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国士侠剣  作者: 赤月
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刺客堂々

「確かに、今の智伯の立場を鑑みれば大任だが、どうせなら天子相手に意のままの勅書を書かせるくらいの仕事をしてみたいものだ。大夫の説得など」

 魏氏は承諾した。ほぼ同じような要領で、韓氏も。彼らは決して智伯の恫喝、智伯の武力に圧されたのではない。豫譲ただ一人の、弁論と空気に圧されたのだ。大任を終えた割には、豫譲には達成感というものがなかった。彼の自負の大きさ故、だけではない。

「好感をもたれていなかろうが、智伯は間違いなく晋一の大夫だ」

 そう考えていた。そして、人とは所詮利でしか動かないとも。

 故に。

 豫譲は、智伯への不信感から正しく利が見いだせていない魏氏と韓氏の背中を軽く押した程度にしか考えてはいなかった。勿論、それが出来るのは自分しかいないとも思ってはいたが、押してしまえばそれまでで、結局彼らを動かしたものは豫譲の背後の智伯なのだと。

 豫譲は、自分の舌三寸が彼らに勝ったと自覚していない。だからこそ、彼は説客として死ぬことが出来なかったのだ。

 こうして智伯は韓、魏を伴い趙襄子の本拠地である晋陽を攻めた。これが晋陽の戦いである。だが、趙襄子は唯一智伯の恫喝に屈しなかった男である。たとえ三大夫に責められようとも、頑なに門を閉じ、兵を叱咤して廻り、壁に掛けられた梯子を外し、登ってくる兵に岩を落し熱湯をかけ、徹底的に守った。

 ついに智伯はその守りの堅さを知り、正攻法から水攻めに切り替えた。兵糧攻めだ。一年ほどすると晋陽の兵糧は付き、兵士達は飢えに苦しむようになった。

「かなりまずい、ですね」

 趙襄子は、報告を聞いてそう漏らした。彼は一国の君としては珍しく、実に品行方正で誰に対しても物腰の低い人物であった。それ故に、智伯とは事あるごとに対立していたし、智伯と肌が合わないという個人的な理由を理由の大半としてここまで抗っているようなものなのだ。

 側近達が各所からの報告を照らし合わせ、あれやこれやと今後の方針を話している間に、趙襄子は突然、そういえば、と誰にとも定めず、その場にいた全員に向けて言った。

 今更訊ねることではない。誰もがそう思った。開戦当初こそその話も持ち上がったが、今となっては誰も問題にしない事実だ。

「今だから、ですよ。いずれ滅ぼす算段でいい条件を持ち出し、頭のキレる説客でも向かわせれば二氏を味方につけることはそこまで難しいことだとは思いません。問題は、その餌が、ここまでの長陣となっても、まだ智伯についていく価値を持っているかどうかですよ」

 そう言うなり、趙襄子は独りごとを始めた。時にすればほんのわずかな時間だったが、その間、場を支配しているのはやけに静かで軽い空気だった。

「よし、二氏に離間を持ちかけましょう。条件は智伯の領土の三分の一で十分です」

 勢いよく、趙襄子が手を打つ。いきなりだったが、側近達の態度はいたって平然としたものだった。彼らは基本、趙襄子が決めたことには口出しをしない。それは圧政、独裁ゆえに言論が封じられているわけでなく、反論をしないほうが上手く事が運ぶと自分の頭で判断しているからだ。

 そして、趙襄子の皮算用は上手くいった。趙襄子の軍が、自棄を起こして特攻を始めた。そう見える、初めての城外での戦闘に、智伯は韓、魏を両翼に伴ってこれを迎え撃った。が、智伯と趙襄子が衝突すると一転して、両翼の韓と魏が趙襄子に連携してこれを挟撃した。守城戦ならば攻めるは守るの三倍の兵を要するというが、白兵戦では単純に兵の数がものを言う。智伯の軍を待ちうけている末路は一つだけだった。智伯は雑兵の手にかかって首をはねられ、その頭蓋は趙襄子によって漆塗りの盃にされた。

「そうか、頭蓋の盃とはまた」

 辛うじて死地を脱し、独り山へと逃れ、しばらくそこで身を潜めていた。智伯の頭蓋が盃とされたことを噂で聞くと彼は、憤るでも嘆くでもなく、ただ嗤うのみだった。

「やはり死んだかあの方も」

 それは決して、自らの君に対して向ける言葉遣いでも、内容でもない。

「まあそりゃあの性格なら、恨みを買うなというのも恨むなというもの無理難題か」

 智伯は死ぬべくして死んだ。殺されるべくして殺されたのだ。

「私の様な、詰めの甘い人間を国士だなどと見誤られるから」

 豫譲は泣いていた。嗤いながら、腰に帯びた豪勢な宝剣を右手に持ち、切先を天に掲げながら。豫譲の詰めの甘さが、智伯を殺した。

 何が国士だ。こんなものでは、あの智伯の待遇に応えたことになどなりはしない。既にその一族もなく、返す相手のいない負債を背負っているようなものだ。

「士は己を知る者のために死し、女は己を悦ぶ者のために(かたちづく)る」

 男は自分を認めた者の為にその命を賭け、女は自らを喜ぶもののために化粧をする。豫譲はそう呟いた。つまり豫譲は、智伯のごとき暴君に認められたが故に、智伯の為に死ななければならないのだ。

