#3「Ice」
あれから、大人になろうとしている少女シィは色々なことを知った。
月に一度の痛み。出血。その対処。ちなみにシマに自生している綿花から生理用
品は作ることが出来た。ビーバーのビーは優しく、そのことについて教えてくれた。
ビーが言うには、そういうことも含めシィは前に一度あって忘れているのだ、とい
うことらしい。確かにシィは生理周りのことについて聞いても、何処か初めてのこ
ととは思えないフシがあった。自分は、どうしてそういう状態にあるのか。シィは
それをいつか知りたいと思っていた。
それにしてもーーーとシィは思う。
子供を産む為の準備。それが老いるまではずっと続く。今の自分に、必要だろう
か。まだ何も出来ない、自分のことすら生きていく以外のことはままならない状態
だというのに。
ーーー特別な相手さえいれば、それは何とかなるのだろうか。そしてその人は、
いつか自分の前に現れるのか?『ヒュー』……あの緑色の謎の光と共に現れる、あ
の白亜の塔の頂上の青年は、自分にとってそれとなりうるのだろうか。
今のシィにとっては全てが想像の中のモノでしかなかった。
その日のシマはよく晴れて暖かかった。
シィは前回会った恐らく父親であったであろう男・フライの様にヤシの実の繊維
で網を作ってみたが、イマイチ上手くは行かなかった。元来繊細な作業は性格的に
も手先的にも向いていなかった。早々に諦めて漁はナイフと銛で行うこととし、シ
ィとビーはまた元の日常に戻っていた。
フライのナイフは切れ味がよく、日々の生活に重宝していた。シィは革でナイフ
入れを作り、フリーダイブの時でも携帯する様になった。何処かで自分を見守って
くれている。そんな気がした。
シィはあれから何度かウナジにある不思議な紋章『ファントム』に手を触れて接
続を試みていたが、相変わらず何処にも繋がってはいない。微かなノイズと不確か
なイメージが脳裏に現れるだけだった。それでもシィはもう絶望したりはしなかっ
た。いつか、それはまた繋がる。そして何かに、誰かに出会える。そう思っていた。
「よしと」
今日も砂浜でシィはオブジェを作っていた。枝を芯にして、少し高めのものを。
それはやはりあの白亜の塔のイメージではあったが、天空にそびえ立つ塔そのもの
を再現するのは砂ではムリだ。あくまでイメージ。それにしてはよく出来た、と思
う。
「また?」
ビーがノソノソ歩いて来た。
「結構いいでしょ」
シィは胸を張ったがビーは興味無さげだった。
「よく分かんない」
ビーは欠伸をして頭をかいた。
「……ふぅん」
シィは不満げに腰に手をやった。とはいえ、そこまでこだわりがある訳でもない。
ビーはビー。そういう感覚だった。
その時、ビーが顔を上げた。
「………あれ」
「どうした?」
「うん………」
ビーが歩き出した。
「………?」
これは……また何かが、シマに現れたんじゃないか?シィも小走りで続いた。
「これ………」
シィは波打ち際の岩の影で新たな物資を見つけた。
それは分厚い医学書の様なものだった。見知らぬ言語で書かれてはいるものの、
イラストも多く見受けられる家庭用のものだった。ビーにもその言語は読めなかっ
た。と言うか、ビーはビーバーにしては珍しく言葉を話すものの文字を読むのは苦
手だった。
「へぇ………」
シィは砂浜に座り込んでページをめくりそのイラストを眺めていった。ビーも側
でフンフンと匂いなど嗅いでいる。
そこには妊娠・出産のこと、子育てのことなども書いてあった。
「………」
少し、胸がチクリとした。自分には、本当に必要なのだろうか。
「………ま、いっか」
とりあえず、ケガの時の包帯の巻き方などは少し役に立ちそうだ。また何処かの
時点で無くなるまではーー。
シィは自分にそう言い聞かせ、それを小屋へと持ち帰った。
時に何か物資が現れ、それが知らないうちに消えてしまうこともある。
此処は、そういうシマだった。
* * *
「ん………」
シィはその夜も自慰を続けていた。
褐色の肌がうっすらと汗でにじむ。しなやかで筋肉質な体が仰け反った。
医学書の中には、セックスに関するページもあった。それは非常に簡素な、事務
的なものではあったがシィの想像力をかき立てるには十分だった。
シィの指は、自身の暖かいところに差し入れられていた。奥へ、奥へーーー渇望
する何かが、シィを突き動かしていた。
「………」
ビーはやはり、自分の巣の中でそれを聴いていた。
木々を細かく砕いて積み上げたビーの小さな巣は暖かくはあるがそれなりに通気
性もあり、外の音は鋭敏に拾える様に出来ていた。
ビーは思う。
この間ようやく生理が始まったーーとは言いながら、それは恐らく初めてでは無
かったのだろう。本当は既にバージンでも無い筈だ。そのことに、シィは薄々気が
ついている。問題はどうしてそういう状態になっているのか。それはやはり、忘れ
ている記憶の中にしか答えは無いのだろう。
そして、それに繋がるのはーーやはりあの紋章『ファントム』なのか。それとも
あの謎の光『ヒュー』なのか。それとも両方?
