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#2「FLY」



 シィは、シマにある自分の小屋から少し離れた沢にいた。

 そこはビーの巣のある支流とは反対側の小さな急流で、その流れの先は海ではな

く岩場の中へと消えていく場所だった。シィはバストイレ兼ランドリーとして使っ

ていた。

 シィは流れが岩場の中へ消えていく直前の場所でトイレを済ませその後身につけ

ていたタンクトップとパレオを脱ぎ流れの中に浸けて洗った。石けんは使わない。

何度かシマに現れた事もあるが、結局使い切るまでに何処かに消えてしまうことが

多いので期待するのは止めていた。それにここの急流の成分はよく分からないが素

晴らしく汚れが落ち、かつ乾かしても匂いがしないので重宝していた。難点として

は時々干上がること。その時にはビーの小川で洗うか海水で洗うしか無く、ビーに

文句を言われたりしばらくバリバリした着心地で過ごしたりすることになるのだっ

た。

 シィは全裸のまま側に渡したロープに着ていたものを干すと、ついでに身体も洗

った。ずっと一人なので特に人目を気にすることも無い。ビーバーのビーしか、他

にはいないのだ。

 身体を洗い終えるとシィは側の木を見上げ、そのまま登っていった。ヤシの実を

見つけたからだ。このシマの植生は独特だった。ヤシやココナッツなど南国のもの

は勿論、シマの奥に入っていけば本来育つ筈の無い梨や柿なども時々見つかった。

勿論一度見つけたからといって次に同じ場所に同じものがあるとは限らない。全て

は一期一会。その辺りは何処まで行ってもシマの摂理なのだった。

 シィはヤシの木の上で幾つか実を蹴り飛ばして落とした後、ふと海に目をやった。

 心地よい風を感じながらシィは水平線を見つめる。

「…………」

 そこにあった、もう一つのシマは既に無い。


  *   *    *


 72時間前、目の前に現れた新しいシマにビーとシィが上陸した場所は荒涼とし

た岩場だった。恐る恐る上がっていくシィ。これが自分のシマ以外に初めて足を踏

み入れる陸地だった。固い岩がシィの裸足の足の裏を刺す。

「大丈夫?シィ」

 ビーもノソノソと付いて来ていた。

「うん……何か気配はある?ビー」

「いや…今のところ無いね」

 ビーは首を傾げた。

 シィは首筋にあるタトゥーの様な紋章『ファントム』に手をやってみたが、思う

様な反応は無かった。

「……行ってみよう」

 二人は歩き出した。


 岩場の向こうは鬱蒼とした暗い森だった。

 だがその中には南国風のツタやシダ類などもあり、シィのシマの様に植生がバラ

バラなのが見て取れた。ならばーー自分と同じ様にずっと一人で暮らしていた人間

も、いるのではないのか?シィの胸は期待で溢れんばかりだった。

 ビーはそれなりに警戒していた。誰かがいるとしても常に友好的とは限らない。

それは動物としては当然の反応だった。そして、気配がない様で何処かで誰かが観

ている様な奇妙な感覚が森に入って以降付きまとっていた。

「…………」

 ビーはつい先程のことを思い出す。

 シィとビーが筏でこのシマの側を漂っていた時、シィがまだ目を覚ます前のこと。

ビーは一瞬シマの岸壁に人影を観た様な気がした。だがその気配は全くしなかった。

そして、その瞬間にシィは目を覚ましたのだ。シィに眼をやっている間にその人影

は消えていた。

 あれは、誰だったのだろう。ひょっとしてシィが見たと言う、あの緑色の光『ヒ

ュー』の記憶と共に思い出される青年なのだろうか。それであるなら危険は無さそ

うな気もするのだがーーー。

「!!」

 ザッ、と葉音がして影が走った。

「何?」

 シィがザッと身構えた。

 シィはシマで何度かイノシシや小さめのクマ程度なら出会った事があった。襲わ

れ、何度か命を落としかけたこともある。そのうちシィは自らの恐怖を押さえ込み、

それらは自分が敵意を見せなければ、向こうのテリトリーを犯しさえしなければそ

うそう襲って来るものではないという事を学んでいた。だが、今の相手はどうだろ

うか?

「ビー……下がって」

 流石にビーバーでは猛獣など相手に出来ない。普段なら川に逃げ込んで巣に籠る

のだろうが……此処は自分のテリトリーでは無かった。ビーはササッとシィの影に

隠れて顎を伏せた。

「………」

 シィはいつもなら腰に小さなナイフを忍ばせているのだが、今回はフリーダイブ

の途中だったのでほぼ丸腰だった。スポーツブラに小さなTバッグに近いパンツ。

いかにも心許なかった。

 だがシィは恐れなかった。全身の感覚器官がピリピリと集中していく。

「!!」

 ザザッ。

 また影が走った。

 だがシィの驚異的な視力は、そのシルエットを捕えていた。

 間違い無い、あれは、人間だ!

 ならーーー話したい!

