#1「The Island」
そこは、モヤモヤとした薄暗い空間だった。
それは目を凝らしたが、その場所の色はよく分からない。音も全くしなかった。
いや、音だけではなく匂いも触感も無いーーー何一つ感じ取れない空間だった。
それはそっと呻いてみたが、同じ様に何も聞こえはしなかった。
体に感じる振動は確かに感じたが、音はそれの体内でのみ存在している様だった。
微かに自分が呼吸しているらしい感覚はあったが、定かではない。
それは、ココは何処なのだろうと思った。
こんなに体は動かせるのに。
視覚は微かにある様だがいくら目を凝らしても自分の身体は全く見えなかった。
だが身体を動かしている感覚だけは、確かにそこにあった。何故ーーー?その不思
議な感覚に、それは戸惑っていた。
そのうち、それは僅かな光を見たような気がした。
遠いところにある微かな、だが弱々しくはない、何かを語っている様な緑色の光
だった。
それは、その光を懐かしく感じた。
そうだ、あれはーーーーあの不思議な青年が放っていたものではないか?
それの中にある、微かな記憶が蘇った。
それは、全身が逆立つ様な感覚に包まれたままその空間を漂っていた。
* * *
シィ。
その大人になろうとしている少女の名前はそう言った。
誰が付けた名前なのかは知らない。父親や母親の記憶は無かった。気がつくと、
シィはそのシマに住んでいた。やがて彼女は自分の名前がある言語では「海」、ま
たとある言語では「イエス」、そしてまたある言語では「静かに」という意味であ
る事を知った。自分にぴったりだ。そう思った。
彼女は物心ついた頃から、一人でそのシマに住んでいた。そこは全周が数十キロ
程度の小さなシマで、綺麗な砂浜と珊瑚礁を持った、南国風の場所だった。砂浜の
奥には百メートル程度の山があり、崖や岩場になっている場所もある。周りを取り
囲んだ珊瑚礁の外は急速に落ち込んで、深い海溝状になっていた。
そのシマ以外に、辺りに陸地は無かった。
「シィ、潜るよ」
ビーはシッポをくゆらせながら波間に身体を翻す。
「了解、ビー」
シィは褐色の肌を砂浜で見つけた小さなスポーツ水着で包み、大きく息を吸い込
んで水中へと身を躍らせた。何度か耳抜きをしつつ、奥深くへと水を蹴る。
そこは、珊瑚礁の外側の海だった。いつもの様に切り立った海溝の壁に沿って二
人はぐいぐいと潜っていった。それは二人がよくやる、物資探しを兼ねた探検だっ
た。
この隔絶されたシマには、文明の痕跡らしきものは無い。だが時折、砂浜や珊瑚
礁内の海底や、時にはこういった海中の壁沿いに、モノが見つかる。それは食料だ
ったり、辞書だったり、映像ディスクだったり、ナイフだったり。時に役立つ、時
には全く役には立たない、そしてどんなにしまい込んで隠していても一度嵐がこの
シマを薙いだりすれば何故か無くなってしまうものなので、イチイチ執着はしてい
られない。だがそれによってシィ達は日々を生き延びることが出来ている。
ここはそういうシマだった。
海溝の中は、徐々に暗くなっていく。
シィは体力があった。常人では耐えられない程の水圧に耐えたし、肺活量も人並
み以上だった。潜水時間は優に20分を越えた。深度200を越えた事もある。だ
がそれでもシィは満足していなかった。少しでも先をーー見たところの無い場所に、
届きたいと思っていた。
「!?」
シィはハッとして振り向いた。その綺麗な緑色をした瞳が海面からの光でキラリ
と光った。視線の先にはビー。シッポでシィの背中を軽く叩いたからだった。
見ると、ビーは海溝の壁沿いに身をくゆらせ、壁面にある穴に向かって泳いでい
ったところだった。
「………」
シィは暗く落ち込んだ海溝の先の方へ少し後ろ髪を引かれる思いだったが、ビー
の後を追って壁の方に泳いでいった。そろそろ息も辛くなって来ている。ビーは穴
へと頭を突っ込み、何かを確認した様にこちらを向いて頭をクイクイとやった。そ
うーーこのシマに何かが現れる時は、大抵先にビーが見つけた。シィが覗くと、そ
こには小さな缶状のモノにカップが付いた様な物体があった。
「?」
シィは少しビーと顔を見合わせ、そしてそっと穴の中に手を入れた。ギリギリで
それに指先が触れた。
「ん……」
息が苦しくなって来た。シィは手を一杯に伸ばしてそれを掴むと、光る海上へと
向かった。
暗い水の底から希望の光へと向かっていく、その雰囲気がシィは好きだった。海
面にたどり着き、胸一杯に新しい酸素を送り込む時の満たされた感覚も。
「これ……」
「酸素ボンベ、かな」
砂浜に上がったビーはクンクンと匂いを嗅ぎながら言った。シィは肩までの黒髪
をバサバサッとやって水気を切ると、再びそれを覗き込んだ。
「ボンベ?」
「そう、ここ咥えて」
ビーはボンベの先のカップ状でゴムで出来ている部分を頭で指し示した。
「よく知ってるね」
「まぁね」
シィはボンベを取り上げて先を咥えてみた。プシュッと音がして、酸素が中から
溢れてきた。シィがボンベを口から離すと自動でそれは止まった。
「スゴイ」
「でしょ。これならもう少し先まで潜れるね」
「そうだね」
「でも残ってる量は分からないから、行き過ぎちゃだめだよ」
ビーは満足そうにグルルと喉を鳴らした後プルプルと身体を震わせて水を跳ね飛
ばしシィの小屋の方へと歩き出した。
「………」
シィはそんなビーの方を見やる。
ビーと言う名前は、ビーが文字通りビーバーだからだった。ビーはいつの間にや
らやって来てこのシマに住み着いた。泳いでいて「やぁ」と声をかけられて、シィ
は恐らく初めて聞いた他人の声と振返って見たその毛むくじゃらな風貌に驚いたも
のだ。その後シマに流れて来た図鑑によると、本来のビーバーは喋ったりはしない
ものらしい。それでも、ビーはシィにとって良き話し相手であり、割と物知りな教
師であり、このシマで一緒に生きていく同志でもあった。ちなみに男っぽい喋り方
はしているが男性器は見られない。同じく図鑑によると時々それは体内にあったり
するので外見のみで性別を判断するのは困難、ということだそうだ。ビー自身も「
いつか分かればいいんじゃない」とのことなのでシィも特に気にしてはいなかった。
* * *
「城?」
ビーが今日のディナーのマダイを食しながら言った。
シマでの食事は、大抵シィの小屋の前の焚き火で行われる。そこは砂浜から少し
上がった丘の上で、シマの波打ち際と水平線とを眺められる絶好の場所だった。メ
ニューはやはり魚介類が多かった。何度か畑を作ってみようとシィが挑戦したが結
局シマの天候が思う様にはならず、また時にやって来るハリケーンで根こそぎやら
れてしまうので今は断念していた。食料は海に潜って魚や貝類を取って来るか、コ
コナッツ等の果実、後は砂浜や山の中や海底に時々出現するものに頼っていた。た
まには野菜やサプリなども何故か手に入るので、今のところ二人とも体調に問題は
無い。まれに数日絶食になるのがキツいと言えばキツかったが、シィもビーももは
