#14「Spiral」
今回はシィ達が巨大な渦に巻き込まれ、その後に海底で水生になるお話です。
そろそろシリーズも佳境。後2本で完結予定です。
よろしくお願いします。
母親のこと。
あれ以来、大人になりかけの少女シィはそのことについて更に考える様になった。
相変わらずシマは時に環境を変え、時々モノが現れては消える。そんなシマの日
常の中で、シィとビーは時を過ごしていた。
「ん………」
そしてしばらく止めていた夜の自慰は、いつの間にか復活していた。
母親のイメージを強く感じたことが影響したのかもしれない。その温かなイメー
ジは、確かにシィに何かを与えていた。
「んあ………」
シィの褐色の指は奥へ奥へと向かい、足りない何かを探す様に彷徨った。
快感の波が繰り返し押し寄せ、徐々に高く上り詰めていく。
シィのしなやかな足がピーンと突っ張っていった。
「……あうっ!」
のけぞった勢いで汗に濡れた黒髪が夜の空間にバッと舞った。
達したのはこの夜何度目かのことだった。
「………」
シィの小屋の側の小川の中程にある巣の中で、いつもの木片を抱き枕にしながら
ビーバーのビーはその声を聴いていた。
いつものシィに戻った様で良かった。そう思った。
「………」
ビーは丸い目をクリクリとさせた。
いや、もしかしたらより進んだ形でそれは戻って来たのかもしれない。シィは自
身でも知らないうちに着々と成長を続けている。
対して自分は?とビーは考える。
何も変わっていない。何故かこのホシの外のことは記憶として知ってはいるが、
肝心の自分のことは分からない。何処で誰から生まれ、どうしてこのシマに来たの
か。自分の性別すら未だに不明だ。
ただ最近、『観察者』ーーこの世を離れたとこから見ているあの存在の視点に、
自分が陥ってしまうことがある。それはビーにとって恐怖だった。側にいるが触れ
ない、言葉も届かない。そんな存在になってしまうことが。
シィにもう関われない、見ているだけしか出来なくなることが。
……何故自分が『観察者』と繋がっているのか、それはビーには分からない。
ただ時々そうなるだけだ。
そのことはまだシィには言ってはいない。だが、自分が何か隠していることは恐
らくシィも感づいてはいるだろう。そしてお互いそのことについて話そうとはして
いない。
今はその距離感でいるが、そのうちーーー自分がシィとは別世界に行ってしまう
前に、ちゃんと話しておかなければならないとビーは思っていた。
「…………」
荒い息が徐々に落ち着いて来た。心地よい疲労感がしなやかな褐色の肢体を包む。
シィは汗で額に張り付いた黒髪を拭った。
そのまま何となく、ウナジにある『ファントム』に触れてみる。
タトゥーの様なそれは、ある時人類に発祥した生体的な通信端末。そしてヒトと
ヒトとが奥底で繋がる為のデバイスだ。シィに現れたのはごく最近で、それまでビ
ーと二人だけのシマしか知らなかったシィに外の世界と繋がることを教えてくれた。
それ以来、シマには時々ヒトが現れる様になった。やってきては消える人達との
束の間の交流。それはシィに様々なことをもたらしてきた。
だが最近、それに絶望とか歪みとか恨みとかといった負の感情が混じってきてい
る気がする。
『ファントム』を何らかの理由で失くした人達によってもたらされるものだ。
シィは思う。それほど、『ファントム』とは業の深いものなのだろうか。いや、
深いのはヒトなのか?それを失くした、たったそれだけのことで、ヒトはそこまで
変わってしまうのだろうか。それともそれは、特定の誰かにだけ起こることなのだ
ろうか。
そして自分は、そうならないと言い切れるだろうか。
「……………」
そしてーーーシマに時折現れる謎の緑色の光『ヒュー』。
そしてもう一つ、深海に立つ無数の白亜の塔の上にいてこちらを見ていて、そし
てシィを導いていると思われる謎の青年の方の『ヒュー』。初めて観たのは自分に
『ファントム』が現れた時だ。以来、しばらくその姿を見てはいない。
全てが未だ謎の彼に、シィは今無性に会いたかった。
今、自分が向かうべき方向はどちらなのか。
正しい方向に向かっているのか。
そして自分はちゃんと母親になれるのか。
モヤモヤした何かを、目の前に示して欲しかった。
「…………」
シィは裸の身体を起こした。
夜も波は絶えずサワサワとした音を立てている。
その音に、しばしシィは聞き入っていた。
* * *
その日、シィとビーは珍しく筏を出して漁に出ていた。
亜熱帯のシマはいつもの様に、よく晴れた空に海の蒼が溶け込む絶景を見せてい
た。
前日シマに現れた小さな網は中々使い勝手が良く、面白い様に魚が捕れた。
「大漁だね」
「二人じゃこんなにいらないけどね」
「薫製とかにして非常用にって手もあるよ」