「ねぇ!」

 シィは叫んだ。

「あたしはシィ!ここは何処?あなたは誰?」

 葉音が止んだ。

「シィ…」

「シッ」

 という短いやりとりをビーとシィが交わした瞬間、それは音も無く後ろに降り立

った。

「!!」

 ビーのシッポが掴まれてグイッと持ち上げられた。

「グッ」

「ビー!」

 とシィが振り向くよりも早く、風の様な蹴りがその顎に入った。

 ビーはドサッと倒れるシィの姿を目にした。


  *   *    *


「これ、持ってくよ」

 シィはハッとした。ヤシの木の下からビーの声がした。

「あ、あぁ。あたしも降りるよ」

 と言ってからシィは自分が全裸なのに気がついた。下からは全てが見えている。

 だがビーは特に気にするでもなく、ヤシの実を一つ頭で押しながら小屋の方へと

移動し始めた。

「………」

 それはそれでどうなのか、と思いながらシィはヤシの木から降り、既に乾き始め

たパレオを取って腰に巻いた。

 あれ以来、少し自分に恥ずかしさ、という様なものが現れて来ているのをシィは

自覚していた。あれ以来と言うのは勿論、あの男と出会ってからだ。


  *   *    *


 その男は、フライと名乗った。

 気がつくとシィは森の中の大木の根元に寝かされていた。

「!!」

 シィは跳ね上がる様に身体を起こした。

 目の前にはビーがいた。

「いたた………」

「シィ……大丈夫?」

 フッと力を抜きかけたシィはビーの向こうに長身の男が歩いて来るのに気がつい

て素早く立ち上がり、再び身構えた。

「さっきは、悪かったな」

 その男は悪びれる風でもなく屈託の無い笑顔を見せて近づいて来た。

「誰!?」

「フライ」

「フライ……」

 それが名前、ということか。『ヒュー』ではないのだろうか。シィはまだ構えを

解かなかった。

 男はシィの目の前までやって来て立ち止まった。

「まぁ、自分で名乗ってるんだがな」

「………」

「そう恐い顔すんなって」

 シィはゆっくりとそのフライと名乗った男を眺めた。

 歳は三十台後半と言ったところか。少し骨太でガッシリとした長身だ。あの丸太

の様な蹴り。そしてその体躯にしてあの動き。只者では無さそうだった。黒のTシ

ャツ、裸足の上にミリタリー風のダークグリーンのカーゴパンツを着込み、赤みが

かった茶髪に右目は緑、左目は焦げ茶色のオッドアイだった。

「もう蹴らない」

 そう言ってフライは屈託無く笑って自分の頬を指し示した。

「ビーバーちゃんが怒るからな」

 見ればその頬には3本の傷があった。ビーが引っ掻いたのだろう。ビーが手の爪

をシャキッと見せた。

「………フッ」

 シィは構えを解いて座り込んだ。実はまだ顎が痺れていた。

「ビー、大丈夫だった?」

 ビーは獣の様にグルルと言って答えた。


「誰だって一応警戒するだろ」

 フライはシマを案内していた。

 聞くところによると、やはりフライも気がつくとこのシマにいて記憶も定かでは

なかったと言う。そしてシィのシマと同じ様に時々シマに物資が現れ、それで暮ら

している、と。

 自分の同じ様な人間がやはり他にいた。今まで何処にいたのだろう。どうやって

此処に来たのだろう。シィはもっと色んな話をしたかった。最も、フライにもその

答えの全てがあるとは思えなかったのだが。

 フライは歩きながら振り返って言った。

「突然獣と喋ってる女が現れたらさ」

「でもビーは獣じゃないよ」

 シィは頬を膨らませた。

「そうかい」

 フライは悪びれずに続ける。

「じゃあ、何を言ってるのか分かる訳?」

「……え?」

 その時、ビーが無言で歩いているシィの足に頭をコツコツとやった。

「……?」

 シィは少し不可解さを覚えた。

 フライが立ち止まった。

「じゃあ、少し飛ばすぜ」

 言うが早いかフライは側の木にザッと上がり、そして跳躍した。

「あ…待ってよ!」

 シィも後を追う。

「……!」

 早い。シィも木登りや木から木へ飛び移る事には慣れていたが、速度が全く違っ

た。そして次から次へとそのスムーズでシームレスな動きの繋ぎ。まるで空中を飛

んでいる様だった。シィは必死でついていきながら、その華麗さに目を奪われた。

 ビーは全く追いつけず、やがて諦めた。

「………ちぇ」

 ビーは川を探そうと鼻を上に向け、水のにおいを嗅いだ。


「わぁ……!」

 30分後、二人はそのシマの山の頂上にいた。

 そこはシィのシマの頂上よりも遥かに高く、キラキラとした海を見下ろせる絶好

の場所だった。シィの慣れない動きで溜まった疲労感も吹っ飛ぶ光景だった。

 遠くにはシィのシマも見える。

「あそこに、住んでたんだね……」

 自分のシマをこんな形で見る事になるとは。初めて俯瞰で見るその姿にシィの心

は弾んだ。

「俺も、他の陸地を見るのは初めてだ」

「そう、何なら案内するよ。…あ、ここよりはだいぶ狭いかもだけど」

「………」

 フライは答えずその風景を見ていた。

「…………」

 シィは風になびく赤みがかった茶色の髪を眺めた。しっかりとした白い肌。緑と

焦げ茶のオッドアイ。自分よりも大きな男性。もしもこの人があの白亜の塔の青年、

『ヒュー』だったらーーシィはスポーツブラの胸の奥でキュンと鳴る小さな音を聴

いていた。

「……そうだ」

「あ?」

 シィは思いついてフライのウナジに目をやった。『ファントム』は無い様だった。

「何だ?」

「あ…これ」

 シィはそう言って自分のウナジを見せた。フライが覗き込む。

「タトゥー…?」

「違うの、これで遠くと会話とか通信が出来るそうなんだけど……知ってる?」

「いや、全然」

「…フライには無い?」

「多分な」

 フライはそう言って自分の身体を眺めてみせた。

「そっか……」

 やはり、『ファントム』について新しい情報は無さそうだ。

 シィは絶景を眺めながら、少し肩を落とした。

「ーーでもさ」

 フライがぐいっと顔を近づけて来た。シィは焦った。

「!?な、何?」

「左目、見て」

 鼻が触れる程近づいたその茶色の左目のその奥で、微かに緑色の光がチカチカッ

と光った。

「……え?!」

「シィが言うのとは違うけど」

 フライは顔を離して言った。

「この左目はヒトのものじゃない」

「どういうこと?」

「ずっと遠くを見渡せるし、例えばーー」

 フライは眼下の森を眺め、指差した。また瞳の奥がチカチカッと光った。

「ビーバーくんの熱源はあそこ」

「え!?」

 シィはその先に目を凝らしたが、視力10はある目でもその姿は分からなかった。

「分かるんだ?」

「あぁ、このホシには此処以外に陸地が無いってことも、周りに他のホシが無いっ

てことも、今はこの世界に俺とあんたしかいないってことも」

「へぇ……」

「多分、他に同じ様な装置があれば通信も、出来るんだろうな」

「………」

 シィはもう一度フライの左目を覗き込んだ。その緑色の光はあの海底で見た光と

は違うが、何処か懐かしさを感じさせた。本来の『ファントム』とは違うのかもし

れないが、これもまた一つの能力みたいなものなのだろうか。

「…………」

 そして、シィは同時にフライのその長い孤独感を思った。世界に、誰にもいない

ことが分かってしまう。ビーの様な存在もナシで。もしも自分がずっと誰にも会わ

ずに過ごしていたら、どうなるのだろうか。それはそれで生きてはいけるだろうが、

今とはだいぶ違っていたことだろう。

「後はこれ」

 フライはそう言って左手を見せた。シィが覗き込むと、掌の真ん中に小さなボタ

ン電池の様なパーツがあった。

「何?」

 フライが側の岩に掌を当てると、一瞬ブーンという音がしてその岩が粉々に割れ

た。

「スゴイ」

「振動波が出せるらしい」

「らしいって?」

「気付いたときからあるから、よく分からない」

 フライは飄々として笑んだ。

 神の左目と左手を持ち軽々と移動する男。そして、自分よりも長くこの世界で孤

独と向き合っていた男。初めて会った人間にしては色々あり過ぎて面白い。

 シィはそう思った。

 だがーーーフライは本当に『ヒュー』ではないのだろうか。他に何か、手がかり

がーーー。


  *   *    *


「酷いよ」

 川の畔でビーは待っていた。側にはフライのものと思しきツリーハウスがあった。

「ゴメンゴメン」

「何かされなかった?」

「大丈夫。それよりビー、さっき……」

 と言いかけた時、上方から声がした。

「上がってこいよ」

 フライがいつの間にかタラを手にしてツリーハウスの入り口にいた。

「ガウガウ」

 ビーはまた獣の様な声を出した。

「あれ?」

「まぁたビーバーと話してる」

 フライは呆れた感じでシィたちを見下ろしていた。

「あ……」

 またビーがコツンと頭でシィに触れた。シィはその表情を見るが、いつもと違っ

てビーの感情が分からなかった。どうしたのだろうか?

