」
シィはヨロヨロと立ち上がった。
「此処以外でやったらケガするかも」
シィは格闘家の方を振り仰いだ。
「あぁーーーーーーーーーー!」
「マジっ?!」
やはり格闘家が降ってきていて、シィはまた対衝撃姿勢を取った。今度は右手に
グニャリとした下腹部の感触があった。
「”あっ………」
「ぐうぅーーーーー」
格闘家は倒れて再び悶絶した。
「ご、ゴメン」
シィはそう言ったもののその二度目の感触、そして昨日背中に感じた固い感触と
の差に今更ながら少し不思議な思いを感じていた。
それは初めて男性器に対する思考をちゃんと持った瞬間だった。
自分はいつか、それをーーー?と思わず考えた自分に少し、何故か妙な罪悪感を
感じていた。
* * *
「ずるいな、いきなり出来て」
やがて復活した格闘家とシィ達は、形の変わりつつある積乱雲の端でしばしの休
息を取っていた。日はまだ高かった。シィ達は相変わらずお腹もすかないし喉も乾
かない。排泄もしなくて済む様だ。本当にまだ生きているのだろうか?
シィはそっと格闘家の様子を窺いつつ言った。
「うーん……何でだろうね」
「やっぱ運動神経が抜群なんだな」
格闘家は少し落ち込んでいた。
一応長年格闘界で生き抜いてはいた筈。勝てばコーナーに上がってバク転位して
みせる。ならば自分だってそう向いていない筈がないのだが………こうも圧倒的な
差を見せつけられると流石にショックだった。
「……ま、仕方ないか」
それでも格闘家は絶望はしなかった。元来、人と比べて生きてきた訳では無い。
これまでもどうしようも無い階級の差や倍速で駆け上がっていくルーキーなども沢
山見てきた。
「何か、ゴメンね」
「いやーーーこっちこそ」
もう格闘家は笑顔を取り戻していた。
その腐らなさ、潔さにシィは気持ちの良い男だなーーと目を細めていた。
「……それにしてもさ」
「ん?」
シィは先程の背中から落ちた衝撃を思い出していた。
「あたしより酷い落ち方、何度もしてるよね?」
「残念ながら、ね」
「それーーあたしだったら、ムリだと思う」
「………?」
シィは格闘家の筋肉質の身体を眺めた。
「やっぱりそれを生業にしてる体なんだね」
「そっか……」
格闘家は少し息を吐いた。気を使ってもらっているのは分かるが、それでも胸の
奥がボウッと暖かくなるのを感じていた。
その日、日が落ちるまで二人は語り合った。
「今まで、そういう人はいなかったの?」
シィはその中で女性について聞いてみた。
「うーん…何人かはいた、かな」
「その人達とは、ダメだったの?」
「そうだな……」
格闘家は見えてきた星空を眺めながら言った。
「あちこち浮遊するのがダメ、らしい」
「浮遊……?」
だから今、雲のシマになっているということなのだろうか。
シィは自分はどうなのだろう、と少し考えていた。
ビーはその場で喉をグルグル言わせながら見守っていた。
* * *
シィは柔らかな温もりに包まれた幸福感の中ゆっくりと目を覚ました。
「……?!」
視界が全て霧に包まれていて一瞬戸惑ったが、シマが雲になっていたのだと思い
起こして立ち上がった。
だが雲の中から顔を出したシィは更に驚いた。
積乱雲が、無くなっていた。そこは割と平坦な雲で最初にいた雲よりもかなり薄
く、場所によっては下が見える程の箇所もある。ちょうど昨日見た羊雲に近いもの
だった。
「へぇ……」
やはりこの場所も、シマと同じ様に形を変えるのだ。いや、雲だけあってシマよ
りは多少流動的だろうか。昨日格闘家が言ったハグレ雲、という言葉が思い浮かん
だ。
「シィ!」
少し離れたところからビーの声が聴こえた。シィは振り返った。
「ビー!」
見ると、クレバスの様に開いた雲の穴の向こうの小さな雲の上にビーはいた。
「この雲、消えそう」
ビーは心細げに嘆いていた。
穴はどんどん広がっていく様に見えた。回り込んでいくうちにその微かな雲は消
