わたしが見なくて誰が見る
『もしもし、諒子さん?』
あと三十分ほどで昼休みという時間に、携帯のほうに法村さんから連絡があった。あれから何度か電話で短く話したことはあったけど、仕事中にと言うのは初めてだったので少しびっくりした。
「どうかしたんですか?」
自然とそう尋ねていた。
『大変申し訳ないんだけど、ちょっとお願いできるかな?』
電話の内容はお母さんの具合が悪くて翔君のお迎えに行けないので、わたしに頼めないかとの事。
彼は今日は会社の外に出ていて、どうしても抜けられないらしい。もともと帰りが遅くなる予定だったらしく、九時頃まで帰れないという。わたしの方はといえばちょうど大きな仕事が終わった谷間で、このところ早く帰れるし何の問題もない。
「大丈夫ですよ。保育所の方には連絡しておいていただけますか? お母さん大丈夫ですか? わたし午後休みを取って様子を見に行きましょうか?」
『いや、そこまでは……。じゃあ、本当に申し訳ないけど、迎えの方お願いします』
「分かりました」
電話を切ってから少し考えて、母に電話を掛けた。
初めて訪れる翔君の保育所。ちょっと緊張する。
法村さんには仕事を定時に終わらせてからでいいと言われていたので、すでに六時半に近い。こういう時間になってもまだ結構子どもは残っているようだ。
「あの、法村さんの代わりで翔君のお迎えに来ました。島野と言いますが……」
よく分からなかったので、入り口近くの事務室で声を掛けた。
「はい。少しお待ちください」
そう言って手元のノートのようなものを確認してから、島野さんですね、連絡頂いてますと事務室の中から保育士さんが出てきた。
「おばあちゃんの具合が悪いそうですね。翔君いつもとお迎えの時間が違うのが分かってて、ちょっとご機嫌斜めだったんですよ」
お喋りしながら保育室の方に案内された。
翔君は今まで泣いていたのか、濡れた瞳で先生に抱っこされて部屋から出てきた。慣れた保育士さんの手からわたしの方へ来てくれるかしらと心配したけど、両手を差し出すと抱きついてきて顔を首筋に擦りつけてきた。
「翔君、お待たせ。おばあちゃんのお家に帰ろうね」
抱っこしたまま荷物を受け取ってその場を後にした。
さっきちらっと見たところ、今の時間になって保育所に残っていた子たちは、もう少し大きい子ばっかりだった。普段は夕方の早い時間にはおばあちゃんに迎えに来てもらってるそうなので、さぞ心細かったんだろうなと思った。数日前に会ったばかりのわたしにしがみついてくる様子を見ると切なかった。
暗くなった道を小さな声で歌を歌いながら歩いた。最近の子ども向けの歌は知らないので、自分が小さかった頃に歌った童謡ばかり。翔君も知っている曲があって、歌に合わせて声を出してやっと少し笑ってくれた。
法村さんのお家に着いてチャイムを鳴らすと、うちの母が出てきた。
「お帰りなさい」
わたしよりも翔君に向かってにっこり。翔君も母の顔を覚えていたのか、それとも慣れたお家に着いて安心したのか、「りー」と返した。ただいまーだよと言うと今度は「まー」と笑った。
「お母さん、まだいてくれたんだ。ありがとう」
「お夕飯作って持って来たところだったのよ。翔君とあんたの分も置いてあるから、食べて。これ借りてた鍵、返しておいて」
お父さんもそろそろ帰ってくるからお母さん行くわね、と家から持って来たお鍋を手に、サンダル履きで帰って行った。
翔君を抱えたままリビングのほうに入っていくと、お母さんも奥から出ていらした。
「こんばんは。お加減いかがですか?」
「こんばんは、ごめんなさいね。お迎えだけじゃなくてお母さんにまで来て頂いて。諒子さんが頼んでくださったの? 病院まで車で送って頂いて……」
「そうですか。わたしは様子を見てくれるように頼んだだけだったんですけど……。お母さん、よっぽど具合悪かったんじゃないですか?」
翔君を下におろして、テーブルに並べてあった食事を温める。
「お母さん、座っててくださいね。母が食事を持って来てくれたから一緒に食べましょう」
三人でテーブルについて食べながら少しお話しした。
母はお母さんにはおかゆ、わたしと翔君にはおにぎりとカレイの煮付けとお味噌汁を用意してくれていた。もう少し余分にあるのは法村さんの分なんだろう。翔君用には小さめに握ってあって、自分で持って食べられるようにしてあった。時々お魚を口に運んであげると、小さい口をいっぱいに開けておいしそうに食べる。
「おいしいね」
と言うともぐもぐしながら
「おいしー」
とほっぺを人差し指で押さえてにこにこ。おいしーのポーズのようだ
「本当に今日は助かったわ。お母さんにもお礼を言ってたと伝えてくださいね」
「お風邪ですか?」
「そうみたい。ちょっと熱には弱くて、すぐ寝込んじゃうのよ」
どうやらちょっと風邪気味かなと思うと、すぐに熱を出してしまうらしい。
「たいへんですねぇ。わたし尚人さんが帰られるまで翔君と一緒にいますから、早く休んでください」