 シィは何かが引っかかっていたがとりあえず木の上へと上がっていった。


 その日のディナーはタラのソテーだった。食用油など無いのだろうがフライは器

用に魚自身の脂分を使い見事に仕上げていた。

「美味しい!」

「そっか、良かった」

 フライはまた屈託の無い笑顔を見せた。人の笑顔って、安心するなーーとシィは

暖かい気持ちになった。しかも自分以外の人間というだけなく、相手は歳上で異性

なのだ。これはシィには未だかつて無かったことだった。今まで映像でしか観たこ

とが無かった、デートってやつなのではないだろうか。

 ビーは側で普通に皿にがっついている。電気など無く小さな燭台のみの、それは

小さな食事会だった。

「………」

 タラを平らげたシィはツリーハウスの中を眺めた。大ざっぱな作りだが、妙に趣

がある。そして皿はちゃんとした陶器だった。

「この皿は?」

「あぁ、最近現れたヤツ」

 それはそうだよな、とシィは思った。自分のシマにも現れたことがあるが、すぐ

に割ってしまったっけ。

 シィは再びあちこちに目をやった。

「……見ていい?」

「あぁ」

 シィは立ち上がってハウス内を眺めた。そこは10平米程度の空間で、一方の壁

は丸ごと巨木だ。反対側には窓と簡素なベッドがあり、一方の壁には食器類や工具

などが雑然と並んでいた。残りの壁には絵が無数に描いてあり、小さな謎のオブジ

ェもいくつか転がっていた。

「好きなんだ?こういうの」

「あぁ。全部我流だけど」

「あたしも砂でなら作るよ」

「へぇ」

 シィは食器類のある棚の方に寄った。

「……これは?」

 とシィが指し示したのは、飾ってあった少し大きめのナイフだった。金属ではな

く白い陶器の様な素材で、見たところ骨で出来ている様だった。握るとしっくりと

きてバランスもいい、良い出来のナイフだった。

「俺が作った。クジラの骨で」

「あぁ……」

 シィも一度、シマの海岸で打ち上げられている巨大な骨は見たことがあった。そ

うか、あれでこういうものも作れるのか。

「……あっ」

 その側に少し錆び付いた齦の皿が二つあった。

「どうした?」

 これは……鏡になるかも!とシィは思いついた。

「これ、ちょっと使うよ」

「?ああ」

 シィは貰って巻いていた腰の布で皿を磨いた。ピカピカとはいかないが、映して

見る事は出来そうだ。シィはそれを持って燭台の方へ近づいた。

「ん?」

「これ……見てみたくて」

「あぁ……」

 シィはそうっと鏡を自分の前後に持っていって覗き込んだ。小さな『C』の形の

うっすらとしたタトゥーの様な紋章。聴いた通りそれは表面に張られたものではな

く、内部と生体的に結合している様に見える。

「こうなってたんだ……」

 初めて見る『ファントム』の形。それは何処か懐かしいものにも見えた。

「………」

 フライは、その姿を優しげに見ていた。


  *   *    *


 ひとしきり話し込んだその夜、フライは川沿いの焚き火の側で寝てシィとビーは

ツリーハウスの中で就寝することになった。

 初めて人のイエで眠りにつく。シィは少しワクワクとした気分だった。

「……シィ」

 やがて横でうつ伏せになっていたビーが話しかけて来た。

「ビー……そう言えば今日はどうしたの」

「それがさーー」

 ビーはヒクヒクとヒゲを動かしながら言った。

「同じ様に喋ってるんだけど……ああなるんだ」

「ああって…、ガウガウ?」

「うん」

 シィはフライがリネンで作った毛布を少し上げながらビーの方を向いた。

「今は?」

「喋れてるね」

「何でだろう」

「多分、あいつが…」

 ビーはそう言って階下の方を頭で指し示した。

「フライが?」

「何かしてるのかな」

「まさか……」

「あいつがいる時だけだよ、ああなるの」

「そっか、だから獣と喋ってるって…」

「失礼だよね」

 ビーはグルルと唸った。少しムッとしていることは今は目で分かる。

「ふぅん……」

 そう言えば、ここは自分のシマではなかったのだ。同じ様なシマだとしても、自

分が思っている通りに事が起こるとは限らない。

 ーーーだが、しかし。

 シィはフライからもっと話を聞きたかった。まだ本当にフライが『ヒュー』ーー

あの白亜の塔の頂上にいた青年と同じ存在なのかどうかは分からないのだ。そして、

このホシのことも、あの緑色の光のことも。自分はまだ何も知らないのだ。

 シィは首の裏の『ファントム』にそっと触れ意識を集中させてみた。

「…………」

 いつものノイズと、微かなイメージが脳裏に浮かんだだけだった。

「ダメか………」

 シィはまた仰向けになって目を閉じた。ビーもやがて寝息をたて始めた。

 そうして、夜は更けていった。


  *   *    *


 次の日の早朝、シィは風切り音で目を覚ました。

「………?」

 ヒュンヒュンと音がする。シィがツリーハウスの入り口に出ていくと、フライが

辺りの林を飛び回っているのが見えた。

「へぇ……」

 昨日聞いたのだが、あれは『パルクール』という体術らしい。周りにあるモノを

使って迅速に移動する術。フライもシマに現れた本や映像機器で学んだらしい。言

われてみればシィもそういう映画や写真を見たことがかつてあった気がした。動き