や慣れてしまっていた。
「んー、塔…かな」
とシィが言ったのは、そこから波打ち際に見える、昼間にシィが砂で作ったオブ
ジェ状のモノのことだった。シィはそうやって砂で色々なものを作るのが好きだっ
た。心の中に思い描いたものを、砂で表現する。一時それは存在するが、やがて波
に洗われて無くなっていく。その刹那的な様が良かった。
今回作ったのは、少し前からイメージしている白亜の塔だった。流石に砂では棒
で芯を作っても高さに限界がある。なのでバベルの塔程度のものにしかならず、城
かと言われたのが少々癪ではあった。かといって木や葉で形作るのもどこか違う気
がするのだった。
「そっか」
食事を済ませたビーは興味無さげに立ち上がって自分の巣の方へと向かった。小
さなシマで、本来のビーバーがダムを造る様なスペースは無い。だが小屋の側にあ
る小さな川の河口に一応何本か木を切り倒して造った小さな巣で、ビーは暮らして
いた。
「また明日」
シィは声をかけた。
「うん」
そうビーも返した。
「………」
ビーが潜るバシャという音を聴きながら、シィは水平線を眺めた。夜の波は穏や
かだった。
この先に何があるのか。物心ついた頃からつきまとった疑問。それを突き止める
作業に、シィは何度も挑戦した事がある。数週間分の食料を積んで筏でシマを離れ
た事もあった。だがそれらは一度として成功しなかった。ある時はハリケーンに遭
遇し、命を落としかけた。凪がずっと続いていただけだった事もある。違うシマか
と思ったら巨大なクジラだったこともある。だが結局、シィが他の陸地を見る事は
なかった。
ビーがこのシマにやって来てから、シィはあらゆる質問をぶつけた。このシマは
何なのか、何処にあるのか、他のシマは、人はいないのか。ビーは答えを持たなか
った。だがこのホシに他に気配は無いーーそう言った。ホシ、という概念をシィは
その時初めて知った。そしてこのホシの裏側まで行っても、自分の他には誰もいな
いのだーーそのことにシィは愕然とした。
あれから、随分経つ。シィはそれでもこのシマにいた。知らない事はまだ沢山あ
る。他に何があるでもないこのシマで、シィは生きていた。
* * *
次の日、シィは海を眺めていた。一晩寝ると気分は晴れていた。
早めに起きていつもの様に海岸沿いを少し歩く。運が良ければ何か見つかる。見
つからない日も当然あるがそれは気にしない。それがシィの日常だった。肩から下
げた手製の革のバッグには昨日のボンベが入っていた。いつもの様に寝ている間に
無くなったりはしないかと心配していたが、朝になってもそれはそこにあった。と
言う事はーーー、とシィは考える。
早めにこれを使うべきなんじゃないか?
シィが気になっているのは、此処数回潜った時に感じた、あのシマの周囲の海中
の崖の先にあるものだった。シィが普段潜れるのは最高でも250メートル弱程度。
まだまだその先に壁面は続いていた。その先に、何かがある。自分を呼んでいる。
その先には、今までと違う何かがあるのだーーシィはいつしかそう思う様になって
いた。
「……行くの?」
いつもより多めのブランチを見ながら、ビーは言った。
「うん、行って来る」
「一緒に行こうか?」
ビーの肺活量はシィよりも少しある。ビーもまた本来のビーバーよりは少しばか
り強靭に出来ているらしくいつもシィが先に息が持たなくなるのだったが、こと水
圧に関してはシィの方が耐性があった。今回行くのはいつもよりも更にその先だ。
「うーん…やっぱり待ってて」
シィは少し考えてから言った。ビーはもし自分に何かあったら自分の呼吸も命も
構わずシィを助けようとするだろう。
「分かった。無理はしちゃダメだよ」
ビーはクリッとした瞳をキラキラさせながらあっさりそう言った。
「分かった」
シィは、そっと笑んだ。ビーは自分を否定する様な事を一度も言った事がない。
何故なのだろうか。
「うん…ありがと」
よし、行くか!と、シィはココナッツをほうばった。
シィは珊瑚礁の脇でもう一度波打ち際のビーに手を振ると、勢いを付けて潜って
いった。ボンベを咥えると、プシュッという音と共に酸素が肺を満たした。
ビーによると、ボンベを使えるのは最初のうちだけで後はいつも通り自力で行か
ないと危険なのだそうだ。そうしないと溶け込んだ酸素や窒素が人体に悪影響を与
える。シィの感覚では出来るだけ素潜りしてからボンベーーの方が良さそうな気も
するのだが、それならそれで仕方が無い。ビーが自分に嘘を言ったことは無いのだ
から。
ぐいぐいとシィは手足を振った。水の重さはまだそんなに気にならない。少しず
つ、辺りは暗くなっていった。壁際には時々穴が開いているが、今日はいちいち中
を覗いている場合ではない。シィは深淵の底へと、降りて行った。
いつもと同じ静かな空間がしばし続いたが、シィは何かの予感めいたものをずっ
と感じていた。これが、ずっと自分が目指していた何か。今までこの島の内外で、
何一つ自分が見つけられなかった何か。やっとそこに到達するのだ。
普段よりも少しだけ深く潜ったところでボンベは切れた。此処から先は自分の肺
活量との勝負だ。引き返し時を間違えれば命が無くなる。だがーーそれでも。シィ
はそれだけの価値があると思っていた。何故かは分からない。だがシィにはそう感
じられていた。その感覚は他の誰にも分かるまい。いや、そもそもこのシマにはビ
ー以外誰もいなかったっけ。そしてビーはーーそれでもシィを否定しはしないだろ
う。
シィはゆっくりと潜っていった。
光はほぼ届かなくなった。上を見ても水の厚みの向こうに微かな光が淡く揺らい
でいるだけだ。随分遠くまできたーーシィは思った。水圧はかなり強くなってきて
いた。だがシィのしなやかな肉体はまだ耐えていた。本来ならば真っ先に眼球がや
られそうなものだが、ゴーグルもしていないその緑色の瞳はしっかりと暗闇の中で
も微かな光を捕えていた。
その眼前に広がる、今で見た事の無い深淵の暗さ。
「………!」
シィは、少しゾワッとした。思えば、ビーがいない状態でここまで潜った事は無
かった。
久しぶりに、自分は独りになったのだ。
シィは考えていた。
自分は、何故此処にいるのだろう。何の為に生きているのだろう。
漠然としたその不安。それは胸の奥にずっとあった。
シィは、気がつくとシマにいた。親は知らない。それから、シィはしばらく一人
で生きていた。食料は、自分で調達していた。そのやり方は、何故か身体が知って
いた。そのことをシィはずっと不思議に思っていた。
時々シマに打ち上げられる物資の中に、映像ディスクがあった。最初は何なのか
分からなかったが、そのうちその再生機も現れ、覗いたシィは驚いた。自分と違う
世界。自分と違う人達。だがそれは全く見も知らない事ではなく、何処かで知って
いた感覚があった。そうーー自分は忘れているだけで、一通りそういうことを経験
してからこのシマにいるのではないか?
