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#12「Fleeze」

今回はシマを取り巻く海が凍っちゃう話。そして…傷ついてしまう話です。



「あの木片が無いな」

 ビーバーのビーはシマの浜辺をノソノソと歩いていた。

「木片って?」

 シィは小屋を片付けながら声をかけた。

 前回、巨大な波がシマを覆った。シィの小さな小屋はメチャクチャになって、今

まさに修復の最中だった。

 小川の中程のビーの巣も跡形も無くなっていた。辺りには巣の建材だった枝や小

さな木片が散乱していたが、ビーが探しているのはいつも巣の中で抱き枕の代わり

にしていた少し大き目の木片だった。それは形や肌触りがビーにぴったりで、最近

寝る時にはいつも抱いていたものだった。

「それっぽいので良ければ作るけど?」

「うーん」

 そうじゃないんだな、と思いながらビーは浜辺を探し歩いていた。

 それは珊瑚礁がキラキラと輝く、良く晴れた日の出来事だった。


「…………」

 シィは歩いていくビーを暫く見送ってから作業に戻った。

 小屋の壁は粗方直した。後はベッドをどうするかだ。前は干し草を固めて布を被

せただけのものだったが、それは全て波が持っていってしまった。この際別方向の

ものを新調すべきだろうか。枝を組んでちゃんとしたベッドにするとか……。

 少し考えたが簡単には結論は出なさそうだった。

 シィはフゥ、と息を吐き海を眺めた。

 シマは全て元通りになった。珊瑚礁も外海も、そして魚たちもいつの間にか戻っ

て来ていた。

「…………」

 シィは自分の黒髪を片側に寄せ、そっと褐色のウナジにあるタトゥーの様な紋章

ーー『ファントム』に触れて目を閉じた。

”ねぇ………誰かいる?”