を止めずにスムーズにジャンプやターンを繰り返し鳥の様に飛ぶその華麗さに、や

はりシィは見とれた。

「やってみるか?」

 林の上からフライの声がした。

「うん…出来るかな」

「筋は良さそうだ」

 相変わらず屈託の無い笑みに、シィは頷いた。


 午前中いっぱい、シィは身体を動かしていた。

 フライの言う通り、シィの体力はすぐに『パルクール』の習得へと導いた。若干

泳ぎで使う筋肉とは違うのが最初は気になったが、それも一瞬だった。フライがヒ

ュンヒュンと飛ぶ後を、シィは徐々に追いつける様になった。とはいえ、やはりそ

こは男性なのか、それともシィをも上回る体力故なのか、まだまだ力強さでは叶わ

なかった。

「いいんだよ、自分がコントロール出来るスピードを上げていけば」

 フライは優しく言った。

「そっかな…」

 フライとの時間は楽しい。純粋にそう思えた。

「………!!」

 一瞬、枝を掴み損ねた。ならばと咄嗟に掴んだ次の枝も折れ、シィの身体は10

メートルの高さから落下した。

「あっ」

「っと!」

 素早く影が飛んで来た。ガッシリとした身体に包まれその後軽い衝撃があり、そ

の後シィはフライに抱かれる様にして地面を転がり、やがて止まった。

「……いたた」

「大丈夫か?」

「……………!!」

 気がつくとシィはフライに組み敷かれた形で草地に横たわっていた。目の前には

またフライの顔がある。鼻も触れそうな距離だ。シィの手はその厚い胸板に触れて

いた。

「あ……だ、大丈夫だから」

 シィは立ち上がった。分かってはいたが、男の身体って堅さと重さがある。少し

震える程に。

 フライはその様子を少し観ていたが、やがてフッと息を吐いて笑顔になった。

「……ランチにすっか」


 ツリーハウスに戻ると、ビーが数匹ニジマスを穫っていた。フライがテキパキと

火を起こし、焼き始めた。

 シィはビーに目配せをして、トイレだと言って森の中に入った。聞いた通り、シ

ィのシマの様にメインの流れとは別のそれ用の支流があった。

「ビー…」

 そっと付いて来たビーに、シィは話しかけた。

「これだけ離れれば、大丈夫みたい」

 ちゃんとビーの声は聞き取れた。

「やっぱり、フライのせい?」

「本人にその自覚があるかどうかはともかくね」

「そう……」

 シィはそっと川の方を窺う。

 そして呟く様に言った。

「ビーは、もう帰りたい?」

「シィのシマに?」

「うん」

「……シィはまだ、帰りたくないんでしょ」

 ビーは側の支流に飛び込んで気持ち良さそうに泳いだ。シィは少し考える。

「ーー多分ね」

「まぁ」

 ビーは腹這いに浮かんでくるんと一回転した。

「悪いヤツじゃなさそうだけどね」

 シィは笑んだ。

「あたしもそう思う」

「ガウガウ」

「え?」

 振り返ると、フライが焼き魚を持って森の入り口に立っていた。

「終わった?」

「覗かないでよ」

「ほいほい」

 フライはおどけて河原に戻って行った。

「……じゃ、またしばらく」

 そう言ってビーは歩き出した。

「うん、それじゃ」

 シィも歩き出した。


 ランチ後、フライはシィをまた別の海岸沿いに連れて行った。

「わぁ………」

 そこはこのシマにしては珍しく綺麗な砂浜を持った場所で、あちこちに岩や木や

金属で作ったオブジェが立ち並んでいた。ゴツゴツとしていて、それでいて繊細さ

を持ち合わせた何か。人の様にも、悪魔や天使の様にも見えた。中には建造物らし

きものも見受けられる。

「これ全部フライが?」

「あぁ」

 フライはパンツのカーゴポケットからチタンの彫刻刀を見せていった。

「いいね……」

「そうか?」

「うん、よくは分からないけど……何か、すごくいい」

 思ったままシィは言った。言葉には出来ないが、何かを感じる。アートとはそう

いうものなのだろう。シィはその一つ一つを見ていった。ビーも物珍しそうにオブ

ジェたちに近づいては匂いを嗅いだりしていた。

「…………!?」

 その中に、シィの目を引く一つのオブジェがあった。

「これ………!」

 それは、細長く伸びた塔だった。ゴツゴツとしているが根元はバベルの塔の様に

なっていて、先端は天に向かって細く伸びている。シィが時々夢に見た、そしてあ

の海中で見たあの白亜の塔ではないだろうか。

「この塔、何?」

 シィは振り返って言った。フライは首を傾げた。

「さぁ…何となく」

 シィと同じ様にフライも夢で観たと言うことなのだろうか。シィはそっと尋ねた。

「フライが、前いた場所……とか?」

「覚えてない」

 シィはじっとフライを見つめた。

「………?」

「知らないって。何となく、浮かんだんだ」

 飄々と語るフライ。浮かぶ、というのはシィと同じなのかも知れなかった。シィ

はそっと首筋の『ファントム』に触れた。いつもの皮膚より少し固い感触が伝わる。

だがノイズ以外は何も脳裏に浮かんではこない。シィはもどかしかった。じれった

かった。何かが、届きそうで届かないーー?こんなに、予感はするのに。『ヒュー』

に、近づける気はするのに。

 ビーが心配そうに見ていた。

「………!」

 キラリと、何処かで何かが光った感覚があった。

 フライも何か感じた様だった。フライは少し先のくしゃくしゃになった銀紙で周