 その日一晩、豫譲は独り酒を飲み嗤い続けた。自信に満ちた表情で、己の二十四年の生を回顧し、無名のままに死んでいく自分を嗤い、趙襄子を討つ算段を纏めながら。

 豫譲は趙の領内の前科者の牢役者に化けた。始めは土木工事に駆り出される日々だったが、やがて宮殿の厠の壁塗りを任された。趙襄子を狙うには向いた配置である。豫譲は懐に短刀を忍ばせ、壁塗りをしながら機が来るのを待った。

 趙襄子が厠へ来た。その時豫譲はちょうど、厠の入り口の近くの壁を塗っていたのである。趙襄子は帯剣し、その背後には四人の大男がおり、こちらも同じく帯剣している。だが、豫譲としては趙襄子の臓腑さえ貫けば後は即座に死ぬ算段なのである。

 豫譲と趙襄子の間の距離は目測で約二十尺(約七m)。今ここで駆け出せばその刃が届く前に豫譲は趙襄子の側近に取り押さえられるだろう。せめて三尺(約九十九、九九九㎝)程度の距離にまで引き込まねばならない。

 だが、豫譲はここに来て体の奥底から燃え上がるような熱い激情が上りつめてくるのを感じずには居られなかった。今すぐにでも飛びだしたい衝動を、それでも必死に抑えた。そして代わりに、刺すような殺気を持って、軽く首を捻り趙襄子を一瞥したのである。

 それが、趙襄子に伝わってしまった。趙襄子は側近に言い聞かせ、壁塗りをしていた豫譲の身辺を改めさせた。豫譲の短刀は、懐にそのまま忍ばせているだけである。屈強な大男四人に囲まれれば、短刀はすぐに見つかるし当然豫譲は取り押さえられる。

「何故壁塗りがこのようなものを持っているのですか」

 左右には剣を持った男がいるこの場で、白州が始まった。趙襄子の問いに、豫譲はまったく臆することなく、堂々と胸を張って偽りなく答える。

「貴方を討つためだ」

 側近の一人が、剣を振り上げて豫譲に切りかかろうとする。それを制したのは、他でもない趙襄子だったのだ。右手で彼を制し、豫譲に向かって問うのである。

「智伯の元家臣か?」

 そうだ、と豫譲は言う。趙襄子が名をと言うと、豫譲はこれにもすんなりと答える。

「なるほど、貴方が豫譲ですか」

 対して、趙襄子の反応は不思議なものだった。豫譲の身分は所詮、一つの国の内の六人の大夫のお抱えなのである。戦国時代風にいえば食客(しょっかく)だ。

「韓氏と魏氏に戦後、少し聞きましたよ。智伯の家臣の舌三寸に丸めこまれて兵を出してしまった、とね」

 実際のところ、韓氏も魏氏もそこまで大げさに言っていた訳ではない。ただ、趙襄子が偶然にその名を覚えていただけだ。

「貴方の主は既に死に、後を継ぐものもないと言うのに殊勝な心がけです」

 趙襄子の物言いに、皮肉や嘲笑は全く込められていない。むしろ、称賛のようなものが混じっていることは、傍で聞いている者たちでも感じとることが出来た。趙襄子もまた、誰よりも有能な者を愛する人間だ。惜しい惜しいと、ふてぶてしく居座る豫譲を眺めながら口元で何度も呟く。

「どうですか、私に仕えるというのは?」

 疑うな、というほうが無理な話である。官僚というシステムが誕生し、各国の主君が競って有能の士を集めていた時代だ。たとえ敵国の者であろうと、他国の者であろうと、大事なのは才であり、そうすることが富国強兵につながるのだ。

 が、流石に自らの命を狙うと堂々と宣告するものを雇い入れるというのは聞いたことがない。それも、名が特に広く知れ渡っているという訳でもない者を。

「断る。二心を抱いて君に仕える気は無い」

 つまり、断じて趙襄子になびくつもりはないのだ。この状況でこのようなことを言えば殺されるに違いないが、豫譲にとってそのような行為は、主の無念を晴らせず死ぬ事状に恥ずべきことだと考えている。

「ますます天晴れですね。では、短刀だけ没収して開放して差し上げなさい」

 当然、周りの者は危険だと言って諫めるが、趙襄子は取り合わない。

「今後私が注意を払えば済む話です。亡き主に忠義を尽くしているこのような義士を殺すのは忍びない。うわべだけでなく、実際に私が智伯と同じ目に在った時に同じ行動に走る者は、果たして私の臣に何人いることか」

 その言葉に、側近達は一瞬黙り込んだ。僅かな者達が何かを喋り出そうとするその前に趙襄子は、右手を前に差し出して豫譲を逃がす。

 趙襄子の言葉は側近には耳に痛いものだった。だが別に、趙襄子は側近に豫譲のように或ることを望んでいる訳ではない。彼はこの乱世において非常に珍しい思考の持ち主だ。彼は、他より秀でた者が無名のままに散っていくことを何よりも惜しむ。国士と言うと宝剣のように大事に手入れをし、片時も離さずただ独占し続けようとした智伯とは対極の考えだ。

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