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#13「Rotten Sea」

今回は島の海が腐海へと変化します。やってくるのはシィの母親?っていう話。よろしくお願いします。



 良く晴れた日の午前、シマの小屋の裏手では斧をふるう音が響いていた。

 大人になりかけの少女シィがヤシの木を切り倒している音だった。

 結局新しいベッドをどうするか迷ったあげく、木で骨組みを組んで新調すること

にしたのだ。

 斧は、昨日海岸に現れた。このシマでは、時々モノが現れては消える。この斧も

いつ無くなるか分からない。ならば今のうちにーーとシィはベッドを作ることを決

めたのだった。

「シィ、精が出るね」

 後ろからビーがやって来て声をかけた。

 ビーはビーバーだが何故か言葉を話せる。この二人だけのシマでは、ビーはシィ

の善き話し相手だった。

 シィは振り返って笑顔を見せた。

「そっちはどう?」

「もう大体いい」

 とビーが言ったのは、小屋の側の小川の中程にあるビーの巣のことだった。津波

で全壊した後木片を集めてはチビチビと修復を繰り返していて、もう一通り直って

はいた。

 シィのこの木工作業で木っ端など出てくればもれなく利用しようなどと考えてい

た。

「ビー、そろそろランチにしよっか」

「魚穫ってあるよ」

「ありがと。身体洗って来る」

 シィは手を止めて首にかけた麻の布切れで首筋を拭うと、側の小さな滝の方へと

向かった。

 そこは手洗い所兼バスルーム兼洗濯所兼トイレと言った場所だった。滝で手を洗

い、滝壺で洗濯し身体を洗い、流れが岩の間から地中に消える場所で用を足す。

 上下水道も電気もあらゆるインフラの存在しないこのシマでは、結構重要な場所

だった。

「………」

 シィは裸になり褐色の肌を滝に打たせながら少し考え事をしていた。

 それは母親のこと。

 前回、シィはその温かなイメージに助けられた。それは今まで見て来た多くのイ

メージの断片とは違った。母親の存在を今までで最も近くに感じた瞬間だった。

 シィはある時このシマに現れて、それ以前の記憶は無いままビーと暮らして来た。

母親の記憶も勿論無い訳なのだがーーーこれは、もしかしたら消えた記憶に届くき

っかけになるのかも知れない。そんな予感がした。

 そうでなくとも、その温かなイメージは少女から女性になりつつあるシィにはと

ても豊かな、自分の道筋を確かにしてくれる様な気がする貴重なものだった。

「………」

 そしてシィは考える。このシマでは時々緑色の謎の光が現れ、シィを時に救い、

導いたりもする。シィはそれを『ヒュー』の光と呼んでいた。それはまた、かつて

シィが深海で出会った白亜の塔の頂上にいる謎の青年の名前でもある。シィはその

存在に出会って初めてシマ以外の外の世界に触れることになった。

 その時に、シィのウナジに初めてタトゥーの様な紋章『ファントム』が現れた。

 それは、ある時から人類に発祥した生体的に融合した通信端末の様なもの。電波

等ではなく恐らく何らかの光で繋がっている様で、本来はホシを越えても繋がるも

のであるらしい。

 だがこのホシでは何処の誰とも繋がらず、たまにシマに訪れたヒトとしか繋がる

ことは無い。それほど、このホシの場所は外の世界から遠く離れた場所であるのだ

ろう。

 なので、やってきては帰っていくヒト達と時折交流しながら、シィとビーはその

時ごとに環境の変わるこのシマで暮らしている。

 相変わらず『ヒュー』、そして『ファントム』のことはまだよく分かっていない

ままだ。

「…………」

 シィはため息を吐き、滝から出て肩までの黒髪をギュッと絞った。


「………」

 先にシィの小屋のある浜に戻っていたビーは一人、魚を前に俯いていた。

 前回あのアナーキストがシマに来た時、何故かビーはシィとは別世界で離ればな

れになった。すぐ側にシィがいるのに触れられないという絶望的な感覚を、ビーは

味わった。シィはビーの目の前で犯されたが、ビーは止めることが出来なかった。

 そのことは結局シィには話してはいない。

 ただシィも、自分が犯されたことをビーが感づいていることは知っている。

 それでもお互いそこには触れず、普段通りの生活を続けている。

 それは正しいことなのだろうか。

 ビーには分からなかった。

 そして、いつか自分もまたあの時の様にーー『観察者』の様に、シィには触れら

れず只見ているだけの存在になるのではないかという恐れが、常に付きまとってい

た。


  *   *    *


 ランチを焼き魚で済ませた二人は、いつもの様にシマの散策を始めた。