りを覆われたオブジェの裏に回り込んでいった。

「あ!」

 フライが嬉しそうな声を上げた。

 シィとビーが見ると、フライの手には綺麗な新緑のワインのビンがあり、トロフ

ィーの様に上げられ日光を反射してキラキラと輝いていた。

「今夜は宴会だな」

 また一つ、このシマにモノが現れた様だった。

「………」

 ビーがシィの足に頭をコツンとやった。元気出せ、と言っている様に見えた。

 シィはフゥ、と少し肩の力を抜いた。


  *   *    *


 その日の晩はワインとカニとキノコのディナーだった。

 ツリーハウス前の河原で焚き火を囲んで一同はチビチビとワインを口にしていた。

 シィもいつの頃からか、時にシマに訪れるアルコール類を飲んだことはある。最

初のうちは気持ち悪くなって吐いたりもしたが、徐々にその心地よさに慣れていっ

た。とはいえ、いつもあるものではないので毎日飲む訳でも無い。前回口にしたの

は数週間前だったろうか。久しぶりのアルコールは心地よく、シィは少し饒舌だっ

た。

「フライは、恋人がいたことある?」

「さぁ…多分、いたんだろうな」

 ビンを回し飲みながら会話が続く。

「分かるんだ」

「何となくな……シィは?」

「分からない……誰かを本当に愛したことが、あるのかどうか」

 シィは少し上気した顔で後ろ手を付いて星空を見上げた。夜風が気持ち良く流れ

ていた。

「いつか、出会えるのかな……」

「さぁな」

 シィはプウッと頬を膨らませた。

「そこは大丈夫っていうとこじゃない?」

「保証は出来ない」

「それでもいいから~」

 シィは子供の様にクダを巻いていた。ビーがやれやれという様に丸くなって目を

伏せた。いつもより酔っている?実は男の前だと泥酔するタイプなのだろうか。

「ねぇ、本当に『ヒュー』じゃないの」

 シィがまた絡んでいく。フライは呷っていたビンを下げた。

「……誰だそれは」

「あの塔の、上にいた人」

「へぇ…」

「会いたいんだ……」

 シィはドサッと後ろに倒れた。

「『ファントム』もあれから繋がらないしさ……」

 フライは目を細めた。

「今度のそれは…『ファントム』っていうのは、そのタトゥーのことか?」

「うん…」

「その名前は、何で知った?」

 フライは少し真剣な表情になっていた。

「何でって……」

 シィは起き上がってビーの方をチラリと見た。ビーに教えてもらった、というの

が事実だが今この場で言っても信じてもらえないだろう。

「何となく浮かんだ…、かな」

 少し苦しい感じだった。

「そうか……」

 フライは、何かを思い出そうとしている様だった。

「その名前が、どうかしたの?」

「いや…」

 シィはフライの側に四つん這いで這っていって顔を覗き込んだ。フライの左目の

奥ではまた緑色の光がチカチカしている。何か、何処かの情報や記憶に繋がろうと

でもしているのだろうか。

「何だか、知っている様な気がする」

「!?そうなの?」

「何だかザワザワする」

「………」

 シィは、そんなフライの顔を見ていた。悩んでいる様では無い。何か引っかかっ

ている様だがーーー、その男らしい横顔は、シィをフワッとさせた。

「その左目チカチカするヤツの名前も……本当は『ファントム』なんじゃないよね

?」

 フライはフッとシィを見た。少し驚いた様な、それでいて奥底に触れられた様な、

そんな表情だった。シィはあ……と黙った。やがてフライは呟く様に言った。

「いや……多分、違うと思う」

「………そう………」

 シィもフライの顔をずっと見ていた。

「お互いいっぱい経験して、でも忘れている何かーーーと、みんな繋がってるんだ

ろうな」

「全部、思い出せたらいいね……」

 そこは、二人とも同じものを抱えていた。

 ビーはハラハラしながらその様子を窺っていた。

 二人はずっと目を離さなかった。その顔が少しずつ近づきーーーやがて唇が触れ

た。

 ビーは一瞬、二人の身体がフワッと緑色に光ったのを見た様な気がした。


「!!」

 二人はハッと目を見開いた。

「…………!」

 シィは身体を話した。妙な気分だった。唇が触れるまでのあの甘酸っぱい感じは

消えていた。何と言うか、自分に近すぎる感じ。いけないことをしている様な感じ。

例えて言えば近親相姦みたいな感じ?いやいや、オヤという存在は自分は覚えてい

ないのだがーーー恋とか恋愛とは何処か違う、この不思議な感じはーーー一体何な

のだろうか?

「えっと………」

 フライは少し考えて、立ち上がった。やはりフライも、同じ様に感じていたらし

かった。

「グルル」

 ビーが近づいて来て、シィの膝の上に乗った。「大丈夫?」と言っていたのだろ

う。

「ビー……」

 シィはそっと息を吐いてビーの背中を撫でた。

「大丈夫……だよ、あたしは」

 シィは自分に言い聞かせる様に言った。

「ーー今日はもう寝な。上がるか?」

 フライはシィの顔を見ずに言った。

「ううん……ここでいい」

 シィはビーと一緒に毛布にくるまってフライに背を向けた。

 少しあって、背後で焚き火に枝が少し足されフライも横になる音がした。

 シィはそれを自分の心臓の音と共に聞いた。やはり、いつもの自分とは違う。ア

ルコールが入っているとはいえーーー

 何が、起こったのだろうか?


