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#16「H-E-U」



 ズキッ。

”あうっ!”

 叫んでいたシィは鋭い頭の痛みにハッと我を取り戻した。

 そこで初めて気がついた。

 いつの間にか、知らない気配がある。

 振り仰いで見上げたモヤモヤとした明るい空に、三方からゆっくりと歩いて来るあの病人た

ちの姿が映っていた。

”!!”

 シィは飛び起きて身構えた。とは言え、そこはやはり水中だ。動きが重い。

”…………?”

 シィは油断無く三人の様子を交互に窺った。

 三人は、確かにあの渦の底で出会った三人だった。

 一人は小さな痩せぎすの病気の男。一人は中世的な女性……もしかしたら性同一性障害なの

かも知れない。そして残る一人は背が高く、肩から左手を吊っている男。

 シィは一度彼らに絡めとられ、深海のその先へとダイブした。その時のゾワッとした悪寒は、

まだ身体に残っている。

 彼らは、今までシマに何度となく現れたどす黒いモヤモヤそのものだった。そして今、彼ら

の見開かれた目は同じくモヤモヤの怪しい光を宿している。そう、クジラの中で見たシャチや

肉食海竜の様に。

 だが今、シィを守るクジラはもういない。

”…………!”

 シィはキッと顎を引き、フーッと息を吐いた。いや、吐いたのは今は海水だったが。

”グアアアーーーッ!”

 三人は唸り声を上げ、シィの方へと向かって来た。

”フッ!”

 シィはジャンプしてそれを躱した。水中で幾分動きが鈍るのは既に分かっている。その分動

き出しを早く、そして力強くーーー!

 シィは三人の背後に着地し、次の動きに移ろうとした。

 ズキッ。また一際、頭が痛んだ。

”クッ……”

 シィは向かって来る三人を何とか避けて転がった。


”シィ……!”

 同じ塔の頂上で、ビーはそれを見ていた。

 何度かシィが、そして三人の病人たちがビーの身体をすり抜けた。

 別世界にいるビーは彼らに触れることは出来ない。

”…………”

 シィを、助けたいと思う自分は確かにいる。

 だがやはりその感情は奥底に沈み、表面は乾ききっていた。

 三人の病人たちとの闘いを、ビーはただ見ているしか無かった。


”…………”

 観察者はいつの間にか現れたその病人たちとシィとの闘いを目の端で捉えてはいたが、今気

になっているのは目の前にいるオッドアイの男ーーフライの姿だった。

 あのジャングルのシマの海底から『飛んだ』フライは、瞬間で観察者の前に現れた。そして

観察者をじっと見つめていた。

 何だーーー何なのだ!?

 ひょっとして自分と同じ存在に、この男はなるというのか?

 自分からあの子ーーファイを奪った癖にーーーと思ってから観察者はハッとなった。

 何だ、……この感情は!?

”…………”

 それは、久しく忘れていた感情だった。

 観察者はしわくちゃの銀髪を搔き上げ、丸眼鏡の奥で眉根を寄せた。

 やはりこの男が、自分を変えていくーーのか?

 観察者はそれをとても許せない、と思った。


  *   *    *


”く………”

 シィは頭痛が続く中、襲いかかって来る三人の病人たちを避け続けていた。

 病人たちはユラユラとした動きではあるが時に素早く、トリッキーで予測出来ない動きを見

せる。痩せぎすの男は敏捷に動いた。同一性障害の女性はフラフラとしているが常に後ろを取

ろうと回り込んで来る。一番背の高い男は片腕を吊ってはいるが、その腕に絡めとられたら幾

ら体力のあるシィとてそうそう動けないだろう。

”ふぅ………”

 シィは水を吐いた。

 自分の何処かで、確かに恐れも存在している。だがそれを表に出してはダメだ。

 その瞬間、あのモヤモヤに掴まるーー!

”フッ!”

 シィはそう考えながら再び動き始めた。

”!!”

 突っ込んで来た痩せぎすの男の蹴りをシィはクロスアームで受けた。直後に男は身を翻して

その手を取ろうと回り込んだ。

”フッ!”

 シィは間一髪でそれを躱した。すぐさま身を沈めると跳んで後ろから襲いかかって来た女性

をいなした。着地直後に振り抜かれた片腕の男の右ストレートを頭を捻って避け、その胸板を

蹴って距離を取った。

”……ハァ、ハァ……”

 このままでは、続かない。いつか絡めとられる。

 ……攻撃するか?

”………クッ”

 シィは拳を握ったが、まだその決心はつかなかった。

 彼らもあのどす黒いモヤモヤしたオーラを纏ってはいるが、それでも被害者的な立場なので

はないか?ただ取り憑かれているだけで?

 その思いも何処かにあった。

 今までシマに来た人達は、確かにそういうヒトが多かったのだ。

”…………”

 だが着実に、シィは追いつめられていった。


  *   *    *


”おまえは………”

 観察者は呟く様に言った。

 その視線の先ではジャングルのシマの世界から『飛んで』きたオッドアイの男、フライがま

っすぐ観察者を見つめていた。

 その長身で骨太な身体。アーミーグリーンのカーゴパンツにピチピチのTシャツに裸足姿。

 その全てが、観察者を苛つかせた。

 この男はーーーかつて別世界で、観察者の大事な女性を奪った。

 それだけは覚えていた。

 観察者は拳を握った。

”また、奪うのか?”

