母になる覚悟
急遽披露宴のようなものをすることに決め、一昨日の日曜日に式場に出向いて、手配の再確認をし直してきた。
披露宴といっても食事会に毛の生えたようなもので、ドレス姿での登場ではないのでお色直しもしないし、キャンドルサービスやケーキカットもしない。皆さんへのご挨拶と両親に花束を贈るくらいはして、あとは各テーブルを回って挨拶でもしようかということになった。音楽は定番のクラッシックでも低く流して貰うことにした。会場にはグランドピアノとカラオケも入っていて、これは自由に使っていいそうだ。引き出物はカタログギフトにした。
一昨日と昨日の間に招待する人の出欠確認は取れたので、人数はこれでほぼ確定だと思う。
招待状は式場の方に頼まず、自分で用意することにした。参考にするためにちゃっかり見本も貰って、地図もそのまま使わせて貰うことにしてきた。
今日のうちに案内状の印刷をしてしまおうと、昨日の仕事帰りに大きめの文房具を扱うお店に寄って、紙と封筒を選んできた。
それで今日は休みを取って朝からプリンターと向き合っている。
会社の方は既にわたしの後任の人間も決まった。引き継ぎといっても、後任は隣の課からの横滑りでわたしと同じ程度の経験はある。区切りのいいところでやめたため、引き継ぐ事項も特にない。新しいプロジェクトも動き始めたけど、退社することが決まっているわたしに手伝うこともなく、最近では開き直って、火曜と木曜は休むと既に言ってあるし、それで不都合もないみたいだ。
年賀状は既に筆ペンすら使うこともなくなって、パソコンで印刷するようになって久しいけど、今日はちゃんと硯を出してきて、きちんと筆で宛名を書く。
ダイニングテーブルに姿勢も正しく着席することなんてそうそうない。一枚一枚丁寧に書き上げ、テーブルの隅の方から順番に並べて、墨が完全に乾くまで待つ。
子どもの時にはお稽古に行くのが面倒でしょうがなかったお習字。このパソコン時代、役に立ったと思ったのは、就活の時に履歴書の特技欄に段位を書き入れて、そこそこきれいな書面を見たときと、今回で二度目だ。
尚人さんのも引き受けて、置ききれないのでリビングのテーブルも占領する。
書き終えて道具を片付けていたら、母達が帰ってきた。今日はお義母さんがサークルに参加した二回目だった。
この前見学に行ったら結構楽しかったみたいで、入会することにしたそうだ。母が出掛ける前にお昼を誘うかもと言ってたので、それで一緒に帰ってきたんだろう。
「ただいまー」
と母。
「お帰りなさい」
「初音さんも連れてきたわ」
……初音さん? 誰?
「こんにちは、諒子ちゃん。陽子さんに誘って貰ってお邪魔したけどよかったかしら?」
「こんにちは。どうぞどうぞ。遠慮なんてしないでください」
陽子さんとはうちの母の名前。……ってことはさっきの初音さんはもちろんお義母さんのことなんだろう。いきなり呼び名が変わっててびっくりした。
表情に出てたようで、お義母さんが恥ずかしそうに言った。
「いきなり変かしら。陽子さんがそうしましょうって言うから……」
お義母さんたら赤くなって可愛い。
「だって尚人さんのお母さんとか、諒子ちゃんのお母さんとか、めんどくさいんだもん」
だもんってあんたいくつよと思ったが、お義母さんが恥ずかしそうにしてるので、ここでは突っ込むのはやめておいた。
「ふーん、いいね、親しげで」
乾いたかなと確認しながら、宛名を書き入れてテーブルに広げていた封筒を集めていった。
そうしながらこっそり二人の会話を聞いていた。会話の中身はサークルのこと。合間に挟まる『初音さん』『陽子さん』の呼び名にも慣れてきた。
わたしにとって母はいつも母で、一緒にいるときによその人から呼ばれる呼び名は島野さんか、諒子ちゃんのお母さんだった。父だって母のことは名前ではなく母さんと呼ぶ。
わたしはこれから翔君のママと呼ばれるようになれば、多分嬉しく思うだろう。
でも何十年もそう呼ばれてきた母達にとっては、また違うのかもしれない。家の名前や、一種の肩書きのような誰ちゃんのママでなく、本人の固有の名前を呼ばれてるのを見るのはなんだか新鮮だった。
なんだかいつもより活き活きとして見えるのは気のせいかしら? まるで学生同士の会話のように聞こえて微笑ましかった。