そう言えばシィには、あの青年だけではなく緑の光の自体の名前が『ヒュー』で
あるということはまだ伝えてはいなかった。それはビーもそれ以上の詳しい情報を
持ち合わせていないからだ。
ーーーそれでも、いつか伝えなきゃ。
離れた小屋でシィが達した声を聴きながら、ビーはそっと眼を閉じた。
* * *
「………うっ」
シィは肌寒さに震え目を覚ました。下着をはき忘れていた股間がひんやりとして
いる。
見ると外はまだ夜明け前だった。
「ーーー何?」
シィは下着とパレオの上にストールを羽織って小屋を出た。
ビーが既に巣から出て辺りを窺っていた。
「おはよ、ビー。寒いね」
「うん、風邪引かない様にね」
うっすらと霧が出ている様だったが、それはもはや冷気に近いものだった。また
いつもの様に、シマは一晩でその姿を変えた様だった。
シィはギシギシいう音に気がついた。
「あの音は?」
「氷だね」
「氷!?」
シィは普段は履かない革のシューズーーと言っても足先を革で巻いて縛っただけ
のものーーを履いて波打ち際へと歩いていった。冷たく冷えた砂がいつもとは違う
音を立てる。海はかき氷の様な細かい粒でひしめき合い、ゆったりとした波に揺ら
れてギシギシシャリシャリという音を立てていた。
「ひえーー………」
シィは肩をすくめた。昨日までは普通の南国だったというのに。
シィはいつも思うのだが、こういう場合海中の珊瑚たちは死んだりしないのだろ
うか?経験上、次に南国のシマが戻ってきた時には珊瑚や魚たちは元の通りに過ご
している様に見えた。だが、実はそれらは元のままではなく、全て違ったものが再
構成されてそこにあるだけなのではないか、とシィは思うことがある。そしてそれ
は自分もだ。風景が変わる度に実は別の人間になって、それを繰り返しているだけ
なのではないか?今ある記憶も、またいつか忘れてしまってまた最初からシマで生
きていくというのを繰り返しているだけなのではないか?と。
シィは束の間、その考えに捕われてフリーズしていた。
「…………」
「シィ」
「!」
気がつくと、ビーが側に来ていた。
「今日は漁はいいでしょ、戻ろう」
ビーはそう言って歩き出した。
「そうだねーーー」
シィも踵を返した。
その時、遠い水平線上にキラリと緑色の光の柱が立ったが、寒さ故かギシギシと
した氷の音のせいか、二人とも気がつかなかった。
既に空は明るくなりつつあった。
それは寒い割に風の無い、空がスカッと蒼く抜けた一日が始まろうとしていた時
の事だった。
* * *
シマの遥か海上。
一艘のボートが漂っていた。オールもエンジンも無い、だがしっかりとしたカッ
ターサイズのボート。その船首には屋根がある部分もあり、中にはくたびれたブル
ーのコートに身を包んだ蒼白い顔の青年が眠っていた。その側には、スナック菓子
やビールの缶が転がっている。
「…………!」
やがてその青年は氷が立てるギシギシという音で目を覚ました。
「…………?」
屋根のある空間から這い出た青年は、眩しそうに眼を細めた。空が蒼く広がって
いる。そしてボートの周りは細かい氷で囲まれていた。
「ここはーーー?」
その眼に映っているのは、蒼い世界だった。
「………まぁた、ヘンなことになってる」
その蒼白く痩せた顔に、笑顔が浮かんだ。
その青年は、船尾から身を乗り出して氷をすくってみた。冷たい。だが周りの寒
さ故か、そうそう溶けはしなさそうだった。
「ん」
青年は次々に氷をすくって甲板に積み上げ始めた。
* * *
「シィ、あれ………」
その日の夕方、シマの奥で食べられそうなものを探してきたシィとビーは、シマ
の反対側の海沿いの崖の上で海上に浮かぶ氷に包まれた物体を発見した。船の様に
も氷の固まりの様にも見えたが、海面の細かい氷の中では一際大きく、それは少し
ずつシマに近づきつつあった。
「……ボート?」
「誰かいるのかな」
二人は顔を見合わせた。
「行ってみよう!」
シマでボートを見るのは珍しかった。時々難破して打ち上げられた様な古いもの
は現れるものの、それを使おうとする時は大抵無くなっていた。漕ぎ出したと思っ
たら穴が開いていて結局泳ぐ羽目になったこともある。なのでシマではビーが切り
倒した木々を束ねて筏にすることが多かった。
ましてそれに人が乗っているとなるとーーーこれは相当珍しい。
「わぁ………」
岩場の海岸に着いたシィとビーは、近づいて来る氷の山を積んだボートに目をや
った。
「………」
シィはカッターと呼ばれる、男たちが縦二列になりそれぞれが巨大なオールを持
って一糸乱れず漕いでいく船の映像を見たことがあった。今見ているのはまさしく
そのサイズだった。だがその船体からはオールは全く出ていない。代わりに細かい
氷が山と積まれていた。
「ビー………誰かいる?」
「うん」
ビーは警戒して言った。
耳を澄ますと、ギシギシという氷の音の中でザッザッと何かを削る様な音がして
いた。
「何だろう」
「さぁ」
ビーはまだ警戒を解いてはいない。シィは思い切って声をかけた。
「ねぇ!」
ザッザッという音が止んだ。
「誰かいる?」
シィは返答を待った。ボートは岩場まで流れて来た。
「………」
やがて、氷の山の向こうからくたびれたブルーのコートを着た痩身の青年が顔を
出した。
「呼んだ?」
「あ……あの」
シィはその姿を足元から眺めた。
その青年は裸足だった。よれよれのジーンズに薄汚れたTシャツに直にブルーの
コート。蒼白い不健康そうな顔に黒い長髪を垂らしていた。見るとその右手にはノ
ミのような刃物。
「あ、これ?」
青年はシィの視線に気付いて持ち替え、刃先を手の内にしまった。警戒させまい、
という気
遣いは見て取れた。
「彫刻を少々」
「…………」
シィはフッと力を抜いた。悪い男では無さそうだ。
「あたしはシィ。あなたは?」
青年は首を傾げた。
「さぁ……覚えてない」
「………?」
シィとビーはそっと顔を見合わせた。
