#15「Phantom」
深海でクジラに飲まれたシィのその後話です。
クジラは、深く暗い海中を泳いでいた。
その余りに巨大な身体からすると小さな、それでも優にヒトサイズ以上はある黒
い瞳は、じっと深淵の先を見つめ続けていた。
巨体は時折もの憂げに身体を揺らしながら、海の底を目指していた。
その様子を、観察者は不思議な空間から眺めていた。
そこは海の底の様でもあり、別次元の空間の様でもある。
観察者は中肉中背でシィよりも少しだけ背が高い。年は三十代前半といった感じ
だろうか。丸い古びた眼鏡にしわくちゃの銀髪。癖のある濃い顔立ちは以前シマに
現れた時よりも幾分老けて見えた。
今、着ている古びた革のパンツや革ジャケットや銀髪はまるで水中の様にゆるく
たなびいている。
「……………」
観察者はその目を脇にやった。その先にはまた別空間があり、そこは鬱蒼とした
密林だった。
その中に、パルクールーー木や枝や岩などを利用して飛ぶ様に移動する術ーーを
駆使して何処かへ向かっている男の姿があった。
「!!」
その男、フライはとある木の上で止まった。
その顔は三十台後半に見える。骨太でがっしりした長身で赤みがかった茶髪、右
目は緑色、左目は焦げ茶色のオッドアイ。その左目はセンサーになっている様だっ
た。
今、その左目がチカチカと僅かな赤い光を放っている。辺りをスキャンしている
様だ。
「………」
フライは訝しげに辺りを窺った。
見える景色は特に彼のシマであるジャングルと変わりない。
だが、何かの予感がする。
そして誰かが見ている気がする。
ーーー誰なのだ?
妙な胸騒ぎがした。
だがその正体は分からない。
「……フッ」
フライは虚空を見据え、再び宙へと跳んだ。
「………」
ビーは、その様子を俯瞰で見ていた。
かつて初めて会ったシィ以外の人間、フライが跳んでいる。
それを観察者が見ている。
クジラは、シィを飲み込んだまま海中を進んでいる。
自分はーーーその全てを見ているが、何も触れはしない。
だがビーはそれに対して、もはや何も思わなくなっていた。
自身の身体は水中に浮いている様だが何も感じない。
そして後ろには例の三人の病人たちが気絶したまま同じく浮いている。
この空間は、一体何なのだろうかーー?
だがビーにはたった一つ、胸の奥で引っかかる存在があった。
それはクジラの中にいる、シィ。
気を失っている、あの大人になりかけの少女のことだった。
* * *
シィは眠っていた。
夢を見ていた。
それは母親の夢。
幼い頃、抱き上げてもらって破裂する様な笑顔をくれた。
自分は今、その温かな存在の中にいる。
そう思った。
クジラは優しく鳴いた。
その響きは大海原へと響いていった。
それは海のサウンドチャンネルを通じ、ホシ全体に届いていった。
「…………!」
シィは、何処かでその声を聴いた様な気がした。
それはシマの外海で、泳いでいた時に良く聞いた音。
何度かクジラに出会って、一緒に泳いだこともある。
遠くで優しく潮を噴いている時もあった。
いつも、あのクジラたちは自分を見守ってくれていた様な気がする。
今までも、何度も危機を救ってくれた。
ひょっとしてーークジラが、自分の母親だったのだろうか?
* * *
その瞬間、シィの周りの空間は急速に開けていった。
いや、シィを取り巻く周りの温かな壁がどんどん透明度を増して外が見える様に
なっていったのだった。
シィが浮いているその場所からは、クジラの外側が見えていた。三百六十度、全
て周りは暗い海の中だった。
その様子を、ビーも観察者も見ることがーーー感じ取る事が出来た。
だがシィはまだ目を覚ましていない。
それでも、無意識の中でその風景を感じているであろうことはビー達には理解出
来た。
クジラは泳ぐ。
深淵の奥底へと。そこに何があるのか、観察者もビーも、知っている様な気がし
た。
「……!」
ビーは暗闇の向こうから来る嫌な気配に目を細めた。
奥底から、何かがやって来るーーー?