そうして、続いて来たシマでの日常。ただ物資を探し、食料を探し、時に砂でオ
ブジェを造っては消えていくループ。それ自体は楽しい。ビーとの日々も穏やかだ。
時に自身が透き通っていく様な感覚も好きだ。だが、ずっとそれでいいのだろうか。
「………」
シィはずっと潜り続けていた。
静けさが辺りを包み込んでいた。
ふと、シィは気がついた。
側にあった筈の切り立った崖の壁面がーーー無くなっている?
「!?」
シィは辺りを見回してーー見つけた。斜め上、数十メートルのところに微かだが
巨大な影が見える。
あれは……?
シィは混乱した。あれは、もしかして壁の下?ということはーーーーシマは、浮
いていたのか?
動悸が激しくなって来た。フリーダイブでは危険な兆候だった。
マズい、残り時間はそう無いーー上がらなければ。だが、この状況を理解しなけ
ればーー!
シィはせめてその壁の下部に触れようと上に向かおうとした。その時だった。
” ”
誰かが呼んだ様な気がした。
「!?」
それは下の方からに思えた。
シィは目を凝らしたが、既にほぼ真っ暗な辺りの更にその先は、何も見えはしな
かった。
「………」
呼吸の出来ない身体はどんどん苦しくなって来る。
………よし!
シィは、下に向かって最後の力を振り絞った。そこに、何かがあるのだ。それが、
自分の見たかったもの。もしその先端にでも触れられるならーー!
肺がどんどん潰れていく。目も霞んで来た。死が、すぐそこまで迫ってきている。
ーーーゴメンね、ビー。
そこだけは、後悔が少しあった。
それでも、ビーは分かってくれる。むしろ、それを予想して見送ってくれたので
はないか。
シィは薄れ行く意識の中でそう思った。
………バシュッ。
突然まばゆい光が辺りを照らした。
それは、緑色の光。それは強く輝き、シィを包み込んでいった。
「!!」
その時シィは見た。その光に照らされた深海のその先に、最近夢で何度か見た白
亜の塔の先の様なものがチラリと見えたのを。
* * *
「………あ………」
シィが目を開けると、そこはシマの小屋がある砂浜とは反対側の海辺だった。こ
ちらは砂浜というよりはゴツゴツとした岩場で、よく引き潮時に魚が取り残されて
いる場所だった。
シィの腹の上には、ビーがぐったりとして乗っかっていた。その瞳は心無しか涙
に濡れている様に見えた。……ビーバーも泣いたりするのだろうか。恐らく、自分
を見つけて懸命に介抱してくれていたのだろう。シィはそっとその頭に手をやった。
「………」
シィは、そのまま空を眺めた。いつものゆったりとした青空だった。あれから随
分時間が経った様な気がするが、まだ太陽は高いところにあった。
ゆっくりと手を挙げて太陽に透かしてみる。自分は、あれからどうしたのだろう。
あの緑色の光に包まれたとき、奇妙な幸福感があった。そして、あの白亜の塔を見
た後、自分はーー?この場所まで、『飛んだ』のだろうか。
ーーー『飛んだ』?
瞬間移動した、という意味合いだったのだが……その言葉がすんなり出て来たこ
との方に、シィは驚いた。
「………?」
何かが引っかかっていた。何処かで、自分はその言葉を知っている様な気がした。
「ん……」
ビーが目を覚ましつつムニャムニャし始めた。シィは首だけ起こして腹の上のビ
ーに声をかける。
「ビー…重いよ」
「んー?…あぁ、ゴメン」
ビーはノソノソとシィのお腹から降りた。
「こっちこそ…ゴメン」
シィは頭を下ろしてまた目を閉じた。
「まぁいいよ、生きてたから」
海の底で何があったか、ビーは知っているのだろうか。ビーなら、知っていても
おかしくないーー何故かそう思った。
「魚穫っといたから、お腹空いてるなら食べな」
ビーはそう言って頭で側の岩場の水たまりを指し示した。
「うん」
シィはゆっくりと起き上がった。潜った後のいつもの気だるい感じがまだ全身に
残っている。
「……!?」
首の後ろに微かな違和感を感じて、シィは自分のうなじに手をやった。薄いカサ
ブタの様な、微かに皮膚よりは固い部分があった。
「気付いた?」
ビーが丸くなって言った。
「何これ」
「さっき見つけた時からあったよ」
「えっと…どうなってるの?」
「タトゥーみたいのがあるね」
「どんな?」
ビーは首を傾げた。
「どうって…丸みたいな、『C』みたいな」
「……シィ?」
シィはまた自分の名前の発音に関する事が出て来た、と思った。どんな感じなの
か見てみたかったが鏡はしばらくシマには現れていない。水に映して見るには難し
い場所だ。
「身体に別状はないよ」
ビーは腹をお日様に向けてプルプルしながら言った。
「そう…ならいいけど」
ミラー的なものがまたシマに現れるまでおあずけかーーーまぁ仕方が無い。
シィはそう思いながら起き上がって側の水たまりに入り、器用にヒラメを持ち上
げ腰の布につけていた小さなナイフを取り出して裁き始めた。
「そうだ」
「ん?」
「この症状?の名前……何て言うの?」
ビーは少し動きを止めて考えた。何かを思い出している様だった。
「ヒ……いや、フ……ファ?」
「思い出せないんだ」
「ゴメン」
「ううん、大丈夫」
シィは荒く削った刺身をビーに投げ、自らも一切れ口に放り込んだ。
* * *
その日は疲れていたのか、シィはいつもの小屋には戻らず、岩場を抜けた先の林
の入り口にあるココナッツの木の根元で眠りについた。ビーも付き合って側の木を
二・三本かじって切り倒しその影になっている場所に潜り込んだ。やはり屋根があ
ると落ち着くのだった。
綺麗な月が辺りを照らしていた。
ビーは寝付けず、夜空をバックに眠りこけるシィの上下する胸に目をやった。
褐色の肌に程よく筋肉の付いたしなやかな身体。肩までの黒髪に緑色の目。割と