  *   *    *


 ヤシの実で軽くランチを済ませた後、シィはいつもの様にシマの波打ち際の探索

を行っていた。

 歩きながらシィはそっと自分の唇に触れた。実際のところは分からないが、今の

記憶の中ではあれがファーストキスだったのだ。

 あの不思議な男、フライ。彼は、結局『ヒュー』ではなかったということなのだ

ろうか?

「シィ」

 珊瑚礁で魚を戯れていたビーがいつの間にか横にいた。

「落ち着いた?」

「まぁね」

 シィは波に足元を洗われながら歩く。今日はよく晴れた青空が広がっていた。

「また、誰か来るよ」

「そっかな」

「『ファントム』だってまた」

「うん……」

 ビーが慰めてくれるのは嬉しい。

 だがシィは、何かが足りない様な、また同時に満たされた様な不思議な気分でい

た。あの男、フライとはまた会えるのかも知れない。そしてこれからも色んな人と

自分は出会うことはあるのだろう。いつか、あの白亜の塔の頂上にいた青年、『ヒ

ュー』にも…会えるのかも知れない。

 このシマは、時にあの緑色の光が現れ、その度に何かが起こっていく。自分はま

だその全貌を知らないが、今はそれに助けられて生きているのだ。

 ビーがピクリと顔を上げた。

「シィ……あそこ」

「!?何か見つけた?」

 ビーのいつもの感じだ。

 二人は珊瑚礁の中の少し深くなっている場所へと向かった。

「あぁ………」

 シィにもその存在が感じ取れた。

 その足が早歩きになり、小走りになり、やがてシィは全速で走り始めた。

 シィには分かった。また、重要な何かが現れたということを。何故かそれは感覚

で分かった。シィは思い切り腕を振って走り、そして海へと飛び込んでいった。

「シィ……」

 ビーは見ていた。シィの首筋の『ファントム』がまたフワッと緑色の光を放って

いたのを。


  *   *    *


 朝方、既に消えた焚き火の前でシィが目を覚ました時、そこにフライの姿は無か

った。

 そして辺りは霧に包まれていた。自然のものなのかシマの変化によるものなのか

は分からなかった。フライは、この様なシマの変化の中一体どれくらいの時を独り

で過ごしてきたのだろう。シィは霧の中そう思った。

「………!」

 シィは起き上がって身支度を整えると、海の方へ向かった。今日はパルクールの

鍛錬ではなく、こっちーーー何となくそう思った。

 海辺に出ると、岩場でフライが網を引き上げていた。シィは近づいていった。

「おはよう」

「あぁ」

 フライはシィに一瞥をくれると再び作業に戻った。手製と思われる網の中に大し

て獲物は入っていない様だった。

 シィは近づいていって、隣の岩にしゃがみ込んだ。

「ねぇ、昨日……」

「……まぁ、気にすんな」

 やはり目を合わせずにフライは言った。

「………」

 シィはチラリとその様子を窺った。怒っている様子はない。サバサバと日常の作

業をこなしている感じだった。

 やがて、フライが口を開いた。

「『ファントム』……」

「え?」

「それが何だかはやっぱり思い出せないが……何故かいいイメージがない」

「そう……」

「多分、俺のこの左目も似た様なものだろうから」

「………」

 何を、言おうとしているのだろうか。シィはフライの緑と焦茶色のオッドアイを

じっと見つめた。

「恐らく繋がる機能はあるのに、繋がらない。細々としたことが分かっても、誰か

が側に来ない限り」

 フライは上げ切った網を側に投げ、シィの側に来て座り込んだ。

「だから昨日、ハッとした」

 フライは少し顔を近づけた。左目の奥では、やはり緑色の光がチカッと光った。

「俺も、そうやって悩んでた時期も多分長くある」

「うん……」

「でも今は、少し楽かも」

「少し、なんだ」

「そりゃあ、全てがうまくはいかない」

 フライはそこでようやく屈託のない笑顔を見せた。シィは思わずドキッとした。

 フライは手を上げてシィの黒髪を撫でる様にした。

「ネジレナイでいるんだな……そしたら」

 シィはフライの手に触れられたところが熱を持っているのに気付いていた。

「へぇ……」

 それを包み隠す様にシィは笑顔を作った。

「どうした?」

「チチオヤみたいなこと言うんだね」

 シィはイタズラっぽく笑った。

「オヤなんてよく知らないのにな」

「ホントだね」

 フライも笑った。

 ひとしきり、二人は笑った。その様子をビーは離れて見ていた。


  *   *    *


「潜る?」

 朝食を昨日の残りで軽く済ませた後、シィに話を聞いたビーは言った。

「うん、このシマもひょっとしたら浮いてるのかなって」

「フライは?」

 シィはそっとフライの様子を窺った。フライは離れた林で柔軟や準備体操的なこ

とをガンガンやっていた。

「潜ったことはあるけど、そういうのは観たことないって」

 ビーはため息を吐いた。やれやれ、二人とも結構無茶なところは似ている。さて、

どうすべきなのかーー。

「結構乗り気だよ」

 ビーは顔を上げた。

「一緒に行くよ」

「大丈夫?結構深くまで行くよ?」

「ボンベも無いのに?」

「フライによると、実は無い方がより深く行けるんだってさ」

「ホント?」

「まぁ、やってみるよ」

 シィは軽く笑んだ。だがその決意は決して軽くはなかったことだろう。

 結局、ビーは折れた。


「さて」

 二人と一匹は、海岸沿いの突き出た岩の上にいた。霧はまだ晴れていない。

 フライはTシャツやミリタリーパンツを脱いで、小さなボクサーブリーフだけに