クジラよりは小さな、だが早い物体が近づいて来る。
ビーは観察者の能力でそこへと意識を集中させた。
それは、モヤモヤとしたオーラを纏った数匹のシャチだった。
「………」
シマの海ではほとんど出会ったことは無い。だがその獰猛さと危険さはビーもよ
く知っていた。
本来なら全身をアドレナリンで逆立たせている筈だったろう。
だが今のビーは、そこまで反応することが出来なかった。
自分が別次元にいるからだろうか。
それとももうシィのことをそこまで思っていないからだろうか。
何処か達観していた。
まるで映画でも観ているかの様に、ビーはその光景を観ていた。
「シィ………」
それでもビーは、そっと呟いた。
シャチ達はクジラへと襲いかかった。
ヒレや頭に噛み付き、肉を齧り取る。だがクジラも反撃した。巨大な尾ヒレでシ
ャチを砕き、頭を振るって何度も弾き跳ばした。
クジラは大きなシロナガスクジラだった。シャチの様な鋭い牙は持ち合わせては
いない。
だがその巨体故、シャチたちの牙は表面を傷つけるだけで中々深部にまでは届か
ない。
「…………」
ビーはその様子を見ていた。
あのクジラは、やはりシィを守っている。
シィからは周りを泳ぎ回るシャチの姿は見えている筈だが、眠りについたままの
シィはどう感じているだろうか。自分が危険な状態にあると分かっているだろうか。
「………」
ビーはそっと後ろに意識をやった。
三人の病人たちは相変わらず気を失ったまま浮いている。
あのシャチたちは恐らくあのシマに何度も現れたモヤモヤーーあのどす黒い何か
に繋がっている。この三人にもやがて影響を与えるだろう。
その時、何が起こるのかーーー
ガウッ!
シャチがまた一匹跳ね飛ばされて暗闇に消えていった。
「………」
ビーはシィを見つめた。
クジラはシャチを粗方片付け、全身から血を流しながら更に深淵へと潜っていく
ところだった。
ビーはそっと目を細め、そのまま別次元を移動してクジラに付いていった。
* * *
フライは、ずっと感じていた。
何かが、起こっている。
そこはいつもの自分のシマのジャングルだった。
なのに今、違う世界をーー何かを感じている。
それは何だ?
「……………」
フライはオッドアイを見開いた。
そう、誰かが、自分を呼んでいる。
そしてフライは既に気付いていた。
それは恐らくあの少女ーー自分がパルクールを教えた、あの大人になりかけの少
女だ。
時々無茶をして危なっかしいが、凛とした自分を持っているあの子。
そしてまた何処かの別世界では、恐らく自分の子供的な存在だった筈の子だ。
彼女に何か、起こっているのだ。
「…………!」
フライは再び跳んだ。
その先の着地点には尖った岩が待ち受けていた。
「フッ!」
フライは左手を突き出し、その掌にあるメタルパーツの振動波で尖った先を砕い
た。直後に難なく着地し、再びパルクールでジャングルのあちこちを飛び回り始め
る。フライはシィ同様、体力には自信があった。
「…………」
彼女の名はシィと言った。
出会ったのは、必然だった気がした。ある時、彼女とビーバーが突然このシマに
現れたのだ。そして彼女と一緒に深海に潜り、あの無数の白亜の塔を見たところで、
緑色の光に包まれて彼女達は消えた。
「そうか………」
フライは気がついた。
あの時と同じ様にすれば、あるいは。
フライはジャングルを跳んでいった。徐々に崖が迫る。更にスピードを上げた。
「フンッッ!」
フライはそのスピードのまま枝から跳んで、崖の向こうの海へと落ちていった。
「…………」
観察者は、それを見ていた。
いつの間にか手がグッと握られているのに気がついた。
「………?」
これは、何なのだろうか。
観察者はその手を見つめて少し考えた。
この妙な胸のざわつきはーーーもしかして嫉妬、という感情なのか?
自分が?
観察者は意識的に手をほどき、しわくちゃの銀髪を搔き上げた。
ーーーどうにかしなければ。
と思った時、観察者は妙な既視感を覚えた。
かつて、自分はこの感情を抱いたことがあるのではないか?
