キャンセル!?
「諒子さん、諒子さん」
肩を揺すられて目が覚めた。
ん……、一瞬どこだか分からなかったけど、すぐに眠り込む前のことを思い出した。
げっ、また寝顔見られちゃった。慌てて起き上がり、ベッドの上に座り込む。
気になって目を擦ったら……、やだ、目やに? 目尻からかさかさと何か落ちた。最悪。何でいつもハンカチとかティッシュで拭いながら泣いたりとか出来ないのよ、もうっ。
「もう帰ったよ……、嫌な思いさせて悪かったね」
落ち着いた声でベッドに腰掛けた尚人さんが言った。わたしの顔を覗き込むようにされて思わず顔をそらす。
「……尚人さんのせいじゃないから」
またやっちゃったか……と思った。
彼の前で感情をさらけ出したのはこれが二度目。でもやだなと思いつつ今回のことはそう後悔もしていなかった。
「差し出たことを言ってすみませんでした。二人のことなのに横から口を挟んで……」
「いや、全然……。逆に嬉しかった。翔のために怒ってくれてありがとう。……あんまり諒子さんらしくて、あんな場面で場違いにも笑っちゃったよ」
がーん。笑っちゃったよって……とショックを受けていたら、真剣な顔に戻ってさらに続けた。
「自分が産んだ子どもなのにさっさと置いて出て行ったときも思ったけど、あれでも実の母親かって思うよ。会ってからまだ一ヶ月にもならない諒子さんがこんなに翔のこと考えてくれてるのにな……」
ああ、尚人さんもわたしの気持ちを分かってくれたんだと思うと少しほっとした。
「夫婦だった間のことはわたしには分からないし、知りたいとも思いません。どっちが悪かったとか、何が原因だとか、そんなことは大人二人のことですもん……。でも、翔君の事は別です。まだ何にも出来ない赤ん坊を、何でこれまでほっとけたのか理解できないし、ましてや自分の都合で利用するようなこと、許せません」
「……うん。そうだね。……でも、僕のことも少しは気にして欲しいな……」
「え?」
彼はうつむき加減だった顔をあげて、真っ直ぐわたしの目を見て言った。
「諒子さんにとって、僕はまだ翔の父親ってだけの存在か? 別れた妻がやってきて復縁を迫ろうが、何の関心もないのか?」
「いえ、そんなこと……」
急にそんなことを言われて、思いもかけない展開に焦って答えた。
「僕にとって、もう諒子さんは翔の母親役をやって欲しいだけの人じゃ、なくなってるんだけどな……」
熱のこもった眼差し。いきなりの告白に呆然とした。引き寄せられてぎゅっと抱きすくめられた。
突然のことに心臓がはねるようにどきどきいいだした。
ところが彼がその次に口にした言葉は……。
「式はキャンセルしよう」
な、何で?
その瞬間がーんという効果音がして、時間が止まったように感じた。
いや、心臓はもしかしたら一瞬止まってたんじゃないかしら。そしてそのあと急に早鐘を打ち出したように、鳴り出した。
何で? 今、告白らしきことをされたと思ったのはおバカなわたしの勘違い?
彼の腕の中でもがいた。
「何でですか? 結婚をやめるなんてやです」
訳が分からず、気付けば彼の腕の中から抜け出てそう叫んでた。
この取り決めをしたとき、どちらかがキャンセルしたいと言えば、その後の長い人生、後悔しながら過ごすことのないように、お互いに恨みっこなしにしようって決めたはずだった。それもわたしが言い出した。
それなのに、今わたしはその取り決めにそっぽを向いて、彼の言葉に同意できずにいる。
そして、何とかして彼の気持ちを変えさせなければと思って、焦っている自分がいた。
「キャンセルなんていやです。わたし、尚人さんと結婚したい。お嫁さんになって翔君のお母さんになりたい」
いったんもがいて離れた尚人さんに、もう一度自分から勢いよく抱きついた。勢いがよすぎてベッドの上に彼を押し倒すような格好になった。
「ちょっと待って……」
「待ちません、何がダメだったんですか。わたしは簡単に諦めませんよ、戦いますからね……」
もう、支離滅裂だ。最初の約束と違うのは分かってるけど、取りやめなんてダメだとそればっかり頭の中でぐるぐるしてしまって、自分でも何を言ってるんだか……。
「ちょっと、落ち着けって……。結婚をやめるなんて言ってない!」
いつも割と穏やかに話す彼には珍しく、大きな声でわたしの言葉にかぶせるように言った。
え? でも、今キャンセルって……。
口に出したつもりはなかったけど返事が返ってきた。