 フライは観察者をじっと見つめていた。

”また!”

 珍しく観察者が声を上げた。

 ”…………フーッ”

 フライは大きく息を吐き、目を外して他方を向いた。

”!?”

 観察者は虚を突かれて半歩出た。

 その視線の先を見るとーーーそこには三人の病人と闘い続けているシィがいた。

”……え!?”

 観察者は力が抜けた。

 ーーー違う。

 同じ世界にはいなかった。

 こちらを見ていると思っていたのは、錯覚だったのだろうか?

 確かに目が合ったのにーー

”……………?”

 観察者は水中でそっとフライに近づき、その身体に触れようとした。

 ”………!”

 その瞬間、フライはその手をすり抜ける様に身を翻してシィの方へと泳いでいった。

”……………”

 観察者はその空間で、独り浮いたまま、動けないでいた。


”これは………”

 観察者の側で起こっていたことは、ビーも体感出来ていた。

 あのフライが、この世界に現れた。観察者を認識しているのかどうかは分からない。だが間

違い無く、シィのことは認識出来ている。どういう理屈か分からないが、ともかく彼女を助け

る為に、此処に現れたのだ。

 だが、フライがいる世界もまた、観察者や自分の世界と同様、シィとは交わらない場所にあ

る。いくら望んでも、触れることは出来ない筈ーー。

 ビーはまた少し離れたところからの観察者の視点で、事態を見守っていた。

 結局自分には何も出来ない。

 今は見ていることしか。

 心の底でそう呟きながら。


  *   *    *


 フライは一瞬、知っている誰かの姿を見た様な気がした。

 それは誰だったかーーーーだが、すぐに側で闘っているシィに目をやった。

 あの凛とした少女は、フライも何処かで見たことのあるどす黒いモヤモヤを纏った三人と闘

っている。いや、絡めとろうとしている三人に対してシィは避けていなすだけで、自らは攻撃

しようとはしていない。自らが教えたパルクール……見事な動きではあるが、その劣勢は隠し

様も無かった。

”シィ!”

 フライはそこが水中だということに気がついていた。

 驚くことに、自分も水で呼吸している!

 恐らくシィも同様だ。

 フライはいつもの様に素早く判断した。……理由は分からないがーーこれはこれで、いける

筈だ!フライは身を翻し、シィの方へと泳いで向かった。かなりの深海の水圧だったが呼吸が

出来る以上、気にはならなかった。

 泳いでいったフライはシィに取り憑こうとしている三人を排除してシィを抱きしめーーーる

筈が、その手は空を切った。

”う!?”

 シィにも三人にも、いくら触ろうとしても触れなかった。

 同じ水中にいるのに、別次元にいるのか全く触れない。周りの三人も同様だった。

”く……!”

 フライは唇を噛んだ。

 だが同時に思った。

 この現象はーーー何処かで見たことがある。

 いや、今と同じ様に誰かを触ろうとして触れずに無念の咆哮を上げたことが無かったか?

”チッ………!”

 そう考えながらも、フライは動き続けた。

”シィーーー!”

 三人の姿はやがてどす黒いモヤモヤに包まれていき、それぞれでシィへと向かっていった。

 シィは表情に少し焦りの色を浮かべているが、動き続けている。

 あぁ、この子も自分と同じ様に驚異的な体力と精神力を持っていたのだっけ。フライはそう

思った。確かに、この子は何処かの世界で自分の娘だったのだ。

 なら……この子を、助けなければ!

 フライは触れられずとも何度もシィへと向かっていった。

 自身もパルクールを使い、水中で跳び続けた。


  *   *    *


”…………”

 その様子を、ビーは見ていた。

 時に美しいフライの姿はビーとも空間的に重なったが、やはり別次元なのか触れることは無

かった。だが重なり合った時、微かにビーの奥底が揺さぶられていた。

 その諦めずにシィの方へと向かい続ける姿は、少し前の自分と重なる。シィと同じ様に跳び

回る姿。自分もそうだった筈なのにーーー今はそれを少し眩しく見つめていた。何処か胸がざ

わついていた。

 でも、とビーは思う。本当は、フライのそれとは違っていたのではないか?シマでの自分の

優しさなど、所詮自己満足に過ぎなかったのではないか?優しいということは、時にどうでも

良いから、でもあるのだ。

 シィが初めて『ヒュー』に出会ったあの潜水の時、自分は最後まで付いていくべきだった、

と今でもビーは思っていた。そうしたら、もっとシィの『ヒュー』に対する思いを理解出来た

のではないだろうか。

 なのに自分は途中で引き返した。所詮そこまでの愛情だったのかもしれない。

 そんな風にも思っていた。

 そのことが、ビーはずっと心の奥底で引っかかっていた。


”あいつは………”

 観察者は、動き続けるシィとフライの姿を眺めながら唸った。

 相変わらず彼らは何処か自分を苛つかせる。

 そんな感情を抱く自分が、既に自分ではなくなっている様な気がする。

”……………”

 それにしてもーーーー。

 フライが現れた別空間、というのが観察者は気になっていた。

 フライの目にはシィ達は見えても、自分は見えてはいない様だ。

 それは一体どういうことなのか。

 もしかして世界と観察者である自分以外のーー自分の知らない第三極が、この世界に現れた

ということなのだろうか?

