食わず嫌いはいけません
『諒子、夜で空いてる日ってある?』
智香からの電話。いつものことながらいきなり用件を切り出した。長電話はしない女である。
昨日、無事六年以上、ほぼ七年近く勤めた会社を退社した。
先週までに送別会と称して、二,三の席を設けてもらった。同期も一応送別会をやろうと声を掛けてくれたけど、女性の同期は既にみんなやめてしまってるし、自分たちは一応和解したとは言え、元恋人同士が一緒の席ではみんなも和やかにお酒を……という雰囲気でもないだろうと、気持ちだけありがたく受け取って遠慮した。
退社後一日目。
まだ一日目なんだし、年休を取って休むのと何がそんなに変わるわけでもないのに、これから毎日出社することもないんだなと思うと、なんだか落ち着かないような変な感じ。
そんな自分を持て余してるところに掛かってきた電話だった。
『昨日最後だったんでしょ? お疲れ様』
昨日職場のみんなに貰った花束を家に持ち帰ったときにも、母がそう声を掛けてくれた。
「ありがとう」
『この前、会社関係はわたししか参列しないって聞いたから、ちょっとみんなに声掛けたら集まりたいって……。忙しいかもしれないけど一日ぐらい何とかしなさいよ』
わざわざ同期の友達に声掛けてくれたんだ。
実は智香を呼ぶならみんなもご招待したかったのだけど、人数の都合上そうもいかず、諦めた。智香なら一番親しい友人としてみんなも納得してくれるだろうと彼女だけ招くことにしたので、落ち着いたら何かしたいとは思っていたのだった。
どうやら先回りして彼女がその機会を作ってくれたようだ。
「今週中の平日ならいつでもいいよ」
来週はいよいよ挙式を週末に控えているので、ふらふら飲み歩く余裕があるかどうかは分からない。いや、さすがにまずいだろう。
『じゃあ、取りあえず金曜辺りで一回聞いてみる。来られないのが多そうだったらもう一回相談しよう』
さっさと用件はすんだと言わんばかりに、じゃあねと電話を切られた。
多分これから早速あっちこっちに連絡を入れて、明日には場所も時間も決まった状態でまた電話してくるんだろうと思った。
結局電話はその日の晩にかかって来たんだけどね。
金曜日、同期の女性達オンリーの結婚祝いという名の飲み会があった。結婚祝いとは名ばかりのわたしを追求する会であったのは言うまでもない。
集まったのは五人。仲がいいだけあって、変に言葉を濁したりせず、遠慮もせずにストレートなことこの上ない。
「ほらほら、素直にはけ。何があったのさ」
そう言ったのは、一年位前、このメンバーの中ではわたしの前に退社した篠原佳枝。既に一児の母。子どもはもう六か月を過ぎてて、母乳はもう飲ませてないからー、と言って、来て早々に嬉しそうにお酒を注文していた。和真と結婚前提で付き合ってたのもしっかり知られている。まあ、このメンバーは全員わたしたちが付き合ってたことを知ってる奴ばっかりなんだけど。
「いやー、お互いに結婚観の違い? ってもんがありまして」
「なんじゃ、それ。三年? 四年? 付き合ってたでしょ。何で今頃そんなこと言ってんの?」
グビグビ親父のようにビールを飲み、枝豆をつまむのは三年前に旦那の転勤で会社を辞め、一年前に離婚してこっちに戻り、実家の近くで再就職をした宮城忍。
「諒子ったら、わたしたちの前では、あれだけ子どもが欲しいとか騒いでたくせに、澤口にはそんな話したこともなかったらしいよ」
これは智香。
「だって、わざわざ言わなくても結婚しようと思う人は、みんなそう思ってるもんだと思ったんだもん」
「まあ、普通は思うよねぇ。わたしだって、達也にそんなこと聞いたことなかったもん」
一人お酒ではなくソフトドリンクを飲んでいるのは、ただいま第一子を妊娠中の竹本望。智香と同じく職場結婚で、旦那はうちの社員。ちなみに同期。旦那から何か聞いてるのかしら。
「だよねぇ。子どもがいらないんだったら、慌てて結婚する必要なんてないじゃん」
わたしがそう言うと、忍が言った。
「わかんないわよ。男は家事するのが面倒で、家政婦探してるだけかもしれないじゃん」
おや? と思った。結婚みたいなおめでたいこととは違って、忍が離婚したときにはあまり詳しい話も聞けなかったんだけど、彼女には子どももいないから、その辺が離婚の理由だったのかな。
「健司さんから聞いたわよ。諒子、澤口と修羅ばったんだって?」
もめ事だとしても結婚が決まったわたしの方が安全な話題と思ったのか、智香がわたしに振ってきた。
智香の旦那の村上さんも営業で、あの日の営業の飲み会とやらに参加してたらしい。
「修羅ばった訳じゃないって、ちょっと話に行き違いがあっただけで……」
「なんか諒子を挟んで取り合いみたいな感じだったって」
目をきらきらさせて望が言った。ちっ、竹本にも見られてたか。
「そんなんでもないわよ」
そこからはホントによってたかって根掘り葉掘りだった。
「ねぇ、それでどうやって知り合ったの?」