「お昼なに作る-? チャーハンなんかでいい?」
楽しそうに会話を続ける二人に尋ねた。
週末の夜、友達から電話を貰った。招待状を送った一人で、どうやら今日届いたようだ。
『もしもし、諒子? 澤口はどうしたのよ?』
電話の第一声がこれだった。
そう言えば、この前式の日取りと出欠を確認したときは、時間がなくてそこまで話してなかったんだった。
「はははっ、いろいろありまして……」
昔から彼女はお節介焼きのうるさい奴だった。話しとくのを忘れてた。
「……火曜か木曜なら年休取ってて会えるけど」
『わかった』
そう言えば彼女のところにも子どもがいたはず。翔君と一緒に過ごそうと思っていた日でもあったので、連れてこっちに出てこないかと聞いてみた。自分が一人で翔君を連れてお出かけする自信はまだない。
『なに? 子どもまでいるの?』
しばらく沈黙したあと、いろいろ白状してもらうわよと言って、地図をファックスするように命令され、電話を切ったのであった。
「いらっしゃい。すぐ分かった?」
子ども連れなのでおもちゃや子ども用品が揃っている方が何かと都合がいいかと思い、尚人さんのマンションの方に来てもらった。
「こんにちはー」
翔君よりちょっと大きい男の子にしゃがんで挨拶するとこんにちはーと返ってきた。
チャイムの音を聞いて後ろをくっついてきていた翔君もわーと挨拶する。
「お名前教えてくれる?」
「むらかみたくみです」
名字は聞き取りにくかったけど、たくみ君というのは聞こえた。『です』が『でしゅ』に聞こえる。これまた可愛い盛りだわ。
「たくみ君か。たくちゃんって呼んでいい?」
「いいよー」
そう言いながら靴を脱いだ。
「この子はね-、翔君って言うの。たくちゃんより小さいんだけど遊んでくれる?」
「いいよー。あそんであげるー。ぼくおにいちゃんなのー」
そう言って翔君の手を取って、いかにも面倒をみてくれてるように一緒に奥の方へ入っていった。
「取りあえず上がってよ」
大人二人も子供たちの後を追った。
「お兄ちゃんって、智香、二人目出来たの?」
コーヒーを手にソファに移動して二人で座った。一応子供たちにもジュースと思ったが、早速横の和室で遊び始めているのであとにすることにした。
「違う違う。妹のところに子どもが生まれて、つい最近まで近所の実家に里帰りしてて、毎日会ってたのよ。本人は面倒見てるつもりで、すっかりお兄ちゃん気取りだったの。もう家に戻っちゃったから寂しがって最近機嫌も悪かったのよ」
だからちょうどよかったわと言って笑った。
彼女、村上智香子とは会社の同期で、新人研修で知り合ってすぐに意気投合した。
見かけは上品なお姉様ふうだけど、さっぱりしてて面倒見がよく、どちらかというと姉御肌なところがある。職場結婚して数年はそのまま勤めていたけど、拓ちゃんを妊娠したときに大事を取って退社したのだった。
同じ会社で彼も同期だったので、当然元彼のことも知ってるわけで……
「で、澤口はどうしたのよ? 結婚するって言ってなかったっけ?」
遠慮もなくずばりと切り込む。
「和真は子どもがいらなかったんだってさ」
「は? あんた子どもが欲しいってしょっちゅう言ってたじゃん」
「結婚したら当然子どもを持つもんだと思ってたから、そんなこと聞いたこともなかったのよ」
「長いこと付き合って、一体なに話してたのよ」
呆れた様子で言われた。ホント、一体なに話してたんだろうね。そのときそのときのことに精一杯で、大事なことって何にも話してなかったのかもしれないな。
「ここ、駅から近くて便利のいいところね」
まだ、新しい感じだしと言って室内を見回した。
わたしが選んだ訳じゃないけどねと、ちょっとしらけた気分でその言葉を聞いた。
「まあね、でもしばらくしたら、彼の実家を建て直してそっちに移るの。それまでの仮住まいだね。うちの実家の近所なのよ」
「前からの知り合いだったの?」
「違う、お見合い」
考えてみたら、二人ともあの街で育ったんだし、もしかしたらすれ違ったことだってあったのかもね。
「ふーん、なんで今まで黙ってたのよ。突然結婚するって言って、相手の名前が違ってるからびっくりしたじゃない」
きたきたー、と気弱なわたしはぶるぶる震えましたよ。
「……お見合いしたの最近だから」