 シマでは、時にモノが現れる。そんな時はビーが先に気がつくことが多かった。

何故かモノが現れる時には、その気配を感じるのだと言う。

 だが今日は特にそんな気配も無く、二人はゆったりと歩いていた。

「シィ」

「何、ビー」

「最近、夜してないね」

 とビーが言ったのは、夜の自慰のことだ。

「そう言えばそうだね……って何」

 少し顔を赤らめてシィは答えた。確かにここ十日程はしていなかった。下腹部は

既に痛みは引いているが、そんな気分にはならなかった。

 あれだけあった性欲が、今は何処かに消え失せていた。

「まぁ、いいんだけどさ」

 ビーは事も無げに歩き続ける。

 だが思っていた。ひょっとして体調に何かあるのでなければいいのだが。

 後は……あれだけのことがあった後の精神的なことの方が大きいのか。

 ただ、ビーはそれ以上突っ込もうとは思わなかった。それが今の二人の距離感だ

った。正しいのかどうかはともかく。

「……あれ?」

 何かに気付いたシィが立ち止まった。

「どしたの、シィ」

「あれ……」

 シィが指し示した先は、山の中腹でいつも湧き水があって登山中の飲み水用に重

宝していた場所だった。

 見ると、そこからはうっすらと湯気が立っている。

「ホントだ……お湯になってる?」

 二人は近づいていった。

 シィはその泉に手を入れてみた。

「うん、温い」

「へぇ……」

 ビーも鼻先を突っ込んでみた。

 確かに温い風呂くらいのちょうどいい温度だった。

 二人は顔を見合わせて同時に言った。

「入ろっか」


  *   *    *


 その泉は少し狭かったが、そこから少し離れた場所にもう少し広く見晴らしの良

い湧き水の場所があった。そこの水も同様に温かったので、二人はそちらで一風呂

浴びることにした。

 シィはスポーツブラに下着姿で、ビーは勿論そのままで泉に入った。

 縁石にもたれ掛かって二人はお湯を味わった。普段は滝のシャワーで済ませてい

るので暖かい水に入るという習慣は彼らには無い。

「うん、良い感じ」

「ホントだね」

 二人は海を眺めながら温泉気分を満喫した。

 良く晴れた空と温めのお湯が二人を包む。

 シィの褐色の肌と黒髪がお湯に濡れキラキラと輝いていた。

 その緑色の瞳を見上げたビーは、キレイだなと思った。

「でもさ」

「ん」

「なんでこうなったんだろうね」

「そうだね……」

 シィはお湯を掌ですくって眺めた。

 以前シマが火山島に変化した時、確かにシマのあちこちの水は高熱になりシマの

山頂からは溶岩が噴き出した。

 だが今はこうして水の温度が上がっている以外はシマは平静を保っている。水も

特に硫黄臭などはしない、無味無臭だった。どうやら火山とはあまり関係が無さそ

うだ。

 いつものシマの変化と言えばそれだけだが……これは、何かの前兆なのだろうか

「……熱っっ」

 下からどんどん熱い水が上がって来るのに気がついてシィは飛び出した。

「ホントだ」

 ビーも遅れて飛び出して身体をプルプルと震わせてお湯を弾き跳ばした。

「何これ」

 湯気はどんどん濃くなっている様に見えた。

「じゃあ他も……」

 シィは浜の方を見下ろした。

「水、確保しといた方がいいね」

「うん」

 また、じわりと何かが這い寄って来ている様な気分が上がって来た。

 それはここ最近続いている、シマの何かが着実に変わっていく感覚だった。


  *   *    *


 浜に戻った二人は手近なビンをかき集めて、水の確保に向かった。

 場所によっては既に熱湯に変わっていてビンに注ぐのに少し苦労した。

 ビーの巣もしばらくは使えなさそうだった。ビーは熱さを我慢していつも使用し

ていた抱き枕代わりの木片だけは回収していた。

 そうして二人は出来るだけ水をかき集める作業に没頭した。

「ふぅ」

「これで何とか……」

「これ以上何も起きないと良いけど」

 遅い午後、シィの小屋前で集合した二人はしばしへたり込んでいた。

 シマは良く晴れて低い太陽に照らされた海もキラキラと輝きを放っていた。普段

通りだが、ただ水の温度だけが上がっている状態だった。

「シィ、あれ………?」

 ビーが波打ち際の方を指差した。

「!……海が」

 シィも立ち上がって海の方へ出て行った。

 海も、微かに湯気を上げ始めている。

 それも熱湯の小川が海に注ぎ込まれる場所だけではなく、全体にうっすらと湯気

が上がり始めていた。

「これは……」

 シィは波打ち際に入って海水に触れてみた。

「………」

 まだ生温いが、この海全体もいずれ熱湯になるのだろうか。

 シィは水平線の方を見つめた。

 だとしたらそれだけの膨大な熱量が何処かで発生していることになるがーーーそ

れは一体?