えてしまいそうだった。
「待ってて!」
シィは迷わず助走距離を取り、トップスピードで走り出した。
「フンッ!」
重力の事があるので若干高めに飛んだ。三段飛びの要領でビーの側に着地するや
否やビーを抱えて再び飛んだ。ビーのいた雲が風でかき消えたのはその直後だった。
シィとビーはその奥の雲へと着地した。
「フゥ……」
「シィ、また!」
腕の中でビーがまた叫んだ。見ればその場所もまた風で雲が千切れつつあった。
「シィーーー」
「大丈夫、飛ぶ!」
シィは次から次へと飛んだ。八双飛びの様に。
そうして飛び回りながら、シィは思った。
格闘家はどうしたのだろう。まさか雲の切れ目から落ちたりしていないだろうか。
ーーただ、もしそうだとしてもあの格闘家はどうにか生きている気がした。
自分のそれとはまた違う形で。
* * *
格闘家もまた、飛んでいた。
朝方起きてもう一度スワントーンを飛んでみようと思った格闘家は、シィを起こ
さない様に少し離れた場所の雲の壁を登り、そして構えた。
朝の青く輝く澄んだ雲海を見下ろし、格闘家はゆっくりと目を閉じた。いい具合
に力が抜けていた。よし、今なら出来るーーーそう思った。
そして格闘家は両手を広げ、高台の端から踏み切った。
スワンの様に舞う自分。そして今まではバランスを崩していた場所でくるりと一
回転ーーー
「う!?」
一回転?半回転で良いのに?
再び格闘家は腹を下にして落下しつつあった。
「ーーーー!」
だが格闘家は慌てなかった。大丈夫、もう一度ーー今度は半回転で!
格闘家は暴れず滑空を続け、自分のタイミングで再び頭を下に向けふわりと回転
した。
出来た!うまく背を下に向けられた。後は着地の衝撃ーーー
バフッ。
だが衝撃は殆ど無く、周りを白い壁が抜けていった。
「!?」
突き抜けた?そして落下している?
格闘家は辺りを見回した。薄い霧の中の様だ。上方には先程抜けた積乱雲がある。
だが下は見えない。いつの間にか辺りの雲が変化していたのだった。
「ーーーーー!!」
格闘家はジェットコースター系は元来得意だった。だがあまりに長い自由落下が、
やがて格闘家を恐怖の縁へと追いやっていた。
一体何処まで落ちるのだ?このままではーーー。
今まで感じたことのない種類のアドレナリンが、身体を満たしていった。
キィーーーーン!
その時、長年の酷使に堪えていた左手甲の『ファントム』がフワリと光を放った。
「!!」
これはーーー『ファントム』で呼びかけられている?!
格闘家は落下しながら右手でそれに触れた。
”聴こえる?”
脳内に直接響いたのは、あっさりとスワントーンを決めたあの少女の声だった。
そして同時にその少女とビーバーがいる状況も理解出来た。彼らは同じ様に薄い
雲の上にいて、落ちまいと跳躍を続けていた。
格闘家は心の中で答えた。
”聴こえる”
それは、久しぶりの感覚だった。前回『ファントム』で繋がった時がどうだった
のか記憶は無い。それでも格闘家はそれを確かに感じた事があった。
落下している筈なのに、彼らとの距離はそう遠くはなかった。そのことも格闘家
は感じ取ることが出来た。そして更に言葉に出来ない幾多の情報が流れ込んできた。
その中にはーーシィが言っていたあの白亜の塔、そしてその頂上にいてこちらを見
上げている青年『ヒュー』のイメージもあった。その青年はじっとこちらを見上げ、
自分を導こうとしている。
格闘家は何かを悟った。
”……助ける”
”ホント?”
”助けるよ”
格闘家はそうすべきだと確信していた。
そして足を降って再び腹這いでの滑空姿勢に戻った。自分でも驚く程簡単に出来
た。勿論それは自由落下の風圧あってのものだったろう。だが格闘家は自分の全身
が今まで以上に動くーー百パーセントコントロール出来る、という事実に今までに
無い興奮を覚えた。
”!!”