綺麗な容姿だとビーは思う。だが本人は特に気にはしていないようだ。元来、それ
は他人がいて初めて気になるものなのだろう。一人が長いシィに、それは無かった。
もっとも、完全な原始人タイプではないことから、かつて誰かと成長していたこと
は予想出来た。ビーが来るまでにこのシマで何があったのかは知らない。本人もあ
まり記憶がない様だ。ビーは特にそれには触れず、シィと暮らしている。シィの芯
のある意志的な瞳は、時にビーをザワザワさせた。自分には無い何か。自分より先
に全てを思い出して高みへ行ってしまうのではないか。そんな予感があった。それ
でも、シィが「潜りたい」と行った時に、ビーは止めはしなかった。やりたい様に
させてやろう。それがこのシマでの自分の役割だ。何故かビーはそう思う様になっ
ていた。
深海からシィが帰って来た時もそうだった。ビーはシィが潜った辺りの海面をず
っと波打ち際から眺めていた。一見普段と変わらない綺麗な珊瑚礁の海が、その時
は何処か違って見えた。そして、ビーは見た。珊瑚礁の外の海面の下から突然緑色
の光が溢れたのを。その先に、シィがいる。そう思った。だが次の瞬間、その緑色
の光はバァッと散った。その時何故か、ビーは背後ーーシマの反対側にシィがいる
のを感じた。その光が教えてくれた様に思えた。ビーは急いで海に入り、海岸沿い
を泳いで反対側の岩場へと向かった。果たして、そこに打ち上げられた様に倒れて
いるシィの姿があった。
シィは特にケガも無く、気を失っているだけだった。だがその首筋、後頭部の生
え際の近くにビーは変化を見つけた。小さな、タトゥーの様な丸い紋章。皮膚より
僅かに固いもののそれは身体の内部と一体となったものに見えた。ビーは、それが
何なのか知っている様な、懐かしい様な、不思議な感覚を覚えた。だから「この症
状の名前は」とシィに聞かれた時にビーは曖昧な返事しか出来なかった。自分は、
それについて何かを知っている筈。だがそれが何なのか今は思い出せない。
それがとてももどかしかった。
* * *
『飛ぶ』。
その言葉と現象に、シィは憧れていた。
あの時、自分は一度死んだ筈だった。それでも今、自分は生きている。それはあ
の緑色に優しく光ったあれのお陰なのだ。そして、あの光に包まれた時。自分の中
に何かが流れ込んで来る様な、同時に自分の中から何かが沸き上がって来る様な不
思議な感覚。いつかまた、あれを味わいたいものだ。そう思った。
あれから、僅かだが確かに何かが変わったのだ。
シィは相変わらず何かを求めている感覚はあったが、それが焦りの様なものだけ
ではなくなった。何処かで期待感も入り交じる様になったと思う。ビーも相変わら
ず飄々とはしているものの、時々モノ憂げな顔もするようになった。といってもビ
ーバーの顔なのでシィの想像でしかないのだが。
そしてシマは、時々風景が変わる様になった。
それまで水平線近くに雨雲やストームがあってあと数時間で豪雨だななどと思う
事はあったが、時にあり得ない程突然にスコールになったり、突然気温が下がって
雪が降ったりする様になった。シマに現れる物資もいつも以上にランダム感が増し
た。時に使用方法が全く分からないものが来たり、また現れたものが無くなる頻度
も上がったりといった具合だった。
それでも、シィとビーはシマで日々を感じながら過ごしていた。
* * *
その日、シィは午前中からアジを穫って来た後それを裁く手を止めて海を眺めて
いた。
長雨が続いた後の久しぶりの晴れだった。波打ち際はキラキラとした飛沫が舞っ
ている。
「シィ」
シィははっとして我に帰った。
ビーがノソノソと近づいて来ていた。
「あ…ゴメン」
「ん~、別に」
ビーは側に来て腹を砂浜につけて海を眺めた。
「……また行きたい?」
海溝の底へ、という意味だったろう。
シィは少し考えた。
「う~ん…またボンベが来たら考える」
そう言ってシィは屈託の無い笑顔を見せた。
「今度は気をつけてよ」
ビーは満足そうにグルルと喉を鳴らしてから真剣な顔になり、シィを見上げた。
『ファントム』。
「え?」
「その首筋のやつの名前」
シィは目を見開いた。
「思い出したの?」
「ん~、…降りて来たっていうか?」
実際、ビーは『ファントム』が何なのか現れた時点では知らなかった。記憶の奥
底で何か知っている様な気がする、というだけだった。だがそれから数日。それは
徐々に形となり、ある時『ファントム』という単語が脳の中に現れ、そこから堰を
切った様に情報が記憶となって流れ込んで来た。
「通信装置、みたいな感じ?」
「電話みたいなものってこと?」
電話というものの存在はシィは時々現れる映画で知っていた。それは小さな箱で
遠距離と話が出来る装置だ。勿論シマには無い。そして話す相手も。
「ん~、それが生体的に埋め込まれたやつって感じ」
「じゃあ…これで誰かと話が出来る?」
「話だけじゃなくて色んな情報ももしかしたら得られるかも」
「へぇ、どうやるの?」
そこでビーは黙った。
ビーの中に現れた記憶に寄ると、それは本来は手の甲にあり、人同士が会ってお
互いに甲を合わせて成立するものだったからだ。他に誰もいないこのシマでそれは
期待出来まい。更にその先の情報に辿り着くには、そもそも『ファントム』がその
回路やネットワークに繋がれなければならない。実際シマがそこに接続出来る状態
なのか、ビーには分からなかった。
「繋がるかどうかはまだ分からないんだけどね」
とりあえずビーはそう答えた。
シィは期待に目をキラキラとさせている。
「そう…とりあえずやり方は?」
「そうだね…」
ビーは首を傾げた。
「手を当てて、後は集中かな」
「そっか……」
シィはそっと首筋に手をやった。『ファントム』は少しザラッとした感触で、押