 心の中で呼びかけてみたが、誰の反応も無かった。いつもの様に微かなノイズと

モヤッとしたイメージが脳裏に浮かぶだけだった。

「やっぱりね……」

 シィは手を戻して横になった。

 『ファントム』。それはある時から人類に現れる様になった、ヒトと生体的に融

合した通信端末の様なもの。それでヒトは会話し、時に奥深くまで繋がることもあ

るらしい。

 シィは気がつくとこのシマにいて、それ以前の記憶は無いまま暮らして来た。そ

して最近、ウナジに『ファントム』が現れた。時々シマにやって来ては消えていく

人達と何度か『ファントム』で繋がったこともある。その度に、新しい何かが見え

てくる様な気もする。

 だが此処数回はその『ファントム』を何らかの理由で失くしたヒト達がシマに来

ていた。

 前回、シィはその失くした人間に再び『ファントム』が現れるのを目撃した。

 『ファントム』とは一体何なのか。

 それはヒトに何をもたらすのか。そして何を奪ってゆくのか。

 シィはそれを知りたいと思っていた。


  *   *    *


 次の朝、シィは震えて目を覚ました。

 結局ベッドは保留で小屋の片隅で薄い毛布を被って寝ていたのだが、あまりの寒

さにシィは飛び起きた。普段亜熱帯の南国風景が広がっていることの多いシマでは

割と珍しいことだった。

 シィは慌てて羽織るものを探して出来るだけ纏った。

「ふうぅ………ビー?」

 小屋の外に出たシィは目を見張った。

 外には氷原が広がっていた。

「………えー?!」

 海は完全に凍り付いていた。砂浜も踏みしめると何処か固く砂粒が凍っている感

触だった。

 まだ薄暗い夜明け前で、時折吹く微風も身に染みる程冷たかった。

 シマは、時々こうして突然に姿を変える。それが何故なのかは分からない。シィ

とビーはその時ごとに対応しながら暮らして来た。

「……マジ!?……」

 シィは羽織ったマントを押さえて身震いした。

 その時、微かな声をシィは耳にした。

「………?」

 それは小屋から少し離れた小川の方から聞こえて来た。

「……ビー!」

 シィは走っていった。

 これでは当然小川も凍っている筈だ。小川の中程にあるビーの直した巣も凍り付

いて出られなくなっているのかもしれない。

「ビー!?」

「シィ……出られない」

 近づいてみるとやはり、巣も小川も氷に覆われていた。シィは凍った川の上を走

っていった。

「ゴメン、少し壊すよ」

 川の上に出ている巣のドーム状の部分を、シィは腰につけていたフライの骨のナ

イフで壊していった。

 まだ仮修復の状態だったので難なく屋根部分に穴を開けることが出来た。普段の

分厚い壁だったらかなり手こずったかも知れない。そう考えると波に覆われたこと

も少しは良かったのか?などとシィは思った。

「ふぃー……ありがとう」

 何とか外に這い出せたビーは身体をプルプルとさせた。

「ビー、寒くない?」

「寒い」

 毛皮に覆われているとは言え、普段の南国に慣れた身体にこの寒さは堪えている

筈だった。

「ほら」

 シィは羽織っていたマントを一つビーに被せて抱き上げた。

「うん、暖かい」

 ビーは満足そうに喉をゴロゴロと言わせた。


 数時間後、夜は開けたが太陽は低く薄い雲が立ち込め、辺りは薄暗いままだった。

 とりあえず現段階で集められる衣服と食料をかき集めて二人は小屋に集まった。

 魚介は無理そうなので木の実が主だったが、とりあえず一週間程度なら何とかな

りそうだった。水は凍った小川から調達出来る。そこから先は海の氷を掘って凍っ

た魚を手に入れていけば何とかなる、とシィは思った。

 この状態がいつまで続くのかは分からないが……しばらく続くと想定して動くべ

きだった。今まではどんな変化があっても必ずいつもの熱帯のシマへと戻っていた

が、常にそうなるとは限らない。ここ最近の動きを見ていると特にそう思わざるを

得なかった。

「じゃあ、どうしよっか」

「一度山に上がってみる。焚き木もいるし」

「了解」

「ビーは待ってて」

 ビーは素直に頷いた。


  *   *    *


「フッ!」

 シィはパルクールーーーかつてフライに習った、岩や木など周りのモノを利用し

て飛ぶ様に移動する術ーーを駆使してシマの山を登っていった。

 森の中もあちこち凍り付き、注意しないと滑ったり尖った箇所で手を切ったりし

そうだった。

 シィは革で作った指先だけが出ているグローブをしていた。出ている先だけがし

もやけになりそうだったが指先の感覚だけは失いたくなかった。

「フンッッ」

 シィはその卓越した体力でどんどん上がっていった。

 いつもより少し時間がかかったが、やがてシィは山頂へと辿り着いた。

「…………」

 息を弾ませつつ見下ろすと、予想通り地平線の先まで海は凍り付いていた。相変

わらず太陽は低く、白夜の様だった。

 今までシマは何度か寒い環境に変化したことはあったが、ここまでの氷原になっ

たことは無かったと思う。

 じわりと、また何かが真綿の様に自分たちを覆ってこようとしている。

 シィはそんな感覚に陥った。

 二人だけのこのシマで今までやってこられたのは、結局何かとシマが助けてくれ

ていたからだ。シマがもしずっとこのままだったら、自分たちは生きていけるだろ

うか?そりゃあギリギリまではあがいてみせるだろうが……。

「………!」

 そこまで考えてからシィは頭を振ってリセットした。いつまでもグダグダ考えて

いても仕方がない。

 シィは眼下の森を見下ろした。焚き木になるものを持って帰らなければ。

 凍っているとは言え、空気は乾いた感じなので火をつけるのにそう苦労はしなさ

そうではあるーーシィがそんなことを考えていた時だった。

「ん!?」

 シィは何かを感じた。

 それは今まで感じたことのない感覚だった。

 説明しがたいが、何故か分かるーーービーと自分以外の誰かが、いる?

「?!」

 ひょっとしてまた、シマに誰かがやってくるのか?

 シィはシマのあちこちに目をやった。

 違う、シマではないーーーなら氷原の何処か?不思議とシィにはそれが分かった。

「…………」

 シィは目の前の氷原をぐるりと見渡した。

 シィの驚異的な視力でも、広大なエリアの何処かにいる人影は見えなかった。

「………よしっと」

 なら出て行って探すまで!

 シィは山頂の岩から勢いよく跳んだ。


  *   *    *


「行くの?」

 浜ではビーが待っていた。

 ビーは人の気配を感じることが出来る。既に氷原の何処かにいる誰かの気配は感

じ取っていた。恐らくシィがそれに向かうであろうことも予想していた。

「うん」

 シィは衣服と食料と水を数日分見繕った。

「方向はあっちだけど……気をつけてね」

「了解。ビーも気をつけて」

「うん」

 シィは装備を背負って凍った海を歩き出した。


「…………」

 ビーはそれを微妙な気分で見送った。

 シィは相変わらずあちこち動いているがーー自分は特に何も出来てはいない。

 自分は付いていくべきではないだろうか?だが自分はこの寒さの中、ましてこの

氷の上ではかなり足手まといだ。

 それでも……もしシィに何かあったら。

 自分はどうするのだろう。

「…………むぅ」

 ビーはゴロンと転がって手足をバタバタとさせた。


 シィは水と食料と更に着込む用の布が入ったザックを背負って歩いていた。

 火山の時に来ていたマントに下は革のフレアスカート、手には先程の指だしグロ

ーブで足元も革の靴で覆っていた。全て手製の防寒着だった。

「………フゥ」

 歩いているとそれなりに暑いが、手先は既にかじかんでいる。

 今まで感じたことのない冷たい風だった。

 一面に広がる氷原は乾いているせいか、滑るということはない。

 既に数時間、シィは歩いていた。

 氷と広がる空と雲以外は何も見えない。ビーの感じた気配はもっと先なのだろう

か。

「…………」

 歩きながら、シィは少し考え込んだ。

 先程山頂で、シィは何かを感じた。

 だが今は何も感じ取れない。

 それは何故なのだろう?あの不思議な感覚は、一体何だったのだ?