なっていた。

 シィはその鍛え上げられた肉体に少し釘付けになった。同時に、気付かなかった

がその身体には大小の傷跡も無数にあった。自分にも幾つかはあるが、やはり桁違

いだった。ひょっとしたらその外見よりも歳は上だったのかも知れないなとシィは

思った。そして、やはり『ファントム』らしきものは身体には無い様だった。

 ビーは深呼吸を繰り返している。

「行きますか」

 フライが綺麗な飛び込みを見せ、シィとビーも続いて飛び込んだ。


  *   *    *


 シマに帰って来たその日、シィは夢の中の様な時間を過ごしていた。

 疲れている筈だが寝付けず、気がつけばシィの手は股間に伸びていた。つい先程

まで目の前にあったフライの肉体の固さが思い出された。同時に、あの白亜の塔の

青年、『ヒュー』の姿も。

 やはり会いたい。どうしても。

 寝入るまでに、シィは何度も達した。


 珊瑚礁の内海に潜っていったシィはやがて、海底の砂浜に埋まった何かがキラキ

ラと光っているのを見つけた。

 シィは水をかき、それに近づいていった。

 フワリと緑色の光が舞った様に見えた。

 あれはーーー見覚えのある白い柄が目に入った。

 シィは自分の動悸を押さえられなかった。

 水の中だが少し涙が滲んだ。

 シィはそれに手を触れて掴み、力強く引き抜いた。


  *   *    *


 既にそこは深海、200メートルに近くなっていた。

 フライもシィも驚くべき体力で持ちこたえていた。ビーも何とか付いて来ている。

 フライは水の中でも力強く華麗に身をくねらせ、泳いでいた。そんなフライの姿

を、シィは隣で眺めつつ水を蹴っていた。

「………」

 フライのシマは、シィのものと同じく海岸沿いから少し行くと直ぐに落ち込んで

周囲は切り立った海中の壁になっていた。最初のうちは振り返ればシィのシマの海

中の柱も見えていたが、今はもう見えない。そして海はどこか冷たく、シィのシマ

の海と繋がっている様には思えなかった。だがその壁はどこかで出会ったかの様な

懐かしさも感じさせた。

 本当に、自分と同じ様なシマで同じ様な時を過ごしていたのだな。シィは改めて

そう思った。フライが『ヒュー』なら良かったのに。だが昨日キスした時のあの感

じは、一体何だったのだろうか。やはり、『ヒュー』ではないと言うことだろうか。

それともーーー。

 シィは振り返ってビーを見た。苦しそうにはしていたが、まだ息は持ちそうだっ

た。だが驚異的な体力の彼らとて、無限に息が続く訳ではない。たかが数十分。そ

れでこの世の全ては、分かりえないのかもしれない。でも、それでもーー。此処に

は、何かがある。それを信じて、シィもフライも深海に挑んでいた。

「!?」

 その時、フライが手を開いて合図して止まった。シィとビーも海中に漂う。フラ

イは何かを聴いている様だった。シィは辺りを見回す。まだフライのシマの壁は側

にある。それ以外は暗く落ち込んだ無だった。だがーー何かが聞こえた。そうーー

あれはクジラの鳴き声だ。近い!

 フライは咄嗟にシィとビーを抱えて壁際に寄った。

 その直後、暗い巨大な影が海中から現れて上へと登っていった。ビーが総毛立つ

のが分かった。

「!!」

 大きかった。三人のスレスレを巨大なクジラの腹が上昇していった。ゆうに70

メートルはあっただろうか。シィもあれだけの大きさのものは出会ったことがなか

った。此処はーー一体何なのだ?

 その巨大な影が作り出した流れが収まるまで、三人は壁際でじっとしていた。

「…………」

 再び、闇と静けさが一同を包んだ。

 ポン、と頭に手を置かれてシィは我に帰った。

「……!」

 見上げたシィは、自分ではない一点に注がれたフライの眼と、初めて動揺した様

な表情を目にした。

「……?!」

 シィがそっとその視線の先に目をやるとーーーそこには、あった筈の壁が無かっ

た。

「!!」

 これはーー?斜め上方には、シマの底らしき巨大な水平の壁が広がっていた。フ

ライの動悸が早くなるのが分かった。明らかに動揺していた。当然だ。だがーー自

分は、これを知っている!

 シィはフライの首筋にキスをしてからこちらを向いたフライに頷いてみせると、

奥深くの海底へと身を躍らせた。自分の時と同じ様に、あの緑色の光に出会えれば

!シィは泳いだ。もはや戻れる深度をとうに越えていただろう。だが。シィは確信

していた。此処なら。今なら。無意識にシィは首筋のタトゥーの様な紋章、『ファ

ントム』に触れた。


 キィーーーーン!


 その瞬間、3人の眼前に、あの緑色の光が出現した。そのまばゆい光は、辺りを

緑色に染めた。

「!!」

 そして一同ははっきりと見た。

 その光に照らされたはるか眼下には、巨大な白亜の塔がーーーそれも無数にある

 その上には、それぞれ誰かがいる様だった。だが深海故かシィやフライの視力で

もそれはよく見えなかった。ただ一つ、三人の真下にある一番近い白亜の塔の頂上

の平面には、シィが見たあの青年ーーー『ヒュー』と思しき青年がいた。

 ”あぁ……”

”………?”

 気配は感じる。確かに『ファントム』が繋がっている感覚がある。しかしその顔

は全く無表情で、目線は合っている様だがシィを認識してはいない様だった。

 ”『ヒュー』?『ヒュー』なんでしょ?”

 シィは心の中で叫んだ。

 『ヒュー』はーー首を傾げた。様に見えた。

 ”どうしてーー?”

 シィを絶望が包む。


 キィーーーーーン!


