妙な苛立ち side 尚人
諒子さんと結婚するのもありだなと、かなり本気で思い始めた頃に、母が体調を崩した。
仕事中、出先から翔を迎えに行くことが出来ず、他に頼れる人もなく、やむを得ず彼女に迎えを頼んだ。そうしたら、彼女だけでなく彼女のお母さんにも世話になり、あの人達の温かい人柄に助けられた。
その日は遅くなってからやっと実家に帰り着いた。ソファで翔を抱っこしたまま眠り込んでいる諒子さんを見たとき、彼女になら翔を任せられると思った。
それまでも何かしら予感のようなものを感じながらも、決めるにはまだ早すぎると迷っていたが、この出来事で一気に心が決まった。
いざ、その決心を彼女に告げようと思ったら、どう話を切り出したものか迷った。いつも翔も一緒の三人連れで、母に預けようにも、まだ母の体調は万全ではないので、この週末はゆっくり身体を休めておいて欲しかった。
それに彼女の気は変わってないだろうか?
そんなことを考えながら、当てもなく車を走らせているとき、寝ちゃいましたね……と彼女の声。
ミラーで後ろを見ると翔はすやすやと眠っていた。
こういうときにしかゆっくり話すことも出来ないかと、適当に車を駐めて話を始めた。
出会ってから驚かすのは彼女の専売特許みたいになっていたが、ここでようやく僕も一矢報いた。ぽかんとする彼女に最初はしてやったりの気持ちだったが、あまりの驚きように、もしかして気が変わって早く結婚しようという気はもうないのかと内心焦った。
今考えれば、それでも会っているということは、別に付き合うのを辞めたわけでもないのだから、ごく普通のお付き合いというやつだったのに、何をそんなに焦ったんだかと思う。
彼女の結婚の意思を再確認し、あれこれ話して、結局二人とも笑顔で会話を締めくくり、妙にほっとした。
結婚することに決めたのを母に告げると、あまりに早い決断に驚きつつも喜んでくれた。僕たちが考えている式の日取りも、母が思っている以上に早いということは、実際に式場を押さえられてから話すことにして、もう一つ驚かせるのは先送りにした。
いつも翔を連れて近所の公園に遊びに出掛けるというのが、毎週末のデートのようになってしまった俺たちを不憫に思ってか、たまには二人でお食事でもしていらっしゃいと、体調も回復した母の方から金曜の夜に翔を預かると申し出てくれた。
考えてみれば平日の会社帰りに待ち合わせるのも初めてだ。そもそもデートらしいデート自体したことがない。
結婚することに決めたのにな……と、この状況を面白く思いながら、彼女の会社の前で彼女が出てくるのを待っていた。
ここに着いたときメールしたらすぐに出られるということだったが、もう十分近くなる。携帯をチェックしても何の連絡も入っていない。何度も時計を見ながら、なんだか浮き足立ってるなと苦笑した。
顔を上げて会社のエントランスの方を見ると、ちょうど彼女が出てこようとしているところだった。
声を掛けようと近寄ろうとしたとき、早足で歩く彼女を追いかけるように、後ろから声を掛けている男がいるのに気付いた。
「諒子!」
彼女を我が物顔に呼び捨てにする男に苛立った。
関係ないやつは引っ込んでろと言われ、さらにかちんと来て、彼女をそいつから引きはがすようにその場から連れ去った。
最後に彼女がそいつの名前を呼び捨てに呟いたそれにも腹が立ち、彼女の肩をぎゅっと掴んだ。
泣いている彼女としばらく歩き回るうちに、自分は何をそんなに怒っているんだと、冷静さが戻ってきた。
感情が収まらない彼女はなかなか泣き止まず、困ったあげく、繁華街の外れにあるホテルに彼女を連れ込んだ。
泣いている彼女を連れて、他に入れるところが思い当たらず、たまたま通りかかったホテルに入ったものの、何とも所在ない気持ちで彼女が落ち着くのを待った。
他意はなかったものの、場所が場所だけにこちらの方も別の意味でなんだか落ち着かなかった。
彼女をソファに座らせ、冷蔵庫からビールを出した。彼女に差し出すと首を振るので、それを持って自分はベッドに座った。
しばらくそうした後、彼女がすみませんでしたと呟いた。
「少しは落ち着いた?」
「はい。尚人さんにも嫌な思いさせちゃってごめんなさい」
俺がした嫌な思いって言うのは、せいぜいあいつと彼女が親しげに名前を呼び合ってたことぐらいだ。いいやと返すと彼女はそのまま話し始めた。