してみても普段の自分の皮膚感覚とそう大差はなかった。シィは目を閉じて、黙っ
た。
一分程そうしていただろうか。
シィは目を開けた。
「……ダメかな?」
「まぁ、おいおいね」
ビーは自分の巣の方へと歩き出した。
さて、これからどうなるだろう、このシマはどうなっていくのだろう…と不安半
分、期待半分な感じだった。
* * *
それからしばらく、シィは合間を見ては『ファントム』に触って押したり引っ張
ったり擦ったり、そして目を閉じて集中してーーを繰り返していた。時々微かな雑
音の様な予感めいた何かをもたらす様な感覚もあったが、それはシィの期待が作り
出した幻聴だったのかもしれない。
だが、そのうちシィは見つけた。あの時海溝で見つけたあの白亜の塔。それを思
い描きながら集中すると、比較的何かが聞こえる様な気がする。あの塔は、ひょっ
として自分にとっての電波塔の様な存在なのではないだろうか。だからこそそのイ
メージがその前から自分に現れていたのではないか?だとしたら、それを見せてく
れたあの時の緑色の優しい光こそ、『ファントム』を繋ぐのに必要な存在なのでは
ないだろうか。
また、潜らなければーーシィはそう思った。だがボンベが無い以上それは自殺行
為だ。『ファントム』のその先に到達することは出来なくなる。
なのでシィは日々海溝の途中まで潜っての物資探しに没頭した。しばらく砂のオ
ブジェも作らなくなっていた。
その間も、シマは時々環境の変化を見せていた。時にシマは崖状に変化した。か
と思えば砂浜以外の陸地が消え、シィとビーはしばらく風雨にさらされたりもした。
「ここんとこ変化が激しいね」
「やっぱり…このせい?」
シィは土砂降りの中うなじの『ファントム』に触れて言った。シィの黒髪からは
ポタポタと雫が落ちている。ビーはシャワーの様な雨に身体を預けながら首を傾げ
る。
「っていうかーー」
「何?」
どっちかというとあの緑の光の方でしょ、とビーは思う。あれ以来、シィもビー
もあの光は目にしていない。次にあれが来る時、このシマはどうなるのだろう。シ
ィにはまた次の何かが起こるのだろうか。
ビーもシィも、それを淡々と待っていた。
* * *
それは、急にやってきた。
その時ビーは珊瑚礁の内海でカニとひとしきり戯れた後ササッとそれらを捕え、
シィのランチにしようと波打ち際に上がったところだった。
晴天の霹靂。雷鳴が突然轟いた。
『ヒュー』の光。その時ビーの脳裏にその新しい単語が浮かび上がった。ビーは
驚いてカニを取り落とし、逃がしてしまった。ビーはその微かな予感にそっと辺り
を見回した。砂浜の遥か向こう、アーチ状に回り込んだその先の海面に、果たして
その緑色の光が海中から沸き上がっていた。その辺りには渦潮の様に海水が吸い込
まれていた。
「シィ!」
ビーは叫んだ。シィは?ひょっとして自分に黙って海溝に潜り、そしてあの渦に
ーー?気配は、あの光の方角だった。
ビーは陸上ではそう早くは移動出来ない。急いでいてもその歩みはノソノソと緩
やかだった。だがビーなりに急いで砂の丘を越えると、シィは海岸に佇んでその光
を見ていた。
「シィ……」
ビーは少し安堵して近づいていった。
「ビー…あれーーあの光、あの時海溝で見たの」
シィは光から目を離さずに呟いた。ビーもシィの後ろで佇んでその光を眺めた。
「うん……」
ついさっき知ったーーというか思い出したが、あの光の名前は『ヒュー』。だが、
それ以上の何かはビーの頭の中には出て来なかった。あるのは、知らない青年のイ
メージだけ。…青年?それは一体誰なのだろうか。
シィは緑の光から目を離さずに立ち尽くしていた。『ヒュー』の光は、心無しか
薄くなっている様に見えた。気がつけば渦も小さくなって来ている。
「行かないで…」
シィがそっと呟いたその時、光はフッとかき消えた。
「あっ?!」
「……えっ」
ビーが驚いたのはその瞬間、シィのウナジの『ファントム』がフワッと緑色の光
を帯びた様な気がしたからだった。
光の消えた場所では、海面が緩やかに元に戻りつつあった。
「行っちゃった……」
シィは立ち尽くしていた。ビーは側に寄ってシィの緑色の瞳を見上げた。シィは
哀しそうな表情を浮かべていた。ビーはまさかと思いシィの周りをウロウロして身
体のあちこちを確認したが、見えるところに変化は無さそうだった。
「シィ…、大丈夫?」
「ん……何か起こるかと思ったんだけど」
そう言いながらシィはそっと首筋の『ファントム』に触れた。
「!?」
シィは目を見開いた。
ガクと膝が落ちた。
キィーン。
「どうした?」
ビーは膝を突いて動かなくなったシィに抱きついた。シィの瞳孔は開き、焦点が
定まっていなかった。
「シィ!」
ビーは絶叫した。
* * *
シィは、謎の空間を体感していた。
それは、緑色や青や黄色の無数の光がランダムに飛び交う空間だった。その中を、
シィは流れていた。
「わぁ…」
シィは自らの手を見た。本来褐色の自分の手が、身体が淡い緑色を放ち、光って
いた。
シィは思った。そっか、皆ホシなのだ。
ホシ?ホシって?
宇宙、そしてホシという概念は、シィは知っていた。ビーに聞いたし、それはか
つて誰かが教えてくれていた気もするし、シマに流れ着いた図鑑や映画でも何度も
見た。だがこれは、この風景は自分は知らない。
思う間にも辺りは光で溢れ、やがてその光たちは自分に寄り添い、交差を始めた
様に見えた。
「あぁ………!」
その感覚は、あの『飛ぶ』時のそれに似ているとシィは思った。
キィーン。
また微かな音がした。
”キ………”
無数の雑音の様な響きの中で、確かに誰かの声がした。
「……誰?」
シィは辺りを見回す。この光の中の誰かと、ようやく繋がったのだろうか。
”キミハ……ダレ?”