何か言われるのは分かってたので、早口でもぞもぞと呟くようになってしまった。
彼女ははっきりしないのは嫌いな女なので、当然、なんだって? と聞き返された。
「だから、お見合いしたのが最近で、結婚も決めたばっかりなの」
「……最近っていつよ?」
「……一か月ぐらい前」
「…………はぁ?」
思いっきりの沈黙。
「わたしの周り、最近こんなのばっかりだよ……」
ため息とともに呆れた目を向けられた。
「それで誰もわたしの意見なんて求めてもないし、聞きやしないのよ……」
あーあ、と言ったかと思ったら結婚式の準備は順調かと聞いてきた。もっと何か言われるかと思って身構えてたので拍子抜けした。
「何も言わないの?」
「どうせ何か言ったところで、気持ちが変わるわけでもないんでしょ」
あんた達は案外頑固者だからねと言われた。あんた達って誰よと思ったが余計なことを口に出すのはやめておいた。
「で、急なお式ならやること目白押しで大変なんじゃないの? 何か手伝うことあったらやろうか? わたしこういうのが最近続いたから結構有能よ」
「少人数だし、食事会しながら挨拶ぐらいでと思ってるから、あれこれ趣向を凝らすって訳でもないし大丈夫。サンキュ」
ふーんと言って話は子供たちのことへと移っていったけど、お節介焼きの彼女がそれですむわけなかったのよね。
「わざわざ来てくれて、ありがとうね」
「ううん、楽しかったわ。拓も喜んでたし」
みんなでマンションを出て、来客用の駐車場に向かっていたとき。
「あれ、ぼくんちのくるまー」
そう言って拓ちゃんが急に走り出そうとした。入居者用の駐車場とは少し離れたところにあるので、出入りする車なんかがあるとちょっと危ない。
あっと思ったが、すぐに智香が腕を捕まえた。
「拓! 車があるところで急に飛び出しちゃいけないって言ったでしょ!」
ほっとしていたら、すごい剣幕で智香が怒鳴って、おしりをぴしゃっと叩いた。
拓ちゃんがわーっと大声で泣き出した。あまりの剣幕に、怒られている拓ちゃんばかりか翔君まで泣き出した。
「ママ、前にも言ったでしょ」
拓ちゃんは泣いていて返事どころじゃない。
しばらく落ち着くのを待ってもう一度言った。
「拓、ママは何で怒ってるの?」
「……くるま……っく……ひかれる」
もう何度かあったことなんだろう。拓ちゃんはそう答えた。
「そうだよ。車にひかれたら痛いんだよ。転んでお膝すりむくより、もっともっと痛いんだよ」
そう言って拓ちゃんを抱き上げると、こっちを振り返って翔君も驚かせてゴメンねと顔を覗き込んだ。
抱っこしたままだった翔君は既に泣き止んでいたけど、ちょっと怖かったのか固まったままだった。
「子ども連れてるとこんなことしょっちゅうなんだけど、本当に心臓に悪いわ」
話しながら車の方に向かい、拓ちゃんをチャイルドシートに座らせ、じゃあねと言って帰って行った。
「ふーん、そんなことがあったんだ。うちも抱っこの時期じゃなくなってくるし、そろそろ気を付けないとな」
「気を付けるのももちろんだけど、あんなふうに毅然と叱れるようにならないといけないなと思ってさ……」
尚人さんに話しながらいろいろと考えた。
今日家を出る前にも拓ちゃんは帰りたくなくてお片付けを渋って智香に叱られた。そのときは智香は根気強く拓ちゃんに言い含めていた。
外で叱られたあとだって拓ちゃんは、ママに嫌われたなんて露程も思わなかっただろう。日頃から母親の愛情を一身に受けてるんだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
わたしと翔君の場合はどうかしらと考える。
今のところ翔君を本気で叱らなくちゃいけない場面なんて、まだそうないと思う。安全に関することなら、わたしにも多分今日の智香子のようにその身を案じて強く叱ることも出来るだろう。
でもそれがちょっとした躾けに関するようなことなら?
翔君にとってわたしはいわゆる継母になるわけで、嫌われること怖さに甘やかしたりすることがないかしら。今はまだいいけど、たとえばもうちょっと大きくなって思春期にでもなったら……。
それまでの間にしっかりと愛情たっぷりに育てて、ちょっと叱ったぐらいで揺らがないような関係を築いていかなければと改めて思ったのだった。