何故かシィ達の姿が眼下に見えた。
明らかに高さがおかしい筈だが、格闘家はどうでも良かった。ここは自分の雲ー
ーシマの筈。
自分が助けなくてどうする!何の躊躇も無くそう思えていた。
”見えた!”
”あぁ”
シィ達も既に格闘家が来る方向が分かっていた。
格闘家の覚悟も。考えも。思いも。それが、『ファントム』で繋がるということ
なのだ。
シィも迷わずビーを抱えて飛んだ。何度目かのフリーフォールの感覚にビーのシ
ッポが最大限に膨らんだ。格闘家も両手足を広げて出来るだけブレーキをかけた。
そして空中で相対速度を合わせ、そして捕まえた。シィはまた後ろから格闘家に
抱かれる形になった。
「繋がったね」
「すごいな」
「グゥウ」
一団は雲の中を落下しつつあった。
「………で?」
「え、えっとーーー」
格闘家は目を泳がせた。シィは片眉を上げた。やはり格闘家は何処か浮遊してい
る様だった。
「俺の雲を探してーーー」
「………そだね」
見える範囲にはそれらしきものは無かった。
シィは背中を格闘家の腹に付けたままそっと腕を広げてみた。ビーはしっかりと
シィに抱きついている。格闘家もそっと手足を広げた。しっかりと手足を絡ませつ
つ、なるべく空気抵抗を増しブレーキをかける。やがて彼らは落下中に少しずつカ
ーブを描ける様になった。何処までも落ちていきつつはあったが、一向に底は見え
ない。色んな形の雲が現れたが、着地出来る様なものは見当たらなかった。
こんな状況ではあるのに、次第にシィは楽しくなってきた。
”飛んでるね”
シィは風圧を浴びた中『ファントム』で話しかけた。
”そうだな”
”嘘みたい”
”あんなに飛べなかったのにな”
そしてシィは思った。この格闘家は強い。ふわりとした根無し草の様ではあるが、
それ故に強い。だがだからこそ、一緒に何処までもは行けない。それは格闘家の今
までの女性たちとも通じるものだ。でも、それでもーーー輝いている。
シィと格闘家は『ファントム』で繋がり、身体が触れていた。そして今、格闘家
のイメージがどんどんシィの中に流れ込んできていた。格闘家が『ヒュー』をーー
あの白亜の塔と青年を感じた事も。
”あぁ……”
シィは微笑んだ。
そして一つ、分かった。あの時見た無数の光が飛び交う空間は、必ずそこを経由
しなければ『ファントム』が繋がらないサーバーの様なものではない。それは恐ら
くクラウドーー全ての情報が、記憶が、思いが保管されている様な場所ではないだ
ろうか。シィも、フライもそれを見たことがある。そしてそれはつまり、シマが隔
絶されてはいても『ファントム』の輪の中には自分たちは必ず存在しているという
ことだ。
『ヒュー』にも、また必ず会える。
そのことを教える為に、格闘家は雲のシマを連れてきたのではないだろうか。シ
ィはそう考えてすらいた。
彼らはそうやって飛び続けた。
やがて、眼前に黒い積乱雲が見えてきた。
* * *
それは、格闘家がいた積乱雲と似てはいたが黒々としていて異様な雰囲気だった。
”……どうする?”
”とりあえず、降りよう”
格闘家が言った。どのみち永遠に飛んではいられない。飛んでいる訳では無く落
ちつつ滑空しているだけなのだから。
シィ達はその黒い雲へと近づいていった。
”!”
あちこちでピカッと光るものがあった。一瞬それは緑色の『ヒュー』の光かと思
ったが……
”あれは……”
”雷だ!”
「ガウッ」
だが遅かった。その積乱雲はどんどん大きくなり、既に迂回する事は不可能だっ
た。
積乱雲は、雷雲ーーーシィはそんな図鑑を見たことがある事を遅まきながら思い
出した。表面に見える雷は今はまだ僅かだ。だがその内部ではどれだけの稲妻が渦
巻いている事か。
刻一刻と空も暗くなっていきつつあった。
”……なるべく早く突っ切ろう”
”うん”
三人は警戒しつつ滑空していった。
ピカッ!