確かにそう聞こえた。微かだが優しい、男の声だった。
「あたしはシィ!シィだよ!あなたは?!」
シィは叫んだ。
”シ……”
シ、のその後に、何かが聞こえた様な気がした。
と、辺りを飛び交う光のスピードが急速に増した様に見えた。
「!?」
いやーーシィ自身が、その光の群れから急速に離脱しようとしていた。
”……………”
「待ってーー待って!」
シィはもがいたが、どうする事も出来なかった。光群はどんどん離れ、辺りにい
た数少ない光たちもやがて見えなくなっていった。
* * *
シィは、気がつくと珊瑚礁を見下ろす小さな崖の上に寝そべっていた。
辺りは夕闇が迫っていた。一面のオレンジ色の世界。身体を起こすと水平線に夕
日が沈むところで、海面がキラキラとした光に染まっている。本来日が沈むのはこ
ちら側の面ではなかったがこれはここ最近のシマの変化の一つなのだろう。シィも
既に慣れていた。
「シィ」
ビーが登って来た。
「あ……ビー」
「びっくりしたよ」
シィは膝に顎を乗せて一息ついた。
「あたし…どうした?」
「『飛んだ』のかな。」
「………!」
シィは目を丸くした。『飛ぶ』と言うあの単語を、ビーにはまだ伝えてはいなか
ったのだ。
「それってーー」
ビーが言うには、あの波打ち際でシィの身体がフワッと緑色に光り、そしてビュ
ワッと消えたらしい。その先は分からないがーー数秒後にシィの気配をこの崖の上
に感じたのだと。
「そっか……」
シィはそっと首筋の『ファントム』に触れた。そこは少しだけ熱を帯びている様
だった。だが今は何の音も聞こえない。
「何か、見た?」
「うん……光をいっぱい」
「ナニソレ」
「うーーん……」
シィは少し考えた。そして言った。
「繋がるには、まだ時間がかかるってことなのかなぁ」
* * *
それから、シィは何度か『ファントム』で接続を試みた。
コツは何となく分かった気がした。あの白亜の塔、だけではなく自分が好きなも
の、見て貰いたいものーー等を想像しながら『ファントム』に触れる。そして同時
にあの『飛ぶ』時の感覚を呼び起こす感じで集中すればーー。
ノイズ的なものは確かに聞こえた。聞こえた、というよりは直接頭の中にそれが
届く感覚だった。何か映像や文字的なものも微かに届いている様な気もするが、そ
れはかなりボンヤリとした輪郭のものではっきりと認識するには不十分だった。
だがーーとシィは思う。確実に、何かが届いてはいるのだ。あの無数の光のイメ
ージ。そしてこの間の海岸からの飛翔。自分の中に、あの何らかの光は確かにある
のだ。あの無数の光がある場所の近くにさえ行ければ、それは繋がる筈のものなの
だ。
別にシィはこの世の全ての情報が欲しい訳では無かった。あの時聴いた、優しい
男の声。あの誰かと話がしたい。あの人の色んな事を知りたい。今はそう思ってい
た。
シィは久しぶりに筏を出してシマの外海へと向かった。
ひょっとしてシマの外ならーーと思ったからだ。だが特に『ファントム』に変化
は無かった。
「ダメそう?」
着いて来たビーが筏の縁から水面を眺めていた。水面下の魚を探している様だっ
た。
「ん~、そうだね」
フゥ、とシィはため息を吐いて立ち上がった。
「ちょっと潜る」
「え」
「大丈夫、ちゃんと戻って来るよ」
言うが早いかシィは飛び込んだ。褐色の健康そうな肢体が海面に消え飛沫を上げ
る。
「あ……逃げちゃった」
結構大物だったのにな、とビーは思ったが諦めて筏にお腹を付けて寝そべった。
……出来ることなら、何とかしてやりたいものだがーーーどうしようもないか。
ビーはふと思いついて自分の身体をくまなく触れてみたが、『ファントム』らし
きものは確認出来なかった。
それはそうかーーー再びビーは寝そべって目を閉じた。
『ヒュー』の光。まだそれについての記憶は降りて来ていない。ただ、優しいも
のだというイメージはある。そしてそれは知らない青年が発するものだという微か
な記憶も。だがその光はシィの身体からも溢れた。それを繋ぐのが、あの首筋の『
ファントム』ということなのだろうか。自分が知っているものとは少し違う様だっ
た。所詮、自分の記憶などそう当てにはならないってことか、とビーは思った。
ーー結構、頼りにされてるのに申し訳ないな。
ビーはくるんと仰向けで空を見上げた。
シィはある程度の深さでゆったりと漂いながら『ファントム』に触れて集中し
た。
やはり微かなノイズだけだったが風や波飛沫の音などが聞こえない分、よりクリ
アに聞ける気はした。その中には時折聞こえる遠くのクジラの鳴き声の様な響きも
混じっていた。それは、おそらく直の音だろう。何度かシィも出くわした事もある。
最初出会った時は驚いたが、回数を重ねる度にこちらが敵意を見せなければそうそ
う手は出して来ないことは分かっていた。
「………」
シィは身体を回して漂い、ゆっくりと海面を見つめた。揺らめきの向こうの太陽
が淡く光っていた。
あの時の遠くの光たちの元へ、いつか届きたいーーいや、届くのだ。そう思った。
* * *
その日は早々に引き上げ、ビーが穫ったエビでディナーを済ませた。
「おやすみ、シィ」
「おやすみ、ビー」
二人は久しぶりに穏やかな夜の中、それぞれの巣に戻った、
「ん………」
シィは、自慰を覚えた。覚えた、というよりもそれは他のボンヤリとした記憶と
同じく、やってみるとかつてしたことのある何かだった、という感覚に近かった。
シィの片手は下腹部の敏感なところを捕え、もう片方は程よい大きさの乳房に当
てられていた。
あの光を、あの声を聴いてからーーだと思う。
疼く。何故だか、分からないが。
「……あっっ」
しなやかな褐色の肢体が少し跳ね上がり、程よく肉の付いた足が突っ張った。シ
ィは息を弾ませて微睡んだ。心地よい疲れが身体を覆っていた。
「はぁ……」
シィは葉を集めてシーツを敷いて作った自身のベッドで仰向けになった。自分の
ものでぐっしょりとなった指を眺める。
男。自分はちゃんと知っているのだろうか。映像や本で、大体の事は知っている。
だが実際は?男に組み敷かれたことはあるのだろうか。ひょっとして他の記憶と同
様に全て済ませてしまっているのだろうか。ならば何故それを自分は覚えていない
のかーー。
シィはそっと濡れた自身に手を伸ばす。そして指をーー入れようとしたところで
止めた。
今は、まだいい。
シィは裸のまま外に出て夜風に当たった。
夜の海は暗く佇んでいた。
「………」
ビーは巣の中でそれを聞いていた。
元来動物の聴覚は人間のそれよりも高い。
人間ならば、あの歳の健康な女子ならば普通の事なのだと理解はしていた。
だがまだ彼女には生理が来てはいない様だった。どういうことなのだろう。この
不思議なホシでは、シマではそれもあることなのだろうか。
そしてビーは思う。自分は、どうなのだろう。いずれ繁殖の時期が来て、発情す
る事もあるのだろうか。ここ数年、自分には来ていない。そもそも、自分がオスな
のかメスなのかさえまだ分かっていないのだ。
いつか、それが分かる日が来るのだろうか。そして対になるもう片方と出会う事
があるのだろうか。
その時、自分はどうするのだろうか。
「………」
ビーは黒い目玉をクリクリと動かした。全く実感は無かった。
それは時が来れば分かるのだろう。
やがて、ビーはゆっくりと目を閉じた。
* * *
シマは、それからも時折変化を続けていた。
二人はそれでも何とか暮らしていた。少し絶食期間が長くなったり、嵐で数日小
屋から出られなかったりはしたが、その時ごとに彼らは協力しながらやり過ごして
いた。
相変わらず『ファントム』はシィに微かなノイズとボンヤリとしたイメージをも
たらしはしたが、直接何かを訴えかけては来なかった。それでもシィは焦らず希望
を失わずに接続を試みていた。いつか、それは繋がるのだろう。そう思っていた。
そして、予感。
それは何度か続いた嵐の間の静かな午後。
朝起きたときからシィは何かを感じていた。
「ねぇ、ビー……何か違わない?」
「違うね」
「やっぱり?」
「シィがソワソワしてる」
ビーはブランチの久々の木の実を齧りながら言った。
シィはプウッと頬を膨らませた。
「じゃなくてさ」
ビーはグルルと笑んで木の実を飲み込んだ。
「うん。多分、何かが起こるのかな」
「分かる?」
「何となくね」
「それって…『ファントム』が?」
「さぁね」
ビーはすっかりと自分の皿の木の実を平らげていた。皿や食器は木製で、大抵シ
ィの手作りだ。
「でも、楽しみだね」
やっぱり魚の方がいいな、とビーは思いながら側の水の杯に顔を突っ込んだ。
シィは笑んだ。
「……うん、楽しみ」
シィの緑の瞳がキラキラと光を反射して光っていた。ビーはそれを温かい気持ち
で眺めていた。
その午後、突然にそれは現れた。
珊瑚礁の内側の浅い海で、シィは誰かが呼んでいる様な気がして振り返った。
「……ビー?」
ビーはまた別の環礁で魚と戯れていた。
「じゃあ……」
シィは辺りに目をやりながらそっと『ファントム』に手を触れた。
いつもの様に何かのイメージがシィの脳裏にふわっと現れた気がした。
”誰か……”
シィはいつもの様に名も知らぬその誰かに心の中で話しかける。
”誰か、いる?”