「なるほど……」
未だにシィの知らないことを、ビーは沢山知っている。それが何故なのかはビー
自身も知らないという。
シィは今までビーから色んなことを教えてもらった。そのお陰で助かったことも
いっぱいある。
「………」
シィは少し息を吸って吐いた。
………でも。
シィは、そっとビーに話しかけた。
「ビー……」
「うん」
ビーは予想していた様に答えた。
「何か、……あった?」
「………シィも」
シィは頷いた。
「色々あった。……犯されたりも」
「知ってる。……見てたけど、何も出来なかった」
「え………」
シィは少し驚いた顔を見せた。
ビーはシィを真っすぐ見て言った。
「前に来た、『観察者』っていたでしょ」
「うん……」
「あの時何故だか、あのヒトみたいに、側にいるけど触れなかった」
「……そうなんだ………」
シィは言葉を失った。
ビーは顔を歪めた。
「助けられなくて、ゴメンよ」
「ビー………」
シィはそっとビーの頭を撫でた。
「一人で、ずっとそんなこと思ってたんだ」
「だってさ……」
ビーはシィの懐に潜り込んだ。
「もしずっとあのままだったらって思うと、恐くて」
「………でもこないだは、助けてくれたよ」
「うん……何でだかは分からないんだけどさ」
シィは優しくビーの背中を撫でた。
「大丈夫だよ」
「大丈夫かな」
「そうだよ」
二人はしばし波間に揺れる筏の上で抱き合っていた。
と、筏が少し大きく揺れた。
「ん……」
シィは海に目をやった。いつの間にか少し風も出てきていた。
筏の周りの海流が早くなっていた。シィは思った。知らないうちに外海に出てし
まっていたのか?
顔を上げたシィの目には、あるべきシマの姿は映らなかった。
「!?」
「シィ……!」
ビーが恐れの声を上げた。
「………!」
その声に振り返ったシィも目撃した。百メートル程先の海面に、巨大な穴が開い
ていた。
「あれは……!」
渦潮。海流の螺旋。その底に向けて、周りの海水がゴウゴウと音を立てて吸い込
まれていた。
シィはあまりのことに一瞬フリーズした。
いつの間に現れたのだ?
これはーーーいつものシマの変化なのか?
ビーが震えながら言った。
「シィ……やばいよ」
「うん」
シィは辺りを見回した。シマの姿は相変わらず無い。他に辿り着くべき陸地など
無い。海流はどんどん強くなっていった。
「くっ……」
だが……やるだけはやろう!シィは櫂を握って渦から離れようと全力で漕いだ。
ビーも小さな手をバシャバシャとやったが、あまり役には立たなかった。
渦の穴は大きさを増していった。シィはそのありあまる体力の限り漕いだが、既
に筏は巨大な渦の端の斜面上にいた。
「シィ……」
「ビー……」
二人は顔を見合わせた。お互い分かっていた。
今は、ここまでだ。
シィは漕ぐ手を止めて筏上の僅かな水や食料を出来るだけ身体に縛りつけた。
そしてビーを抱きしめて更にパレオを上から被せて身体に括った。
「もしもの時は、一緒だから」
「うん……」
シィも、ビーも、覚悟は決めた。
渦の斜面は急速に傾いていった。その中心は暗く落ち込み、無限の底へと通じて
いるかの様だった。
「シィ!」
「ビー!」
二人の乗った筏は、藻屑の様に巨大な渦へと飲み込まれていった。
* * *
シィはその薄暗い闇の中で、どす黒い何かに触れた様な気がした。
ビーは、今こそ『観察者』の視点で全てを見通したいと思ったが、勿論自分の意
志ではどうしようもなかった。
二人は無限の暗闇へと堕ちていった。
* * *
シィは、ズキズキとした痛みで目を覚ました。
いつの間にか数年が経った様な、妙な感覚だった。
「……う………」
身体を起こそうとして更にズキッ、とコメカミが痛んだ。偏頭痛の様な鈍い痛み
だった。
「……ここは……?」
シィは自分がいる地面に触れた。そこはいつもの砂浜ではなく、固く滑らかな岩
板の様だった。
シィは思った。
これは……いつか見たことがある。いつだったか……?
「!」
そうだ、あの巨大な津波が押し寄せる前に波が引いた時、シマの遠浅の海底がそ
れだった。
シィは後ろを振り返った。
そこには確かにシマがあったが、勿論海は無くなっていた。そして見える風景は
青緑に染まり、空も同じ色だった。妙な違和感があった。
「………?」
シィは少し目をシパシパさせたが、その色は取れはしなかった。
上空を見上げるとそこには青空もクッキリとした太陽も無く、薄い靄がかかった
様な青緑の空間と、遠くに微かに光源らしきものが何かのフィルター越しに見える
だけだった。
何だーーここは。妙な既視感も感じる。
シィは立ち上がった。
「!!」
だがその時の感触でようやく分かった。よく観ると自分の服や髪が、フワリとな
びいている。そして懐かしい、身体に感じる抵抗。
ここは、水の中だ!
