キャンセル -大きな賭- side 尚人
軽くノックしたけど返事はなかった。
いるはずだけど……と思いながら、そっとドアを開けた。
やっぱり彼女はその部屋にいたが、……翔のぬいぐるみを緩く腕に抱いたまま眠り込んでいた。その様子に思わず笑みがこぼれたけど、ベッドに腰掛け、近付いて彼女の顔を見ると目尻には涙のあと。
翔のために勇ましく戦ってくれた彼女だけど、時々こうやって感情が抑えきれなくなった時に涙をこぼす。そんな様子もなんだか愛おしいと思ってしまうんだから、自分も相当だ……。
もう少し見ていたい気もしたが、いつまでこうしてても仕方ない。彼女を起こすことにした。
「諒子さん、諒子さん」
自分のベッドの上で目覚めて顔を擦る彼女を、なんだかむずがゆいような落ち着かない気持ちで眺めた。さっき自分の気持ちを自覚してから、なんだかずっとこの調子だ。
「もう帰ったよ……」
そう言って彼女の顔を覗き込んだ。
そのあとしばらく続いた会話の中。
『夫婦だった間のことはわたしには分からないし、知りたいとも思いません。……でも、翔君の事は別です』彼女がそう言った言葉に引っかかった。
彼女が言うのは翔のことばかり。別れた妻が復縁を迫ってきても、気にもかけてくれないのか、自分のことも見てくれと……。まるで翔にまでヤキモチを妬いているようだった。
そして気になり出した。彼女にとって自分は、今でもまだ都合のいいだけの結婚相手なんだろうか。出会ったときそうだったように、条件さえ合えば誰でもよかったというだけの人間なのか?
このまま行けば、もう何事もなく結婚にはこぎ着けるだろうとおもっていた。だが、それだけでは満足できない気持ちの自分がいた。
急に知りたくなった。彼女の本当の気持ちを確かめたくなった。
「僕にとって、もう諒子さんは翔の母親役をやって欲しいだけの人じゃ、なくなってるんだけどな……」
そう言った後、大きな賭に出た。
「式はキャンセルしよう」
彼女を試すような姑息なまねに若干の後ろめたさを感じた。が、それよりも確かめたいという気持ちが強かった。
彼女が取り決め通りにうんと頷くのか、もちろん頷いたところで素直に別れる気なんてなかったが……。もしそうなったときは、今度は全力で彼女を追いかけて振り向かせるだけだ。
彼女は取り決めなんて無視して結婚をやめたくないと言った。簡単には諦めない、戦うと言う言葉を聞いたとき、幸福感がこみ上げたのだった。
感慨に浸る間もなく、小さなパニックを起こしている彼女を宥めに掛かる。そして、そのときに思い付いた。
ここ最近、彼女が簡素な式というたびに気に掛かっていたこと。
今となっては翔の母という以外に何の意味もない女との結婚式はあれだけ派手にやったというのに、彼女との結婚式はまるで間に合わせのような地味なもの。金額の問題ではないと分かっていても心のどこかで納得がいかなかった。せめて、彼女の親しい人ぐらいは招いてご披露のまねごとなりしてやりたい。
彼女の気持ちを確かめたくて口にした言葉だったが、瓢箪から駒。
そのまま彼女を丸め込みに掛かった。
「キャンセルするのは式だけだよ。キャンセルっていうより、ちょっと先に延ばしてちゃんと披露宴もやって、親戚とか友達とかも呼べるようなのにしようってこと。もう、結婚自体をやめるつもりなんてないから、キャンセルを見込んだ簡素な式でなくってもいいんだよな? 今、君も結婚やめるのやだっていったよな?」
言質は取ったとばかりに確認する。
「婚約指輪もちゃんと買って、その指にはめてもらうからな」
無駄になったらもったいないなんてもう言わせない。
「でも、でも……、キャンセルしてもう一度ちゃんとしたところ押さえようって思ったら、ずいぶん先になっちゃう……。そんなのやです」
僕だってそんなに先になるのは嫌だ。あ、彼女が言ってるのは子どものことか? 年齢のことをやけに気にして子どもは早く産みたいと言っていた。
それなら式を待たずに避妊なんてやめてしまえばいい。どうせ結婚はするんだ。今すぐ出来たところで少しも困らないし、むしろ嬉しい。彼女と子作りするのはさぞ楽しい作業になるだろう。
翔の面倒? そんなに急ぐならすぐにも同棲してしまえばいいと持ちかける。
身体の上に彼女をのせたまま、ひとしきりからかうような会話を続けた。彼女の身体にまわした腕に力を籠めて、まじめにもう一度確認した。