 シィはシマの方を振り返った。既に小さくなったシマは、それでもそこにあった。

 もしあれが無くなったら……自分はどうするのだろう。

 今持っている食料や水が尽きたら、後は死ぬしか無いか。

 一瞬周りの氷に目をやったが、これは元は海水だ。

 溶かしてもそうそう口には出来ない。塩分が濃過ぎる。ごくごく少量、水に混ぜ

る程度でしか使えない。

 そして再びシィはシマの方へと目を戻した。

 だが、そこにあるべき陸地は無かった。

「!?」

 シィは目を擦った。

 そんなバカな?

 だが何度見ても、十数秒前にあった筈のシマは跡形も無くなっていた。

「……そんな………」

 シィは氷原で、立ち尽くした。


  *   *    *


「シィ!」

 突然シィの気配が消えた。

 ビーは浜で呆然と立ち尽くしていた。

 今までこんなことは無かった。

 やはり、自分は付いていくべきだったのだ。

 ビーは焦って浜辺を歩き回った。

 どうしようーーこのままシィと永遠に会えなくなったら。

 ーーー行かなければ!

 ビーはシィが置いていった食料と水の入った袋を首にかけ、氷原の上へと歩き出

した。


  *   *    *


 夜になった。と言っても辺りは白夜で、地平線の近くに薄い太陽がずっとあるま

まだった。

 シィは簡易テントでビバークしていた。

 水筒は肌に触れさせていたので何とか凍らずに済んでいた。

 凍った木の実を少しずつ溶かしながら食べた。焚き火をする用の木材を持って来

るべきだった、と今更ながらシィは後悔した。だがその分も持ち運ぶとなるとかな

りの量になる。

 やはり、無理だったのだろうか。

 こんな環境でたった一人を見つけることなど。

「…………」

 冷たい風は緩やかに吹いている。これが嵐なら大分死が近くなるが、今はまだ何

とか大丈夫だった。

 相変わらず誰かの気配は無い。

 シマが無くなって、方向感覚もズレた。

 もはや元のシマの位置も分かりはしない。

 これはーーーむやみに動かない方がいいのだろうか?

 とにかく、明日。もう少し明るくなってからだ。

 シィは衣服を着込んで横になった。

 流石に自慰をしようとは思わなかった。


 ビーは疲れ果てて水や食料の入った袋の上で横になっていた。

 水の入ったビンのコルクは開けられないことも無いが、その後戻すのはビーバー

のビーでは至難の業だった。先のことを考えて、今は飲むのは我慢することにして

いた。凍った木の実を口の中で溶かして食べた。

 いつの間にか、ビーにもシマは見えなくなっていた。

 一体自分が何処にいるのか、何処へ向かっているのかは分からない。

 シィの気配も、あの時感じた誰かの気配も今は全く感じない。

 此処は一体何処なのだろう。

 何が起きているのだろう。

 今回このホシーーもしくは『ヒュー』は、何をさせようというのだろう?

 いや、もしかしてもはやシマのあるホシですら無いのだろうか?

 何もかも分からない事だらけだった。

 ビーは低い位置にある冷たい太陽を眺めた。

 ーーーとにかく、早くシィを見つけなければ。

 そう思いながらビーは身体を丸めた。


  *   *    *


 次の日、食事を済ませテントを片付けたシィは途方に暮れていた。

 一面に氷原が広がり、方向感覚は全く無い。

 太陽の位置も一定ではない様な気がする。

 シィは荷物を置いて少し辺りを歩き回った。

「…………!」

 そして見つけた。テントから少し離れた場所にある、血痕。

 転々と続く、滴った血の跡。

 少なくとも、誰かがケガをして通ったのだ!

 それはーーーあの時感じたヒトなのか?

 シィは血痕の続く先の地平線に、動く人影を視認した。

「………待って!」

 シィは走り出した。


「…………!」

 ビーは、突然現れたヒトの気配に飛び起きた。

「何!?」

 気配は、かなり近かった。

 振り向いたビーはこちらに近づいて来る人影を見た。フード付きのマントの男が

フラフラと歩いて来ていて、既に数歩の距離だった。

「うわぁ!?」

 だがその人影はビーに全く気付くことなく、ビー目がけてゆらりとした歩みを進

めていた。

 その古びたブーツがビーを踏む直撃コースに入った。

「うっ!?」

 ビーはハッと身体を丸めて力を入れた。

 だがその身体には何の衝撃も来なかった。

「………?」

 ビーが顔を上げると、その人影はビーを通り過ぎてやはりフラフラと歩いていく

ところだった。

 その左手からは血が滴っていた。

「え………?」

 何が、起こったのだ?