「………!?」
ハッとしてシィは喉に手をやった。
呼吸が、出来ている!?
「……………」
暫く落ち着いて呼吸をしながら確かめてみると、確かに自分は海水を吸っては吐
いている。
「…………!」
今、シマの変化はシィの身体自身にも及んだ様だった。
魚の様に液体で呼吸出来ている。何かの映画で人でもある装置を使えば液体呼吸
出来る、というのを見たことがあるが……今の自分はそれとは違う様だ。
シィはしばらくゆっくりとした呼吸を繰り返しその奇妙な感覚に浸った。
「………ビー!」
シィは思い出してハッと自分の身体を見下ろした。
身体に縛り付けていた筈のビーがいなかった。いや、同様に縛りつけていた水や
食料も無くなっていた。シィはいつものスポーツブラにパレオに腰につけたフライ
の骨のナイフのみといった出で立ちでいた。
シィはパレオを持って眺めた。これでビーを包んで縛ったのにーー?パレオは何
処かが千切れているという感じでもなかった。
シィは辺りに向かって叫んだ。
「ビー?!」
水中なのに声が出せた。だがその声は空気中とは違い、少しくぐもった音にしか
ならない。
「ビーー!」
それでもシィは叫び続けた。
そしてシィはシマの方へ歩き出した。というよりも泳ぎ出した。
一度水中だと分かれば後は簡単だった。呼吸をしていられる分、いつもよりもグ
イグイ泳げた。シィは相変わらず偏頭痛のする頭を少し気にしながら、それでも自
分のシマの方へと向かっていった。
* * *
シマの砂浜の自分の小屋に着いた。
確かに此処はシィのシマだった。ただ、シマ自体が水中に沈んでいる。
「ビー!」
声をかけたが、返事は聞こえない。小屋の中にも姿は無かった。
辺りは水中独特の遠くでコポコポ言う音が聞こえる程度の静けさを保っていた。
相変わらず偏頭痛は続いている。
「…………」
シィは空を見上げた。
やはり海面は全く見えない。一瞬上がってみようかと思ったが、今はそれどころ
ではなかった。
「……フッ」
水中ではいつものパルクールーーー岩や木など周りのモノを利用して跳ぶ様に移
動する術ーーという訳には行かない。
シィは背後の森の方へと泳ぎ出した。
パレオは邪魔になるので外した。スポーツブラにビキニにナイフの状態で、シィ
は泳ぎ続けた。
「…………」
それは不思議な感覚だった。
今まで暮らしていた場所が海底に沈んで、自分はそれを呼吸の制限無しで眺めて
いる。
小屋もバストイレスペースも森も、全てが水の中だった。まるで古代に沈んだ文
明都市を、未来人が訪れて見ている様な感覚に陥った。
全てが、夢だったのだろうか?遺跡の様にも見えるシマの中を、褐色の肢体をく
ゆらせながらシィは泳ぎ回った。
だがビーの姿は無い。
「………ダメか………」
成果無く砂浜に戻って来たシィは浮いたまま、途中で捉えた魚を海中でバラして
食べた。
それはとても奇妙な感覚だった。
もし無重力の中でモノを食べたらこうなるのかもしれない、とシィは思った。
* * *
「…………」
ビーはそんなシィの姿を、すぐ側で見ていた。
気がつくとビーの身体はまた別次元にいて、声は聞こえるのにシィに触れること
は出来ない状態だった。自分も同じ様に、水の中でこうして呼吸出来る身体に変化
していると言うのに。側の海底や魚には、触れられるというのに。何故かシィだけ
には触れない。
「シィ………」
ビーはうなだれていた。
この先、こんなことが増えていくのだろうか。
いや、今の状態がそもそも元に戻るのか?
ビーには分からなかった。
だがシィはずっとビーを探している。
ビーは自分はここにいると、何とかして伝えたかった。だがその方法が見つから
ない。
「…………!」
ビーは、シィが意を決して空の方ーー上に向かって泳ぎ出したのを見た。
だが『観察者』の視点であるビーには見えていた。
その先に海面など無いことを。深海と同じ様に、その先など無い。
あるのはーーー。
* * *
長い時間、シィは上へ上へと上がっていた。奇妙なことに海面に向かって浮く感
覚は殆ど無かった。むしろ動きを止めるとゆっくりと下がるので、泳ぎ続けるしか
無かった。
それは自分の身体が既に魚やクジラの様に水生になっているからだろうか。いや、
彼らなら浮き袋を調整して自在に海の中を上下出来る筈だ。
「………」
いつもシィは思っていた。自分は実は水生なのではないか、水の中の方が適して
いるのではないか、と。
だが実際こうなってみると、海の中は空が無く深く暗い。身体も普通に泳ぎ回る
のは十分だがパルクールの様に俊敏に動くことは出来ない。魚たちの様に自在に動
き回るわけにはいかない。
……所詮自分はヒトでしかないのだろうか。自分が思っていた海の世界など、ま
だまだほんの一部に過ぎなかったというのだろうか。結局自分は陸でも海でも、何
処かうまくいかないのかーーシィは一瞬そんな感覚に陥った。
「…………」
シィはそれでも上を目指して泳ぎ続けた。
ビーもいなくなった今はーーーせめて此処がどうなっているのか、確かめたい!