「…………?」
少し考えたが記憶は無かった。
どういうことか、今の観察者には分からなかった。
「………!」
気配に見ると、もう一つの世界ーーシィがいるクジラに、何かが近づいているの
が分かった。
「これは………?」
観察者は目を細め、少し唸った。
* * *
「またーーー?」
ビーは呟いた。
それは巨大な肉食海竜だった。
四本のヒレと牙に覆われた巨大な顎を持った、獰猛な肉食竜。そしてやはりあの
モヤモヤとしたどす黒いオーラを纏っていた。
「………」
ビーは思った。
あの存在たちは、一体何なのだろう。
此処最近、ずっとシマに現れてきたどす黒いモヤモヤたち。
観察者の目でビーに見えるそれらはやはり、ヒトの捻れた感情が生み出した魔物
の様なもの、だった。それは、次元を通してやって来る。そう、『ファントム』を
通って。
やはり、全ての起点は『ファントム』なのだ。
「…………」
不思議な空間に浮いているビーは、そう確信した。
その時、後ろに同じく浮いている三人の病人の一人の指がピクッと動いた。
ガウッ!
モヤモヤを纏った肉食海竜はクジラに襲いかかった。
海竜の大きさはクジラの半分程度だったが、牙がある分シロナガスクジラよりも
優勢だった。クジラは何度も噛み付かれ、苦痛の咆哮を上げた。身体を捻り、何度
も海竜を弾き跳ばしたがまた取りつかれ、ヒレや腹を食いちぎられた。
「………」
観察者は、その様子をじっと見ていた。
もう、持たないかもしれないーーー。
クジラの中にいるシィは相変わらず、眠りについている。攻撃を受ける度に揺れ
る体内ではあるが、まだ何とか悪意の牙はシィまでは届かずに済んでいた。
観察者は思った。
あのクジラは、シィの守り神の様なものなのだ。それが何処から現れたのかは分
からないが、今までこのホシで起きていたことの中で、クジラはいつも状況を変え
て来た。観察者はそれをずっと見ていた。
そして今ようやくーーー役目を終えるのだ。
ゴオオーーッ。
クジラは傷だらけの身体のまま、最後の力を振り絞って海竜へと突進した。
巨大な頭が海竜を捉え、一瞬海竜は怯んだ。そのままクジラは海竜に全体重を預
け、更に海底の方へと下がっていった。
クワァーーー!
その凄まじいスピードに海竜はヒレをばたつかせたが徐々にその動きは鈍くなっ
ていった。代わりにそのどす黒いモヤモヤがモゾモゾと蠢いてクジラに取り憑きつ
つあった。
それはクジラの内部へと入り込み、後少しでシィに取り憑きそうだった。
「シィ………」
ビーが呟いた。
やがて、彼らが向かうその先に壁が出現した。
グオーーーン!!
凄まじい衝撃音がした。
海底に激突した海竜はどす黒いモヤモヤの粒になってやがて消えた。
クジラも傷だらけの身体を海底に横たえ、息絶えた様に見えた。
* * *
「!!」
海中で、フライは何かを感じた。
シィに更に起こった、何かを。
「……………」
そこは既に百メートルを超えた深海だった。
フライにも久しぶりの潜水で、身体のあちこちが軋み始めていた。
だがフライは確信していた。
何かが確かに起こっているが、ーーーこの先でシィに繋がる!
あの凛とした姿の彼女に、もう一度会うのだ。
自分はそこで、何かが出来る筈!
「来る…………」
そう呟いている自分に、観察者は気付いた。
どうして自分は、この男が気になるのだろう。
この男のめげない感じ、突き進む姿が、何処か自分をざわつかせる。
何処か遠くの別次元で、自分はこの男に出会ったことがあるのだろうか。
観察者は丸眼鏡の奥で少し顔を歪めた。
「シィ……」
ビーはそんなフライと観察者の様子を眺めながらも、身体の奥でザワザワとする
何かを感じていた。
クジラの中で気を失ったままのシィ。
今まで、ずっと二人で暮らしてきた少女。
彼女が、自分にとって大事な人間なのは勿論分かる。
だが今、この第三者感は何なのだろう。
何処か頭がボウッとしている。
後ろでは病人たちが動き始めている。恐らく先程のモヤモヤの海竜の断末魔が何
らかの影響を与えたのだろう。
何かが、起ころうとしている。
そして自分はーーーどうなってしまったのだろう?
哀しさは感じるが、それもまた表面までは出て来ない、奥底だけのものだった。
「!!」
その時、シィのウナジが、フワリと緑色の光を放った。
それは、今まで何度も見た光だった。
* * *
その光は、やがてほとばしる緑色の光源になった。
”………?”
シィはゆっくりと緑色の目を開けた。
此処は……一体何処だ?
自分はあの時クジラに飲まれてーーー?