「…………!」

 そしてビーは気がついた。自分の前後にもあの人影が落としていった血痕がある

ことに。

 だが自分の身体にはその血痕は無い。落ちた感覚も無かった。

 まさかーーーー?

 ビーはそうっと起き上がって身体の下を見た。そこには前後のものと繋がる血痕

があった。

「ーーーー!」

 ビーは目を丸くした。

 すり抜けた。そう考える以外になかった。

 やはり自分は、別世界にいる。もしくはこれは過去か未来か、とにかくあの人影

がいる世界とは別の次元に自分はいる。

 その時ビーの脳裏に浮かんだのはあの『観察者』という概念だった。かつてシマ

に来た人達の中にいた、世界を別の場所から傍観している存在。何処か自分と繋が

っている様に感じたあの存在に、今自分はなろうとしているのではないか?

「そんな……」

 ビーはスウッと自分が奥深く落ちていく様な感覚に陥った。

「待って!」

 懐かしい声にビーはハッとした。

「シィ!」

 振り向くとシィがマント姿で走って来ていた。

「良かった、もう会えないのかとーーー」

 だがシィはビーには目もくれず走って来て、やはりビーの身体をすり抜けていっ

た。

「え!?」

 ビーは呆然とシィを見送った。

 やはり、見えていない。触れもしない。勿論声も聞こえていないだろう。聞こえ

ていればシィは反応する筈だ。

 つまり自分は、見ているしか無い。それしか出来ないのだ。

 自分はちゃんとこの氷原の上にいて、足元の氷の冷たさを感じているというのに。

 これが、『観察者』なのかーーーー。

 ビーは人影を追っていくシィを立ち尽くして見つめていた。


  *   *    *


「あっ!」

 シィの目の前で人影は倒れた。追いついたシィはその男を抱き起こした。

 古ぼけたフード付きのマントにカーキ色の軍服っぽい上下に同じく古ぼけた革の

ブーツ。全てが埃にまみれ、全てを捨てたかの様だった。旧オリエンタル系の顔立

ちはクマが目立ち、まだ若そうだが苦労が顔に張り付いた酷く疲れた表情の男だっ

た。何かの本で読んだアナーキスト、という言葉がシィの脳裏に浮かんだ。その言

葉の正しい意味はシィは知らない。ただ、目の前にいる男の全てを捨てた様な雰囲

気がそう思わせたのだった。

「………!」

 更に気がつくと、血を流していたのは男の左手の甲だった。明らかに『ファント

ム』があったであろう箇所が切り取られている。それは自分でやったのかは分から

ないが甲全体はほぼ潰れ、骨がむき出しになっていた。そこは既に凍傷に犯されて

いて、滴る血も微々たるものだった。

「…………」

 シィは眉を歪めてその抉られた場所を眺めた。

 流石に甲の骨にまでは『ファントム』は繋がっていないらしかった。

「えっと………」

 シィは何とかそのアナーキストを背負い、荷物を置いて来た方へと歩き出した。

 幸い血痕が続いているので、方向は間違えようが無い。

 アナーキストは驚く程軽かった。シィより背は高いが、かなり痩せていた。そし

てその体温はかなり低かった。このまま死ぬのかも知れない。助かったとしても、

恐らくその左手は元には戻らないだろう。

 だが、シィはこの男を死なせたくなかった。

 今は見えなくなっているとは言え、此処は自分のシマ、ホシなのだ。ここでは、

誰も。

 そして少しでも知りたい。『ファントム』のこと、『ヒュー』のことを。

「くっ……!」

 シィはゆっくりと、だが着実に歩みを進めた。

 このアナーキストに、一体何があったのだろう。手の甲の『ファントム』は何故

切り取られたのだろうか?


  *   *    *


 ビーはそれをずっと見ていた。

 簡易テントの中で、シィはマントとスカートを脱いで下に敷き男を抱きしめて男

のマントを被り体温で暖めていた。

 ビーはじわりと嫌な感じを覚えていた。

 今まで『ファントム』を持たずにやってきた人達。彼らは皆シィを傷つけている。

そして自分はそれに対して何も出来ていない。

 ーーー『観察者』だから?