”…………”

 観察者は凍り付いたまま、彼らの闘いを見つめていた。


  *   *    *


”クッ!”

 シィは荒く息をーー水を吐いていた。

 有り余る体力があるとは言え、流石に水圧の中では消耗が激しかった。

 だが三人の病人たちは既にその形が人のものではなかった。どす黒いモヤモヤとした塊状で、

それが次々に自分の方へと飛びかかって来る。

”ーーーー!”

 それを避けながら、シィは思わずウナジの『ファントム』に触れた。

 だがそれで呼びかけるまでもなく、その乾いた無の感触に無駄だと悟った。既に『ファント

ム』は、止まっているのだ。もう、繋がることは出来ない。

 それはーーーとても哀しいことだ。 

 今なら何となく分かる。『ファントム』を失ったことで、ヒトは少しずつ捻れていく。

 でも、あたしはーーー!

 ズキッ。

”あうっ!”

 また強く頭が痛んだ。

 その一瞬、シィの動きが止まった。

 モヤモヤ達はその一瞬を見逃さなかった。

”あっ!!”

 シィは三方から迫り来るモヤモヤに掴まり、絡み付かれた。

 あのゾワッとするような感覚がシィを包む。

 三人の病人たちの捻れたイメージが、次々にシィの中に入っていった。

”ーーーーー!”

 犯される。

 そう思った。

 三人の感情だけではない。この世のありとあらゆる捻れた邪悪なイメージが、凄まじい勢い

でシィの中に入り込み蹂躙していった。

”ーーーーーーーーーーーー!!”

 全てを、砕かれていくーーー

 これが、『ファントム』を失うということなのかーーー?

 だから、彼らはあれだけ堕ちていったのか。

 シィは自分がどす黒く塗りつぶされていくのを感じた。


”シィ!”

 フライは何度もシィの身体をすり抜けていた。

 あのモヤモヤに取り込まれつつある褐色の少女に重なると、その度にゾワッとした感覚が来

る。

 それでも、フライはそれを繰り返していた。

 流石に自分の体力も落ちて来ている。

 だが諦めなかった。

 自分は、この子の為に何かが出来る筈!何の迷いも無く、そう思っていた。

”シィーーーー!”

 フライは水の中で、力の限り叫んだ。


”シィ!”

 いつの間にか、ビーは立ち上がっていた。

 奥底に沈んでいた感情が、もう少しで出て来そうな、そんな予感がした。

 それは、あのフライの姿を間近で見たからだろうか。

 あのモヤモヤに今度こそ取り込まれていきそうなシィの感情を体感したからだろうか。

 自分は、何かしなければいけない。

 そう思った。

 だが足を踏み出すまではいかなかった。

”…………!”

 そんな自分が、何処かもどかしかった。


”あいつは………!”

 観察者は、自分を抑えようと必死だった。

 あのモヤモヤの集合体を、自分は何度も見たことがある。

 ファイも、かつてそれに触れたのではなかったか?

 観察者の目はせわしなく震えていた。

 そしてーーー何度も取り込まれたシィに飛びかかろうとするフライ。その姿が、自分をこん

なにもざわつかせる。

 その姿を、自分は確かに見たことがある。

 全てを、止めなければーーー!

 観察者は握りしめた拳を払い、前へと歩き出した。


  *   *    *


”ーーーーー”

 シィは、動けなかった。

 自分はもう、自分ではないと思った。

 どんどん、堕ちていく。

 その褐色の身体は、一つに結合したどす黒いモヤモヤの中に完全に取り込まれていた。

 モヤモヤはその勢力を増し、その空間を埋め尽くそうと辺り一帯に広がり始めていた。

 脳裏に、様々なイメージが通り過ぎていった。

 今までシマで出会った幾多の人々。

 時に捻れていた人もいた。

 そして、それ以外の邪悪な無数のイメージたち。人類が今まで経験した哀しい感情や怒りが、

群れをなしてシィを突き抜けていく。

”あぁああああああ!”

 シィは恐れの声を上げた。

 身体の全てを、いや精神そのものをも犯されていく。

””ーーーーーーーーーーーーーーーーー!

 その中で、微かに見えるフラッシュがあった。


 シィ。

 誰がつけたのか知らないその名前に、ある時「海」や「承諾」の意味があると知った。

 また別の時、「C判定」ーー落第、の意味もあるのだと分かった。

 その時の奇妙な寂しさが、鮮やかに蘇って来た。


 『ファントム』が自分に現れて少し経った後、自分に生理が訪れた。

 ビーは「何かで止まっていたんだよ」と言っていたがーーー実は自分で止めたのではなかっ

たか?知らない自分の記憶の中で、何があったのだ?

 それは恐ろしいーーー何か。

 触れては行けないその場所へ、シィは踏み込んだ気がした。

 その瞬間、全身を、精神を、今まで以上の痛みが襲った。

”いやぁああああああーーーー!”