「あれ、ビーバー?可愛いな」
言われたビーはグルルと喉を鳴らした。
やはりシマに他人がいるその場では、いつもの様には話せないらしかった。
シィは木のツルでボートの先を岩場に固定した。波は殆ど無かった。
「………これ……!」
その時、シィは山と積まれた氷の山の向こう側に塔の様なオブジェを発見した。
それは小さな氷を集めた氷柱で、ゴツゴツとはしているが正しくあの『ヒュー』が
いる白亜の塔だった。
「どうした?」
さっさとボートを降りて寒そうにコートに手を突っ込んだ青年は言った。シィは
尋ねる。
「この塔、知ってるの?」
やはり青年はカクッと首を傾げた。
「さぁ……浮かんだ」
「そうなの……?」
シィは再びオブジェに目をやった。
また、あの塔関連の事象がこのシマに現れた。
ということはーーこの青年は、どうなのだろう。『ヒュー』と、何か関係がある
のだろうか。
シィはそれを期待せずにはいられなかった。
* * *
夜になった。
青年がボートをあまり離れたくないというので、その日は岩場近くの森の側でキ
ャンプになった。焚き火を囲んで山菜や木の実で腹を満たしつつ、シィは青年に話
を聞いた。
青年は、自分の名前やそれまで何処にいたのかは全く覚えていなかった。何処か
らボートで来たのか、海上の何処かにシマがあるのではないか?と聞いても首を傾
げるばかりだった。
「…………」
シィは考え込んだ。
前回現れた新しいシマとそこにいた男、フライ。それらはある時緑色の光と共に
消えてしまったのだがーーシィはこれからも同じ様なことが起きるのかと思ってい
たが、実はフライが特例だったのだろうか?この青年は自分やフライと同じく物心
ついた頃から独りでシマにいて、という感じではなさそうだった。まるで何処かの
世界にいて突然ここに迷い込んでしまったかの様な体だった。
その時、ビーがシィの膝に頭をコツ、とやった。
「ん?」
ビーがノソノソと青年の方へ歩き、その左手に顎をチョンと当てた。
「………?」
シィは何気なくそこを見るとーー今まで何となく袖で隠れていて見えなかったが、
青年の手の甲にはシィのウナジにあるのと同じ様な紋章ーー『ファントム』があっ
た。
「!?それ!」
シィはザッと立ち上がって青年の側に寄った。
「!?な、何?」
驚く青年の手を取って、シィはその『ファントム』をまじまじと見つめた。形は
『C』というよりは『O』に近いだろうか。だがそのディテールはシィのものとほ
ぼ同じく、生体的に内部と結合している様に見えた。
「これーーーどうしたの?」
「どうって?」
「『ファントム』……、何処で手に入れたの?」
必死な感じのシィに青年は気圧されている様だった。
「何処って…大体あるだろ、皆」
「どういうこと?」
「あんたには……無いってことか?」
「………」
シィは自分の黒髪を手で束ねてウナジを見せた。青年は覗き込んでそれを認め、
フッと笑った。
「ははぁ……珍しいね」
「……そうなの?」
「あぁ」
シィはズイと顔を寄せた。
「お願い」
そして真面目な顔で言った。
「教えて、『ファントム』のことを」
* * *
夜を徹して、青年は語った。
『ファントム』とは、本来通信端末の様なものなのだと。いつの頃からか、人類
はそれを持ち歩く様になり、やがてそれが遺伝子に組み込まれ標準仕様になったの
だという。
「…………!」
シィは眼を見張った。それは自分とは関係無い遠い未来のことの様に思えた。少
なくとも、シマに現れる映像や書物などにはそんな文言は無かった。
シィはビーに眼をやった。ビーは、知っていたのか?
ビーは黙っていた。青年が語る『ファントム』の情報は新しいものもあったが通
信機能、という点ではビーの記憶も大体間違いは無さそうだった。ビーはシィの方
を見返したが、今はしゃべれない状態だった。
「………?」
シィは青年に目を戻して尋ねた。
「じゃあこれ……どう使うの?」
青年は左手の甲を見せながら言った。
「大体は此処にあって、合わせたらもう次から繋がる」
「番号交換、みたいなもの?」
シィは携帯と呼ばれる通信機器が出て来る映像は記憶があった。
「?……多分」
青年にはピンと来なかった様だ。
「……いい?」
青年はそっとシィのウナジに手を伸ばし、『ファントム』同士を合わせた。
「行くよーー」
「…………」
シィは青年との距離がすごく近いことに気がついた。少し力が入ったかも知れな
い。
青年は優しく笑んだ。
「嫌なら、拒否出来るから」
「ううん……大丈夫」
「じゃあ」
ーーーーーートッ。
「…………!」
よく分からないが、何かがカチッと嵌った様な、不思議な感覚があった。
「後は?」
「頭の中で操作する」
青年は何かを考えている様な表情になった。
「………?」
シィはそれを待った。
だがーーーー特に何も起きなかった。
「あれ」
「ムリなの?」
シィは自分の『ファントム』に触れてみた。いつものノイズと、フワッとしたイ
メージ。ひょっとしてその中に、青年のものも含まれているのだろうか?
「……ダメ?」
「おかしいな」
青年は首を傾げた。
「まあ……普段はほぼ使わない」
「そうなの?」
「あまり友達いなさそうだしさ」
その記憶も曖昧、ってことか。
シィはその病的に痩せた顔がふわりと笑むのを見ていた。
「他の人にも、繋がらない?」
シィは思いついて言ってみた。
「他の?」
「誰でもいいから」
「う~ん……」
青年は眼を閉じた。そうしてしばらくしてから言った。
「ダメだ。データ的なのも一切来ない」
「やっぱり……?」
シィは少し目を伏せた。
遠くのものに繋がらないのはやはりこのシマが、ホシが隔絶された場所にあるか
らだろう。しかしこんなに側にいる青年とシィの『ファントム』が繋がらないのは
ーー何故なのだろうか?何処か遠くのサーバー的なものを介しないと無理なのだろ
うか?ひょっとしてそれは、あの時見た光の空間だろうか……?