 ビーは頭をプルプルと振った。

 それはーーー嫌だ。自分はシィには、最後までちゃんと関わっていたい。

 だが、今はーーー。

 ビーは絶望的な気分に浸かっていた。

「…………」

 ビーはシィの方を見つめた。

 そう言えば、状況は少し違うがシィが男と抱き合って横になるのは久しぶりかも

知れない。

 少し前まではハラハラしながら見ていたもののーー今はそれもあること、と思う

様になっているのが不思議ではあった。

 ーーーもう初体験も、済ませたしね。

 ビーは少し微笑んだ。

 一瞬、警戒が緩んだ。

 その時、男がフッと目を覚ました。

「?!」

 ビーはシィの方を見つめた。シィはまだ眠りについている。

「…………?」

 男はクマに縁取られた病的な目を見開いて辺りを恐れる様に見回しーーー自身の

左手を持って来ようとして自分に抱きついているシィに気がついた。

 シィはまだ目を覚ましていない。

「…………!」

 ビーはまた嫌な感じが上がって来ているのに気がついた。

 男は上体を起こし、手を振り上げた。


  *   *    *


「何故助けた!」

 アナーキストは右手を振り下ろし、その拳はシィの顎を捉えた。

「!?グッ」

 シィはその衝撃に目を覚ましたが、ぐらりと視界が歪んでいた。打撃で脳が揺れ

ている。

「何故!何故助けた!」

 アナーキストは再び拳を振り下ろし、その手はシィのミゾオチにめり込んだ。

「ぐはっ」

 シィは身体をくの字に曲げて止まった呼吸を何とかしようともがいた。

「…………!」

 男はシィに伸し掛かり、ほぼ裸に近かったシィのスポーツブラを引き裂いた。

「!!」

 シィは抵抗出来なかった。四肢に力が入らない。最初のヒットがかなり効いてい

た。

 アナーキストの目は血走っていた。シィの下着もはぎ取られた。何をされるか、

シィは想像出来たが抵抗することは出来なかった。

 濡れてもいない箇所に、メリメリとアナーキストが入って来た。それはあの銃弾

に貫かれた時と同じだ。熱さと痛みが、全身を突き抜けていく。

 シィは絶叫した。

 アナーキストも、絶叫していた。

 何故。自分は、死んで当然なのに。

 そう叫びながら、腰を動かし続けた。


  *   *    *


 ビーも絶叫していた。

 何度も男に向かって突進するが、その度にすり抜けてその向こうの氷原に身体を

打ち付けた。

「うぅ………」

 自分は、何も出来ない。

 こんな時でさえ。

 『観察者』ーーーそんなもの、何の為に存在しているのだ!

 一体何故!

 再びビーは突進し、身体を氷原に叩き付けた。

「ぐあっ」

 それでもビーは突進を続けた。

 いつか、届くかも知れない。

 早く、シィをーーーーー!

 だがその時は来なかった。

 何度かの衝撃でビーの視界は朦朧とし始め、やがて意識が途切れた。


  *   *    *


「……………」

 男が出て行った。

 シィは動けなかった。

 犯された。

 その衝撃がシィを包んでいた。

 身体の痛み、心の痛み。無力感。

 ーーーそうか、こうなるのかーーーーー

 今までに想像したことが無い訳ではない。自慰の時にそれで達したこともある。

 だがーーー実際は、違った。

 自分の全てが奪われた様な圧倒的な絶望感。

 それは今までシィが体験したことの無い深く暗い奥底の感覚だった。


「…………!」

 ビーは目を覚ました。

 そこはシィのビバーク用の簡易テントの側だった。相変わらず白夜の氷原の中、

冷たい微風が吹いている。

 ビーは痛む身体を引き摺ってテントを覗いた。

 シィはマントを纏って丸くなって倒れていた。

「シィ……」

 ビーはシィの側へと寄った。

「ゴメンよ……守れなくて」

 ビーは涙を流せない。だが自分がヒトならば必ず滝の様に涙を流している筈だと

思った。

 シィは無表情のまま死んだ様に眠りについている。

「本当にゴメン……」

 ビーはシィを抱きしめたかったが、やはり触れることは出来なかった。

 また、何も出来なかった。

 そのことが、ビーを繰り返し責め続けていた。

 こんな時に何も出来ないなら、自分は一体何の為に存在しているのだ?


  *   *    *


 アナーキストは、フラフラと歩いていた。

 今、自分は一体何をしたのだ?

 確か自分は死んだ筈。

 全てに怒りを抱き、絶望し、左手の『ファントム』を剥がしーーーそれからどう

した?

 アナーキストは既に感覚のない左手を見やった。

 凍傷にかかった左手は青黒く変色し、僅かに血が滴っている。

 そうだ、自分はあの高い鉄塔から飛び降りてーーー一体、何に絶望していたのか

ーー?

 いつか見た、あの切なそうな目は誰のものだったかーーー。

 その時、削り取った手の甲の奥が、モヤモヤッとドス黒く怪しい光を放つ様に見

えた。

「!?」

 アナーキストは恐れた。

 これは何だ?

 いつの間に左手はこんなことにーーーー?

 とっくに死んでいる筈の自分が。

 この場所は何だ?どうして自分はここにいるのだ?