ゆっくりとシィは立ち上がった。そこはやはり深海の底の様だった。相変わらず
自分は水で呼吸している。肩までの黒髪もゆっくりとたなびいていた。
微かに頭痛は残っているが、思考を妨げる程ではない。
”此処は……?”
周りには、透明な分厚い膜が張ってある様だった。それは暖かさを徐々に失って
いき、やがてゆっくりと消えつつあった。
それが自分を守ってくれていたクジラの最後の姿だということは、何故か分かっ
た。
自分が眠っている間にずっと自分を守って闘いそして息絶えたことを、シィは何
処かで見ていた様な気がした。
”ありがとうーーーー”
やがてシィを覆っていた透明な膜は全て消え、シィは海底に一人ぼっちになった。
相変わらずシィのウナジの『ファントム』は柔らかな緑色の光を放っている。
”…………!”
やがてシィは気付いた。光によって照らされた海底のその先は、崖の様になって
切れている。
”ーーーーー?”
シィは辺りをぐるりと見渡した。
いつの間にか現れたこの海底はちょっとした運動場くらいのスペースの円形の広
さしか無く、その先は落ち込んでまた深淵が広がっている。
此処が底ではなく、更に深海の先がある?
”………!”
シィは気付いた。
いや、その前にーーーここは『ヒュー』がいたあの無数の白亜の塔の上そのもの
なのではないのか?
シィはハッとして辺りを見回した。だが此処には誰の姿も無い。
”ーーー!!”
シィは走り出した。いや、泳ぎ出した。
この場所の縁へ。あの時は他にも白亜の塔はたくさんあって、それぞれの上に『
ヒュー』が、あの謎の青年がいた筈ーー!
シィは力の限り泳いだ。
辿り着いたシィの目の前に見えたのはーーー只の深淵だった。
”え…………?”
シィのウナジの光は辺りを照らし出していたが、そこにはあの時見た様な無数の
白亜の塔は無かった。
シィが立っているただ一本だけ。
下を覗いても、無限に続く塔の壁面が見えているだけだった。
よく見ると、その質感もゴツゴツとしていて薄汚れ、あの白亜の塔とは少し違っ
ていた。
”ーーーーーーー!”
シィは絶句した。
辺りには何も無い。
ここはーーーあの『ヒュー』がいた場所ではないのか?
これだけ深く潜っても、出会えないのか?
一体何処まで行けば、出会えるのだ!
シィは全身に力を込めた。
”ーーーーーわぁああああああ!”
無限に広がる海の中で、シィは絶叫した。
一瞬、ウナジの『ファントム』からの光に一瞬どす黒いものが混じった。
その様子を、その絶望を、皆感じていた。
フライも、観察者も、ビーも。
ビーの後ろで、三人の病人たちがうっすらと目を開けた。
* * *
ゴゴゴゴ!
地面が揺れてシィは膝を突いた。
”!?”
やがて、辺りに流れが出来始めた。
それはあの巨大な渦の周辺の様に、段々激しくなっていった。
”これはーーー?”
その流れは、海の上から下の方へと進んでいた。
”くっ……!”
シィはしばらく塔の上で海底面に押し付けられる様にして耐えていたが、やがて
円柱の周りへと向かう流れに押され塔の縁から投げ出された。
”あっ!”
シィのしなやかな褐色の肢体は塔の下の方へと猛烈な早さで深淵の更にその先へ
と流されていった。
”クッ……”
先程よりも更に凄まじい水圧がシィを襲う。
だがかろうじてウナジの光で辺りの様子は分かった。
塔の壁面以外は、全くの闇だった。
この先はーーー一体何なのだ?!深海のその下の、更に先ーーー!
シィは無限の彼方へと流されていった。
”これはーーーー!”
ビーは目を見張った。
観察者の目で、感じ取っていた。
シィが流されていくのは水のホシの中心部方面だった。
ホシの中心のコアーーー水のホシであっても、物理法則上そこには巨大な水圧が
存在する。
だが今シィが突き進んでいる先は、何処か違っていた。
ビーにはそれが理解出来た。
やはりこのホシは、物理法則など存在しない、別世界だったのだ。
ある筈のコアは無く、流れはそのまま先へと突っ切っていった。
棒状の巨大な岩塊は、シィの側で上下が逆転しつつあった。
先程シィがいた場所は底になり、流れはいつの間にか下から上へと変化していた。
今シィが流されているその先はーーホシの反対側ではあるが既に別世界の様相を
呈していた。
ビーは確信した。
これから向かう細長く伸びた先こそがーーー間違いない、あの白亜の塔なのだ!