 シィは叫んだ。


 ーーーーかつて、酷いことが沢山あった。

 それはこれからも続く。

 今も。

 全ては、『ファントム』を失ったから、なのか?

 もはや自分には何も残っていないのにーーーーーーーーーー


 グオオオオオオ!

 イメージの氾濫は、更に強くなった。

”あああああああ!”

 シィは全身で叫んだ。

 それは既に音にはならなかった。


  *   *    *


”シィーーー!”

 フライが、ビーが、叫んだ。

 ビーは思わず前に出ていた。

 感情よりも先に身体が動いた。

 今はシィを、助けなければ!

 ビーは力強く泳ぎ出した。


”ーーー!”

 観察者も前へと出ていた。

 水の中を、ゆっくりと水圧を感じながら歩く。

 その先にはモヤモヤに包まれたシィに重なろうともがくフライがいた。

”こいつをーーー”

 止める。

 自分の前に立ちはだかるこいつをーーー!

”!!”

 だがその手はやはり空を切った。

”クッ……”

 ダメか。

 ーーーだが!

 既に観察者の身体もモヤモヤと空間的に重なっていた。

 どす黒い気分を味わいながらも観察者は腕を振るった。

 水圧しか感じなかったが、観察者はフライ目がけて次々に拳を振った。


”………!”

 フライは、何かを感じた。

 既視感の様な何か。

 何度かシィに触れようとしてすり抜けていたが、やがてそのシィの中に何かーーー光る塊の

様な何かが見える気がした。

”………?”

 それは何度もシィをすり抜けるうちに段々形がはっきりと見える様になっていった。

 どす黒い何かに取り囲まれた中で、優しく光る、何か。

 別次元とは言え重なればゾワッとする悪寒を、そこだけ優しく変える何か。

”何だーーー?”

 柔らかく光るその緑色の光は、何かを予感させた。


”シィ!”

 ビーも気がついていた。

 どす黒いモヤモヤに取り込まれたシィの身体の中に、何か光るものがある。

 もはや懐かしい、緑色の光。

 それがシィの身体の中で優しく光っている。

 何かの塊の様だ。

”…………?”

 ビーは我を忘れて、シィに重なろうと何度も突き進んだ。

 その度に、緑色に光る何かは少しずつその形を成していった。


  *   *    *


”…………!”

 自分は、死んだのだろうか?

 あのモヤモヤに取り込まれて、もう長い時間が経った様な気がした。

 先程の邪悪なイメージの氾濫は無くなった。

 今はただズタボロの自分が、無の空間の中で浮いていた。

 もはや何も残ってはいない。

 堕ちるだけ堕ちた。

 ーーーだが、そう思う時はまだその先がある。終わりなど、底などある筈が無いのだーーー

 それを自分は何故か知っていた。

 ……何故なのだろう?

 やはり自分は、別世界で何度もこれを経験しているのだ。

 『ファントム』を失い、精神が捻れていったその先のことがあるのだ。

 そして今、またそれを繰り返しているーーーシマで何度もあった人々の様に。


 その時、シィは何かを感じた。

”……………?” 

 何処かで誰かが、呼んでいる様な気がする。

 微かだが、それは何度も繰り返し聞こえていた。

 これは……何なのだろうか?


 シィは考えた。

 淀み切った感情の裏で、僅かに聞こえる何かを感じ取ろうとした。

 この懐かしい感じは………


 母親だろうか?


”……………?”

 シィは心の中でゆっくりと首を振った。

 だが、いや……どうだろうか。

 混濁した意識の中、何かが、身体の奥底で囁いている。


 『ヒュー』?


 そうかもしれない。

”…………!”

 シィは身体の中に、ミゾオチの辺りに、微かに暖かいものを感じた。



”””シィ!!”””

 その時、複数の空間で偶然、シィの中心とフライの手、ビーの手、観察者の手が同時に重な

った。


”ーーーーーーーー!”

 ………そうなのだ。

 シィは褐色の肢体に自然に力が入っていった。

 『ファントム』は動かなくても無くなっても、ヒトは、あたしはーーー生きていく!

 緑色の瞳がカッと見開かれた。

 例え何度捻れることを繰り返そうとも。

 誰かと繋がることが出来なくても。

 自分はずっとそうやってきたのだから。


”!!”

 シィは意識を取り戻した。

 自身の身体をどす黒いモヤモヤが取り巻いている。

 自分と同化しようと必死に蠢いている。

”…………”

 シィはもう、恐れを感じなかった。 


  *   *    *


 キィーーーーン!


 シィの身体の中心のその一点から、光がほとばしった。

 それは緑色の、優しい光だった。


”!!”

 ビーはその光の中で見えていたそれに触れた。

”これはーーー?”

 その手触りで分かった。

 取り出してみると、それは確かに自分が巣の中で愛用していた、抱き枕代わりの木片だった。

”何故ーーー?”

 ビーは思わず呟いたが、同時にそれが何なのか理解出来ていた。

 これは、自分と『観察者』を繋ぐものだったのだ。

 どうしてこれが現れたのかは分からない。誰がもたらしたものなのかも。だがこの木片によ

って、その間だけ自分は観察者の視点を持つことが出来ていたのだ。

 しかし何故これがシィの中に?