 アナーキストは

 自分は、結局死に切れないのかーーーー。

 そして、どこまでも堕ちていくのかーーーー


  *   *    *


 シィは、静かに目を覚ました。

 あれが悪夢であったならーーーと一瞬思ったが、下腹部の鈍い痛みがそうではな

いことを物語っていた。

「…………」

 身体が、芯から冷えていた。

 シィは側のザックから一応入れておいた下着やブラを身につけ、出来るだけ衣服

を着込んだ。

 寒い。

 震えながら水と食料を口にしてようやく少し落ち着いた。

「はぁ……」

 シィはマントに包まって再び横になった。

 まだ奥底の震えは止まらない。

 シィはマントをギュッと引き締めて寝返りを打った。

「…………!」

 その時、シィは氷の床に堕ちている血痕に気付いた。自分のものはマントに付い

ていたので、あのアナーキストのものだ。それは一カ所で少し溜まり、それからま

た外へと続いていた。

「………何処に行ったんだろう」

 シィは呟いた。


「放っておきなよ」

 側にいるビーは言った。だがその言葉は勿論シィには届かない。

 「何故、死んで当然って……」

 シィは呟く様に言っている。

「もういいよ、あいつのことは」

 ビーはまた怒りがフツフツと湧いて来ていた。

「許さないから」

 「でも……」

「でも?!」

 通じていないのは分かっていたが、それでもビーは叫んだ。

「あんなことされたのに!?」


 その時、その血痕の塊が一瞬フワッと緑色に光った。

「ーーーー!」

 シィは驚いてそれを見つめたが、その光は一瞬ブワッとどす黒いものに変わって

消えた。

「…………!」

 あのドス黒い光はーーー見たことがある!

 まだ四肢の節々は痛む。だがシィは立ち上がった。


「シィ!」

 ザックを背負って出て行くシィにビーは叫んだ。

 がやはりその声は届かない。

 何故?

 あんなに酷いことをされたのに。

 何故追うのだ?

 ビーは初めて、あの緑色の光ーー『ヒュー』の光に、怒りを覚えた。

 おまえのせいで、いつもシィはーーー!

 ビーは地団駄を踏んだ。

 何も出来ない自分が、酷く哀しかった。

「…………!」

 それでも、ビーはシィの後を追うしかなかった。


  *   *    *


 白夜の氷原は、少し吹雪き始めた。

 シィはアナーキストを追っていた。

 血痕も続いていたし、シマで感じた時の様に何故かアナーキストの存在が今のシ

ィには分かった。

 それは『ヒュー』の光が教えてくれていたからなのかも知れない。

 ーーひょっとするとそれ以外の何か、ーー誰かが。

 冷たい風が雪を伴って前方から吹き付ける。

 下腹部はまだ痛むが、シィは進んだ。

 やがてその目の前に、ユラユラと歩くアナーキストの影が現れた。

「!?」

 シィは目を見張った。その左手甲の傷から、先程一瞬見たモヤモヤとしたどす黒

い炎の様な怪しい光が上がっていた。

 それは、やはり前回前々回とあちこちの世界でみた怪しい光と同じに見えた。

 シィは思った。

 このヒトもーーーこの怪しいモヤモヤの何かに、取り付かれている!

 もしそうならーーーだから、だったのではないのか?

「ねぇ!」

 アナーキストの影が止まった。

 シィは近づいていった。

「何で、死んだ方がいいと思うの?」

 アナーキストはユラリと振り向いた。

 その目は相変わらずクマが酷く、不健康そうに血走っていた。

「…………ここはーーー」

 アナーキストは皺だらけの声で言った。

「ここは、死後の世界か?」

「…………?」

 シィはじっとその目を見つめた。

 アナーキストの焦点は合っていなかった。

 その左手甲からはメラメラと怪しいどす黒い炎が上がっている。

 アナーキストは顔を歪めて言った。

「ならーーーーいいんだがーーー」

「………違う」

 シィはザッと構えた。

「ここは、あたしのシマだよ」

 まだ四肢に痛みは残るし、下腹部も鈍痛がある。

 だがーーーあたしは負けない!

 シィは自分が透き通っていく様な不思議な感覚が自身を包んでいくのを感じた。

 こんな時なのに。

 あんなことをされたのに。

 もっと怒りに我を忘れても良い筈なのに。

 自分はスウッと冷静になっていく。

 ーーー何故だ?

 その時、シィのウナジの『ファントム』がフワッと光った。同時に下腹部もフワ

リと光った。

 確かな感触があった。

 シィは、何かが分かった様な気がした。

「!?」

 アナーキストはその光に一瞬ビクッとし、直後に叫びながら襲いかかって来た。

 シィはザッと身を翻して距離を取った。

「……フッ」

 シィは何故か分かっていた。

 倒すべきはアナーキストじゃない。

 あの怪しいモヤモヤとした何か、だ。

 だがどうすればいい?

 どうすれば倒せる?

 アナーキストは叫び声を上げながら向かって来た。シィは冷静にその振りかぶる

拳を避けて背後を取った。

 何故自分にこんなことが出来るのかは分からなかった。

 今はこれだけ冷静に、しかも自分の身体を極限までコントロール出来ている。

 目の前の存在の芯を、捉えることが出来る。

 それはーーそう、母親の存在が、教えてくれたから!