いつの間にこんなことになったのだ?
少なくともシィが渦に飲まれるまでは、ホシはこんな構造ではなかった筈。
”…………”
ビーは微かな歯痒さにそっと唇を噛んだ。
今観察者としての存在になりつつある自分も、まだまだ何も知らない、感じ取れ
ないことがある。『ファントム』、『ヒュー』……やはりそれらは別次元の、より
高次なものに違いないーーならば、自分は何故此処にいるのだ?
”…………”
それでもビーは広範囲に意識を広げた。
自分と同じ様に観察者もこの光景を見ている。
彼はこれをどう見ているのだろう。
彼には全て予想出来たことなのだろうかーーー?
”どういうことだーーー?”
観察者は丸眼鏡の奥で驚きの表情を見せていた。
フライに気を取られた一瞬で、シマの海はドラスティックな変化を遂げていた。
それは観察者には予想外のことだった。
そして反対側になったあの白亜の塔は、観察者の内部を更にざわつかせた。
フライといい、この塔といいーーー何故自分はこうも引っかかるのだろうか?
観察者はまた拳を無意識に握りしめていた。
”………!”
観察者はハッとした。
もう一つの世界の深海で、フライは真っすぐに観察者を見つめていた。
この男はーーー、自分の存在に気付いているのか?
観察者は細い目を更に細めた。
* * *
やがて流れは収まった。
”…………!”
シィは塔の壁の側に浮いていた。
相変わらず水中呼吸をしている自分をシィは認識していた。
そこは妙に明るかった。
海面は相変わらず見えない程遠くだったが、その向こうは明るく浅瀬の様だった。
”ここは………?”
あの塔が、逆転したのは分かった。そして自分も、先程の流れによって違う世界
にやってきた様だ。
”あ……?”
気がつくと、自分がやはりゆっくりと沈んでいくのに気がついた。あの巨大な渦
に飲まれ身体が水中呼吸に変化した時と同じ様に。
”………よしっ”
シィは上に向かって泳ぎ始めた。
普段と違って上方に向かっての浮力は感じない。上がるのには力が必要だった。
普段の泳ぎとは全く違う。
魚なら、こんな状況でも体内の浮き袋を利用して普通に上がっていくのだろうか。
……やはり自分は元々水生ではないのだろうか。なろうとしても無理なことなのか。
そんなことを思いながらシィは泳いだ。
側の壁面のゴツゴツとしていた岩肌が徐々に滑らかになっていくのを感じた。そ
の質感はどんどんあの白亜の塔に近づいてきている。
この先にはーー今度こそ、この頂上には、あの青年ーー『ヒュー』がいる!
それは今のシィには確信に思えた。
長い間、シィは泳いだ。
シィの有り余る体力も無限ではない。
やがてシィは疲れ、シマの壁面に取り付いて休んでいた。
”…………”
シィは上方を見上げた。相変わらず先は見えない。
空腹感も感じている様な気がするが、それは普段の飢餓感とは少し違っていた。
疲労も確かにあるが、どこか透き通った感覚。
それはこの不思議な空間故だろうか。
……もしかして自分は既に死んでいるのか?そうして魂だけが海の底で彷徨って
いるのか?
一瞬シィはそんな感覚に落ち入った。
”ーーーんっ”
シィは気を取り直して壁面を登り始めた。泳ぎ続けるよりは幾分楽だった。
周りが明るいので気がつかなかったが、いつの間にかウナジの『ファントム』は
光を発さなくなっていた。
そのことが少し気にはなったが、今は頂上を目指すのが先だった。
シィは上を目指して登り続けた。
頭痛は微かにしているが、それよりも塔の先が今は気になっていた。
* * *
観察者は、その様子をじっと見つめていた。
何処かざわついている感覚はずっと続いている。
それが何故なのかは分からない。
だがあの世界でーーこの海の世界とは別の、あのジャングルのシマの深海でこち
らをじっと見つめているこの男のせいだということは分かっている。
名はフライ。
今白亜の塔の岸壁を上っているシィの、別世界での父親的存在だ。
彼は、この状況を何処まで分かっているのだろう?