「キャンセルするのは式だけだよ。キャンセルっていうより、ちょっと先に延ばしてちゃんと披露宴もやって、親戚とか友達とかも呼べるようなのにしようってこと。もう、結婚自体をやめるつもりなんてないから、キャンセルを見込んだ簡素な式でなくってもいいんだよな? 今、君も結婚やめるのやだっていったよな?」
「え?……」
「婚約指輪もちゃんと買って、その指にはめてもらうからな。無駄になるかもしれないからもったいないなんて、もう言うなよ」
そんな……、そんなの。
二人の間で、いつも突拍子もなく新しい提案をするのはわたしの方で、彼発信で話が進むことなんてほとんどなかったからそのこと自体に戸惑った。
「でも、でも……、キャンセルしてもう一度ちゃんとしたところ押さえようって思ったら、ずいぶん先になっちゃう……。そんなのやです」
なんだか泣きそうな気分で言った。
「なに? 子どものこと? 結婚するのまでキャンセルする訳じゃないんだから、平行して子作りすればいいだろ? なんなら今から始める? すぐ出来たって僕は全然構わないけど?」
なんかもう彼がからかってるのか、本気で言ってるのか分からなくなってきた。
「でも……、翔君の面倒をみるのだってそれだけ先になっちゃうし」
「じゃあすぐにでも同棲しちゃおうか?」
笑ってるし……。何か完全に彼のペースだ。
わたしの下敷きになっている彼が、腰に回していた腕にぎゅうっと力をこめて言った。
「なあ、諒子さんがさっき言ったの本気だよね? もうキャンセル含みの婚約なんかじゃないんだよな?」
「……はい」
「諒子……」
呼び捨てにされてキスされた。
さっき彼女の名前を呼び捨てにする彼にむかついた。なんだかわたしより親しげで……。そこまで考えて、そう言えば彼にも前に同じことを言われたんだった……。何か認めるのはしゃくだけど、これが嫉妬なら、あの時の彼も同じように感じていたのかしら。
「何? 考え事? 余裕だな……」
唇を離してそう言うと、彼はぐるっと転がって二人の体勢を入れ替えた。まず濃厚にキスをして、わたしの余裕をなくすべく励み始めたのだった。
夕方になって、薄暗くなってきた部屋のベッドの中に横たわりながら、息を整えていて思い出した。
「この前は、終わったらまた諒子さんに戻っちゃったけど、むかつくからそれはやめてくださいね」
気持ちが少し落ち着いて、すっかり強気な態度も戻ってきた。
「別れた奥さんは呼び捨てで、わたしが諒子さんだと、親しさであっちに負けたような気がして胸くそ悪いから」
お行儀の悪い言葉を聞いたせいか、彼は目を丸くしたあと、少し遅れてぷーっと吹き出した。
「それ、僕も前に言ったよね」
ベッドサイドのスタンドの明かりを点けながら彼が言った。しまった、藪蛇だった。
「そ、それは尚人さんは年上だし、尚人って感じじゃないんですもん」
「じゃあ、せめてしゃべり方だけでも変えてよ。そうしたら僕も諒子って呼ぶようにするから」
「わ、わか……った」
わたしのしゃべり方がツボにはまったのかクスクス笑ってる。
「諒子」
「何ですか?」
「何ですか、じゃないだろ」
「な、何……」
「何でもないよ。名前を呼ぶ練習してるだけ」
そんなことを繰り返すうちに、またもや甘やかな雰囲気になって……。
辺りはすっかり暗くなっていた。
なんだか今日はずっと彼のペース。余韻にぼんやり浸りながらさっきのことに思いをはせる。といってもベッドの中のことじゃなくてその前のこと。
「尚人さん、考えたんだけど……」
「何?」
「キャンセルしなくても何とかなるんじゃない?」
「え?」
「そうよ。もともと最短二週間で準備できるっていうのが売りのひとつの式場なんだから、出来ないわけないと思う。わたし聞いてみる」
ベッドの中から手探りで服を探し出して手早く身につけると、ベッドから出て携帯を探しにリビングに戻った。
「……ええ、そうです。やっぱり披露宴もしたいんだけど、間に合います? どうしても無理なら他も当たってみるけど……。そう? よかった。そちらが気に入ってたから、よそに替えたくなかったんですよ。……はい、……はい、分かりました。じゃあ、明日もう一度伺いますね」
電話を切って、遅れて部屋に入って来た彼に振り返って
「これからちょっと忙しくなりますよ」
にっこり笑ってそう言った。
彼から帰ってきたのはいつものクスクス笑い……じゃなくて、腹を抱えると表現されるような大笑いだった。
「はははっ。君といると、ホントに楽しいね」
そう言ってまたもやぎゅうっと抱きしめられたのであった。