「……うああ!」

 アナーキストは恐れる様に左手を振りかぶり、突き出した。その突きは全く精度

を欠いた、破れかぶれのものだ。

「フンッッ!」

 シィはガシとクロスアームで受け、その手を逆に捻って背後に付いた。

「ぐああ!」

 アナーキストが唸り声を上げてもがく。

「動かないで」

 シィは冷静だった。


「………シィ……!」

 その凛とした姿を、ビーは目撃していた。


  *   *    *


 グルル!

 突然、捻られたアナーキストの左手甲の傷から赤黒いモヤモヤが飛び出して、シ

ィを覆った。

「く……!」

 シィはゾワッとする嫌な感じを覚えた。

 心の中の嫌な部分を引きずり出される様な、全身が逆立つ様な感覚。

 だが、シィはその手を離さなかった。片足を上げてアナーキストの膝を折り、跪

かせた。

「………あああ!」

 無意識にシィはアナーキストの『ファントム』があった場所の空間を握り、引き

ちぎる様に力を込めた。

「ああぁーーーー!」

 何故そうしたのか分からなかった。

 ギィイイイイイーーーー!

 嫌な擬音が聞こえ、赤黒いモヤモヤがアナーキストの手の傷口から離れた様に見

えた。アナーキストはフラリと倒れた。

「!!」

 シィはそのモヤモヤの中に、幾多の人々のイメージを見た。

 それは無数の悪意や恐れ。恨みや捻れ。

 ーーーだが!

 シィは目を閉じた。

 今は、いらない!ーーーーーまだ!

 シィはあの身体の中から何かが沸き上がる様な、独特の感覚を感じていた。

 『飛ぶ』。『ヒュー』に出会って以降、シィが時折見せる瞬間移動。それは普段

はシィの思いとは別の何かのきっかけで起こる。だが今、シィはそれを自分の意思

で起こした様に思った。

 シィの身体は緑色の光を放ち、それによってシィに纏わり付いていた赤黒いモヤ

モヤは飛び散った。シィの身体は僅かにビュワッと数メートル移動したが、それは

移動が目的ではなく対モヤモヤ用で纏わり付いたそれを吹き飛ばす為、だとシィは

思った。

「…………!」

 シィは自分の身体を不思議そうに見つめていた。


「シィ………」

 ビーは、何が起こっているのか分からなかった。

 ただ、あの男に取り付いていた何かをシィが排除した、そのことだけは分かった。


  *   *    *


 パリパリパリ………

 何処かで、音がした。

 それは氷が割れる様な、微かな音だった。

「………?」

 シィは辺りを見回した。

 やがてその音はゴゴゴという地響きの様な音に変わった。

「これは………?」

 バキッッッ。

 少し先の氷に大きなヒビが入った。

 ビシビシビシッッ。

 ヒビは両側に向かって伸び、その片方はシィ達の方へと向かって来た。

「!!」

 シィは横に跳んだ。

 着地して見ると、いつの間にかアナーキストが立ち上がっていた。

 ヒビはまっすぐアナーキストに向かってきている。

「…………」

 アナーキストは少しシィに振り向いた。

 フードに隠れて表情はあまりよく分からなかったが、一瞬口元は笑った様な気が

した。

「あ…………」

 ヒビはどんどん迫って来る。

 シィは動けなかった。

 シィの緑色の瞳に、アナーキストの凍傷の左手甲が淡く光るのが映った。

 その光の色は『ヒュー』の光と同じ緑だった。

「え……」

 ドシャーーーン!

 ヒビの下から突き上げられる様に氷塊が出現した。

 アナーキストの姿は見えなくなった。

「!!」

 シィは更に跳んだ。

 氷塊は次々にヒビのライン上に現れていった。前後から力のかかった氷原が、真

ん中で割れて突き上げられていく。ある場所では御御渡りと言われる現象だった。

「…………!」

 着地したシィは小さな山脈の様に氷の峰部分がどんどん連なっていくのを目撃し

た。

 アナーキストの姿は、何処にも無い。

 シィは立ち尽くした。


 キィーーーーン!


 その時、シィのウナジの『ファントム』が緑色に光った。

”………!”

 『ファントム』で繋がった感覚が確かにあった。

”そこに、いるの?”

 シィは呼びかけた。

 だが答えは無かった。

”ーーーー!”

 それでもその一瞬で、シィは無限のイメージを感じ取った。

 あのアナーキストは、自殺した後のヒトだった。

 何故自殺したのかは分からない。ただ、アナーキストも最近シマに現れた人達の

様に別世界の自分の影響を受けていた。別世界で、アナーキストは母親の様な存在

を殺してしまったのかも知れない。それ故、アナーキストは捻れた。全てを嫌い、

幸せな何かを求めなかった。周りの全てを否定した。本能的にその嫌な記憶に触れ

ない為に、いつしかアナーキストはそれに通ずる自らの『ファントム』を削り取っ

た。だがそこにあのモヤモヤが現れ、更にアナーキストは堕ちていった。何度も自

殺を繰り返し、その度にまた違う世界に現れ、また自殺を繰り返す。

 そうして幾度かの自殺の後、アナーキストはこのシマに現れたのだった。

 アナーキストのシマは、この凍り付いた海そのものだったのかも知れない。自分

の意志で全てを凍り付かせてしまった本人の世界が、恐らくそれだった。

 だがそこにシィが現れた。アナーキストはそれに母親のイメージを重ね、幾多の

世界と同じ様に傷つけた。

 それを何処かで後悔している感情も、シィには分かった。切なそうな顔で自分を

見ている姿が見えた。

”…………”

 そしてシィはその無数のフラッシュの中で一つだけ、母親に抱かれた様な暖かい

イメージを感じた。

”…………!”