『ヒュー』に出会った時に知ったが、シマは実は下方向に細長い巨大な岩塊でホ
シの海に浮いている。もしそれが沈んでしまったのだとしたらーーーこのホシの海
面は、どこにあるのだ?逆にこの深海の更に下は、どうなっているのだ?
「…………!」
だがどれだけ泳いでも、フィルターの向こうのユラユラした光源は一向に近づか
なかった。
水の中なのにクッキリと見える今のシィの目はやはり驚異的な視力を備えていた
が、光源との距離は微妙に歪んでいて把握出来なかった。
だが一瞬、その揺らぎに違う動きが見えた。
「…………?!」
シィは目を細めて見た。
あれはーーーー渦か?!
まだ数十キロ先だが、渦の底らしきものが見える!もしかしてあの時の?
「…………」
だがそこまではあまりに遠すぎた。
そしてその渦の向こうに見えるのは、海面でも空気がある場所でもない暗闇ーー
無に見えた。
「ダメか………」
シィは泳ぐのを止めてしばしその場に浮いた。身体はゆっくりと沈んでいく。
シィは唇を噛んだ。
また、何も分からないーーー。
ここ最近ずっと感じていた無力感に、シィは包まれていた。
「…………」
シィは眼下を見下ろした。微かにシマが見える。そしてそれ以外は深海の闇だっ
た。
自分は、この場所で朽ちていくのだろうか。
魚がいれば、このまま生きてはいけるのだろうか。水中に生きている限り、とり
あえず水は必要なさそうではある。後は危険な生物に出会わなければーーーなどと
しばし考えに浸った。だがそれは純粋に生命だけの話だ。精神的な部分はーー今の
シィには、あまり自身が無かった。
やがて、シィは踵を返してシマの方へと戻ることにした。いくら考えても今は仕
方が無い。
普段潜るのと違って、下に下がるのにそんなに力はいらなかった。
その時、ズキッと頭が強く痛んだ。
「う………」
頭を押さえたシィは、近づく何かの気配に気付いた。
「………?」
振り仰ぐと、人影の様なものが三つ、ゆっくりと下りて来ていた。
「え………!」
* * *
「……何だ?」
ビーもシィの側で、それを見ていた。
病院着の様な薄い青の上下を着た三人が意識を失ったまま、シィの方へと下りて
来ていた。
『観察者』の視点である自分にもそれが何なのか、いつ何処から現れたのかは分
からなかった。
シィはビーの目の前で、戸惑いながらも三人を収容してシマの小屋の方へと戻っ
て行った。
ビーはジワッとした嫌な予感を感じざるを得なかった。
それはここ最近、ずっと纏わり付いているものだった。
* * *
小屋の前の砂浜に三人を寝かせたシィは、暫く様子を窺った。
一人は小さな痩せぎすの男、一人は中世的な女性、一人は背が高いが同じく痩せ
ていて肩かに包帯で左手を吊ってある男。
皆病院着風の衣装に裸足で、死んだ様に眠りについている。
「…………」
シィはそっとそれぞれの呼吸を窺った。皆シィと同じ様に水中呼吸をしている様
だ。
更にシィはそれぞれの左手甲を確認した。多くのヒトがタトゥーの様な紋章、『
ファントム』を有している場所だ。全員『ファントム』はあった。前回の女性の様
にカピカピに乾いている訳ではなく、どれも一見正常だった。
シィはそっと自分のウナジの『ファントム』に触れて呼びかけてみた。
”ねぇ……誰か答えて?”
”……………”
返事は無かった。
シィは迷った。自分に医学の知識など無い。ビーに教えてもらった傷や熱に効く
薬草を少し知っている程度だ。だがここは水中だ。もし今彼らの状態が急変しても、
助けようが無い。
「どうしようか……」
シィは呟いた。
三人はずっと眠りについている。
「!」
また偏頭痛がきつくなってきた。
水中のシマになって以来、頭の痛みはずっと続いている。
それはやはり、この場所が自分がいてはいけない場所だからなのではないか?
シィは何処かでそう思う様になっていた。
ビーは、その様子を側で眺めていた。
またシマにーー今は海底だがーーヒトが現れた。
この海の世界が、彼らのシマなのだろうか。
そして彼らはーーーまたシィに危害を加えたりするのではないだろうか。
側にいるのに何も出来ない今のビーは、ただただそれが心配だった。
* * *
「………!」
寝入ってしまっていたシィが起きると、そこに三人の病人たちの姿は無かった。
「!?」
三人の側で寝ていた筈だがーーシィはいつの間にかシマの山頂にいた。
シィは身体を起こして辺りを見回した。
まさか、水中を流されてきたのか?