「何だか、やばいね」

 ビーも波打ち際で波に触れて顔をしかめた。

「魚とかどうなるのかな」

「うん………」

 もし海全体が煮立ったら、あのクジラやーーー深海で見た『ヒュー』は、どうな

るのだろう。

「…………」

 そもそも、このシマは実は巨大な岩塊で浮いている筈。

 シィは想像した。海全体が沸騰して、シマが茹でられている姿を。その時、この

場所はどうなるのだろうか?そして海水が全部蒸発したら、このシマは?ホシは?

「………」

 シィは全身がゾワッとするのを感じてそっと唇を噛んだ。


 その時、ビーがボソッと呟いた。

「シィ……誰か来る」

「!?」

 シィが振り向くと、砂浜の丘の向こう、陽炎の中から人影が歩いて来るのがうっ

すらと見えた。

「あ……!」

 また、シマにヒトが現れた。……このヒトは今回、シマに何をもたらすのだろう

 シィは走り出した。

「気をつけてよ、シィ!」

 背後からビーが声をかけた。

「うん!」

 シィは砂丘を走って上がっていった。

「………!」

 シィの驚異的な視力は女性をハッキリと捉えていた。

 人影は女性、少しふっくらとした四十台後半位だろうか。長いスカートにリネン

ぽいシャツ姿で全身ぐっしょりと濡れていた。まるで海から現れでもしたかの様だ。

肌はシィよりも薄い褐色で、その黒髪には少し白いものが混じっていた。一見して

何か、感じるものがあった.

 勿論、シィがここまで歳上の同性と接するのは初めてだ。

 女性は辺りを不思議そうに眺めていたが、まだ足取りはしっかりとしていた。

「………あの!」

 シィは遠くから声をかけた。

「………?」

 女性は走って来るシィを認め、やがてやさしく微笑んだ。

 シィは彼女を、もしかしたら自分の母親なのかーーーなどと思い始めていた。

 だが、その左手を見てシィは足を止めた。

 彼女の左手甲には、『ファントム』らしき紋章が見て取れた。だがそれは茶色く

変色し、カピカピに乾いている様に見えていた。


  *   *    *


「そう、あなたのシマなの」

 手の『ファントム』の状態は気になるものの、その女性は割と気立ては良さそう

だった。

 シィのタオルで身体を拭いたた後、女性はシィのシャツとスカートに身を包んだ。

「ええ、他にヒトはいません」

 珍しく敬語を使うシィをビーは眩しそうに見つめていた。

「ビーバーちゃんと二人で暮らしてるの?」

「はい」

「ガウガウ」

 ビーも何か一言言った様だったが、シィ以外の人間の前ではビーは何故か話せな

い。

「まぁ」

 女性は大げさに驚いていた。

 シィは思い切って聞いてみた。

「あの……あたしはシィ。でこっちがビー。あなたの名前は?」

「名前……」

 女性は首を傾げた。

「……おかしいわねぇ」

 思い出せない様だった。このヒトも他の人達と同じか、とシィは頷いた。

「あ、気にしないで。シマに来る人は大抵そうなので」

「そうなの?じゃあいいわ、何と呼んでくれても」

 くるくるとよく喋る感じに、シィは少し戸惑った。だがもし自分に母親がいれば

こういう感じなのかもしれない、とも同時に思っていた。

「ところで、台所は?お腹空いたから何か作ろうかしら」

「え……?」

 シィは小屋周りを見渡した。

 特に台所、と呼べるものは無かった。大体の作業はフライの骨のナイフで済ませ

ていたし、モノを切るのは石の上、焼くのは枝を刺して焚き火で、後は古い鍋が一

つある位……といった感じだった。

「アウトドアなのね」

「えぇ、まぁ」

 シィは恥ずかしそうに言った。自分の普段の暮らしは、確かにシマに現れた映像

機器で見る文明の利器が溢れた場所からはかなりかけ離れている。

「じゃあ、それでいいわ。食材は?」

「えっと、これから穫ってきます」

「調味料は?」

「………」

 黙ったシィに女性は呆れた様に笑った。

「オッケー、あるもので何とかしましょう」


 シィはパルクールーー周りのモノを利用して跳ぶ様に移動する術ーーでシマのあ

ちこちを飛び回って食材を探していた。

 少しウキウキとしている自分に気がついていた。

 母親がーー母親らしき女性が、自分に料理を振る舞ってくれるというのだ。

 相変わらず水の温度は上がり続けていたが、今のシィにはその不安よりも期待の

方が勝っていた。


  *   *    *


 カカカカ!

