キャンセル含みの婚約成立(?)
「こんにちはー」
昨日に続き、今日も翔君のお迎えに行くこととなったので、改めて彼から借りた鍵を使って家に入った。今日は会社から直接ではなく、いったん自分の家に帰りラフな格好に着替えてきた。お母さんが寝ているかもしれないので抑えめに、一応声を掛けて中に入る。
「あら、こんにちは。昨日はありがとう。助かりました」
ちょうど起きていたようだ。台所から出てきてパジャマに上着を羽織った姿のお母さんは、お昼を食べ終えたところのようで、こんな時間にどうしたのか? と言うのがありありと表情に出ている。
昨日、翔君を迎えに行ったときの様子があまりにも切なくて、今日の午後は休みを取った。忙しいときにはろくに取ることも出来ない有給休暇は、毎年数日取っただけで繰り越されていて、大量に余っている。こんな時に取ったって別に罰は当たらないでしょう?
「昨日、あんまり翔君が悲しそうな顔でお迎えを待ってたので、つい午後は休みを取っちゃいました。尚人さんには内緒ですよ。洗い物ならわたしやりますから置いといてください」
それはもう終わったのよと言って、わたしの方を見た。
「……でも、そこまでして頂いて申し訳ないわ」
「自分がやりたくてやってるんですから、あんまり気にしないでください。それよりお買い物に行ってきますけど、買っておくものとか、他にやっておくことがあれば言ってください」
まだ何か言いたげだったお母さんには早々に休んでもらって買い物に出た。
お母さんからは特にリクエストもなかったので、取りあえず食事の材料だけ買って家に戻り、夕飯の支度は後で暖めるだけでいいように用意しておいた。
子育ての経験も主婦の経験もないわたしには、翔君の様子を見ながら料理するのは無理かなと思えたからだった。
ほぼ作り終えたけど、まだ迎えまでには少し時間がある。掃除機は音がうるさいので掛けるのはやめて、お風呂でも洗っておくことにした。
洗面所に行くと洗濯物が目に入った。溜まっている様子にどうしようかと思ったが、さすがに断りもせずに汚れ物を洗うのは、自分がそうされたらイヤだなと思ってやめておいた。そのままお風呂場に入って掃除した。
リビングに戻って時計を見ればそろそろいい時間。家を出て鍵を掛けた。
保育所の前に着くと、ちょうどお迎えの人が大勢いる時間帯らしい。自転車や路上駐車の車で混み合っていた。入り口付近にいたのは昨日とは違う先生だったので、法村さんの代わりに迎えに来た島野だと名乗った。やはり昨日のように、ノートを確認しに行って、翔君を連れてきますのでここでお待ちくださいと待たされた。
翔君は先生の前をとっとっと走ってやってきた。しゃがんで「こんにちは」と言うと今日は笑顔で「わー」と返ってきた。靴を履かせると先生にも笑顔で手を振って、元気に保育所を出た。
今日は昨日と違って外はまだ明るい。二人で手を繋いでゆっくり歩いた。昨晩みたいに童謡を歌うと、翔君は昨日よりもさらに大きく歌に合わせて声を上げた。繋いだ手を振りながらリズムを取る。わたしの手をぎゅっと握る小さな手が温かく、そんなことになぜか幸せな気持ちを味わった。
お迎えを頼まれた二日間は、翔君と少しは仲良くなれたような気がした二日間だった。
「諒子さん、昨日、午後休んで来てくれたんだって?」
土曜日の今日は、朝から法村さんのお家に行って、溜まった洗濯物を二人で片付けてからいつもの公園にやってきた。
お母さんにゆっくり静かに休んでもらうために、休日の割には少し早い時間。
「あら、ばれちゃいましたか」
いくら口止めしたところで、やっぱり内緒にはしてくれなかったみたい。
午前中は三人でのんびりと公園で過ごし、お昼は車でファミリーレストランに出掛けた。お母さんのお昼は朝のうちに用意しておいたので、三人でのお出かけとなった。
翔君くらいの子が食べるものがあるのか、今までそんなことを気にしてメニューを見たことなどなかったけど、法村さんはさっさと雑炊を選んだ。なるほど。
「キッズメニューは逆にちょっと早いんだよね。見た目には嬉しそうなんだけど、案外翔は食べなくってさ」
子供用の椅子に座った翔君の食べるペースに合わせながら、彼の口に運んでいく。
「悪いけど、諒子さんも手早く食べてくれる?」
そうか、食べさせる役を交代するのね、と思ったら違うらしい。
「自分が食べ終わって飽きちゃうと、ぐずり出すからのんびりしてられないんだよ」
「お家で食べてるときはそうでもなかったように思いましたけど……」