「わたしもそうですけど、彼にも欠点がない訳じゃないです。でも、人間として彼が嫌いだった訳じゃない。それなのにただ、考え方が違うっていうだけで、何か勝手に裏切られたような気になって、そのときはかーっとなっちゃって、一方的に切り捨てるように別れを切り出して……。そんな幼稚な別れ方をするからこういうことになるんですよね……」
嫌いだった訳じゃないという言葉を聞いて、今になって別れたことを後悔しているのかと胸にちくりと何か刺さったような気がした。
「いい年をした大人なら、もう少し誠意のある別れ方をしてれば良かった……。自己嫌悪です」
赤い目をしながらも彼女は懸命に笑顔を作った。
「まだ、彼のこと好きなの?」
「そういうことじゃないんです。……わたし、前に言いませんでしたか? 結婚を考えてたくらいだから、彼のことは愛してると思ってたんです。でも、彼との結婚生活に子どもを望めないと分かったら、あっさりと別れを決意してしまえるわたしって何なんだと思いました。そこまで彼のことが好きじゃなかったってことですよね? 自分が打算的っていうか、利己的っていうか……本当に自分が嫌になりました」
行動だけじゃなくて考え方も幼稚なんですよね……とまた俯いた。
また二,三度肩が震えたような気がして、そばに行って彼女を抱きしめた。
震えが収まるまで、そのまましばらくの間彼女を腕の中に閉じ込めていたが、次第に彼女が言ったことが妙に気になってきた。
いつも明るくて、おおらかでどちらかと言えば僕を笑わせてくれる彼女。その彼女が自分のことを打算的とか利己的という。それなら僕たちの関係はどうなのか?
僕は子どもの母親が欲しかったし、彼女は子どもを共に育てていける伴侶が欲しかった。これも、打算的で利己的な関係だというのか?
僕は翔の母親になってくれる人なら誰でもよくって、一ヶ月で結婚すると決めたというのか? 彼女は誰にでも同じ提案をしたっていうのか?
そうじゃない。はっきりどうとは言えないけど、どこか違うという気がした。
ごちゃごちゃと考え込んでるうちに彼女は落ち着いたようで、腕から抜け出ようとごそごそ動き出した。
「あ、ゴメン」
いつの間にか力のこもっていた腕を緩めた。
「いえ、こっちこそすみませんでした。ちょっと顔を洗ってきます」
そう言ってバスルームに向かった。
残された僕は立ち上がって、開けたまま口を付けてなかったビールを飲み、ベッドに転がった。
しばらくして妙な緊張感が解けると、なんだか急におかしくなってきた。
結婚を決めたばかりの男女がホテルに入って、なにを細かいことをごちゃごちゃ悩んでるんだろう?
そんなことよりもっと違うこと、たとえば身体の相性を確かめるとか……その方が建設的なんじゃないか? そんなことを言ったら彼女はどんな反応をするだろう?
考えているとにわかに期待する気持ちがわいてきた。そういうことからはずいぶん遠ざかっていた。ここしばらくは子育てに忙殺され、その前は離婚騒動、それ以前は妻が妊娠中でかれこれ……。
「お待たせしました」
洗面所から出てきた彼女が所在なさげに立っていた。少し赤くなった彼女の顔を見た瞬間決めた。
「ねぇ、相性は確かめといた方がいいよね」
そう言いながらベッドから起き上がり、彼女の方に歩き出した。彼女はさらに赤くなりながらも、そうですねと素直に僕の腕の中に閉じ込められたのだった。
一時間後。
やけにリラックスした気持ちで彼女に呟いた。
「人肌ってなんか心が慰められる気がしないか?」
「うん、なんかゆったりした気持ちになってくる」
そのまま彼女の体温を素肌に感じながらシーツの中にくるまって、しばらくの間まどろんだ。
揺すられてはっと目が覚めたときには、もういつもの彼女に戻っていた。シャワーをすませてきたようで、バスローブを着て、手には服を抱えていた。
「尚人さん。支度してください。何か食べて帰りましょう。お腹がもうぺこぺこ。早くしないと翔君も待ってますよ」
いや、この時間、翔はもう寝ちゃってるんだが……。
はいはいと起き上がってバスルームに向かう。
「急いでくださーい」
うん、彼女はやっぱりこのぐらい元気がある方がいい。
そっちの相性も悪くなかったし……と鼻歌気分でシャワーを浴びに急いだのだった。