 女性の見事な包丁さばきにシィは目を見張った。

 普段自分が使っている骨のナイフが、まるで別物の様に動いていく。

 ジャーッ!

 焼かれた石に魚の脂が蒔かれ、切られたものが次々に焼かれていく。

「うわー」

 やがて魚数匹とキノコと山菜で、見事な石焼ソテーが完成した。

「どうぞ、召し上がれ」

 女性は胸を張った。

 シィとビーは葉に盛られた料理をそっと口にした。

「どう?」

 シィは目を見張った。

「……美味しい!」

「ガウガウ」

 ビーも驚きの声を上げた。

「…………!」

 シィは頬張りながら思った。

 味付けは海水で作った塩のみなのに、何故こんなことが出来るのだろう。

 これは色々教わらなければ。

「それは良かった」

 女性は自分でも一口味わった。

「うん、有り合わせにしては上出来」

「………」

 そんな女性の様子に、シィは少し見とれていた。

 自分に足りないのは、こういうところなのではないか?時々現れる本の中の言葉

で言うと、いわゆる女子力ってやつだ。今までビーと二人だったのでそう必要では

なかったのだがーー。

 シィは味わった魚をゴクンと飲み込んでから言った。

「何か、色々教えて欲しいです」

「堅苦しいのは良いわよ、シィ」

 そう言って女性は笑った。

「…………」

 シィはフッと笑った。

 母親とは、こういうものなのかーーーシィは胸の奥がポッと温かくなるのを自覚

していた。


 ただ、海の温度はどんどん上がっていく様だった。

 夜になると魚を捕った時よりもかなり熱くなっているのが分かった。

 死んだ魚がポツポツと浮き始めた。

 シィはそれを視界の端に捉えてはいたが、今は女性と過ごすことの方が大事に思

えた。


 二人はまだ熱めの風呂程度の温度だったバストイレ兼洗濯場で身体を洗った。

 女性二人だったので二人ともオールヌードだった。

「…………」

 成熟した女性の裸をシィは初めて観た。今まで見たのは同世代のファイくらいだ。

 女性は歳の割には苦労はしている感じの肌ではあったが、自分たちのそれとは違

う何とも言えない色気を感じてシィは少し赤くなった。

 いつか自分も、こうなるのだろうか。

「…………!」

 だが女性の左手甲の変色した『ファントム』を見た時、シィはハッとした。

 どうしたらこうなるのだろう?この状態で繋がることはあるのだろうか?

 シィは結局それについて尋ねることは出来なかった。

 今はこのいい雰囲気を、壊したくなかったのだ。


  *   *    *


 夜、シィはまだ土台だけしかないベッドに草を敷いて即席の客用のベッドを作っ

た。

「あら、ありがとう。でも悪いわ」

「いや、あたしは野宿は慣れてるので」

 シィは今までしたことのないそんな日常の会話に新鮮な感じを覚えていた。

 横になった女性はシィを見上げて言った。

「じゃあ……一緒に寝る?」

「え」

 シィは少し考えた。

 とても魅力的な誘いに見えた。今までは一人が普通だったし、此処最近は性的な

ことでオトコと一緒に寝たことはあっても、母親的な存在とーーというのは無かっ

たのだ。

「………じゃあ」

 シィはオズオズとベッドに入った。

「ふふ」

 女性は優しく笑った。

 暖かくフクヨカな身体がくっついて、心地よかった。

「いつ以来かな、こんなのーーー」

「そっか、お子さんがいたんですね」

「そう、子供がーーーーーー」

 そこで言葉は途切れた。

「…………?」

 シィは女性の方へ目をやった。

 女性は天井を見上げ、硬直していた。

「……どうしたんですか?」

 シィが上体を起こそうとした時だった。

 女性の手がヒュッと伸びてシィの首にかかった。

「えッ!?!」

 女性はガッとシィに馬乗りになった。

「あんたが………」

 女性の手に力がこもった。

「ぐ………」

 女性はクワッと目を見開いた。

「あんたが、あの子を奪ったのか!!」

 シィの首が強く締め付けられた。

「あぁ………!」

 シィは激しく動揺していた。呼吸が消えていくのを感じた。

 何が起こった?何故こうなったのだ?あんなに楽しそうにしていたのに。

 思う間もなく意識が遠のいていった。

 最初に抵抗すべきだったが相手がこの女性だったので対応が遅れた。

 マズい、既に力が入らないーーー!

 グラリと視界が歪んだ。

 死ぬ、のかーーーー?