”シィーーーー!”

 ビーはシィを見上げた。


”あ………!”

 フライはようやく何かに触れた、と思った。

 緑色に光る何かを引き出してみるとーーーそれは自分が作った、あの古い骨のナイフだった。

”え………?”

 いつの間にか自分のシマから消えたもの。

 だが、それがシィのシマにあってずっと彼女を助けていたことを、その時フライは理解した。

”………そうか……!”

 フライはこの世界の成り立ちを、少しだけ分かった様な気がした。

”シィーーー”

 フライは凛としたシィの表情を見つめた。


”これはーー?”

 観察者は握ったその光の感触に驚いた。

 取り出して光が消えてみると、それは空の薬ビンだった。

 ビンの中に更にビンがあり、またその中にビンがある。

 大中小のビンが綺麗に重なったオブジェの様な佇まいに、観察者は一瞬見とれた。

”…………”

 これはーーーあの三人の病人が持っていたものだ。

 それがどうして自分の手に?そして何故シィの中に?

”…………”

 微かな感覚が、そっと観察者に訪れた。

 観察者の表情がこわばった。

 まさか、ひょっとしてーーーー自分があの病人たちとーーいや、あのどす黒いモヤモヤと、

何か関係があるというのか?!

 もしかして、あれは自分が呼んだのか?もしくは作り出したのか?

”そんなーーー”

 観察者はシィの顔に目をやった。


”あ…………”

 その光で、シィは一瞬ビーやフライや観察者のイメージを感じた。

 それによって、シィはあの何処か懐かしい感覚が身体に現れるのを感じた。

 身体の中から何かが沸き上がってくる様な感覚。

 そう、『飛ぶ』時のものだ!

 だがそれは同時に新しい何かを感じさせた。

 前とは明らかに違う何かーーーそうだーーー前のものは、既に終わっているのだ!

 では、何が違うのだ?

”……………!”

 シィは気付いた。

 今はーーー自分はそれをコントロール出来る!

”あ…………”

 そしてその力強く優しい感覚は、いつか感じたイメージの中で母親に抱かれた時のものとも

奇妙に重なった。

”そうかーー!”

 シィは呟いた。

 今まで自分が『飛んで』いたのはーー自分の中にある、母親のイメージが起こしてくれてい

たものだったのかも知れない。

 やはり、ずっと見守ってくれていたということなのだ。

 シィは確信した。

 ならばーーー自分は今、何処へ向かうのだ!

”!!”

 行こう、その先へ。

 シィは全身に力を込めた。

 次の瞬間、シィの身体は優しく緑色に光り、そして『飛んだ』。


  *   *    *


”!!”

 複数の空間の一同も、一緒に『飛んだ』。

 その瞬間、シィを包んでいたあのどす黒いモヤモヤの姿は消し飛んでいた。

 彼らは、また『ファントム』を通して何処かへ消えたのだ。

 そのことは、その場の全員が感じ取ることが出来た。

”……………!”

 気がつくと彼らは、無数の色の光が舞う空間を飛んでいた。

 皆、今まで何度か観たことのある景色だった。

 シィは微笑んだ。

 かつて、『ヒュー』と繋がったところ。

『ファントム』の奥底にある空間。

 そして、無限の記憶がサーバーの様に溜まっている場所。

 また、此処に来ることが出来たのだ。

 そしてーーーー

”フライ……”

”久しぶり”

 側にフライの感覚があった。

”パルクール、うまくなったな”

”うん、結構頑張ったよ”

”あぁ”

 喋らなくても、全てが伝わった。

 それは正に、『ファントム』で繋がっている感覚だった。

 もう自分には無いのに何故だろう、と一瞬思ったがーーーこの空間では既にそんなものは必

要ないのだ、と今この時は普通に思えた。

 シィは少し俯いた。

”ゴメン、あのナイフ……折れちゃった”

”それなら……いいんだ”

 先程シィの中から出て来たイメージを、フライは伝えた。

”あ………”

”ちゃんと、役に立ってたろ?”

”うん………”

 フライに力強く抱きしめられた感覚があった。

”シィ………”

 ビーが腕の中に飛び込んで来る感触がした。

”ビー!”

”会いたかったよ”

”うん……何処にいたの”

”ずっと側にいたんだよ”

”また、だったんだ?”

”うん、触れなかった……”

”でも、こうして会えたよ”

”良かった……”

 シィはイメージの中でビーの頭をゆっくりと撫でた。

 二人はしばし意識体のまま抱き合っていた。

”……………?”

 やがてシィは、もう一人の存在に目をやった。

”………あなたは…………”

 だがシィには分かっていた。

 あの金網のシマで出会った、観察者と同じ存在だ。

”俺は………?”

 その丸眼鏡の奥の表情には、困惑が浮かんでいた。

 だが、繋がっているシィには全て分かっていた。

 観察者は、あの絵描きの少女、ファイを追いかけていただけ。

 自分はそれに似ていた。

 そして、フライはその彼女と繋がったことがある。

 奇妙な繋がりで、出会ってしまった。

 ただ、それだけ。

”そう、なのかーーー?”