「お見合いよ」
「お見合いー?」
「子持ちだって智香に聞いたわよ」
「一歳の男の子なの。これがまた、可愛いのよ」
「うわー、難しいんじゃないのー? 大丈夫ー?」
「いや、翔君はいまやわたしの一番の癒し手だから」
「そんなに可愛いんだ」
「そりゃあ、もう」
「お姑さんと同居なんて大丈夫-?」
「すごく優しいお母さんって感じだよ」
「嫁姑戦争なんてドラマだけにしてよねー」
わたしもそう願う。
「旦那さんのことも話しなさいよ」
「まあ、イケてるほうなんじゃない」
「やだ、諒子ったら赤くなってるー」
……さんざんからかわれて、酒の肴にされて、思う存分みんなの好奇心を満たして、その夜は遅くまで女五人で飲んだのだった。
別れ際、あんたはあっちに行ってなと、わたしをつまはじきにして四人でごそごそ喋ってたのは、結婚祝いでおごって貰ったお会計の精算のことだとばっかり思っていた。
その週末もなんやかんやで忙しく過ごした。
土曜日に尚人さんから遅くなったけどと言って婚約指輪を貰った。指輪自体は二人で選びに行ったけど、リングの内側に文字を刻んで貰ったので、結婚指輪と一緒に昨日受け取ってきたらしい。
「手出して」
そう言われて差し出した左手の薬指に、きらきら輝く指輪をはめてもらったとき、らしくもなく泣いてしまった。
わたしの引っ越しは荷物も少なく、業者さんには頼まないことにしていたので、日曜日に兄が来てくれて、衣類や身の回りのものを詰めた衣装ケースや段ボール箱を運ぶのを手伝ってくれた。クローゼットもあることだし、今回は家具のような大物は運ばない。
尚人さんのマンションに二台の車で荷物を運び込み、家に上がってお茶をしているとき、兄が切り出した。
「お前の結婚式前に家族四人水入らずで食事にでも行かないか?」
「え? うん。もちろんいいけど」
「じゃあ、俺の方で予約入れとくから、親父達にも言っといて」
あまりの意外さに思わず兄の顔じっとを見つめてしまった。
「何だよ」
ぶっきらぼうに言った。
「いや、お兄ちゃんも案外気が付くんだなって思ってさ」
「……瑠璃が誘ったらどうかって。こういう機会も、もうあんまりなくなるんじゃないかってさ」
「瑠璃ちゃんが?」
「ああ、瑠璃も結婚前にやっぱり家族で食事に行ったんだってさ。もちろんそれまでだって家族で外食ぐらい行ったことあったけど、なんかいつもと違う雰囲気で話せてよかったって言うからさ。……そう言えば、うちはそんな機会も長いことなかったなって……」
そうか、瑠璃ちゃんが……。
この前会ったとき、兄に若いお嫁さんだから上手に育てろと言ったけど、案外いらぬお節介だったのかも。わたしたちに慣れてくれさえすれば、瑠璃ちゃんはよっぽど兄よりしっかりしてるのかなと思った。
「瑠璃ちゃんにありがとうって言っといて」
おう、と返事をして兄が帰るのを見送った。
一緒に兄を見送った尚人さんを振り返って言った。
「人の第一印象って、案外当てにならないもんだね」
「そう?」
「うん。瑠璃ちゃんのこと甘やかされたお嬢さんって思ってたけど、そうでもないじゃん。食わず嫌いってあるけど、人もそうだね。よく知りもしないで決めつけちゃダメね」
「瑠璃ちゃんの場合は、お兄さんを取られると思って、ヤキモチで目がくもってたとか……」
「げっ、気持ち悪いこと言わないでよ。そんなはずないでしょ」
ないわよね……と思ったのである。
そして、食事会の夜。
兄が押さえてくれた店は気取らない小料理屋の個室。でも、お料理はおいしく、久々に四人で楽しく会話した。こんなにゆっくりじっくり喋ったのはいつ以来だろう。兄が大学に上がった頃からそれぞれの生活が忙しくなり出したので、もしかしたらそれ以来かもしれない。
「しかし、諒子も嫁に行くかー」
まるで父親のようなセリフである。
「小さいときはお兄ちゃんのお嫁さんになるーとか言って騒いでたのにな」
やーめーてー、そんな幼稚園児の頃のことを持ち出すのは。わたしの人生の汚点よ。
「そんなチビの頃に言ったことを持ち出すなんて、親父みたいだよ」
「うるせー」
「やだわー。二人とも、憎まれ口ばっかり言って。小さい頃はあんなに仲良しだったじゃない」
仲良しって……。母の目にはどんなフィルターが掛かってるんだ?
「しかし、二人ともそれぞれに家庭を持つってのは嬉しいことだけど、寂しくなるな……」
父がぽつりと言った。ちょっとしんみりムード。
「なに言ってるのよお父さん。家も近所だし、翔君もいるし、すぐに他にも孫だって出来るわよ。のんびりしてる暇なんてないんだから。おじいちゃんのすねはかじり倒しますからね」
よろしくねと言ってお猪口にお酒を注いだ。
怖いなーと言いながらも、にこにこ笑ってくれた父なのであった。
瑠璃ちゃんによろしくと言って兄が乗ったタクシーを見送り、三人で家路に向かうタクシーの車内で、明日瑠璃ちゃんに電話してみようとほろ酔い気分で思ったのだった。