 

 ガウッ!

 獣の声がして衝撃があり、シィの首を絞めていた体重が横に飛んだ。

「がはっ………はー、はー……」

 シィは腹這いになって呼吸を取り戻そうと必死で肺に空気を取り込んだ。

「………!」

 恐らく、ビーが体当たりしてくれたのだろう。

 ガウガウ!

 獣の唸り声。

 顔を上げるとビーが部屋の隅で放心状態の女性に向かって吠えていた。

「あ、あたしはーーーー」

 女性は呟く様に一言漏らすと、糸が切れた様に気を失い倒れた。

「…………!」

「大丈夫、シィ?!」

 ようやく喋れる様になったビーが駆け寄って来た。

「何とか………ありがとう、ビー」

 シィは荒い息の中ビーを抱きしめた。


 ビーは、今回はシィをちゃんと助けられたことに安堵していた。

 また何も出来ずシィを失ったら、自分は死んでしまうと思った。

 だがまだ、危機が去った訳ではないーーービーはシィから離れまいと頭をシィの

胸に擦り付けた。


  *   *    *


 眠れずに夜が明けた。

 女性は気絶したままだった。そうっとベッドに運んだ後は、シィ達は触れられず

に離れて見ていた。

「…………」

 やがて外に出たシィとビーは顔をしかめた。

 海が、いつの間にか濁っていた。そして上がっている湯気はうっすらと悪臭を放

っていた。

「何………?」

「何か、臭いね」

 波打ち際に近づくと、もはや熱湯に近くなっている海水の表面はヘドロの様なド

ロドロとした何かに覆われていた。それが、外海までずっと続いていた。

「………?」

 シィは触ろうとしてあまりの悪臭に手を止めた。

「これ……」

「汚物だね」

「汚物……」

「普段は下水に流れているヤツ」

「あぁ……」

 そういうものが文明社会にはあることはシィは知っていた。だがこのシマにはー

ーと思ってからシィはハッとした。

 このシマでも、あの地中に消える流れの場所で自分たちは用を足している。

 その先がどうなっているのかずっと不思議だったがーーーまさかずっと何処かに

溜められていて、今吹き出したというのだろうか?

「…………?」

 だが、毎日するものとは言え、シィとビーの二人だけでこの大海原を埋め尽くす

程の量になるだろうか?ひょっとして別世界の大量のヒトのものが流れ込んで来て

いたりするのだろうか。

 シィには分からなかった。

 とにかく、この状態では漁どころではない。

 確保してある水と食料で、何処まで行けるかーー例のバストイレスペースは熱湯

のままだろうか?などとシィが考えた時だった。

「シィ……あれ」

「?」

 振り向くと、女性が小屋から出てフラフラと背後の森の方へ歩いていくところだ

った。

「………」

「放っておこうよ」

 ビーは言ったが、シィはどうすべきか迷っていた。


 結局、シィは距離を置いて女性の様子を窺うことにした。

 森の中で、女性は何かを探している様にあちこちを彷徨っていた。

「…………」

 自分の子供を捜しているのだ。

 シィはそう思った。

 恐らく、シマに来る前の世界で子供を失ったのだろう。忘れていたそれを、自分

が思い出させてしまった。

 だから昨晩はあれだけ錯乱したのだ。

「……………」

 だが女性は「あんたが……」と言った。

 自分が何か関係しているとは思えないがーーーもしかしたら知らない別世界で、

何か自分が影響を及ぼしていたなんてことがあるのだろうか?

「ねぇ、シィ……」

 付いて来たビーが後ろから声をかけた。

「何、ビー」

 振り向いたシィはビーの指す方を見た。

 そこは例のバストイレ兼洗濯スペースだったところだった。湯気は上がっていな

い。近づいてみると、その場所の水は涸れていた。

「あ………」

 ひょっとしてここも汚物に塗れているのかと思ったが、逆に水自体が無くなって

いる。

 シィはじわりと不安が上がってくるのを感じた。

 他の泉もそうだろうか。

 さっきはまだあったビーの熱湯の小川もいずれ?