 そして束の間、嫉妬に掴まっただけ。

 そこに、あのモヤモヤが入り込んだのだ。

 『ファントム』を通して。

 観察者は手の中の重なった薬ビンを見つめた。

 あの三人の病人たちは、自分の負の感情が導いてしまったものだったのだろう。

”ーーーーー”

 一同は同時に理解していた。

 『ファントム』を通して、捻れた感情はやってくる。

 その入り口は、誰しもそれぞれの中に持っている。

 発動するかどうかはーーーその時次第だ。

 今回はたまたま観察者を通して現れ、シィに伝染した。

 それが形になって現れたのだ。

 いや、シィだけではなくーーー幾多の記憶の断片も引き摺って。

 それが『ファントム』の業なのだ。

 ひょっとしたら、この世界はそれらが作り出した箱庭の様なものであるのかもしれない。

”だからーーーーー”

 シィはそっと笑いかけた。

 観察者はフッと力を抜いた。

 自分は、何をしていたのだろう。

”……………”

 気がつくと、フライもビーも皆、観察者に触れていた。

”皆ーーーー”

 フライは、フッと笑んだ。

”多分、会ってたんだろうな”

”………あぁ”

 二人はかつての世界でのイメージを共有していた。

 フライと観察者は、光の中で握手を交わした。

”……また、何処かで”

”………何処かで”

 ビーも観察者と目を合わせた。

 今では観察者も理解出来ていた。束の間観察者と同じ様に世界を外から見ていたビーの存在

を、観察者は初めて知ったのだ。自分と同じ様に弱さを持った、小さな存在。それ故にビーの

世界を通して、あのモヤモヤの病人たちは移動していたということも。そしてその存在に気付

けなかった自分は、既に観察者ではなくなっていたことも。

”少しだけ……、重なったんだな”

”理由は、やっぱり分からないけどね”

 こちらの二人も、それだけで十分だった。

”シマでのこと、ずっと観ていたよ”

”うん……”

”……行くのか?”

”多分みんな、ね”

 観察者はもはや自身の嫉妬のことなどどうでもよくなっていた。

 ただこの無数の光の空間でーーー他人と繋がるのが久しぶりなことを実感していた。

”ーーーそうだ”

 観察者は自身の目を最大限に広げてその空間を観た。

”『ファントム』はーーー『ヒュー』は?”

”!?”

 シィは辺りに意識をやった。

 辺りの光は無限に広がり、そこかしこで『ファントム』は開いているのだろうが、その先は

見えなかった。

 観察者の目でも、それは分からない。

 だが観察者は思った。

 その先の別次元は、何処かに、確かにあるのだ。

”……………?”

 そのことを理解した全員は、息を潜めて辺りを感じた。

 『ファントム』。

 そして謎の光『ヒュー』。

 この場所では、その二つは密接に繋がっていることを、全員理解していた。


  *   *    *


”あ………”

 シィが気付いた。

 もはや意識だけの状態になっていた自分たちの側に、四つの光が瞬いていた。

”あれは………!”

 それは観察者の空き瓶、ビーの木片、フライの骨のナイフ、そしてーーーいつの間にかシィ

の身体の中から現れたであろう、もう一つの光ーーーそれは、古いリボルバーだった。

”あ……”

 シィたちはその光を順に見つめた。

 あの海底で折れた筈のフライの骨のナイフ……

 そしてビーの木片、あの病人たちの空き瓶………。

 4人は、それぞれのパーツのことを 理解した。

 それは必然だったのだ。

”まぁ……”

 フライは事も無げに言った。

”何でもありだろ、シマも、ホシもーーー此処も”

”…………”

 ビーも頷いた。

 ーーー本当にそうだ。

 全員が思った。

”…………”

 シィは自分のパーツに目をやった。

 最後に、自分の中から出て来たこの古いリボルバーは……

”それは……”

 フライが口を開いた。

”え?”

”お前の母親のものだろう”

”ーーー!”

 シィはかつて記憶の塔で観た三人の姿を思い出した。

 確かにその中の褐色の母親らしき女性は、このリボルバーを持っていた。

 時に弱くて時に強い、凛としたその女性はお守りの様にリボルバーを常に身につけ、時にそ

れで状況をぶち破っていた。

 それが今、自分の中からーーー?

 全ては、やはり必然の様な気がした。

 そのトリガーは、次の世界への扉を開く鍵。

 『飛ぶ』時には、心の中でそのトリガーを引いていたのだ。

”そうだよ”

 ビーが優しく寄り添った。

”ビー……”

 全ては、自分の中にあったのだ。

 全てはーーー!


 キィーーーン!


 瞬いていたその四つの光が一つになり、緑色の優しい光になった。

 そして『ヒュー』の光は、四人を連れて無限の先へと飛んだ。

”!!”

 一同は、光が無数に流れるトンネルを進んでいた。

”あぁ……”

 先程よりも密度が濃い、暗いところよりも光の方が多い空間だった。

 シィはまばゆい光の中で満たされた気分を感じていた。

 ビーも、フライも、観察者も、同じ感覚を共有していた。

 『ヒュー』の光によって、『ファントム』の向こうへ。

 そこには何が待っているのだろう。

 彼らは、満足そうに微笑んだ。


  *   *    *


「…………!」

 シィが気がつくと、そこは明るい海底だった。

「え……?!」

 ビーたちと光の中を飛んでいたのではなかったか?