静かに、波が立っていた。
”いたら、返事して”
一瞬、波の音が消えた様な気がした。
「!?………何?」
シィは背中側に暖かい光を感じた様な気がした。
振り向くと、数メートル離れたサンゴの側で、小さく緑色の光が瞬いて消えた。
それは一瞬で、シィは自分が幻覚を見たのかとさえ思った。
だがシィは確信していた。
「そこ……」
シィは歩いていって、そこに手を伸ばした。海面が膝上までしかなかったので、
楽に手が届いた。
そこにはーーー前の物よりは幾分古く大きいが、携行ボンベらしきものがあった。
「来た……」
シィは微笑んだ。
* * *
その日の晩、シィとビーはディナーの後焚き火を囲んでボンベを見ていた。
「……行くの?」
ビーは既に分かっている事を切り出した。
「うん……ごめんね」
シィはボンベにそっと手を触れて言った。
「何で謝るの」
「何でって…何となく」
シィは優しく笑んだ。その笑顔は少しも迷いが無く、ビーはじっと見つめるしか
なかった。
「じゃあ、今回は途中までは行くから」
「え?」
「それくらいはさせてよ」
そう言ってビーは歩き出した。
「明日は早いよ。たっぷり寝ときな」
シィはそんなビーを見送った。こういう時も、ビーは何も言わない。ありがたい
と思った。
「うんーーーありがと、ビー!」
シィは立ち上がって叫んだ。ビーはシッポを振って応えた。
それからシィは海を見やった。
明後日にはまた嵐が来るだろう。いや、ここ最近の変化からすると明日には来る
かも知れないし、このボンベだってこのシマではいつ無くなるか分からない。
なるべく早くあの海溝へ行こう。そして出来れば、その先であの白亜の塔をもう
一度、見てみたい。そうすれば、『ファントム』に何かしらの変化があるかもしれ
ない。
勿論、フリーダイブに危険は付き物だ。この間だってあの緑色の光が無ければ死
んでいたのだ。でも、それでもーーもう一度だけ、それに賭けてみたい。それだけ
の価値はあるーーシィはそう確信していた。
ビーは巣に入る前に、そっと夜空を見上げた。
シィは明日、戻らないかも知れない。それでも、今は好きにさせてやりたい。例
えそれで自分が一人になろうとも。基本的にビーはシィのことを信頼していた。そ
の無鉄砲なところも、明るく屈託が無いところも、少し大雑把で少し繊細なところ
も、時に一人で暗く沈んでいるその様でさえも。
ビーはシィの生物学上の親ではないしなるつもりもないが、今は見守るのが自分
の役割なのだと思っていた。
大丈夫。あの子なら何とかなる。ならなくてもーーそれはそれ。また別世界で会
う事もあるだろう。と思ってからビーは少し笑った。別世界なんてことを考えるビ
ーバーなど他にいるのだろうか?
そう言えば、あの光の名前、『ヒュー』ーーっていうのを、まだシィに教えてな
かったな。
帰って来たら、必ず言おう。まだそれ以外はよく思い出せないが。
ビーは瞬くホシたちを見ながらそう思った。
* * *
「じゃあ、行こっか」
「うん」
日が上がると、二人は珊瑚の端へと泳ぎ出した。
その先は、黒々とした外海が広がっている。
シィは今日は足にフィンを付けていた。普段はフリー具合が良くて付けていなか
ったが今日は違う。思えば、前回の時も付けていればあの白亜の塔に届いたかも知
れないのだ。最も、前回の時は取っておいた筈のフィンがいつもの様に消えていた
訳だったのだが。今日は何故か波打ち際に出現していた。これは使え、と誰かが言
っているーーシィはそう思った。
二人が潜って、しばらく経った。
海溝の崖は特にいつもと変化は無い。とは言え、嵐の度にあちこち削られてはい
るようだ。
そうでなくとも、このシマは時々変化がある。海中とは言え、その影響はあるの
かもしれない。
シィは時折首筋に手を当て、『ファントム』に触れて接続を試みる。その度に微
かな何かは地上よりは強く感じるものの、誰かのはっきりとした声、とまではいか
なかった。まだ、ここでは届かないのだ。
ビーはそんなシィの姿を少し遅れて見ていた。綺麗な褐色の肌。流れる黒髪。そ
して首筋の『ファントム』は蛍光塗料の様に淡く光って見えていた。
ーーー頑張ってるな。彼女が何かに届くなら、それで満足するのなら、それは素
晴らしいことだ。
ビーは水圧にどんどん肺が小さくなっていくのを感じながら、それでもシィを眺
めていた。
「…………」
シィはビーを見た。
何度かボンベを交代で使ってはいるが、やはりビーバーの身体は深海用には出来
てはいまい。
「………?」
シィはジェスチャーで「戻る?」と聞くがビーは首を振った。もうかなりキツい
だろうに。
シィはじいっとビーを見つめた。そしてゆっくりと抱きしめた。
『ありがとうーーもう大丈夫』
唇を首筋に当てて口内だけで声を出した。恐らく伝わる筈だ。
ビーはゆっくりと頷いた。最後に一息ボンベの酸素を吸ってから、ビーは身を翻
して海面へと戻って行く。シィはそれをじっと見守った。
海面に出たビーは仰向けのまましばらく激しく呼吸をした。
少し経つと、ビーは浮いたままくるんと腹と顔を海中に向けて深淵を覗き込む。
やはり大した事は出来なかった。だが、最後までシィの健康で意思的な姿を見ら
れたのだ。これは自分の為だったのかな、とビーは思う。
海に浮かんだビーバーは、そのままずっと波間に漂っていた。
既にこの間来た地点は通過した筈だったが、壁面の切れ目は現れなかった。既に
ボンベは空になっていた。
だがシィは焦らなかった。そして考えていた。
昔から、泳ぐ事が好きだった。水の中こそ自分の世界。そう思ってすらいた。だ
がそこでは、自分は息が出来ない。こんなに好きなのに、そこだけでは生きてはい
けない。何故なのだろう。それは、今の状況と似ている気がした。
シィは自らの身体をしなやかにコントロールし、ゆったりとイルカの様にスムー
ズにしなりを繰り返していた。
静かだが、巨大な水圧がシィを押し包んでいた。だがシィの感覚は研ぎすまされ
たままだ。
結局、このシマだけで自分は生きている。それではダメだ、と誰かが言っている
んじゃないのだろうか?シマで見つけた本や映像。別の世界。そこでの何かは、自
分は経験しているのだろうか。オヤや友人、そして男。自ら何かをして、それで対
価を得て。そうして子供を産んで育てていく。そういう世界は、やがて自分に実感
として現れるのだろうか。
深度400を越えた。潜水艦でも使わない限り常人では辿り着かない領域だった。
だが、シィの驚異的な体力はまだかろうじてそれに耐えていた。
「……?」
やがてシィは気付いた。
流れがーー海流がある?!咄嗟にシィは側の壁の方へと寄ろうとした。
「!…えっ!?」
先程まで近くにあった筈の壁が無かった。いつの間に?またシマが急に変化した
のか?