 それはーーーアナーキストと元の母親のものだったのだろうか。

 それとも繋がり合ったシィの意識の中のそれだったのか?

 思えば、最初にシマでアナーキストの存在を感じさせてくれたのも、その後自分

がすべきことを教えてくれたのも、その母親のイメージそのものではなかったか?

 恐らくそうに違いない。シィは頷いた。

”…………”

 シィは氷の山の連なりを見つめた。

 アナーキストは、結局どうなったのだろう。

 やはりまた死んだのだろうか。

 そして、別世界で同じことを繰り返すのだろうか。

 だが最後、ひょっとしたらアナーキストは自らのその氷海を、そのループをリセ

ットしたのかもしれない。

 きっとそうだ。シィはそう思った。

 自分はーーー少しは何か出来たのだと。


  *   *    *


 ビシビシビシ………氷の峰は遠くまで続いていた。

「シィ………」

 ビーは後ろ足で立ち上がってそれを複雑な気分で見つめていた。

 ビーの怒りは向ける先を失っていた。

 自分の小さな感情など関すること無く、シィはあんなにも強く成長している。

 そして自分はーーーー見ているだけで何も出来なかったどころか、一人怒りに我

を忘れただけだった。

 ガウガウ。

 泣けないビーはゴロリと横になった。

 自分はこれから、どうするのだろう?

 どうすればやっていけるのだろう?

 分からなかった。

 ずっとこんな感情を抱いたまま、だれにも触れられずにーーー。


「………ビー?」

「え!?」

 ビーははっと身体を起こした。

 シィがこちらを見ていた。

「………シィ?」

 二人の目線はしっかりと合った。

「シィ!」

 ビーは走っていってしっかりとシィの腕の中へ飛び込んだ。

「ビー!いつの間に来たの」

「シィ………」

 ビーは頭をシィの胸に擦り付けた。

「ごめんね、シィ」

「え?」

「ううん………」

「…………」

 シィはそっとビーの頭を撫でた。

 それだけで二人は十分だった。

「フゥ………」

 シィは盛り上がった氷の道を見つめた。

 鈍く下腹部が痛んだ。

 だが、その痛みはまた、あの母親のイメージを思い起こさせた。

 ーーーいつか、あたしにも子供が出来るのだろうか。

 愛したヒトとの子供が。

 その子を産む時の痛みはどんなだろう。

 そして子供は、どんな人生を送るのだろう。

「あれ……シィ」

 抱かれてシィの肩に顎を乗せたビーが目を丸くして言った。

「何?ビー」

 シィが振り向くとーーーその先には、懐かしいシマが見えた。

「えーーー!」

「シマだね」

 それは少し凍り付いてはいたが、確かにシィのシマだった。

「戻って来た」

 シィはクスッと笑った。

「……それってシマが?あたしたちが?」

「さぁ」

 ビーも笑った。

 ビシビシッ。

 背後の音に二人が振り返ると、御御渡りの様に盛り上がった氷がゆっくりと元に

戻っていくところだった。氷原は左右にゆっくりと別れ、氷塊部は浮き始めた。

 どうやらその下は元の海に戻りつつあるらしい。いつの間にか風は暖かい南から

のものに変わっていた。

 シィはビーと顔を見合わせて言った。

「じゃあーー」

「帰りますか」

「テント片付けなきゃ」

「そうだね」

「沈まないうちにね」

 二人は簡易テントの方へと歩き出した。

 その時、ビーは微かな感覚を覚えた。

 シマにモノが現れる時によく感じる、独特のものだった。

「シィ……ちょっといい?」

「ん?」

 シィの腕から降りたビーはタタッと走っていった。

 テントの中へ入ったビーは見つけた。

 あのアナーキストの血痕は既に無く、そこには木片が転がっていた。

「これはーーー!」

 見覚えのある、その形。

 ビーは木片を抱いて横になってみた。

 サイズも形も肌触りも、程よく身体になじむ。

「これだ!」

 ビーは喜んでシッポをバタバタさせた。

「あ……それ」

 テントに入って来たシィも目を丸くさせた。

「それも戻ったんだ」

「ね」

「……良かったね」

 シィはフッと笑った。

 ビーも木片を抱いたままシィに笑いかけた。

 ーーー大丈夫、まだやっていける。

 そう思いながら。



                            (   終   )


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