だが今自分はゆったりと山頂の岩辺りで漂っている。特にそれほどの海流が来た
様子は無い。
ひょっとしてかなり長い時間が経っていてその間に流されてきたのか?
こういうことが普通にあるなら寝るときは考えないとーー
「えっと……」
シィは浜の方を見下ろした。水中ではあるがシィの驚異的な視力は健在だった。
やはりシィの小屋前に三人の姿は無い。
「…………」
シィは少し考え込んだ。
………夢だったのだろうか?
いや!
シィは身をくゆらせて泳ぎ出した。
「!」
泳ぎ出したところでシィは側の岩の下に人影があるのに気付いた。
「………?」
身を翻し近寄ってみると、あの病人の一人だった。背の低い痩せぎすの男。青白
い顔に赤みがかった赤髪で、一見して病人なのだと分かる風貌だった。
「…………」
ひょっとして病気のせいで『ファントム』が使えない、そんなことがあるのだろ
うか?
ズキズキと頭は痛む中、シィはしばしそこに佇んでいた。
「ダメだ……シィ」
ビーは声を絞り出す様に言ったが、勿論シィには聞こえない。
ビーは見ていた。
フッと眠りについたシィの側でこの男が目を覚まし、不思議そうな顔で辺りを見
回したのを。
そしてシィを見つけ、そのウナジの『ファントム』に気付いて顔を歪めたのを。
それから男はシィを引っ張って山頂まで水中を歩いて来て、気を失ったのを。
「そいつは、危険だ」
だがいくら言っても聞こえはしない。ビーにはそれ以上何も出来なかった。
ビーは手足をバタバタさせるしかなかった。
* * *
次に目を覚ましたとき、シィは海底ーー元シマの遠浅だった場所にいた。
「え………?」
側には、あの中世的な女性の病人がやはり死んだ様に眠っていた。
「どういうこと………?」
女性は白髪の混じった黒髪に白い肌だった。
緩い流れが来て女性の身体がフワリと浮き上がったのでシィは思わずその身体を
押さえた。
「あ……」
ちょうど手が当たった下腹部で、シィの手はぐにゃりとした何かを掴んだ。
「……!」
シィは目を丸くした。前に触ったことのある感触だった。
ひょっとして、これは男性器ーー!?
シィは思わず辺りを窺った。そして意を決して病院着のゴムのウエストを少し下
げて覗いた。
「ーーー!」
確かに、そこにはそれがあった。
男性なのか?
だが胸は女性のものがしっかりとある様だ。
同一性障害ーー?両性具有?それとも整形?
シィはそれらを言葉としては知っていたが、勿論実際に出会ったことは無い。
「…………」
シィはしばし、言葉を失った。
何故自分がここに移動しているのか、ということには頭が回らなかった。
相変わらずコメカミはズキズキと痛んでいた。
「シィ………」
ビーはじわりとした恐怖を感じていた。
あの山頂で、何故かフラッと眠りについたシィの側で、あの痩せぎすの青年はそ
の姿を中世的な女性へと変えた。
ビーは自分の目を疑った。一体何が起きているのか?
思えば最初の痩せぎすの男がシィを引き摺って歩き出した後、残る二人の気配は
いつの間にか消えていた。
最初は確かに三人別に存在していたハズだが……三人は同一人物だというのだろ
うか?
「…………」
そして女性に姿を変えたその存在は、同じ様にシィのウナジの『ファントム』に
気付いて顔を歪め、シィの首に手をかけて締めようとした。
「止めろーー止めろ!」
ビーは叫んだがやはり聞こえはしない。
だが中世的な女性はしばしその体勢のまま止まり、そして身体を起こしシィを引
っ張ってこの遠浅の海底まで歩いて来て気を失ったのだ。
一体何が起こっているのだ?
ビーは何も出来ない自分を呪った。
確かに今シマには、シィには何か恐るべきことが起きている。なのに自分は何も
することが出来ない。
一体、どうすればいいのだ!
ビーは海中で咆哮を上げた。
* * *
次に目を覚ましたとき、シィは珊瑚礁の中にいた。
流石におかしいと思っていた。
何故、自分は眠りに落ちる度に移動しているのか?いや、何故こうもあっさりと
眠りに落ちてそのことを覚えていないのか?