 もし全てこうして涸れていくなら、シマの水源は全て断たれることになる。

「…………」

 シィは考え込んだ。

 だがいくら考えてもこれだけの変化はどうしようも無い。

「………あの人は?」

 ふと気がつくと、女性の姿は森から消えていた。 


  *   *    *


 海岸にも女性の姿は無かった。

「………あっちだ」

 ビーが気配を察した。そこはシィの浜辺から回り込んでいった、最初に女性が現

れたと思われる岩場の海岸だった。

 二人が行ってみると、女性は岩場を彷徨っていた。やはり何かを、誰かを探して

いる。

「………」

 やはり、いなくなった子供を、捜しているのだ。

 そっと締められた首に手をやって、シィは思った。

 ………自分だったら、良かったのに。

 ふとそう思ってシィはプルプルと頭を振った。今はそんな場合ではない。

「でもさ……」

「え?」

 ビーが訝しげに言った。

「本当は子供は、いないんじゃないかな」

 シィは首を傾げた。

「……どうして?」

「何となくだけどさ……」

 ビーは自分でも何故そう思うのか分からなかった。動物としての、勘ーーでしか

無かった。

「いない……?」

 シィは岩場を彷徨う女性を見つめた。そんなことがあるのだろうか。

「多分、この腐海があのヒトのシマだよ」

 シィはクシュンとくしゃみをして言った。

 シマにヒトが現れる時は、その人自体のシマを伴って来ることが多かった。巨大

なシマだったり、只のボートがそれだったり、雲海がそのヒトのシマだったことも

ある。

 今回はこの腐海が、そうだというのかーー?

「これが………」

 確かに今の女性はかなり不安定で、その内には酷く汚れた何かがある様に見える。

本人でもどうしようもない何かが、女性を突き動かしている様に見える。

 そして辺りに立ち込める腐海の匂いは、どんどん不快なレベルになってきていた。

「…………」

 シィは汚物に覆われた腐海を眺めた。

「関わらない方が、いいんじゃないかな」

「…………」

 シィは俯いた。

 でも、それでもーーー此処は、自分のシマなのだ。

 シィは岩場の方へ目を戻した。

「!?」

 女性の姿がまた見えなくなっていた。

「いない!」

 シィは走り出した。

「シィ!」

「分かってる!でもケガしてるかも知れないから!」

 後ろから叫んだビーにシィは走りながら答えた。

「ったく……」

 ビーはヤレヤレと肩を落としたが、すぐに自身も向かった。

 また、シィに何かあってからでは遅いのだ。


  *   *    *


「ねえ!」

 岩場でシィは呼びかけた。

「大丈夫?!」

 だが返事は無い。

 シィは側の岩に手をかけ跳んだ。岩陰に落ちたりはしていないだろうか。腐海に

飲まれたりはしていないだろうか。シィはあちこちに目を配りながら岩場をパルク

ールで跳び回った。

 それでも女性の姿は見えなかった。

「シィ……気配がしないんだ」

 追いついて来たビーが言った。

「そんな……」

 まさか、死んだのだろうか?何もせず元の世界に帰ったのなら良いのだがーーー

「シマの何処にも、しない」

 ビーは辺りを見回しながら言った。

「…………そう……」

 シィは岩の上に着地して眼下の腐海を見下ろした。汚物の悪臭は酷く鼻を突く。

 シィは俯いた。

 ……また、何も出来なかったのだろうか。

 それどころか、自分はあの女性の負の部分を引き出しただけだったのではないか

 自分の母親への思いを優先させたせいで。

 勝手に、それを女性に重ねたせいで。

「…………」

 その思いが、脳裏から離れなかった。

 無力感が、シィを押し包んでいた。


 ビーは、その時嫌な予感を感じた。

 大体、そういうものは当たることが多い。

「シィ……戻って!」

 叫んだがやはり遅かった。

 バシューッッ!

 突然岩の間から間欠泉の様に汚物にまみれた高熱の海水が噴き出し、シィを吹き

飛ばした。

「あっ!!」

 シィはそれでも空中で器用に姿勢を立て直したが、着地点は海の上だった。

「シィ!」

 シィの身体はズブッと嫌な音を立てて湯気を上げる腐海の中に消えた。

「シィ!!」

 ビーは迷わず走り出し、岩の突端から海へと飛び込んだ。

 自分が死ぬ、とは思わなかった。

 

  *   *    *


「ーーーー!」

 シィは、目を開けていられなかった。

 熱い。体中が焼かれている。

 そしてもはや液体ではない、高熱のゲル状の汚物に周り中取り囲まれ、耳や鼻か

らそれらが入ってくる様なおぞましい感覚に包まれていた。

 もがいたがいつもの様に泳ぐことは出来ない。どれだけかいても周りは妙な手応

えで、どんどん自らが沈んでいくのが分かった。

 呼吸がどんどん小さくなっていく。海面は遥か遠くだ。

 膨大な熱が身体を犯していく。

 シィはゲル状のその何かが、まるで今まで何度も見たあの邪悪なモヤモヤの様に

身体の中にゾロゾロと入って来るのを感じた。同時にそれは、あの女性が今度は体

内からシィの首をーー呼吸を止めようとしているイメージにも繋がった。あの女性

は、子供を失った恨みを一心にシィにぶつけて来ている。

 何故だ、何故ーーーー!