まさかこちらのシィを認識出来ているのか?
そしてそれを見ているだけの自分のことも?
フライは、まっすぐこちらを見ている。
……睨んでいるのか?
”………”
こいつはーーー自分の何を知っている?
こいつの何かが、自分を妙にざわつかせるーーー!
観察者がフライの姿を見たのは、シィのウナジに初めて『ファントム』が現れフ
ライのシマへと『飛んだ』時だった。それまで観察者はシィとビー、二人のシマの
様子をずっと見ていた。そこに『ファントム』と共に外の世界と繋がるという変化
が現れたその時、観察者は唸った。確かにその時も、フライにパルクールを教わる
シィを見て観察者は嫉妬の様な妙な感覚を覚えたのだった。
その後、幾人かがシマを訪れては消えていった。その度にシィは色んなことを経
験し、徐々に大人になっていく。その姿を、観察者はじっと見ていた。
ある時、観察者はシマにいた。今まで触ることの出来なかったシィに、その時だ
けは触れることが出来た。なのに、その時点では何故かそれまでの観察者としての
記憶は無く、シィのことを何処か知っている、という対処しか出来なかった。
その時、観察者とシィは『ファントム』で繋がった。お互いのことを知った。観
察者はずっと見ていることしか出来ない哀しさを思い出した。そしてかつて出会っ
た大切な女性ーーーそれはシィも出会ったあの絵描きの少女、ファイだったのだが
ーー彼女のことも理解した。自身が幾多の世界でずっと追いかけていた存在だった。
シィの目の前から消えた後になって、観察者は自分を取り戻した。あの時覚えて
いれば、もっと違う対処が出来たのにと観察者は少し哀しく思った。
だが今、その時の感情は深く奥底にしまい込まれている。観察者として生きてい
くということはそういうことだった。
いつそれが始まったのかは分からない。そしていつまで続くのかも。
なのに、今またフライが現れてーーー自分をざわつかせる。
何故なのだーーー。
”シィ………”
ビーは観察者と同じ様に水の中でありながら別次元の空間で浮いていた。
観察者のざわつきや思いは同時に理解出来ていた。
自分もそうだ。
こんなにもシィの近くにいるのに、触れることは出来ない。
以前の自分ならば、それはどれだけ歯がゆく思うことか。
だが今、ビーも観察者と同じ様にその葛藤は自身の奥底へと沈んでいた。
表面は冷たく乾いていた。
何故なのだろう。
もう自分は前の様な感情を取り戻すことは無いのだろうか。
”……………”
ビーは塔を登り続けるシィの姿を見つめた。
あのしなやかな褐色の肢体に、もう一度抱かれたい。
そう思っても、胸が苦しくなることは無かった。
その後ろで、三人の病人たちはモゾモゾと動き出した。
それを分かっていながらも、ビーはただ浮き続けていた。
今はそうするしかなかった。
* * *
”くっ!”
何度か、シィはシマの壁面から落ちそうになった。
心無しか、重力は強くなっている様だった。手を離したら一瞬で海底へと落下し
てしまう様な感覚がした。
それでもシィはゆっくりと、だが着実に上へと進んでいた。
既に数日が経っている様な気がした。
だがその先はまだ見えない。
”……………”
今、手を離して何処までも落ちていったらーーどうなるのだろう?
またあのシマへーーー戻れるだろうか?
”…………”
いやーーーーもう全ては元には戻らない様な気がした。
今回は、色々なことが起こり過ぎていた。
それはシマの日常だったとは言え、今回のそれは何かが確実に違っていた。
”つ………”
忘れていた頭痛が、再び襲って来た。
その鈍い痛みは、シィにじわりとした不安を呼び起こさせた。
ーーーもう、届かないのか?
この先ずっと、登り続けるだけなのか?
シィは手を離しそうになる自分を必死で抑えた。
”シィ………!”
フライは、海底で浮いたまま目を閉じた。
既に二百メートルを超え、あの時シィと白亜の塔を見た場所にいた。
あの少女は、再び危機に陥ろうとしている。
そのことは何故か確信出来た。
自分に今、何が出来るだろうか。
ーーー出来る筈だ!
” !”
フライは水中で声にならない咆哮を上げた。
その身体が一瞬、緑色の光を放った。
”…………!”
シィは目を見張った。
一瞬岩から離れた手を再び握り直した。
誰かが、呼んでいる。
誰なのだ?