ならば、とシィは辺りを見回した。
珊瑚礁の中、いつもは息を止めて魚など穫っている場所が、今は普通に寝転べる
場所になっていた。予想通りその珊瑚礁が群れになっている中に残った一人、背が
高くて痩せていて肩から包帯で左手を吊っている男を発見した。
「…………」
シィは褐色の肢体をくゆらせながら近づき、その顔を見つめた。
何か引っかかっていた。妙な既視感が、シィの胸にあった。
「………そうだ」
その顔は、いつか記憶の塔に触れた時に見た、あの背の高い軍人に似ている。
「………!」
思えば中世的な女性はその時見たその世界でのシィの母親らしき女性に、最初の
小さな病人は身長こそ小さいがあのフライの面影がある様にも見えた。
「………?」
シィは戸惑った。
この三人の病人は、別世界で自分に関係している三人なのか?
それがそれぞれ『ファントム』を持ちながら何故か使えない状態で、自分の目の
前に現れて意識を失ったままーー。
シマは、ホシは、自分に何をさせようとしているのだろう。
あぁ、『ヒュー』。側にいるなら、何なのか教えて欲しいーー!
シィは唇を噛んだ。
ズキッ、とまた偏頭痛がきた。
「う………」
シィは痛む頭の中、男の包帯を巻いている左手を取って自分のウナジの『ファン
トム』に当ててみた。
”……………”
やはり何の反応も起きなかった。
シィは途方に暮れた。
「シィ……近づかないで!」
ビーは何度でも叫んだ。だがやはり全く通じない。ビーはシィの側にいるのに、
触れられない別空間にいた。
やはりビーは見ていた。シィが糸が切れた様に意識を失った後、あの中世的な女
性はムクリと起き上がり、その姿を包帯の男性に変えた。それはモーフィングの様
に一瞬の出来事だった。姿を変えた男性はシィに目をやり、やはりウナジの『ファ
ントム』に気がついて顔を歪めた。一瞬シィの首を押さえて片手を振りかぶったが
止め、シィを抱えて珊瑚礁までやってきてやがて気を失った。
ビーは思った。この一連の動きは、一体何なのだろう?
彼らは何なのだ?
シィに、何をしようというのだ?
『観察者』の視点を持っている今のビーにも、それは分からなかった。
無限の深さの海水が、彼らの上にずっと伸し掛かっていた。
* * *
やがて、その包帯の男も気を失った。
「…………」
ビーは待った。
これから、何が起こるというのだろう。
だが起こる何かは、シマを、シィを、そして自分を、確実に変える。
ビーは何故かそれだけは分かっていた。
最初に目を覚ましたのはシィだった。
「…………?」
そこは、シマのシィの小屋の前の砂浜だった。
見ると、目の前には小さな痩せぎすの男と中世的な女性と背が高く包帯を巻いて
いる男がシィを取り囲む様に転がり、意識を失っていた。
彼らも自分も、元に戻ったのだ。
ひょっとして、今までのことは夢だったのか?
それとも、こうして皆が水中にいること自体も夢なのか?
一瞬シィはそう思った。
だがズキッと痛んだコメカミの痛みで、それが現実であると思わざるを得なかっ
た。
「…………」
三人は依然意識を取り戻してはいない。
シィはふと、彼らの病院着のポケットを探った。
何故そこを探そうと思ったのか、自分でも分からなかった。
「あ………」
シィの手に何か触れた。
取り出してみると、それは殻の小さな空き瓶だった。
皆、ポケットに同じビンを持っていた。
「………?」
シィは空のビンを掲げて見つめた。
やはり妙な既視感があった。
この中には、それぞれ何かの薬が入っていたのだろうか。
それが無くなったせいで、何か起きたのだろうか。
ひょっとしてそのせいで『ファントム』が動かなくなったのだろうか。
シィはその空っぽのビンが、まるで自分みたいだと思った。
「……………」
シィは三人を見つめた。
シマには、時々ガム型の薬がやって来ることがある。シィは元来身体が丈夫なの
で薬が来てもそうそう飲むタイミングは無い。だが一度だけ、酷い頭痛がした時に
現れたガム型の薬を噛んでみた晩、シィは酷い悪夢を見た。
よく覚えてはいないが、その時の悪夢と今の状態は印象が似ていた。
彼らも、同じ様な悪夢を見たのだろうか。
「…………」
シィは何も出来ないまま、途方に暮れていた。
遠くで、クジラが鳴く様な音がした。
静かな海の中の風景音が、辺りを包んでいた。
「シィ………」
ビーは嫌な予感に全身が逆立っていた。
ビーは先程、意識を失った三人が交互に入れ替わっているのを見ていた。
病気の中世的な女性、ケガをしている小さな痩せぎすの男、女性に変わった背の
高い男。
入れ替わりながら、シィを小屋の前まで連れて来て気を失ったのと同時に三人に
なるのをビーは目撃していた。
「何なんだーー?」
彼らは、一体何なのだろう?
全員『ファントム』が使えない状態なのは分かっている。だがそれは前回の女性
の様に自分の意思で止めた訳ではない。ケガや病気や同一性障害などでーーー心な
らずも、使えなくなったのではないのか?