「ゴメンな」
青年はすまなそうにしていた。
「ううん……じゃあさ」
「ん?」
それから、シィは更に色んなことを聞いた。『ファントム』を持たない人間も確
かにいる。事故や病気で使えなくなった者も。中には自分で切り取ったりする人間
もいるらしい。便利なものではあるが、それが全く必要ない者もいる。
それは人の業、武器を手に入れた時にどう使うか?みたいなことだ。
青年はそう言った。
* * *
次の日、シィと青年は波打ち際でボートを引きつつシィの小屋のある砂浜を目指
した。
相変わらず外は寒く、水面は小さな氷で覆われてギシギシと音を立てている。
シィはボートに乗っていた白亜の塔のオブジェが壊れないか心配だったが、青年
は言った。
「いずれ壊れるか溶ける」
「………!」
それは、シィが砂で作るものと同じ感覚だった。シィはそっと微笑んだ。
ボートを引いているのでその歩みは鈍かった。青年の背はシィよりも高いものの、
やはり体力ではシィの方がありそうだった。同じ様にツルをロープ代わりにして引
いているのだが、青年の歩みは時によろけたりフラフラしたりと弱々しいものだっ
た。シィは履かせた自分の革の靴が合っていないせいなのかと少し心配していた。
やがてシィは、青年が時々空や海を見ては目を細めているのに気付いた。
「………?」
その視線に青年も気付いて言った。
「あぁ………ある種の色盲なんだ」
「色盲?」
「例えばこれ……」
と青年はボートのオブジェを指差した。
「何色に見える?」
「えっと……白?半透明?」
シィはそれにしても見事な出来だと思いながら答える。
「俺は青みがかかって見える」
青年は自分の目を指差して言った。
「へぇ………」
シィは青年の目を覗き込んだ。病的な痩せ方をしてはいるが、その長い黒髪の向
こうのブラウン色の瞳はとても綺麗で優しかった。一瞬、ひょっとしてフライの様
にその瞳の奥が光るのではないかとも思ったが、それは無かった。
「シィの瞳もーー」
「緑じゃない?」
「あぁ、もう少し青い」
「そうなんだ……」
シィはその瞳に吸い込まれそうで目を逸らして歩きに集中した。
青年は続けた。
「だから、俺の見てる世界とシィの世界は、ちょっと違うかもな」
「………」
「でもそれはーーーみんなそうかも」
「え?」
「だから作るのかも、な」
そう言った青年の雰囲気が、シィはとても素敵だと思った。
「うん………何となく、分かる」
「そうか?」
「うん」
シィは、もっと色んなことを教えてほしいと思った。
ビーはノソノソと歩いていた。いつもなら置いていかれそうだが、今日は二人が
ツルでボートを引っ張っているので丁度スピードが合っていた。
ビーはそっと二人を眺めた。
前回のフライの時も少し思ったのだが、シィは割とすぐにこうして男と打ち解け、
中々いい表情をする。少し惚れっぽいのではないだろうか。簡単に異性に心を許し
過ぎる様な気がする。額面通りではない人間もいっぱいいる筈なのだがーーーとま
で考えて、ビーはプルプルと首を振った。
何だろう、この小姑みたいなモノの考え方は。まるで嫉妬でもしているみたいじ
ゃないか。もっと自分は野生のものでーーー
「どうしたの、ビー」
呼ばれてビーはハッとした。大丈夫、と答えようとしたがガウガウとしか声が出
なかった。
「名前、ビーバーだからビー?」
青年は目を丸くしていた。そう言えば紹介を忘れていたのだった。
「そ。ダメ?」
「いやいや」
既に二人はそんな軽口を言い合える雰囲気になっていた。
ビーはため息を吐いて歩き続けた。
* * *
その日の昼過ぎにはシィの小屋のある砂浜に着いた。
ボートの先を砂浜に食い込ませ、シィは小屋へと向かおうとして青年に声をかけ
た。
「何か食べる?」
青年はボートの上の氷の塔のオブジェをじっと見ながら答えた。
「何がある?」
「それはこれから探す」
「任せる。俺、しばらくこれいじってるよ」
青年はすぐさま作業を始めた。
「………」
手伝ってもらってもいいのだが、とシィは少し思ったがそれは忘れてビーと共に
山へと向かった。この寒さでは魚介類はしばらく難しそうだ。
とは言え、普段なら自分たちだけの食料探しで無いなら無いで仕方ないと思える
のだが、人を持て成すと言うことになると大分心持ちが違った。もし何も見つから
ないと腹をすかせてしまうーーこれが人と過ごすということか、とシィは今更なが
ら思った。
幸い、飲み水用の小さな滝は氷に覆われてはいるものの流れはまだ残っていた。
そこに申し訳程度の川魚もいたので昼と今晩の分は何とかなりそうだった。
焼き魚でランチを済ませると、シィはボートの側で青年の作業を見守った。
青年はどんどん氷を付けてオブジェを大きくしていった。それはまるで何かに取
り付かれているかの様な鬼気迫る作業だった。シィはその姿に見とれた。青年はラ
ンチの時もその体躯にしては少食だったが、今見ている作業はかなり体力を要する
ものだ。それであんなに痩せているのか、とシィは思った。
「ガウガウ」
ビーがやってきて何か言っていた。
「シッ……大丈夫だから」
シィはそっと指を立てた。最も、側で多少騒いだところで青年のあの集中力では
聞こえるとも思えなかった。
「…………」
シィは側の砂浜でいつもの様にオブジェを作り始めた。昨日作ったものは既に波
に洗われて無くなっていた。最初は手持ち無沙汰故に始めたのだが、やがてシィも
それに熱中していた。気がつくといつもよりも大きめのオブジェが出来ていた。や
はりそれは白亜の塔を模したもので、シィの中では上々の出来だった。
「それか、シィの白亜の塔って」
気がつくと青年が手を止めてこちらを見ていた。背後にはかなり大きくなった氷
の塔がそびえている。シィはちょっと恥ずかしそうに立ち上がった。
「あ……そう、これ」
青年はボートの上で立ち上がってしばらく眺めた。
「……………」
シィはまるでテストを受けている子供の様な面持ちだった。それ自体も、このシ
マではあまり無いことだ。やがて青年がゆっくりと笑んだ。
「いいんじゃないか」
「ホント?!」
シィは目を丸くした。
「荒削りで、ちょっと繊細さに欠けるけど」
シィは少しはにかんだ。
「それは……自覚してる」
それはシィ自体にも通じることだった。
青年はシィのオブジェを見ながら笑んだ。蒼白い顔が優しく見えた。
「それでもいい……いい感じで、ザワザワする」
「そっか……」
青年の背後の圧倒される様なそれとは大分違うけどね、とシィは思った。青年の
塔は既にボートをはみ出し、砂浜の一角を覆わんばかりになっていた。
「ねぇ……」
シィはいつもの自身が透き通る様な感覚を心地よく思いながら聞いた。
「元々、あなたは彫刻家なの?」
「………」
青年は少し考えた。
「分からないが多分………いや間違い無いとは思う」
「そう?」
「これ以外に、やれることがあるとは思わないな」
青年は笑った。
何だか、強いなーーーシィはそう思った。
この人は、どうやって今まで生きてきたのだろう。自分やフライの様に無人島で
時々物資が現れさえすれば生きてはいける、というタイプではなさそうだ。ならば
どうやってーー?