 ここはーーーシィは辺りを見回した。

 例の『ヒュー』の塔の上の様だ。見上げるとやはりモヤモヤとした無限の水の空が見えてい

た。

 だがそこにいるのはシィ一人だ。

「ここはーーー?」

 ビー達は……彼らは、どうしたのだろう。

 ここは、前に訪れた場所だろうか。

 それとも別次元の場所なのだろうか?

 だがシィは寂しさは感じなかった。

 彼らはいなくてもいる。

 自身の中に。

 それだけは、シィは理解していた。

「ーーーそうだ」

 シィはウナジの『ファントム』に触れてみた。

「!!」

 手触りで分かったが、そこにはもう『ファントム』は無かった。

「……………」

 シィはやがて微笑んだ。

 別に、もう無くても大丈夫だ。

 何の迷いも無く、そう思った。

 シィは水の空を見上げた。

 相変わらず、自分は水呼吸をしている様だ。

 そこは静かに、コポコポという水の音しかしない空間だった。

「…………?」

 シィは僅かな空の変化に気がついた。

 僅かに流れがある。上から下に向かって。

「…………!」

 シィは目を細めた。

 流れが来ているというか……塔が、上昇している?

 ゆっくりだが、確かに身体が浮き上がっていく感覚があった。

「え………!」

 そして更に上方からは何かの境目の様な筋…いや面が伸びて来た。

「…………?」

 それは真っすぐにシィの方へと向かって来た。

「……っと」

 思わずシィは横に半歩避けた。

 そのユラユラとした境目の様な面はシィの側で塔の頂上に当たりーー左右へと別れていった。

「!!」

 それは水と空気の境目だった。

 横になった水面が、シィを通過していった。

 まるでモーゼの前で海が割れる様に、水の空間が別れていった。

「わぁ………ゲホゲホッ」

 シィは咳き込んでしゃがみ込み、ひとしきり水を吐いた。

「………はぁ、はぁ………」

 ようやく呼吸の落ち着いたシィは起き上がった。

 既に水の壁は左右にかなり離れていたが、それでも水の高さは無限に高く、何処までも巨大

な水の壁が両側に見えていた。

 だがその広がっていく壁と壁の間には、星空が見えていた。

「わぁ………」

 そこは、不思議な空間だった。

 やがて広がっていく水の壁は透明度を増していき、塔の頂上以外は宇宙になった。

「…………?」

 シィは塔の端まで行ってみた。下はどうなっているのだろう、と思ったからだ。

「……!!」

 見下ろすと、そこに塔の壁面は無かった。ごく薄い岩肌の頂上の水平面のみが宇宙を進んで

いる。

「…………」

 いったい、呼吸はどうなっているのだろう。

 そして此処は、何処なのだろう。

 自分はもうこの世のものではないのだろうか。

 ーーそれでも、シィは何処か満たされている気分が自分の奥底にあることを感じていた。

 あの時、ビーたちと『ファントム』で繋がった時、確かに自分は自分をーーそして様々な記

憶の、生命の連なりを知ったのだ。

 それだけで良い。

「…………。」

 シィは両手を広げて目を閉じた。

 そして彼らのことを思った。

 ビーたちは、また旅立っていったのだ。シィは何故かそのことを理解出来ていた。

 皆恐らく、『ファントム』の向こう側へ。

 フライは、観察者の立場を入れ替わったのだ。今度は外から、世界を観ていくことになる。

シィのことも、観ていてくれるだろう。

 観察者は、またヒトとしてあの女性ーーファイを追いかけるのだ。今度は、うまくいくだろ

うか。何処かの世界で、また出会えるといい。

 ビーは……また別の誰かの側にいるのかも知れない。自分の時と同じ様に。

 思えば、あの記憶の塔で観た自分の母親らしき女性と一緒にいたのは男二人だけではなく、

小さなネコもいた。あのネコの佇まいは、ビーのそれと同じだった。

 何故気付かなかったのだろう。

 記憶の中で、全ては繋がっていたのだ。

「そっか…………」

 そしてもう一つ、シィの中に忘れていた記憶が蘇っていた。

 それは自分の「シィ」という名前のこと。

 意味するところは海でもイエスでもC判定でもなく、「見る」「会う」という意味だった。

 色んな世界を観て、様々なヒトやモノに、出会える様に。

 母親が、そう名付けてくれた。

 シィはそっと微笑んだ。

「みんな、ありがとうーーーー。」

 シィは無限の時の中にいた。

 ひょっとして此処も既に、『ファントム』の向こう側ではないだろうか。

 そんなことを思った。


「…………!」

 気がつくと、シィが立っている岩肌もどんどん透明度を増していた。

 やがてそれも見えなくなると、シィは一人宇宙の中に佇んでいた。

「…………」

 ホシは無限にあるが、それぞれは遠く離れている。

 それでも時々、繋がることはあるのだ。

 それだけでいい。

 今のシィにはそう思えた。


 キィーーーーン!