そして、捻れに捻れてーーー正常な『ファントム』を持っているシィに対して、
自分たちのその捻れた感情をぶつけようとしているのではないのか?
そのことだけは、『観察者』の視点を持っているビーは感じ取ることが出来た。
「シィーーー!」
「離れてーー!」
ビーは叫んだが、勿論その声はシィには届かない。
* * *
「!?」
シィが気がつくと、いつの間にか三人の病人がシィを取り囲む様に立っていた。
「え?」
だがその瞳は開いている様には見えない。夢遊病か何かの様に、波間に漂いつつ
シィに向かってきた。
「……フッ」
シィはいつもの様にそれを避けたーー筈だったが、そこは海中だった。水圧故、
パルクールで身軽に跳んでーーーという訳にはいかなかった。
シィは三人に絡めとられ、引き摺られていった。
「あうっ!」
口は背中に取り憑いた小さな痩せぎすの男が塞いだ。
手足は中世的な女性が押さえ、体全体を背の高い男が抱えて持ち上げてシィを引
っ張っていった。
「んぐうーーーっ!」
いつの間にか、砂浜の先は珊瑚礁ではなく海溝が出来ていた。
三人はずっと夢遊病の様にブツブツ呟きながらそちらの方へと向かっていった。
シィはもがいたが、水中で思う様に動けないのと相手が病人なので全力で蹴りや
掌底を入れるのをためらったのとで、絡めとられたまま抜け出せないでいた。
偏頭痛も酷くなって来ている。
三人は海溝の縁へとやって来た。
「んんーーーっ!」
シィは目を見開いた。その海溝の先はいつもの深海とは違う、どす黒く蠢くモヤ
モヤの塊に見えた。そのゾッとする様な何かは、ここ最近ずっと目の前に現れ続け
る邪悪なイメージの集合体だった。
病人の三人はシィを捕まえたまま、海溝へと身を投げた。
「ーーーーー!」
シィは深淵へと落ちていった。
* * *
「シィーーー!」
ビーはあらん限りの声で叫んだ。
がやはり自分は何も出来ないのだと思い知らされるだけだった。
ビーはそれでも、何があってもシィの側にいようと決意していた。
諦めてはダメだーーー諦めては!
ビーは触ろうとしても触れない別次元のシィに、ずっと重なったまま叫び続けた。
シィはゾワッとするあの感覚を思い出していた。
どす黒い何かが、自分に入って来る感覚。自分を犯していく感覚。それはここ最
近、ずっと味わって来た感覚だ。
何故こうなったのかーーー何故!
無意識のうちにシィは自分のウナジに意識をやった。手は押さえられているので
触れはしない。だがーーー!
”どうして?!”
”あたしなの!?”
シィは必死で『ファントム』で呼びかけた。
だが起きているのか寝ているのか分からない病人たちは反応しない。やはり彼ら
の『ファントム』は機能していないのだろうか。
繋がれないのだろうか?
シィは病人たちとどんどん落ちていった。
先程は感じなかった水圧も、どんどん感じる様になっていった。
”あぁーーーー”
シィはもがいてもがいて、腰の骨のナイフを抜いた。
”くっーー!”
シィは体中組み付かれたままそれを振って、海溝の岩へと突き刺して落下を止め
ようとした。
バキッ。
”あっ!!”
岩にぶつかった骨のナイフは、あっさりと折れた。
”ーーーーー!”
別世界での自分の父親の様な存在であった、フライから貰ったナイフ。
何処かで自分の守り神の様に思っていたナイフが、折れてしまった。
”……………”
シィの褐色の肢体から力が抜けていった。
ナイフの柄と折れた刃は、ゆっくりと落ちていった。
三人の病人たちが絡まり合ったまま、シィも無限の暗闇へと沈んでいった。
死ぬーーーとシィは思った。
今まで水中で普通に出来ていた呼吸も、心無しか辛くなって来ている。
それよりも、自分に流れ込んで来る邪悪な感情のイメージが体内を暴れ回ってい
るのがありありと体感出来ていた。
”あぁ………”
生命力が、圧し潰されていく。
ヒトは、ここまで捻れていくのかーーーそして自分もーーーー。
シィはゆっくりと目を閉じた。
ズキッ。
違う痛みが、シィを目覚めさせた。
それはコメカミの偏頭痛とは違う、下腹部に現れたものだ。
ーーーー生理痛だった。
いつもの痛み。月一の痛み。だがそれは普段のものとは違い、シィにハッキリと
自分を取り戻させた。
子供を作る為の痛み。
母親になる為の痛み。
そうだ、まだ自分は何もーーー!
キィーーーン!
フワリと、シィのウナジの『ファントム』が光を放った。
”!!”
一瞬、シィを取り巻く三人の力が緩んだ。
”フンッ!”
シィは全身に力を込め、自らを解き放った。
* * *
”!!”