「それは、何処かの世界にいたからじゃない?」
青年が思い出して用足しに向かった後、ビーが近づいてきて少し話をした。
「何処かの世界?」
「『ファントム』が普通にみんなにあって、それが普通に繋がる世界」
「……………」
そうか、とシィは思った。そこの記憶が無いとは言え、あの青年は『ファントム
』のことをちゃんと知っていたのだ。
と言うことはーーーとシィは考える。あの青年も、いつか此処から消えてしまう
のだろうか。また元いた世界に戻ってしまうのだろうか。そして、そこは自分には
辿り着けない場所なのだろうか。
その夜も、シィと青年は焚き火を囲んで色んな話をした。
『ファントム』のこと、『ヒュー』のこと、あの白亜の塔のこと。相変わらず青
年の元いた世界や自身の名前や生い立ちなどの記憶に変化は無く、答えの出ない話
題が多かった。それでも、二人は尽きること無く楽しげに話し続けていた。
ビーはそっとその様子を見守っていた。
「いつか、本当の『白』を見たいんだ」
青年はその最中、焚き火を観ながらポツリと言った。シィはまっすぐその瞳を見
つめた。ブラウン色の瞳には焚き火の炎がチラチラと映っている。青フィルターが
かかっているというその目に映る色は、どんなだっただろう。
「それも、作り続ける理由?」
何となく、シィは尋ねた。
「…………」
青年は少し笑んだだけで、何も答えなかった。
その時シィは、青年の左手の甲の『ファントム』がフワッと緑色の光を放ったの
を見た様な気がした。
* * *
次の日の朝、青年がいなくなった。
シィが起きると、ボートも、オブジェも全てが消えていた。ただシィの作った白
亜の塔のオブジェだけが氷を含んだ波に少し洗われて輪郭がボケたものが佇んでい
るだけだった。
「いないね」
ビーも起き出して目をパチクリさせていた。
「ーーーどうして?」
既に、何処かへ行ってしまったのだろうか。シィは唇を噛んだ。
昨夜、あの青年の腕枕に顔を埋めた様な気がする。とても温かな気持ちになった
様な。
だが今、それは白昼夢の様に消え失せていた。まるで青年がシマに来たこと自体
が幻であったかの様に。
「ーーー探そう!」
シィはそれを振り払い、あっさりと行動に移った。
まずは辺りを見回す。ボートのあった近辺から陸上へと続く青年の足跡は無い。
「ん~、シマに気配は無いねぇ」
ビーは首を傾げた。
「ビーは海周りをお願い!」
「りょ……」
ビーが返事をするより早く、シィはバッと走り出した。小屋の裏手の林へ飛び込
み、フライに習ったパルクールでピョンピョンと木々の中を飛んでいった。
「ほえ~……」
またうまくなったな。あんなに練習していたものな。ビーはその様子をしばし眺
めてから砂浜を歩き出した。氷の浮いた海に飛び込むのは避けたかった。
昨日の晩、ひとしきり青年と話をしていたシィは、やがて先に眠りについた青年
の腕の中に眠そうな顔で潜り込んでいた。あれは無意識だったのだろうか?どうも、
フライの一見以来、シィの男に対するガードがちと緩そうなのがビーは気になって
いた。あの位の年頃ならば普通なのだろうか。それともーーー。
ビーはそんなことを思いながらノソノソと歩き続けた。
「フッ……!」
木々の間の空間をシィは飛び回っていた。既に空は暗くなり始めていた。
「…………」
ーーー何故、自分は山の方に向かったのだろうか。シィは考えていた。
浜辺に青年の足跡は無かった。ならば海方面の方が確率は高い。だがーー。自分
はこちらを選んだ。勿論、ビーが歩き回るなら山中よりも浜辺の方が早いので、自
分が山方面を見回る方が効率が良いというのはある。だがシィはそれだけではない
様な気がした。自分の中の何かが、こちらだと言っている様な。それは誰なのだ?
ーー分かっている。もしいるとしたらーー『ヒュー』。あの白亜の塔の頂上にい
た青年。
前回観た景色を、シィは思い出す。人はそれぞれ白亜の塔を持っていて、その頂
上にそれぞれの『ヒュー』がいる。それはそれぞれが目指す場所にいて、何処かへ
導くもの。そんなイメージ。
自分は今そう考えている。正しいかどうかは分からない。だがそれ以外に今は特
に目指すものが無い。シマでただ生きて、オブジェを作っているだけで。
シィはそう考えながらも枝から枝へ、時に地面や岩を蹴り移動していた。注意深
く回りに目配るのも忘れてはいない。シィは長年のシマでの生活で自分や他の生物
が生活すると必ずその跡が残ることを学習していた。小枝が折れたり、草が踏まれ
ていたり石が移動していたり。一種のトレーサー能力だった。だが今、山の中は特
に何も軌跡は残っていない。寒々しい冬山の景色が広がっているだけだった。
「…………!」
だが、シィは落胆はしなかった。まずはこのシマの全てを確認しなければ。それ
も、二度三度と見なければ。その時ごとにこのシマは変わるのだからーー。
その時、シィは自身の首筋の『C』の様な紋章、『ファントム』がフワッと光る
のを感じた。
「!?」
シィはザッと地表に降り立った。そこは山の中腹の岩場だった。
シィは注意深く辺りを見回した。眼下にはシィの小屋のある砂浜や珊瑚礁が見え
ている。青年が現れた岩場の海岸はまだ反対側で見えはしない場所だった。
「…………」
シィは目を閉じてそっと首筋の『ファントム』に触れ、意識を集中させた。
キィーーーン!