すぐ近くで雷鳴が轟いた。
「うっ」
「まだ大丈夫!」
格闘家は叫んだ。
目の前に黒く膨らんだ雲の固まりが上昇してきた。
「!!」
「蹴るぞ!」
格闘家とシィはタイミングを合わせてその固まりの縁を蹴って上昇した。
「………!」
三人はその固まりの尾根を何とか越えた。
だがその時の蹴った感触は前の積乱雲よりも柔らかく、やがて突き抜けるのでは
ないかという不安も付きまとった。
格闘家が構わず叫ぶ。
「次!」
「うんっ」
それからも彼らは何度か雲の峰を越えた。ある時は迂回し、有る時は雲の中に潜
り込んでしまって無数の雷鳴に囲まれもした。
だがその度に彼らは切り抜けた。シィは、それが自分たちだけの力ではない気が
していた。その先にーーーあの白亜の塔の青年、『ヒュー』がいて導いてくれてい
る。そう思った。
「…………」
格闘家も、何処かでそれは分かっている様な気がしていた。
格闘家は感じていた。それは『ヒュー』と繋がった時に流れ込んできたイメージ。
今までの自分とは違う。百パーセント自分の身体がコントロール出来る。力が漲
っている。だからスワントーンも出来た。そして今、自分の中のドス黒いものと自
分は闘っている。今までやってきたように。いや、本当は今まではちゃんと向き合
った事さえ無かった。闘っているつもりで、逃げていたのだ。
今、自分たちを取り囲んでいる黒雲や稲妻は、全て自分から生み出されたもの。
自分が気付かずにいた負の感情が作り出したものだ。それを受け入れ、乗り越えな
ければ。せめて側にいる少女は、守らなければ。
格闘家は普段感じたことの無い感情に揺り動かされていた。
全ては、『ファントム』とこの雲ーーそして少女のシマのお陰。
その時、巨大な稲妻の群れが目の前を走ってきた。
間に合わない!
「!!」
「あうっ!」
「クワッ」
一同は死を覚悟したーーーー
突如、雲海の中から巨大な影が顔を出した。
見覚えのあるずんぐりとしたシルエット。かつて深海で何度も見た事があるもの
ーークジラだった。それもかなり大きかった。
初めて『ヒュー』に会った時に見た様な巨大なクジラが、今まさに三人の前で上
空へと上がっていきつつあった。
「あれはーーー!」
巨大な稲妻はそれ以上に大きなクジラの巨体に阻まれていた。よく観ると、稲妻
がクジラに触れる場所では緑色の『ヒュー』の光が走り、直撃を防いでいる様に見
えた。
「大丈夫、行こう!」
シィたちは雲の端を蹴り、クジラの尾びれに掴まった。
ビーはその巨大な生物に畏怖した。
「ーーーー!」
クジラは力強く空を泳いでいた。
何故クジラが空をーーーシィ達は当然そう思ったが、既にこの雲海の世界ではど
うでもよい事の様な気もしていた。
クジラは黒々とした雲の層を抜け、やがて白い雲海の上へと飛び出した。
「!!」
「行くよ!」
格闘家とシィは飛び出した。ビーも忘れずにしっかりと抱えて。
クジラはそのまま身を捻り、、雲海の上に着地して派手に雲を撒き散らした。
「…………」
シィは落下しながら、何処かで自分はこの光景を見たことがある様な気がしてい
た。
そして、クジラの存在が今までとはまた違ったものになったということを感じて
いた。『ファントム』『ヒュー』、そしてクジラ。シマを取り巻く環境が劇的に変
化しつつある今、それらは自分に何をさせようとしているのだろう。
シィは身を翻して雲海の上に着地した。前と同じ、クッションの効いた腰辺りま
での雲だった。やっと帰ってきた。確かにそう感じられた。
振り返ると、遠く離れた雲海の上を巨大なクジラが泳ぎ去っているところだった。
白と青のコントラストの上をゆったりと巨体が遠ざかっていく。
また会う事もあるだろう。その時はお礼を言おう。
シィはそう思った。
「………!」
シィは気がついた。格闘家がいない?