「なあ、諒子さんがさっき言ったの本気だよね? もうキャンセル含みの婚約なんかじゃないんだよな?」
頬を少し紅潮させながらの、はいという返事にようやく安心する。
「諒子……」
どこか上の空の彼女の注意を引きつけるように、身体を入れ替えて貪るようにキスをした。
こういうことにもつれ込むのはまだ二回目。
慣れない雰囲気に照れもある。でも、それをおいても強く抱きたいと思う気持ちの裏には、まだまだ自分のものと確信できない不安があるせいなのかもしれない。まるでマーキングだ。
この前の時、彼女は全くの受け身だった。その変化に、彼女が僕を受け入れてくれたと感じて、身体で感じる以上に心が感じるようで気持ちいい。
彼女に直に包まれる気持ちよさに、はあっとため息が漏れた。彼女の腕にぎゅっと拘束される感触も心地いい。目を閉じてしばらくその感触を味わったあと彼女に尋ねた。
「……着けてないよ。このまま、いいの?」
もちろん確信犯だ。頷く彼女の顔を幸せな思いでじっと見つめながら動き出した。
弛緩した身体で彼女を抱き寄せたまま横向きになり、彼女の片足を自分の腰の上にのせるように引き上げた。慌てて引き抜く必要もなく、彼女の太ももをゆっくり撫でながら、けだるい気持ちで波が引いていくのを待った。
息が整ってきて名残惜しく身体を離し、彼女の身体を拭き終えた頃、彼女が突然思い出したように言った。
「この前は、終わったらまた諒子さんに戻っちゃったけど、むかつくからそれはやめてくださいね」
ついさっきまでのはかなげな様子と違って、いつもの彼女の調子。そのギャップに吹きだした。
自分も前に言ったことのあるセリフ。ヤキモチを妬かれているかのようなその言葉に、ついにやけてからかってしまう。
わざと、諒子と呼んではキスをしたりちょっかいをかけていると、拗ねて背中を向けられた。ぴったりと後ろから張り付いていたずらをしかけるうちに、また兆して、後ろから彼女を突っつく。決まり悪さなんて通り越して、また彼女に挑んだのだった。
すっかり暗くなってしまったと思いながらぼんやりしていたら、彼女が思い付いたとばかりに言った。
「キャンセルしなくても何とかなるんじゃない?」
その一言とともに彼女は慌ただしく行動を開始した。
さっさと服を着て部屋を出て行くのを、慌てて自分も追った。
リビングに入ると電話中。相手先は式場のようで、電話を切った彼女は振り返ってこう言った。
「これからちょっと忙しくなりますよ」
ちょうど空きがあったのか、それとも他の式場に乗り替えもちらつかせながら強引に迫ったのか、当初の予定通りの日取りで披露宴会場も押さえたらしい。
まったくと大笑いしながら彼女を抱きしめた。
一瞬もぞっ身動きしたあと僕の腕の中から逃れて、赤い顔でシャワーを浴びてくると風呂場に行ってしまった。
ん? そうかと思い当たることがあって、簡単に始末しただけだったしな……と、実家に持ち帰る荷物をまとめながら彼女を待った。
少々遅くなって慌てて家を出る。
玄関に鍵をかけているときに彼女が言った。
「そう言えばここの食器、お義母さんと同居するようになったら処分するから」
なんだか不機嫌そうな口ぶり。
「……別にいいけど。でも母さんのより、こっちの食器の方が新しいんじゃないか?」
「いいえ、こっちのを処分する。……あの人が選んだやつでしょ。見るだけでむかつくから」
そういうことか。
「別のを買ってすぐ処分しちゃってもいいよ」
「お義母さんと同居すればすぐ必要なくなるのに、それこそもったいないでしょ」
やっぱり彼女は彼女だ。
もったいないの言葉に、ぶれないんだからと笑ったら何笑ってるのとぷりぷりしてた。
「ベッドだって買い換えるから」
もちろんいいよと答え、彼女を引き寄せて、エレベーターに向かったのだった。
ここまで読んでいただいてどうもありがとうございます。
今見てきたら、総合評価で1000ポイント超えていました。
拙作を読んでくださるのみならず、お気に入り登録をしてくださったり、ポイントを付けてくださったり、またご感想までいただいたりと、嬉しい限りです。
皆様に後押ししていただきながら、こんなお話を妄想し続けております。
そろそろお話もラストに向かいつつありますが、この後もお楽しみいただければ幸いです。