「!!」
シィは目を見開いた。
いつものノイズではなく、明確なビジョンがシィの脳裏に降り注いできた。
* * *
「やぁ、来たね」
そこは、先程の岩場から少し登った辺りだった。岩場の中の少し開けた高台。そ
こに青年は佇んでいた。
「……繋がった、よね」
シィはハアハアと息を弾ませながら聞いた。
「あぁ」
青年は手を腰に当ててシィに背中を向けていた。その手には彫刻刀があり、見え
ている左手の紋章『ファントム』は淡く光っていた。
「どうしてここへ?」
「さぁーー気付いたら此処にいた」
青年は何かを見上げていた。
「………?」
シィは近づいていった。青年の背後に氷の柱の様なものが見えている。
「ーーーーわぁ」
それはやはり、あの白亜の塔のオブジェだった。それはそれまでのものよりも更
に大きく、視界の下まで広がっていた。余りに大きくてシィは最初凍った滝かと思
ったくらいだった。
「これーーー作ったの?」
「さぁ……自分でも分からない」
そういう青年は昨日よりも更に痩せこけていた。もしかして不眠不休で作業して
いたのだろうか。
「さっきさーーー」
シィは青年の隣に立って言った。
「どんな感じだった?」
「どうって?」
「その……あたしから『ファントム』で呼びかけた時」
青年は少し笑んだ。
「久しぶりの感覚だった」
「………?」
「しばらく誰とも、繋がっていなかった」
「…………」
シィは、何と言っていいのか分からなかった。それは自らなのか、それとも別の
理由なのか。
代わりにシィは自分のウナジに触れて言った。
「ねぇ………」
「ん?」
「そっちからーーー繋いでみてくれない?」
青年は少し驚いた様な顔になり、それから切なそうな顔をした。
「ごめんなーーー多分、もう出来ない」
「………!」
それは、どういう意味だったろうか。
シィは立ち尽くして巨大な白亜の塔のオブジェを観ていた。
* * *
その夜、岩場の中で二人は焚き火を前にくっついていた。
相変わらず外は寒く、岩場は風が吹き付けていたからだ。
縦に長い体ではあるが痩せぎすな青年は後ろから包み込まれてもあまり暖かくな
かった。それでもシィは僅かな人肌で充分だった。
一応、シィの小屋のある浜からギリギリ見える辺りにかがり火は焚いておいた。
恐らくビーには分かるだろう。
二人はシィが持ってきた非常食で腹を満たし、そして話をしていた。
「ごめんな」
と青年が切り出した。
「ううん……」
「昨日繋がらなかったのもそうだけどーー多分、もうその機能が無いんだ」
シィは自分の前に来ている青年の左手甲の『ファントム』に触った。
「そうなの……?」
それは青年のせいではなく、自分のシマのせいではないだろうか。
「記憶は無いけど……それは何となく分かる」
「………」
シィはそっと青年の顔を見上げた。ブラウンの瞳に映る焚き火の炎が、チラチラ
と揺れていた。
やがてシィはそっと呟く様に言った。
「………寂しくない?」
「寂しいよ」
シィはじっと青年の顔を見つめた。
「でも、だからやっぱり、作っていられる」
「……………」
自分はどうなのだろう、とシィは思った。シィは自分が芸術家などと思ったこと
は無い。砂でオブジェを作るのは、そうしている時の自分がどんどん透き通ってい
く様な感覚が好きだからだった。誰に見せる訳でもない。ビーがいるだけだ。それ
に対して青年が何処か自分の命を削って作っている姿は、キレイだが何処か哀しい。
でもそれだからこそ、この青年は輝きを放っている。
シィは青年の鎖骨に頭を乗せて目を閉じた。
そして思った。フライの時とはまた微妙に違うのだがーーーやはり、この人も何
か自分のそれとは違うのだ。このまま恋愛とか通じ合うこと、とはーーーー勿論あ
の『ヒュー』ともまた、違う存在なのだ。だからと言って、この青年の価値は薄れ
ることは無い。当たり前だ。
シィはスッと深く暗い空間に静かに沈んでいく様な感覚を覚えた。
それでも、自分を包み込んでいる僅かな暖かさは同時にシィを何処か安心もさせ
た。
「そういえば……」
シィは独り言の様に呟いた。
「ボート、何処にいったんだろうね……」
青年は忘れていたかの様に言った。
「そうだなーーー」
青年はそっとシィの方を窺った。
「…………」
シィは眠りに入りつつある様だった。青年は巨大な滝の様な氷のオブジェを見上
げて言った。
「また、そのうち現れるだろ……」
ビーは、かがり火に気がついていた。
そこにシィがいる。あの青年も。ビーはノソノソと自分の巣の方へと戻って行っ
た。
ビーは人の気配を感じ取ることが出来た。なのに今朝方、いなくなった青年の気
配はシマの上には全く無かった。そしてある時、突然現れた。恐らくそれはシィと
青年が『ファントム』で繋がった時であろうが、そのことはビーはまだ知らない。
とにかく、今ビーは二人の気配をあの山の上方に感じていた。一緒にいるなら、多
分大丈夫だろう。シィのことだ、ひょっとしたらあっさりと体を許しているかも知
れないがーーそれはそれでなる様になるだろう。
冷たい川の水をくぐって、ビーは巣の中でプルプルと水を弾くとそこで丸くなっ
た。
それにしてもーーーとビーは思う。
あの青年は、何処から来たのだろう。
彼のシマは、何処にあるのだろう。
あのフライの様に、また消えたりするのだろうか。
そしてーーーあの緑色の光『ヒュー』と青年は、何か関係があるのだろうか。
そんなことを考えながら、ビーは眠りについた。
* * *
青年は、砂浜で目を覚ました。
一瞬自分が何処にいるのか分からず混乱したが、シャリシャリという氷のさざめ
く音で我に帰った。
「…………?」
そうか、此処はーーーあのシマだ。自分は此処に来て、白亜の塔を作って、それ
からーー?
「…………!」
青年は気付いた。右手には彫刻刀が握られている。
そして、波打ち際には古びたボートがあった。公園によくあるボートサイズで、
中には小さなオールが一つだけあった。青年は近づいていった。
これはーーー自分のものか?
青年は一度だけシマを振り返った。綺麗な砂浜を持った、小さいが凛としたシマ。
ここには、あの快活で気持ちの良い少女がいた。
青年はボートに乗り込んで、中で横になった。蒼空だがその空気は澄んで、肌を
さす様な寒さが辺りを包んでいた。
やがてボートは小さな波に揺られ、ゆっくりとシマを離れていった。
* * *
「ビー!」
山の方から叫ぶシィの声がして、ビーはハッと目を覚ました。既に昼近くになっ
ていた。動物にはあり得ない程寝込んでいて、ビーは自分でも驚いていた。同時に、
また青年の気配がシマから消えているのにも気がついた。恐らくそれでシィも焦っ
て戻ってきているのだろう。
ビーは冷たい水をかいくぐって巣の外に出た。
シィは森から飛び出してきたところだった。
「ビー、またいなくなった!」
「そうだね」
ビーは浜辺を海方向に向かって歩いていった。やはり青年らしき足跡は無い。
「何処に行ったんだろう……」
シィは息を弾ませながら辺りを見回した。
「…………」
シィは山を振り返った。その時観たシマの景色は青年が見たものと同じだったが
そのことはシィは知らない。シィは青年がまた山の方へ……とも思ったが今回は違
う気がした。あの巨大な滝の様なオブジェは此処からは見えなかった。
ならばーーー海か?再びシィは海の方へ目をやる。見える範囲の水平線上には表
面を埋め尽くした氷以外何も見えなかった。
「………」
シィはウナジの『ファントム』に手をやった。
”お願い、答えてーーー!”