シィは辺りを見回してーーそして見つけた。少し上方に、格闘家のものと思しき
小さな一塊の積乱雲が遠ざかっていきつつあった。
「ビー……」
「うん、あそこにいるね」
肩に乗ったままビーは言った。
「どうして……」
「帰るんじゃないかな」
「帰る……」
シィは叫んだ。
「ねえ!」
返事は無い。
「聴こえる!?」
人影ももう見えなかった。だが、確かに格闘家はそこにいるのだ。
シィはウナジの『ファントム』に手をやって格闘家に呼びかけた。
”ねぇ……”
……………。
返事は無かった。だがふわりとした感触は確かにあった。
”本当に、楽しかったね”
やはり返事は無かったが、伝わってはいる。シィは確信していた。
それが『ファントム』というものの存在、である筈。
「………」
ビーはシィのウナジのその紋章がふわりと緑色に光るのをじっと見ていた。
ビーは今回、何度かシィと格闘家が『飛んだ』のを知っていた。『飛ぶ』とは、
シィが時折見せる緑色の光と友に瞬間移動することだ。本人たちは気付いていない
のかも知れない。だが雲の中で落下しつつ『ファントム』で繋がった時、彼らは何
度か『飛んで』同じ空を落ちていた。何故なのかは分からない。恐らく本人たちの
意思では無いだろう。ならばーーーそれは、
『ヒュー』のものなのか?
ビーはそう考えながら空を見上げた。
積乱雲はどんどん上昇している。その姿は小さくなっていった。
その時、雲の上でチカッと緑色の光りが名残を惜しむ様に散った。
「!!」
シィはもう一度『ファントム』で呼びかけようとしたがやがてゆっくりとその手
を下ろした。
ふわりとはしているが結局全てを受け止めそして受け流すあの格闘家の精神と肉
体。
気持ちのよい出会いだったな、と改めて思った。
「シィ……何か聴こえる」
ビーが目をクリクリさせながら言った。
「え……」
シィは目を閉じてそっと耳を澄ませた。
「………!」
確かに微かに聞こえた。
それは耳慣れたシマの潮騒のざわめきだった。
ふと何かを感じてシィは雲の中の足元に手をやった。
その手に触れ拾い上げたのはーーーあの赤い乳幼児用の小さなスニーカーだった。
シィはビーと顔を見合わせ、微笑んだ。
また、普段のシマが帰ってくるのだ。
* * *
格闘家は飛んでいた。
繰り返し、繰り返し。積乱雲の高台に登っては、両手を広げて飛び出して空中で
くるりと舞って背中から着地。昔から憧れていたあの技、スワントーン。今では難
なく出来る。
自分はいつからこうしているのだろうか。
思えばいつも飛んでいた様な気がする。
そうしてずっと遠くまで来た。
そしてこれからも。
キィーーーーーーーン。
その時格闘家は緑色の光を見た。
それは遠くで瞬く、優しい光だった。
格闘家は微笑んだ。
* * *
「!!」
格闘家は意識を取り戻した。
目の前には若い相手がいた。そこはあの地下リングの上だった。
自分はヒールを取ろうとはしているものの若い選手は無理をして身体を捻り、再
びパウンドを打とうとしていた。
「クッ!」
格闘家はパッと手を離し、反動でズレる相手の身体をいなし、すぐさま立ち上が
った。
相手も足首を気にしながらも素早く立ち上がる。
ーーーいい相手だ。いずれ上がっていくファイターだろう。
だがまだ自分もやれる。
やれるだけやる。
これからも。
手足はダメージがあるものの十分に動いた。全て自分の思い通りにコントロール
出来ている。
「………よし」
格闘家はガードを上げ、そして肩の力を抜いた。
次の攻撃で必ずカウンターを決める。
「フンッ」
そして格闘家は前へと出て行った。
( 終 )