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婚約指輪をその指に side 尚人


 会社帰りに宝石店に寄り、ほんの二週間前に購入した指輪を受け取ってきた。刻印を施してもらった結婚指輪と婚約指輪。

 この指輪をどういうタイミングで、なんと言って渡そうかと、この前から考えていた。取りあえず明日は明後日の彼女の荷物の運び込みを控えて、物置と化している洋間の荷物を処分することになっているので会うことになっている。そのあとにでも渡そうか……。

 シチュエーションが大事だなどと、前の時には気にも掛けなかったことを悩んでいる自分に笑える。

 今日は友達が結婚を祝っての飲み会だと言っていた。今頃楽しい酒を飲みながら、冷やかされてでもいるのかななんて思いながら、夜道を実家へと向かった。

 



 彼女は今週の頭に会社を退社した。ずっと忙しく勤めてきて、いきなり会社に行かなくなったのが変な感じだと言って、所在なく思っているらしい。

 翔の保育所は結局今月いっぱいでやめさせることにした。結婚式が済んで、家を建てる計画がもう少し具体化するまでは、何かと忙しいかと思ったせいである。

 それなのに暇さえあれば翔を休ませて面倒をみている。保育料を払っているのにもったいない……、とは思わないらしい。

 翔を休ませる日には、僕の出勤前に、早朝からマンションの方へ顔を出す。保育所に預けない日は僕の出勤の都合に合わせて翔を早く起こす必要もないので、今朝彼女がマンションにやってきたときには、翔はまだ夢の中だった。



「おはようございます」

 自分で鍵を開けて家に入ってきた彼女は、小さな声で挨拶した。

「おはよう」

「翔君、やっぱりまだ寝てるんだ」

 コートを脱ぎながら言った。

「ああ。飯食ってきた? コーヒー飲む?」

「あ、自分でやるから食べてて」

 彼女がうちに顔を出すようになってから、ドリップ用の豆をまた買い置くようになった。

 一人で翔の面倒をみていたときは、自分のことに時間を掛ける暇もなく、わざわざコーヒーを入れるなんてことはしなかった。缶コーヒーやジュースでパンを流し込みつつ、翔に食事をさせるか、寝ぼけたままの翔を車で実家に連れて行き、あとを母に頼むか……。朝だけでなく、ずっとそんな生活だった。


 ちょうど離乳の時期に自分で翔の面倒をみることになり、市販の離乳食を利用した。こんなものがうまいのかと思いながらも、作る手間や量を考えると手作りもかなわず、どろっとしたそれを食べさせた。不憫にも思ったが、保育所や母のところではもっとましなものを食べているかと割り切るしかなかった。

 翔のことをお荷物だなんて一度も思ったことはない。

 でも、離婚した直後の元妻に憤どおった時期を過ぎると、幼子おさなごを自分一人で育てていくという責任の重さを実感した。

 一日の大半を人に預けながら、自分に出来ることはほんのわずか。こんなことで子どもを育てていると言えるのかという、忸怩じくじたる思い。こんな自分の元で、真っ直ぐに育ててやれるのかという迷い。

 食事のことはほんの一端で、翔のことが可愛くて仕方ない反面、ここ最近はそういうあれこれが自分の気持ちを消耗させていた。



 今は彼女がその責任を一緒に背負おうとしてくれている。

 そのことが自分の気持ちにも余裕を与えてくれる。 

 既に彼女との結婚は翔の母親を求めるだけのものではなくなっていたが、翔のことを一緒に育てていける人が出来たというのは、面倒をみてもらえる手が増えるという以上に、僕の気持ちを支えてくれるという点で本当にありがたかった。



 コーヒーを手にした彼女が正面の席に着いた。

「今日は翔君が起きたらのんびりご飯でも食べて、少し遊んでからお義母さんのところに行くつもり。この辺に公園ある?」

「あるけどあんまり明るい感じじゃなくって、前にちょっと行ってみたときは、小さい子ども連れは見かけなかったなあ。僕が知らないだけで他にもあるかもしれないけど」

「んー、じゃあ、向こうの公園に行くわ」

「うちの車もう慣れた?」

 チャイルドシートが必要なので、翔を連れ歩く時は彼女も僕の車を運転する。

「うーん、うちのより大きいからおっかなびっくりだけどね」

「今日だったっけ? 同期の人との飲み会」

「そう、夕方になったらお義母さんにお願いしていくから」

「分かった。今日は向こうに行ってそのまま泊まる。車はそのまま置いといて。あしたはあっちから一緒に来よう」


 結局翔は僕が出掛ける時間になっても起きないままで、玄関先まで見送ってくれた彼女から軽いキスをひとつ盗んで出掛けた。柄にもないと笑いながら出勤した。




 翌日、片付けをしながら家具屋を待った。

 他のものは新居が完成するまで買い換えるのを我慢するが、ベッドだけは我慢できないと、先週注文したもの。有料で古いベッドもばらして持ち帰って貰い、処分を頼んでおいた。

 他のものは車で処分場に直接持ち込んで、料金を払って処分するつもりだ。

 