ーーーー『ヒュー』か?
シィは身体の中から、何かが湧き出る様な感覚を感じた。
例の『飛ぶ』ーーシィが時々起こす瞬間移動のことだーー時の感覚だ。
だがそれは今までのとは少し違っていた。
妙な哀しさがあった。
恐らく、これで最後?何故かそう思った。
ウナジの『ファントム』は微かに光っているが、それは断末魔の様な、ロウソク
の火が消える前の瞬きの様な気がした。
ーーーーでも!
シィはキッと上を見据えた。
行けるなら!
その瞬間、その褐色の肢体は緑色の光に包まれ、『飛んだ』。
* * *
長い一瞬の様な時が過ぎた。
その間には何も無かった。
『飛ぶ』時によく見た無数の光が流れている空間は無かった。
無だった。
やはり、これが最後なのだ。
そう思った。
やがてシィは細長い岩塊の上ーーー白亜の塔の頂上へと降り立った。
”………………”
シィはゆっくりと目を開けた。
先程の明るい場所と同じ様にそこも明るかった。
だが、そこには何も、誰もいなかった。
”ーーーーー?!”
シィは塔の上に立った。
水中とは言え、そこは何故か重力があり普通に立つことが出来た。
ちょっとした運動場くらいの丸い平面。その先は崖になっている。自分が『ヒュ
ー』に出会った時に見た場所の様だった。
”……………”
シィは端に出てみた。覗き込むと辺りにはいつの間にか同じ様な白亜の塔が無数
に立っていた。
”…………!”
確かに此処は、あの深海で初めて『ヒュー』に出会った場所に良く似ている。
だがあの深海よりは明るくーーーそしてどの塔の上にも、誰もいない。
自分が目指して来たあの青年『ヒュー』はーーーー一体何処にいるのだ?
”ーーーーーーー”
シィは上方を見上げた。
その先はやはり無限に遠い水塊があり、何故か光を帯びてユラユラと輝いていた。
ここはーーまだ違うのか?
”『ヒュー』!”
シィは叫んだ。
”お願い、出て来て!!”
返事は無かった。
自分はまた、元の何も分からない場所に戻ってしまったのか?
シィの全身から力が抜けた。
立っていられなかった。
シィはフラリと倒れ、塔の頂上の平面に大の字になって転がった。
”わぁあああああああ!”
シィは叫んだ。
全身で咆哮を上げた。
力の限り声を振り絞った。
だが答えるものは誰もいなかった。
* * *
”!!”
フライは深海で、その咆哮を確かに感じ取った。
その身体は緑色の光を帯びている。
全身に力が漲った。
フライの左目のセンサーは何も反応はしていない。
左手の掌にある振動波を出すメタルのパーツが、一瞬光った。
”クアッ!”
フライの身体は一瞬強く光り、その場から消えた。
”ーーーー!”
観察者は叫んでいるシィを眺めている別空間で、フライの変化を認識した。
あいつはシィと同じ様に、『飛んだ』。
その姿を、自分は確かに何処かで見たことがある。
そしてーーーー
”ハッ!”
観察者は振り向いた。
そこにフライは、いた。
まっすぐに、観察者を見ていた。
* * *
”シィ………”
勿論ビーもその周りの変化を感じ取っていた。
だがビーはそこにはもはや興味が無かった。
ただ、叫んでいるシィのすぐ側で、佇んでいた。
勿論触れはしない。
今自分はこの子に、何が出来るだろうか。
ぼうっとした頭でそう考えていた。
タッ。
”…………?”
足音に、ビーは振り向いた。
先程から動きを見せていた三人の病人たちが、いつの間にか立っていた。
”………?”
ビーは自分たちを取り巻く様に立っている病人たちを見つめた。
ーー何だ?この違和感はーー?
彼らはまだ目を閉じたままだが、確かに立っている。
”……!”
ビーは気付いた。
彼らは、いつの間にか自分がいる別空間とは違うーーーシィと同じ空間にいる!
”ダメだーーーー”
三人の病人たちは、ゆっくりとそれぞれ前へと歩き出した。
”ダメだーーーシィ!”
シィはまだ気付いていなかった。
三人はシィを三方から取り囲む様に近づいている。
”シィーーーー!”
その三人の目が同時にカッと開いた。
その目はどす黒いモヤモヤとした怪しい光を放っていた。
( 続 )
次が最終回になります。