 緑色の光は相変わらずその場で瞬いていた。何処かで、クジラの鳴き声がしてい

た。

 その時、シィはガッシリとした腕に包まれた。

「!?」

 フライの腕だった。

 振り返って見たフライの光に照らされた顔に、既に動揺は無かった。いつもの飄

々とした、それでいて未体験の現象に、ドキドキワクワクしている様だった。そし

てフライは眼下の『ヒュー』の方を向いた。シィもフライに抱かれたまま海中で光

りに照らされながら無限に広がる白亜の塔の群れを見ていた。

 そしてシィは何故か理解した。この『ヒュー』はあたしの『ヒュー』じゃない。

フライの、『ヒュー』なのだ。

「     !!!」

 水中でフライが絶叫した。何を言っているのかは分からなかった。それでも、シ

ィにはあの時の自分の様に、『ヒュー』に呼びかけようとして発したのだというこ

とは分かった。

“      ”

 『ヒュー』も、何かを言った様な気がした。シィにはやはり分からない。それで

も、フライとは恐らく分かり合えているのだーーーシィはそう感じた。


 ゴゴゴと地響きの様な音がする。シィは自分の身体が光るのを感じた。フライは

そっとシィの身体を離した。

 ーーあぁ、これはーーー『飛ぶ』のだ。

 シィはすんなりと感覚で理解出来た。ビー……ビーは?シィは泳いで来てガシと

抱きついたビーの身体をしっかりと抱きとめた。

 それからシィはフライを振り返る。緑色の光に照らされたフライは笑んでいた。

その左目の奥では、やはりチカチカと小さな緑色の光が瞬いていた。

 思い出すべき、何かは見つかったのだろうか。あの緑色の光と出会えたことで、

何か記憶に進展はあったのだろうか。

「………」

 シィは近づいてそっとその頬にキスをした。……大丈夫。変な感じはしなかった。

 フライはやはり笑んで、またシィの頭を撫でてくれた。それで十分だった。

 ゴゴゴという音は大きくなっていった。

 眼下の白亜の塔は奥の方から一つまた一つと消えて行った。

 やがて上方から岩の固まりが次々に落ちてくるのが見えて来た。

「あぁ………」

 シマが、どうにかなるのだろうか。その岩は、彼らの下の辺りで緑色に光って次

々と消えていく。それでもフライは笑んでいた。

 一際大きな岩の固まりが沈んで来た。直撃コースだったが、フライはスッと左手

を上げ、例の振動波でそれを破壊した。

 ズバーーーン!

 その瞬間、緑色の光は光量を更に増した気がした。フライの身体もフワッと光り

始めた。

「……………!」

 その水中で光る華麗さに、シィは微笑んだ。

 ーーーーまた、会えるといい。

 シィはもう一度だけ、消えつつある眼下の白亜の塔、そしてそこにいる青年『ヒ

ュー』に目をやった。

 『ヒュー』の眼にはは相変わらずシィの姿は映ってはいない様だった。

 だがもうシィは哀しまなかった。

 ーーーそれでもいい。

 あたしの『ヒュー』は別にいる。またいつか、会える。


 そしてシィは、『飛んだ』。


  *   *    *


 シィが消えたその瞬間、フライは自身の身体も光り始めていることにようやく気

がついた。

 そうか、これがシィの言っていた『飛ぶ』ということかーーー。

 気がつくとフライの口元には笑みが宿っていた。

 何故なのだろう。

 そして突然理解した。この感覚はーー内側から何かが溢れで来る様な『飛ぶ』時

のこの感触はーー既に知っている。

 かつて、何度も感じたことがある。何度も『飛んで』、色々な思いを重ねたこと

がある。

 フライは全てを思い出した。

 やがてフライは『飛んだ』。

 そこはシィが見た様な無数の光が飛び交う空間。

 それでさえも、フライは何度も自分が見たことがある風景の様な気がした。

 そこでフライは幾つかの光と交差し、そして悟った。

 シィは……この光の中の何処かの世界での、自分の娘だったのではないか?

 フライは全身で笑った。


  *   *    *


 ビーは初めて感じる緑色の光の中で、それを同時に感じていた。側にいるシィが

それを感じているかどうかは分からない。

 だが結局シィも何処かで分かっている様な気がした。

 ビーは満足そうにグルルと喉を鳴らした。

 それは無限の様な一瞬の様な、不思議な空間での出来事だった。


  *   *    *


「ぷはっ」

 海上に出たシィを、ビーが迎えた。

「どうだった?」

「これ……」

 息を整えながらシィはその細長い骨で出来たものをビーに見せた。

「………あ」

 ーーーーフライの、クジラのナイフ。

 それはフライのツリーハウスで観た時よりも若干古いものの様に見えた。

 シィはナイフをそっと抱きしめた。

 その時、首筋の『ファントム』がフワッと緑色に光ったのをビーは見逃さなかっ

た。

「……また、会えるかもね」

 ビーは慰める様にそう言った。

「うん。また、あのシマが現れることがあるかな」

 シィはそう言って水平線の方を見つめた。

 雲一つ無い空は、何処までも蒼く澄んでいた。


「あ……!」

 波打ち際に戻る時、シィは違和感を感じて立ち止まった。

「どうした?」

 先に上がっていたビーが振り向いて言った。

「これ……」

 シィは目線を下半身の方へやった。

 ビーもその視線の先に目をやると、水につかったシィの股間辺りに赤いインクの

様なものが浮かび水中に漂いつつあった。

「ほう……」

 ビーは唸った。そうか、ようやく、始まったのか。

 そしてビーは考えた。

 あの光『ヒュー』は、何をしようとしているのだろう。……そうそう、あの白亜

の塔の青年も、『ヒュー』と名乗ったのだったっけ。そのことは、シィと光の中を

流れている時に知った。さて、両者は同じ存在なのだろうか。それともーーー?そ

してシィの首筋の『ファントム』は、確実にそれらと繋がっているーーーーー。

 ビーはそっとシィの表情を窺った。

 シィは多くの女性がする様な戸惑いや恥ずかしさは見せず、何処か懐かしいもの

を見ている様な笑みを浮かべていた。フライのナイフが、見守っているという風に

キラリと光った。

「大丈夫、教えるよ」

 ビーは事も無げに声をかけた。

「……うん!」

 シィは、ビーを向いて笑顔を見せた。


                                (終)


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