「なんだか申し訳ないけど、そうさせてもらってもいいかしら。長引くとかえってご迷惑おかけしそうだから」
「そんな心配しないでください。こうやってお知り合いになったのも、何かのご縁ですよ」
ごめんなさいねと気にしながらお母さんは部屋に戻っていった。
のんびりご飯を食べていた翔君もそろそろごちそうさまのようだ。翔君の様子をカウンター越しに見ながらささっと食器を片付けた。
「さて、パパが帰ってくるまでどうしようか。さすがに勝手にお風呂を使うわけにもね……」
結局、いつもどういうふうにしているのか様子も分からないので、翔君と遊んで過ごすうちにどうやら眠くなってしまったようだ。しきりに目を擦ってる。
リビングの隅に置いてあったお昼寝用のお布団を広げてから、ソファに座って翔君を膝の上にのせて背中を静かにとんとんしていると、間もなくすーすーと寝息が聞こえてきた。布団に寝かせようと身動きすると、まだ起き出しそうな様子だったので、彼の背中を静かにさすった。
「諒子さん」
とんとんと肩をたたかれてはっと目を覚ました。翔君の寝息を聞いているうちに、うっかりわたしも眠り込んでしまったみたい。しまった、寝顔を見られた? よだれなんて垂らしてないでしょうねと口元を確かめた。
「すみません、こんな時間までいてもらって。ご飯も用意してもらったんですね」
「いえ、それはうちの母が……。様子を見に来てくれるように頼んだら気を利かせてくれて」
「すみません。お母さんにまで面倒掛けて。迎えだけお願いするつもりだったんですけど、夕飯の事はすっかり忘れてました。助かりました」
「ご飯まだでしたら、法村さんの分も少しあるみたいなのでどうぞ」
「いや、出先で出されたので、明日の朝いただきます」
わたしの膝の上から翔君を抱き上げ、奥に連れて行った。
リビングに戻ってくると車で送ってくれるという。
「翔君残していくの心配でしょう? 一人で帰れますから、大丈夫ですよ」
「時間も遅いしお宅まで車ですぐだから、翔はしばらくだけ母の部屋の隅に寝かしておきます。行きましょう」
ぐずぐずしててもかえって悪いので、素直に送られることにした。
「今日は本当に助かりました」
「どういたしまして。そう言えば車で通勤されてるんですか?」
さっきお家に着いたときは車が無かったのに、家を出るときには玄関先に駐めてあった。都内で車通勤はかえって大変じゃないかしら?
「朝早くに保育所に送って、帰りも母のところに迎えに行くと、今日みたいに寝てることも多いからしょうがないんですよ。会社のそばに駐車場を借りてね」
それはいろいろとたいへん。
「ご実家に戻って同居されないんですか?」
「離婚した当初は、母に負担が掛かると思って敢えて戻らなかったけど、結局は頼らざるを得ないから最近ちょっと考えてる。それもあって見合いもしたんですけどね……」
今日みたいな事があればなおさらなんだろうな。
「それじゃあ、お母さんにもありがとうございましたと伝えてください。本当に助かりました」
「いいえ、明日はどうします? お迎え六時頃なら行けますよ」
「いや、僕も急げば七時には行けるから」
「……今日、六時半過ぎにお迎えに行ったとき、残ってるお子さん達はみんな翔君より大きい子ばかりで、ちょっとかわいそうな気がしました。まだそんなに親しいって訳でもないわたしにしがみついてきて……。もし、遠慮されてるんでしたら、そういうお気遣いは無用ですから」
「……そうですか。……じゃあ、すみませんがもう一日お願いします」
彼は深々と頭を下げてから、お休みなさいと車に乗り込み、帰っていった。
「ただいまー」
玄関からリビングに向かうと母に声を掛けた。
「お帰りー」
どうやら韓流ドラマのDVDを鑑賞中のよう。もう何回も見ているやつなので気にせずに話しかけた。
「お父さんはー? お風呂?」
テレビを見ながら、うんと適当な返事。
「お母さん、今日はありがとう。法村さんもお母さんもお礼を言っといてくれって」
話しながら冷蔵庫からジュースを出してグラスに注いでリビングに戻った。
「病院にも行ったんだって?」
ソファに腰を下ろすと母はリモコンで画面を停止させた。
「熱もあったし、小さい子がいるのに長引いても困るでしょ?」
「お夕飯も用意しておいてくれて助かった。さすが年の功ね。気が利くわ」
バカにして……と笑った。
「でも、法村さんもたいへんだねぇ」
「うん……。ねぇ、お母さん。たまたま最初にお見合いしたのが法村さんだったけど、わたし、法村さんに決めるわ……」
向こうがなんて言うかはまた別の話だけど。
母はなんと言ったものか微妙な顔をした。
「悪い人じゃないと思うけど……、決めるのが早すぎない?」
母はそう言ったけど、今日、翔君にしがみつかれて、この子の面倒を見てやらねばと、あるのかどうかも分からない、わたしの母性本能がいたく刺激されたのである。
翔君を抱っこしたときのほんわりとしたぬくもりを反芻して、『わたしが見なくて誰が見る』と鼻息も荒く思ったのだった。