ならばーーとシィは辺りを見回した。
無いーー白亜の塔も無い!全くの無だった。絶望感がシィを包んだ。
「ぐっ!?」
突然、強い流れが来た。シィの身体はあっという間に流れに持っていかれた。何
故ーーーー何故!
シィは何とかもがいて足のフィンを外した。何とかーー流れに乗って!
「……あっ」
更に強い流れが来て、シィは底知れぬ闇へと流されていった。
「……!」
ビーは、微かな何かを感じた。
そこは珊瑚礁の先端の環礁の上だった。一瞬シィが『飛んだ』のかと気配を探っ
たが、シィのものは感じ取れない。シマにも、海溝の底にもいない様な気がした。
ならばーー何処なのだ?
ビーはソワソワと小さな環礁の上を歩き回った。
* * *
シィは、暗闇の中にいた。
自分はどうしたのだろう。
既に流れは感じなかった。ここは、何処なのだ?
手足の感覚がーーいや、全身の感覚が無かった。
呼吸は出来ているのか?その感覚すら今は感じ取れない。
ーーー死んだのだろうか。
やはり、自分は辿り着けなかったのだろうか。
……ごめんね、ビー。
シィは心の中でそう呟いた。
ビーは海に向かってクアッと吠えた。
シィに手出しをしたら承知しないぞ、と。
何が見えた訳でも無い。ただ、このシマに、海に、ホシに、激情をぶつけたのだ。
その時、遥か向こうの水平線上で緑色の光の柱が立った。
「!!」
シィは目を開いた。
相変わらず辺りは真っ暗で、自らが何処にいるのかは分からない。
だがその先にーー柔らかな緑色の光が見えた。
あれはーーあの時の光?
シィはその方向に向かって思い切り手を伸ばした。
その時、何かが繋がった。
カチッと嵌る様に。
「あぁ……」
キィーーーーン。
その時光はまばゆく光量を増し、そこから飛び出た光はシィを包んだ。
「!!」
その光はやがて無数の光弾となって辺りに散らばった。
あの時夢?の中で見た光景に似ていた。だがその光は若干の色はあるものの全て
緑色に近かった。そして時折それはシィの側を通過し、掠め、やがて交差した。
「………!」
その圧倒的な光の中でシィは見た。
光と交差する度に、自分の中に何かが流れ込んで来る。それは記憶なのだろうか。
それとも他の誰かの?情報なのだろうか。
「……フッッ」
シィはバッと目をつぶった。
予感がした。
首筋の『ファントム』に触れ、意識を集中させた。
自分から光がーーいや、自分自身が光になって『飛んだ』気がした。
そして、もはや懐かしいあの誰かの声がした。
”シィ……シィ?”
シィはそっと笑んだ。
”そうーーあたしはシィ。あなたは?”
”俺は……『ヒュー』”
優しく、だが冷静な声だった。
”『ヒュー』?それがあなたの名前……?”
『ヒュー』。何処かで聞いた言葉だった。何処だったろう?
”…そこは何処?”
”分からない”
”会える?…会いたい!今すぐ!”
”うん……すぐに”
”ホント?ホントね?”
シィはじれったかった。ようやく、繋がった。声だけでなく、柔らかな感覚も直
接感じられる。確かな存在が、体感出来る。なのに、そこに触れられはしない。
”あぁ……”
”何?どうしたの?”
”またーーまたね”
その声がした途端、光は急速に消え、ゴゴゴという地鳴りの様な音が聴こえて来
た。
”お願い!もう少し!”
”ゲンキで……ネ……”
光群は、急速に闇の中へと消えていった。声も聞こえなくなった。
”お願い!ーーーー!!”
だがその光が消える最後の瞬間、シィが見たビジョンーーーそれはあの白亜の塔
の頂上、平らな面の上でこちらを見上げている、知らない青年の姿だった。
「!!」
次にシィが意識を取り戻した時、シィは巨大な流れの中にいた。
「ぐっ……」
息が苦しい。シィは流れに揉まれながら辺りを窺った。
真っ暗ではないーー光だ!海面はそう遠くない。何とか、流れから出られればー
ー!
だが人間が太刀打ち出来るものではなかった。シィの常人を越えた体力だったと
しても。
やがてシィは意識を失った。
* * *
「シィ、シィ!」
誰かが自分を呼んでいる。
誰だろうか?
結局、自分は死んだのだろうか。
……まぁいい。少しだけでも、『ヒュー』と話せたのだ。
「シィ!」
ビシと頬を叩かれた。
これはーーービーのシッポ?!シィはゆっくりと目を開けた。
「いたた………あ……生きてる……」
「生きてる、じゃないよ」
ビーが覗き込んでいた。
「ごめん、何回も」
「全くだよ」
「………ここは?」
シィは横たわったまま頭を横に向けた。海の上らしい。遠くにシマが見えた。二
人は簡素な筏の上にいた。恐らくビーが引っ張って来たのだろう。
シィはゆっくりと身体を起こした。まだまとわりつく様な気だるさが身体を包ん
でいる。
「例の光が立ってさ」
ビーはビー玉の様な眼球をクリクリとさせながら言った。
「その方に来たんだけど…」
そこでビーはもう一方の水平線方向に顔を向ける。
「あれがね……」
「あれーー?」
シィはその方向に顔を向けた。
「………!?」
そこには、シィのシマと同じくらいの、もう一つのシマがあった。
「これはーー?」
そのシマはシィのものに似ているが、少しゴツゴツ感が多い、男性的なシマだっ
た。
シィはそっと首筋に触れた。『ファントム』はいつもと同じ皮膚より少し硬い感
触だった。
「さてーー」
ビーが言った。
「行ってみる?」
シィはそのシマを見つめていた。また新しい何かが、始まるのだ。
あそこには、誰かがーーひょっとしたら『ヒュー』が、いるのかも知れない。
シィはフッと力を抜いた。
しなやかなその褐色の身体に力が漲って来た。
「勿論でしょ」
シィは立ち上がった。