 離婚したときも、元妻は自分の荷物を持ち出したし、それなりにゴミも出したが、クローゼットの奥や部屋の隅に積み上げていた段ボール箱には、まだまだ不要なものもたくさんあった。寝具も新しいものがすでに届いているので、もちろん処分する。

 うちの車はワンボックスカーで結構積み込めると思っていたが、一回で運びきるのは無理かなと思いながら分別する。

「今回は食器や家電までは処分しないけど、次の引っ越しでは処分するからね」

 彼女は機嫌悪そうに言いながら。片付けを続けていた。



 

 新しいベッドが寝室に入り、寝具も入れ替え、処分場から戻ってきたのが二時過ぎ。

 それから遅めの昼食を食べてやっと一息つけた。

「ベッドのカバーが変わるだけで、がらっと雰囲気変わるな」

「ホントはカーテンなんかも変えたかったけど、家を建てるときに新しくするだろうから」

「そうだな」

「もったいないから我慢しとく」

 カーテンって結構するんだもんとぶつぶつ言っている。

「カーテンだけじゃなくって、家具だってそのときみんなで一緒に選べばいいさ。あっちのうちのだって結構ガタが来てるの多いからな」

「うん、そうだね」



 何となく会話が途切れ、今がチャンスかなと思った。

 ちょっと待っててと彼女に声を掛け、寝室に置いてあったビジネスバックの中から、指輪の入ったケースを持ってリビングに戻った。

 ソファに座る彼女の隣に腰を下ろした。

 彼女の前でケースを開けて指輪を手に取った。一緒に選んだのでもちろん彼女も初めて見るものじゃあない。

 自分はなんだか緊張しているみたいだ。大きく深呼吸でもするかのように息をついた。




 前に彼女にプロポーズしたときは、まだそんな自覚はなかった。

 でも今はあの時とは違う自分の気持ちを……、彼女との結婚を本心から望んでいるということを彼女に知って欲しかった。

「手、出して」

 照れたように左手を差し出す彼女。

「最近、僕って親父の息子だって自覚したよ」

 彼女の手を取り、握った手を見つめながら話す。少し顔を上げると、突然何を言い出すのかという表情の彼女。


「死んだ親父は歳は離れてたけど、母さんのことすごく大事にしてたんだ。……思春期の頃はそれが恥ずかしくていやだった。でも大人になったら、そういう相手に巡り会えるのは滅多にない幸運なことなんだと思った」

 彼女をじっと見つめる。

「……自分にはそんな相手が現われないと思ったから、前の結婚をした。すごく彼女が好きだったとか、情熱に駆られたとかそんな理由じゃなくって、そろそろ結婚してもいい頃だと思って……。諒子に最初に結婚を申し込んだときもまだそんな気持ちが残ってた。でも今はそんなんじゃない。僕って親父の息子だなと思うんだ……」


「愛してるよ。結婚しよう。二人で親父達に負けないくらい仲のいい夫婦になりたい」

 こんな恥ずかしいことは、二度と口に出来ないかもと思いながら、小さな声でもう一度プロポーズした。

 彼女は泣き出してはいと言ったが、それ以上何も言葉を発しない。

「ねえ、諒子は? 何か言うことないの? 言えよ」

 強制して言わせることでもないと思ったが、何かしら彼女の感情を表す言葉を聞きたかった。

「……好きよ。……愛してる……と思う」


 愛してると思う……か。若干気が抜けたが、それもまた正直な彼女らしいと思った。

 彼女は嘘をつく人じゃない。好きと言ってくれたのは本当だろう。愛してると思う、というのもまた本当だと思うのだ。そうでなければその言葉を口にしなかったと思う。ただ僕の想いほどまだはっきりしてないだけで……。

 

 手にしたままだった指輪を彼女の薬指に通してそのまま彼女に口付けた。



 自分はこういう甘いムードには慣れない人間で、つい照れてしまう。そうして言ったのが、

「新しいベッドも来たことだし、使い心地を試してみる?」

という色気のかけらもない言葉だった。

 赤くなりながら彼女から返ってきた答えは

「……ばか……」

だった。




 朝からドタバタと家中を引っかき回したせいで、埃っぽくなった身体を洗い流す。二人でこんな時間からシャワーを浴びながら何してるんだろうねと笑う。

 外光が入る造りの昼のバスルームは明るく、互いの身体もありのままにさらされる。外に声が響くのをはばかってあまりいたずらを仕掛けるわけにもいかないが、いやが上にも気分は盛り上がった。

 軽く水気を拭き取り、タオルを巻き付けたまま、寝室に向かった。




「そろそろ起きなきゃな……」

 もう何度かそう言いながらぐずぐずしていたが、本当に起きなくてはと、名残惜しくベッドを出た。


 もう一度簡単に身体を流して服を身につけ、翔の父親の顔に戻る。彼女の方を見る。彼女も既に母親の顔……だろうか。

「じゃあ、翔のところに帰ろうか」

 灯りを消して部屋を出た。

「うー。寒いね」

 腕を組み身体を寄せ合って、足早に車へと急いだ。



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