「…………!!」

 『ファントム』。

 薄れ行く意識の中でシィはウナジの『ファントム』にかろうじて触れた。

”あたしは違うーーー違うの!”

 だが返事は無い。

 やはり、あの母親の左手甲の乾いた『ファントム』は、動いていないのだ。

”ーーーーー『ヒュー』!”

 シィの叫びは、何処にも繋がらなかった。

 シィはやがて気を失い、その存在は闇の中へと消えていった。


 ビーは高熱のゲル状の中を必死で泳いでいた。目を開けても何も見えはしない。

いや、目を開くとすぐさま高熱で潰れそうだった。

 シィの気配もあの女性の気配も、全くしなかった。

「ーーーーー!」

 とにかくシィがいる辺りを、体中が焼かれる感覚を感じながら闇雲に突き進んだ。

「ぷあっ」

 汚物でドロドロになりながらも、何故かビーの身体は海面に出られた。

 何度か呼吸をしながらも、ビーは潜り続けた。だがいつもよりも身体が余計に浮

く様な気がする。これではーーーシィを、助けられない!そして自分も、この熱で

はいつまで保つのか分からなかった。

 また、助けられないのか。自分は!

 ーーー見ているだけで!

「ガウウーーーーーー!」

 ビーは絶叫した。


  *   *    *


 ドクンッッッッ。

 何かの脈動がした。

「!!」

 ビーは、それを感じた。

 途端に、目の前の視界がスカッと開けていった。

「何ーーー何だ?」

 ビーは目を見開いた。

 周りは確かに汚物に塗れたゲル状の海だ。だが同時にビーの目はーーーその向こ

うにいる、気絶した様に海の底に沈んでいるシィの姿を感じ取ることが出来た。

「これはーーー?」

 いつの間にか熱さを感じなくなっていた。

 これは、そうーーあの、以前シマに来た『観察者』ーーーこの世を、少し離れた

ところから見ている存在の視界だ。ビーには何故かそれが分かった。彼は、こうや

って世界を見ているのだ!

「…………!」

 だがーーー今は見ているだけじゃない!

 ビーは息を大きく吸い込むと、海底のシィの方へと向かっていた。

 まだそこは外海になる前の海底、数十メートル程度だ。外海の数百メートルの深

海ではない。これならーーまだ、助けられる!

 ビーは下へ下へとゲル状の海を潜っていった。先程もがいていたのが嘘の様に。

「ーーー!」

 ビーは気付いた。

 よく見ると、シィに周りには赤黒いモヤモヤしたものが渦巻いている。それはシ

ィの内部にも入り込み、その精神を犯している。

 あれはーーーあの女性のイメージか!それに何かが取り憑いている。

 ビーには何もかもが見えていた。あの女性は既にイメージの存在でしかなく、自

身の子供を失った哀しさを一心にシィにぶつけていた。

”シィに、触るな!”

 ビーは吠えたが、そのモヤモヤは何も反応しなかった。

”シィ!”

 ビーは必死にシィに呼びかけた。

”シィ!!!”


 キィーーーーン!


 その時、シィのウナジの『ファントム』がフワリと緑色の光を放った。

”!!”

 ビーはそれを目撃した。

 シィはまだ意識を取り戻していない。

 だがそのウナジから出る光は、あのモヤモヤを優しく取り込んでいく様に見えた。

”…………!”

 ビーは気がついた。

 シィは無意識下で、『ファントム』と繋がっているーー?!あの母親のイメージ

と!あの乾いた『ファントム』の状態で?!

 更にビーは気付いた。

 自分もーーーその繋がっている輪の中にいる?

 それは『観察者』故なのか。

 ビーはその光の中で幾多の精神の交換が行われているのをハッキリと認識してい

た。

”ーーーーそうか………”

 あの母親は、今は母親ではなかった。

 幾多の世界で彼女は母親だったが、その度に子供を失った。その絶望が、彼女に

深い影を落としていた。それ故、彼女は繰り返す度に捻れていった。ある時『ファ

ントム』の奥底で何故かそれに気付いた彼女は、その前世の記憶に繋がりを持って

いると思われる『ファントム』を自らの意思で止めた。それはもの凄い意思力だっ

たに違いない。だからあの女性の『ファントム』はカピカピに乾き、変色してしま

っていたのだ。だがその強過ぎる意思力は彼女自身をも更に歪めていった。そして

子供を持つこと自体を本能的に拒否し、いつしかこのシマに来た。

 その哀しい運命を、ビーは感じた。それは『観察者』の繰り返す哀しさと、何処

か繋がっていた。

 いや、思えば此処最近の『ファントム』を失ったものたちは、皆そうだった。

 『ファントム』とは、それがもたらす繋がりとは、その繰り返しとは、一体何な

のだろう?