だが、反応は無かった。
「…………」
シィは考えた。自分はどうすべきだろう。青年が自分の意思でこのシマを離れた
のなら、追いかけても仕方がない。だがーーもしも、本人の意思で無いのなら。こ
のシマの変化で、心ならずも離れざるを得ないとしたら。やはり自分は、追いかけ
たい。会って話がしたい。もっと色々教わりたい。
ビーはそんなシィの様子を観ていた。あぁ、またこの子は何かまた無茶をするん
じゃないだろうか。ハラハラしながら見守っていた。
その時、シィのウナジの『ファントム』が緑色に一瞬光った様な気がした。
「!!」
シィが目を見開いた。
何かを背後に感じたのだ。
「えっ!」
………ゴゴゴゴゴ!
シィが振り返ると、山の頂上付近から地響きの様な音が聴こえ、地面が微かに揺
れた。
「あれはーーー?」
「何だろうね……」
だがシィには分かった。あれは、青年が作ったあの滝のサイズの白亜の塔のオブ
ジェ。それが、崩れ落ちている音だ。壊れていく。青年がこのシマにいた証が。
「!!」
会わなきゃーー絶対に会わなきゃ!
シィはグッと全身に力を込めた。そうだーー今なら!
「………!」
今なら?
何故かシィには分かった。あの全身に力が漲る様な、体の中から何かが溢れ出る
様な独特の感覚がシィを振るわせていた。
「あ………」
ビーは観た。あの時の様に、シィの全身がフワリと緑色に光るのを。
そしてシィの体は一瞬にして消えーーー『飛んだ』。
* * *
「えーーー」
青年は目を丸くした。
そこは氷に覆われた大海の真ん中、いつの間にかシマの姿は消え何も無い海上だ
った。
突然ボートの上空に緑色の光が現れ、それが消えるとそこにはシィの姿があった。
「!!」
「あっ」
そこは海面から数メートルの空中だった。シィの体は一瞬の間の後、ボートの脇
へと落ちていった。
「おい!」
青年は咄嗟にコートを脱ぐと氷の浮かぶ海へと飛び込んだ。
シィは自身が『飛んだ』という感覚も束の間、一瞬だけあの光の空間を垣間見た。
次の瞬間、シィは氷で満たされた海上にいて、すぐさま自由落下を体感した。ボ
ートとこちらを見ている青年の姿が一瞬見えた様な気がしたが、直後に全身が突き
刺す様な冷たさに覆われた。
「!!」
苦しい。以外と氷の層は厚く、シィはいつもの様な水中の動きが出来なかった。
まさかーー溺れるのか?あたしが?全身を恐怖が襲った。もはや上下も分からな
かった。シィはもがいた。もがいてもがいて、それでも冷たい氷に体温が急速に奪
われていくのをどうしようもなく感じていた。やばい、呼吸よりも先に気を失うー
ーーそうしたらーーー。
シィは何度かフリーダイブの途中でこれに近い状況に陥ったことがあった。たま
たまその時は九死に一生を得て生還したものの、既にシィは自身がどの位で死に至
るのか、分かる様になっていた。今は正にそれだった。
視界が暗く落ち込んでいくのが分かった。
まずいーーーーーーーーーーもはや思考がーーーーーーーーーー
ガッッ。
突然、シィの体は力強い手に引き寄せられた。
「!!」
青年だった。あの痩せぎすな体で、信じられない力を出していた。シィの体は氷
をかき分け、海上へ出た。激しく咳き込むシィ。青年はボートを引き寄せ、シィを
その中へと押し込んだ。
自身も震えながら這い上がると、シィを包み込む様に抱いて擦り始めた。
「ーーーーーー!」
「大丈夫だ、ちゃんと呼吸」
とにかく寒かった。シィの震えは止まらなかった。青年はブルーのコートの外側
でシィの水気を軽く拭くとそれを着せた。そしてその外から再びシィを抱いて擦り
続けた。
「……………」
ようやく、シィの呼吸が落ち着き始めた。
「あ……ありがと……」
シィは震える声で言った。
「いいーー喋らなくて」
青年もかなり憔悴していた。先程のは火事場のバカ力、と言ったところだったの
だろう。
だがシィは続けた。
「ごめんーーやっぱり心配で」
「何とかしてるよーーー俺は」
シィは震えながら言った。
「あのオブジェーーー壊れちゃったから」
「あぁ……良いんだ」
「え」
青年はそっとシィの頭を撫でた。
「観たシィが、覚えててくれたら、それで」
「そりゃ……忘れないよ」
シィはまた後ろから男に抱かれているという状況に今更ながら気がついた。
「……………」
それでも、やはり青年は自分が望むそれとは違うのだった。あの白亜の塔の上に
いる青年ーーー『ヒュー』の様な存在とは。
青年もそれは分かっている。だがそれはそれで満たされている表情だった。やが
て、ポツリと青年は言った。
「シィ……シマ、って言ってたよな」
「?……うん」
「此処に来るヤツは、自分のシマと一緒にやってくる、って」
「でもそれは、前の人がそうだったってだけで……」
「俺も確かなことは分からないが」
「……うん?」
「俺のシマは、このボートなんだと思う」
「!?」
シィは驚いて青年の顔を見上げた。
青年は頷いて笑みを返した。
「だから、シィのシマに上がっても何処か落ち着かなかった」
「………」
「たまには、いいけどな」
そう言って青年は笑った。そうして懐かしむ様に古い船体を撫でた。
「ずいぶんと小さくなったけど……」
「…………」
シィも、何となく分かった。完全に相手に乗っかるだけでは、シィも何処か落ち
着かないことだろう。
やはり、違うのだ。作るものは最高に素敵だけれど。
「シィは、帰りな」
青年は背後の海上に目をやった。
「………!?」
シィがその視線の先を見るとーーーそこにはシィのシマが、それも割と近くにあ
った。
「あれ………?」
「よくあること、なんだろ。此処では」
青年は微笑んだ。
キシキシキシ……
何処からか、何かが軋む様な音が聴こえてきた。
その音は、やがてガシャガシャとした音に変わっていった。
「あれは………」
細かい氷の粒が浮いた海面が、どんどん凍り付いてきていた。それもシマの方か
ら沖に向けて。今、正に氷の幕の様な白い表面がボートに向かって近づきつつあっ
た。そしてその先端は、やがて御御渡りの様にゴツゴツとした氷の個体の波の様に
なっていった。
青年はフラリと立ち上がった。
「これで帰れる」
「…………」
シィは、名残惜しかった。もっと話をしたかった。
ーーーーでも。青年が、選んだんだ。
個体の氷の波は、その先が次々と出来ていく氷山のラインの様になり、着々とボ
ートに迫ってきた。
「さあ!」
「フッ」
シィは青年が手を組んだ場所に足をかけ、二人の力で跳躍した。
「!!」
シィはこちらに手を振った青年に空中で一瞬目をやった。
がその直後、生まれた氷山がボートを奥へと押し去り、見えなくなった。
「くっ!」
氷山の壁面に着地し滑降し始めたシィは咄嗟にフライのナイフを抜いて刺し、滑
り落ちるのを止めた。
シィは、その氷山のトップへと登っていった。だが既に氷山の群れはずっと奥へ
と続き、残っている氷の粒の海面は見る間に遠くなっていった。ボートも、青年の
姿も見えはしなかった。
「…………」
青年は、どうなったのだろうか。
まさか死んではいないよね?