 遠くで、緑色の光が瞬いた。

”あ………”

 既に自分に『ファントム』は無い。

 ウナジが光ることは無かった。

 それでも、遠くで瞬くその光ーー『ヒュー』の光は、そこで優しく輝いていた。


”シィ”


”!!”

 優しく力強く、遠くから身体中に声が響いた。

 シィは顔を歪めた。

”『ヒュー』……!”

 それは深海で出会った時以来、久しぶりに聞く声だった。

 自分を導いていた声。

 初めて誰かと繋がった、その時の感覚をシィは思い出した。

”久しぶりだね”

 シィは涙を流していた。

”遅いよ……”

”ゴメン”

 その声は何処から聞こえて来るかは分からなかった。

”ずっと、会いたかったよ”

”うん”

”あたしは……うまくやれたかな”

 『ヒュー』の声は、優しく空間全体に響いていた。

”ちゃんと、ネジレナイでいるよ”

”なら……良かった……”

 シィはツーッと流れ落ちる涙をどうしようもなかった。

 もっといっぱい話したいことがあったのに、それ以上何も出て来なかった。

”シィ……ありがとう”

 その緑色の光は遠くで強く瞬き、次の瞬間シィに向かって来た。

”!!”

 そしてシィの肢体にぶつかるかどうかのところでパッと散った。

”……………!”

 シィはその光が自分の中に入って、そこで何かが形成された様な気がした。

 いや、それは元々自分の中にあって眠っていたものが目を覚ました様にも感じた。

”……………”

 シィには分かった。

 この感覚は、前に知っている。

 あれは想像妊娠だったが……。

 今度は、恐らく本当だ。

”『ヒュー』……?”

 シィは無限に広がる宇宙を見つめた。

 星々は冷たく光ってはいたが、無限の生命の記憶が、詰まっている。 

 その中で、自らを導く何かは、ずっと自分の中にあったのだ。

 シィはそっと自分のお腹に触れた。

”……………”

 やがてシィは、星々の光の中を泳ぎ出した。

 ここも、シマの海と一緒だ。

 いやーーー此処も含めて、全てがシマだったのだ。

 自分はその中で、生かされているーーー。



  *   *    *




 そこは、モヤモヤとした薄暗い空間だった。

 それは目を凝らしたが、その場所の色はよく分からない。音も全くしなかった。

 いや、音だけではなく匂いも触感も無いーーー何一つ感じ取れない空間だった。

 それはそっと呻いてみたが、同じ様に何も聞こえはしなかった。

 体に感じる振動は確かに感じたが、音はそれの体内でのみ存在している様だった。微かに自

分が呼吸しているらしい感覚はあったが、定かではない。

 それは、ココは何処なのだろうと思った。

 こんなに体は動かせるのに。

 視覚は微かにある様だがいくら目を凝らしても自分の身体は全く見えなかった。だが身体を

動かしている感覚だけは、確かにそこにあった。何故ーーー?その不思議な感覚に、それは戸

惑っていた。

 そのうち、それは僅かな光を見たような気がした。

 遠いところにある微かな、だが弱々しくはない、何かを語っている様な緑色の光だった。

 それは、その光を懐かしく感じた。

 そうだ、あれはーーーーあの不思議な少女が放っていたものではないか?

 それの中にある、微かな記憶が蘇った。

”    ”

 それは誰かに呼びかけたが、誰も答えはしない。

”     ”

 気がつくと、側に何かがいた。

 自分と同じ様な存在が、他にいるのだろうか。

 それは小さく鳴いた。

 何かも、鳴き返した。

 それは、自分が何者なのか分かった様な気がした。

 全身が逆立つ様な感覚に包まれたまま、それはその空間を進んでいった。

 次は誰と、出会うのだろう?




  *   *    *


 褐色の肌に緑色の目をしたその女性は、とあるシマで暮らしていた。

 ある時気がつくと、女性はこのシマにいた。

 南国風のこのシマ以外に、このホシには他に陸地は無さそうだった。

 シマは時々姿を変え、また時々モノが現れる。

 時々苦労はさせられるが、そのお陰で女性は何とか生きながらえていた。

 女性には赤ん坊が一人いた。

 その小さなオッドアイの男の子は利発そうな顔立ちで、よく母親を見上げては屈託の無い笑

顔を浮かべる。

 今日も女性は砂浜に出て男の子と遊んでいた。まだ歩き始めたばかりのその子は、波を怖が

るでも無く波打ち際で水と戯れていた。

”…………”

 女性は空を見上げた。

”もしもし、母さん?あたしは幸せに生きてるよ”

 女性は誇らしげにそう話しかけた。

”     ”

 誰かが答えた様な気がして、女性は微笑んだ。

 彼女の腰には、古びたリボルバーがお守りの様に付けられていた。

”かあたん”

”!?”

 初めてその子が言葉を発した様な気がして女性はハッと目を向けた。

 そこにはとびきりの笑顔が待っていた。





                          (   完   )




ようやく、シィ編の完結です。

ありがとうございました。

『ヒュー』を巡るお話はまたいずれ書こうと思います。

では!

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