お行儀良くとは言えないにしても、機嫌良く食事していたと思ったけど……。
「家なら自由に動き回れるからね」
そっか。そう長くはじっとしてられないか。
見ると彼は翔君に食べさせる合間にも、どんどん自分の分を食べていってる。わたしも慌てて、口を動かす。
「悪いね、ゆっくり食事も出来なくて」
「いえいえ、世のパパ、ママにはそれが常識なんですね」
そうよ、二人三人と子どもが欲しかったら、当分お上品にお食事なんて言ってられないんだから。
慌ただしく食事を済ませて車に乗ると、ちょっとドライブがてら車を走らせてもいいですかと彼が言った。お天気もいいし、もちろんOKだ。
少し遠くまで出掛けるのかと思っていたら、特に行く当てもなく車を走らせていたらしい。そのうちに後ろのシートで翔君は眠ってしまった。
「寝ちゃいましたね」
ミラーをちらっと見てうん……と言った。
しばらく車を走らせた後、彼は少し広い公園の脇に車を駐めた。翔君は寝ちゃったのに……と不思議に思っていたら彼が話し出した。
「ちょっと話がしたかったんだけど、翔を連れてちゃ、あんまりここって場所を思い付かなくって……」
「はい……」
何の話だろう。
「車の中でする話でもないって言うのは分かってるんだけど……」
なに? 何か言いにくい話? 回りくどい感じがした。
「遠慮しないで言ってください」
「諒子さん、この前言ってた一ヶ月で結婚したいっていうの本気? 今でもそう思ってる?」
「本気です」
「それなら、こうやって会ってるってことは、僕は今でも候補に残ってるんだよね?」
「候補って……、そう言ってお付き合いしてるのは法村さんだけですよ」
もともと法村さんとのお見合いの最中に思い付いた話なんだから。
「じゃあ、一ヶ月後に本当に僕と結婚しますか?」
先週初めて会ってから、呆然とさせるのはわたしの方ばっかりだったのに、今回ばかりは返事を忘れてわたしの方が呆然とした。
一ヶ月と言ったのは本気だったけど、もし彼と結婚することがあったとしても、早くても三ヶ月というところかなと思っていた。せめて相性や性格を把握したいというのは当然のことだし、そう言った彼は常識的な人だと思った。だからこそわたしの極端すぎる提案は受け入れられることはないだろうと内心諦めてもいたからだ。
「もう一度言っておくけど、僕は翔に母親として愛情をかけてくれる妻が欲しい。そういうつもりで結婚を望んでるっていうのでもいいんですか? 諒子さんの条件にあったけど、僕は浮気はしない。翔にもう一度寂しい思いをさせるつもりもなければ、二人の間に出来るかもしれない子どもにも、もちろんそんな思いはさせたくない。その点では諒子さんのことも信用していいんだよね?」
もちろん大丈夫と頷いた。
「それなら、後は性格が合うかどうかって点だね。今から急いだとして、いつの式場が取れるか分からないけど、それまでの間、自分をよく見せようとするのはやめて、なるべく素に近い自分を見せることにしませんか? それで我慢できない点があったら遠慮なくキャンセルするってことでいいよね」
「一時目をつぶってやり過ごすのはなしにしましょうね。後の何十年我慢できるかどうかまで考えて」
ちょっと堅かった雰囲気が和らいできた。
「僕は酔っ払うとちょっとしつこくなるらしいよ」
「わたしはちょっとがさつです」
「自分じゃマザコンじゃないつもりだけど、父が亡くなってからは結構母のことは気にしてるんだ」
「ときどきストレートすぎて人から反感を買うこともあるんです」
これって欠点自慢みたいと思ったらなんだか笑えてきた。
二人でクスクス笑った後、彼が言った。
「まだキャンセル含みじゃあるけど、これって婚約したって事でいいのかな?」
「文字通り結婚の約束って意味なら、婚約に違いないですね」
「婚約指輪……」
「あ、いりません。キャンセルすることになったら無駄になるじゃないですか」
彼の言葉にかぶせるように言ったら、また法村さんがプーッと吹きだした。
「僕、諒子さんのそういう変に合理的っぽいところって何か面白くて好きだな」
笑いながら言うことですか?
「あ、それから、素を見せるっていうんなら、敬語はなしね。法村さんって言うのもやめて名前で呼んで」
感動の涙があふれるような言葉も、給料三ヶ月分の指輪もなかったけど、少々の笑いはあったプロポーズ。
そんなこんなで何ら儀式っぽいやりとりがあったわけではないけど、わたし達のキャンセル含みの婚約は成立(?)したのです。