”……………”

 ビーはまだ意識を取り戻していないシィを見つめた。

 恐らく無意識ではあるが、シィもそのことを『ファントム』を通じて理解してい

ることだろう。

 シィを取り巻く赤黒いモヤモヤしたものーーーあの女性の潜在意識が変化した様

なものは、緑色の光の中で静かに消えていった。

 ビーはそれを、シィの優しさが女性を癒したのだ、と感じた。

”…………”

 それにしてもーーーーとビーは思う。

 今自分は理由は分からないが『観察者』としての視点を持っている。

 このホシの全てを見通せる。シマが浮いているのも、シマ以外は全て海で他には

何も無いことも、このホシの周りに何も無いことも。

 それなのに、あの緑色の光ーー『ヒュー』の光や、シィが見たと言う海底の無数

の白亜の塔やその上にいると言う青年の『ヒュー』、それらについては全く見えな

い、分からないままだった。

 それは、それらが『観察者』などよりもより高次なものだからだということだろ

うか?

”…………”

 それはまだ、分からない。

 ビーはそっとシィに寄り添って肩の下に入り、グッとその肢体を持ち上げた。

 早く、シマに連れて帰ろう。

 まだ死んではいない。助かる。

 そのことも、今の『観察者』の視点のビーには何故か理解出来た。


  *   *    *


 衰弱したビーとシィはようやくシマの海岸へと辿り着いた。

「………!」

 ビーの巣がある小川は既に温度が下がり、いつもの清流を取り戻していた。

 気がつけば海も少し温い風呂程度まで温度が下がり、徐々に透明度も上がりつつ

あった。

「戻ってきてる……」

 ビーは浮かんでいるシィと自らの身体を洗いつつ、肌を確かめてみた。

 先程のあの感覚なら本来は全身火傷で瀕死の筈が、少し赤くなっている程度だっ

た。

 それはもともとそれほどでもなかった温度をあの邪悪なモヤモヤが高熱に見せて

いたのか、それとも『ヒュー』が守ってくれていたのか。

 その両方なのかも知れない、とビーは思った。

「………!」

 気がつくと、視点は既に普段のビーのものに戻っていた。

「…………」

 ビーは先程いた海の底の方を振り返った。

 その目にはもう普段の海としか映らなかった。

 あの視点の変化は、どうして起こったのだろう。

 ひょっとするとあの『観察者』が側にいて、少しだけ覗いてーーそして少しだけ

干渉したのかも知れない。

「…………」

 またあの『観察者』の男に、会うこともあるのだろうか。

 彼は今回のことをーーー此処最近のシマの出来事を、一体どう思っているのだろ

う。


「う………」

 シィが呻いた。

「シィ?!」

 ビーはシィを引っ張って砂浜へと引っ張り上げた。

 まだ下半身は海に浸かった状態で、シィはゆっくりと目を開いた。

「あ………」

「シィ?大丈夫?」

 ビーが顔を覗き込んだ。

「生きてる……?」

「うん、二人とも、大丈夫だよ」

「そう……」

 シィは海の方に目をやった。

「あのヒトは……?」

 ビーは首を振った。

「多分、消えた」

「そう………」

 あの女性は本当は、元々あのモヤモヤのイメージのみの存在であったのかも知れ

ない。

 だがビーはそのことはシィには黙っていようと思った。

 自分が今回、『観察者』の視点を持ったことも。

 だがそのことも含めて、シィは気付いているのかも知れない。

「あなたは良い母親に、って……」

 シィが呟く様に言った。

「え?」

 ビーはシィの緑色の瞳を見つめた。その深い緑色は吸い込まれそうに澄んでいた。

「あの人が、そう言った気がする」

「そう………」

 自分は、その声を聴いてはいない。だが、ありそうなことだとビーは思った。

 シィはビーの方を見つめて頭をそっと撫でた。

「助けに、来てくれたよね」

「うん……」

「ありがと」

「うん」

 ビーはシィの側で丸くなった。

「なれるかなーーー」

「え?」

「あたしは、良い母親に」

「そりゃあーー」

 ビーは少し考えた。

「………」

 シィは息を止めて答えを待った。

 ビーは微笑んで言った。

「なれるんじゃない」

「……ホント?」

 シィは笑みを浮かべた。

「優しくて強い母親に」

 ビーはそう言って笑った。

「……ホントかな」

 シィは弱々しく笑った。

 ビーは力強く頷いた。

「ホントだよ、シィ」


                      

                     (    終    )


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