ーーー元の世界に、ちゃんと戻れたのだろうか。
シィは唇をギュッと結んだ。
キィーーーーーン!
「!!」
その時、水平線近くで緑色の光の柱が小さく立った。
同時に、シィは初めて感じる、異様な感覚を覚えた。
” ”
誰かが呼んでいる。
何処か懐かしいこの感じ。
” ?”
これはーーー『ファントム』で行われている!向こうから呼ばれているのだ!
「ーーーーーーー!!!」
シィの全身が逆立った。
バッとシィはウナジの紋章に手を当てる。『ファントム』がフワッと光るのが自
分でも分かった。
キィーーーーーーーン!
そして誰かの声が聴こえた。
”聞こえるかい、シィ”
シィは呼びかけた。
”誰?………『ヒュー』なの?”
相手が笑う感覚がシィに流れ込んできた。
”ゴメン、『ヒュー』じゃない”
それは、確かに先程のあの青年のものだった。
”生きてたの!?”
”そりゃあね………と言いたいところだけど”
”え?”
”スゴイ光の中にいる”
シィには青年のその感覚がちゃんと理解出来た。自身も一度、行ったことのある
あの空間だ。
”へぇ………”
シィは興奮していた。本当に『ファントム』が繋がった。しかも相手から。なん
て素敵なことだろう!
”シィに伝えときたい”
”何?”
”観たよ”
”何を?”
”白亜の塔と、俺の『ヒュー』”
”!!”
シィは目を見張った。そのビジョンも、シィは体感出来た。シィのとは違うが、
確かにあの白亜の塔の上の『ヒュー』だった。
”最高だね”
”でしょ!”
シィは嬉しかった。同じものを、また共有出来たのだ。
”後さ……”
”何?”
”思い出したけど、シィが光って現れた時、ちゃんと光の色は緑だった”
”え?”
”青じゃなくて”
”……すごい”
”それからシィが俺の手から飛んだ時、目の前に現れた氷山も、ちゃんと白だった”
”そうなんだ”
”白かったよ”
”うん………”
シィは、それ以上言葉を発せなかった。興奮している向こうの感覚も、全て共有
出来ている。なのにこれ以上何を話せばいいのだろう?相手が満たされていること
も、自分が感じていることも同じ様に通じているのだ。
”楽しかった。またね”
”うん”
”シィが『ヒュー』に、会えるといい”
”うん!”
そう言えば、この繋がりはどうやって切れるのだろう、とシィが思った瞬間、ヒ
ュンッとそれは急速に消えていった。
「………………」
シィはそっとウナジの『ファントム』から手を離した。
水平線では、緑色の光の柱がスウッと消えていくところだった。
それはあの白亜の塔が消えていく様にも見えた。
シィは名残惜しそうにそれを見つめた。
やがて思い出した様に寒さがやってきた。
「あ……コート!」
青年のくたびれたブルーのコートを、シィは着たままだった。
シィはもう一度『ファントム』で、と一瞬思ったが止めた。
「また」と言ったのだから。その時まで。
そう思った。
「……………」
シィは踵を返して、氷原を走り出した。ビーのいるシマはすぐ先にあった。
* * *
ビーは見ていた。
シィが『飛んだ』瞬間、青年とシィの気配が水平線上に現れた。
ビーの目には見えなかったが、恐らくそこで二人が再会しているであろうことは
分かった。
そしてシマから海上へと海面が凍り始めた時、突然二人のボートが『ヒュー』…
…あの謎の光と共にシマの近くへと現れた。やがてその姿が海上へと向かう氷の固
まりに隠れて見えなくなった瞬間、二人の気配が離れてその片方ーーー恐らく青年
の方の気配が消えた。その後更にその奥にまた『ヒュー』の光の柱が現れた。そこ
で何が起きていたのかはビーは知らない。だがそこで二人に何らかの繋がりがあっ
たのだろう。ビーには『ファントム』に触れ全身がフワッと光ったシィの姿が見え
ていた。青年のブルーのコートをまとい氷山の上で光るシィの姿は、とても凛々し
く見えた。
「………ふぅん」
また『ヒュー』が、あの謎の光が現れ何かをこのシマで行ったのだ。何故かビー
はそれを知っている様な気がした。
いつの間にかビーは笑んでいた。
* * *
とある大海に、漂っている船があった。
それは全体を布で覆われ開いた穴から人の上半身だけが出ているカヌー状のもの
だった。
そこにいるのはあの青年だった。
「…………!」
青年は我を取り戻した。
「…………?」
青年は不思議そうに辺りを見回した。記憶がはっきりとしなかった。
ただ、快活な少女と出会っている柔らかな夢を見ていたのは覚えている。
「えっとーーー?」
青年は体をかがめ、カヌー内を調べてみた。少しの食料と水、そして彫刻刀と木
片が幾つか入っていた。ただし、肝心のオールは無い。
青年は空を見上げた。自分はどうして此処にいるのだろう。
「…………ったく」
青年はため息を吐いた。
「………ま、何とかなるだろう」
青年はカヌーの上に座り込んで木片を削り始めた。
海風が心地よく、何処までも蒼空が広がっていた。
目に映るのは、海面と空の、全くブルーの世界だった。
( 終 )