ビーもその光を、体感した。
シィに触れないまま身体を重ねていたビーは、シィの体内から溢れ出るその謎の
緑の光ーー『ヒュー』の光を、自分のから出現したかの様に感じていた。
”『ファントム』……!”
ビーは、少しその存在が分かった様な気がした。
「観察者」よりも高次なものーーそう思っていたが、確かにそうだった。
いや、別次元のものと言った方が良いだろうか。そこから溢れ出る無数の光の何
かが、『ファントム』を通して向こう側とを繋いでいる。その過程の表層で、ヒト
とヒトとは繋がっているに過ぎなかった。
”その先はーーー?”
それはまだ、ビーにも分からなかった。
* * *
”!?”
シィはハッとした。
流れがある!?
いつの間にか側にあった海溝の壁は無くなっていた。
見上げた先も薄暗く、シィ達は既に光の届かない場所へと落ちてきていた。
一瞬そこは、初めて『ヒュー』に出会ったあの深海を思い出させた。
”……『ヒュー』!”
だが突然、より強い流れがシィを襲った。
”!!”
それはーーーあのメールシュトローム!
巨大な渦が、ゴウゴウと音を立てて下りて来ていた。
”くっ!”
組み付いていた三人の病人たちの姿は既に無かった。
シィは流れに耐えつつ辺りを見回した。
先程まで自分を押さえつけていた筈の彼らはーーーそして自分の中にゾワゾワと
入って来て取り込もうとしていた存在たちは、自分から離れた後何処へ行ったのか
?
ひょっとして今ウナジの『ファントム』から流れ出ている『ヒュー』の光でーー
?
だが考える間もなく、巨大な渦の流れがシィを押しやった。
”あっ!”
巨大な渦は無限の水の世界を、どんどん深淵の方へと進んでいく。
シィはその周りの流れに取り込まれ、やがて渦の中心ーーー更にその先へと放り
込まれていった。
* * *
”シィ!”
ビーは叫んでいた。
自分は、『ファントム』の先で繋がっている筈。
どうかシィに、届いてくれーーー!
だがどれだけ叫んでも、シィには届かなかった。
自分はこんなに側にいるのに。シィの声が聞こえるのに。繋がっているのに。シ
ィの苦しさが、まるで自分のことの様に体感出来るのに。
”ーーーーーーーー”
ビーは絶望した。
”『ファントム』とは、一体何なのだ?”
そして、あの謎の緑色の光ーー『ヒュー』は今、何をしようとしているのだ?
シィのウナジはずっと緑色の光を放ち続けている。
その光によって、シィの体内に入り込んでいたあのどす黒いモヤモヤとしたもの
は先程姿を消した。
あの三人の病人の存在もかき消えた。
だが、この先はーーー?
ビーとシィは共に、もがきながら暗い空間に落ちていった。
* * *
ビーは謎の空間に浮いていた。
”……………”
身体が動かなかった。
頭がボウッとしていた。
水中の様な気もするが、そうでない気もする。
辺りは暗く、何も見えはしなかった。
ビーはか細い声で鳴いたが、それは誰にも届かなかった。
* * *
シィも、同じく謎の空間に浮いていた。
遠くで、潮騒の様な音が微かに聴こえた。
そこはやはり水の中の様だった。
流れはいつの間にか止まっている。
たゆたいながら、シィは夢を見ていた。
そこでは小さな自分は母親らしき存在に抱きかかえられ、幸せそうに笑っていた。
”フフ………”
シィは微かに笑った。
遠くで、鳴き声がした。
それはクジラだった。
暗闇の中から、あの巨大なクジラがズアーーッと上がって来た。
ビーは、それを無意識の中で見ていた。
いつの間にか自分の側には三体の影があった。
それはあの三人の病人だった。
三人とも意識を失って、ビーの側で浮いている。
”……………”
ビーには分かった。
この三人は、『ファントム』がもたらした記憶の断片。『ファントム』が動かな
くなってしまい堕ちていった、別世界のシィに関係する誰か。彼らのシマこそ、あ
の巨大な渦だった。
今、彼らはあの『ヒュー』の光によって消えた。だがそのエッセンスはまだ生き
ている。シィを取り込もうと力を溜めている。
だが、ビーはもはやそこに何の感情も持たなくなっていた。
これはーーーいよいよ自分が「観察者」になってしまったということなのだろう
か。
もうシィには、永遠に触れないのだろうか。
ビーは謎の空間に浮かんだまま、その身を任せていた。
”会いたかったーーーー”
それは、誰にだろう。
母親?
ビー?
『ヒュー』?
シィは心の中で思っていた。
身体はもはや動かなかった。
クジラは、空間に浮かんでいるシィの周りを泳ぎながら優しく見つめ、
やがて大きな口を開けて飲み込んだ。
* * *
その全てを、あの『観察者』の男は見ていた。
”……………”
観察者は、目線を横にやった。
その視線の先の世界では、あのシィの別世界での父親的な存在ーーーフライが走
っていた。
( 続く )