↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

二年前の庭園での約束を、殿下は忘れたと仰るので、庭師にお尋ねすることにいたしました

作者: 久留トガ
掲載日:2026/08/23


 王宮の大広間には、婚約発表を待つ貴族たちが列をなしていた。天井から下がるシャンデリアの光が、磨き上げられた床に映り込んでいる。私、イザベラ・クロンウェル侯爵令嬢は、その中央に立つ第三王子レナート殿下を、静かに見つめていた。


 レナート殿下とは、幼い頃から交流があった。互いの家が親しく、社交の場で顔を合わせるうちに、自然と言葉を交わすようになった間柄だった。二年前のあの日までは、私も、いずれ正式な婚約者になるのだと、疑いなく思っていた。


「本日をもって、私はオリヴィア嬢との婚約を発表する」


 殿下の言葉に、会場がどよめいた。オリヴィア嬢は誇らしげに殿下の隣に立ち、私に一瞥もくれない。周囲の視線が、私に集まっているのがわかった。


 周囲の視線が、私に集まる。憐れみの目もあれば、好奇の目もあった。だが、私の胸にあったのは、恥ずかしさよりも、静かな決意だった。二年前のあの日から、いつかこうした日が訪れるかもしれないと、心のどこかで覚悟していた。


「殿下、恐れながら」


 私は静かに一歩前へ出た。会場の空気が、一瞬にして張り詰めるのがわかった。誰もが、私が何を言おうとしているのか、固唾を呑んで見守っている。


「二年前、この王宮の庭園にて、殿下は私に、いずれ正式に迎えると仰いました。その約束を、私はまだ覚えております」


 殿下は、わずかに眉をひそめた。


「そんなことを言った覚えはない」


---


「二年前の夏、薔薇の咲く頃でございました。殿下は庭園の東屋で、私にそう仰いました」


「記憶にない。お前の思い違いではないか」


 周囲の貴族たちが、成り行きを見守るようにこちらへ目を向けていた。オリヴィア嬢だけが、不安げな表情を浮かべている。私は動じることなく、殿下を見つめた。


「では、殿下。その口約束、立会人の前でも同じことが言えますでしょうか」


「立会人だと? そんなものが、いるはずないだろう」


 私は小さく合図を送った。会場の入り口から、一人の老人が静かに進み出てきた。庭師長マーカスだった。


「マーカス、こちらへ」


 殿下の顔に、初めて動揺の色が浮かんだ。


---


「畏れながら、申し上げます」


 マーカスは、質素な庭師の装いのまま、周囲の貴族たちの視線に臆することなく、一歩前へ進み出た。身分の低さに気後れする様子は、微塵も見られなかった。


「二年前の夏、私は東屋の裏手で薔薇の剪定をしておりました。殿下とイザベラ様が東屋でお話しになっているのが、自然と耳に入ってまいりました」


「そんな……庭師の言葉など、当てにならない」


「殿下は、こう仰っておいででした。『イザベラ、いずれお前を正式に迎える。もう少し、待っていてほしい』と」


 会場が静まり返る。


「あの日は、朝から小雨が降っておりましたが、昼過ぎには晴れ間が覗いておりました。薔薇の蕾が、ちょうど開き始めた頃でございます」


 具体的な状況を語るマーカスの言葉に、周囲の疑いの目は、次第に信用へと変わっていった。


「東屋の柱には、蔦が絡み始めておりました。庭師として、そろそろ手入れをせねばと思いながら剪定鋏を握っていたのを、よく覚えております」


 近くにいた壮年の伯爵が、感心したように呟いた。


「これほど具体的な描写を、作り話でできるものではないな」


「殿下とイザベラ様のお話は、風に乗って途切れ途切れに聞こえてまいりました。盗み聞くつもりはございませんでしたが、東屋のすぐ裏手で作業をしておりましたので、自然と耳に入ってしまったのです」


 マーカスは、淡々とした口調でそう付け加えた。誇張も、脚色もない語り口が、かえって証言の重みを増していた。


---


「私は、なぜそのような話を、二年も覚えているのか、不思議に思われるかもしれません」


 マーカスは静かに続けた。


「イザベラ様から、当時こう頼まれておりました。『もし、この約束が反故にされるようなことがあれば、その時は証言していただけますか』と」


 殿下がはっとした顔で私を見た。


「お前は、あの時から、こうなることを見越していたのか」


「見越していた、というよりは、備えておりました。口約束は、文書と違い、記憶が都合よく書き換えられてしまうことがございますので」


「そんな……」


「殿下がお忘れになったのであれば、それは殿下ご自身の記憶の問題でございます。ですが、マーカスの記憶と、殿下の記憶、どちらがより正確か、この場の皆様が判断なさることかと存じます」


「そんな、身分の低い庭師の言葉を、私の言葉より信じろというのか」


「身分の高さと、記憶の正確さは、別の話かと存じます。殿下は、ご自身に都合の良い記憶だけを、正しいものとされたいのでございましょうか」


 殿下は、返す言葉を持たなかった。


「マーカスとやら、お前は本当に、二年も前のことを、そこまで詳しく覚えているというのか」


 殿下が苛立ちを滲ませながら問うと、マーカスは静かに頷いた。


「殿下のお言葉は、私のような身分の者にはめったに向けられぬものでございます。それゆえ、忘れようにも忘れられぬのでございます」


 その一言に、会場の何人かが小さく息を呑んだ。身分の低い者にとって、王族の言葉がどれほど重く響くかを、改めて突きつけられたような沈黙だった。


---


「殿下、私、存じませんでした。二年前から、そのようなお約束が既にあったなんて」


 オリヴィア嬢が、震える声でそう漏らした。彼女の顔からは、先ほどまでの誇らしげな表情が消えていた。


「オリヴィア嬢を責めるつもりはございません。あなたも、殿下から何も知らされていなかった被害者でいらっしゃいますでしょうから」


「イザベラ様……」


「レナート殿下」


 少し離れた場所に立っていた宰相が、重々しい声で口を挟んだ。


「庭師の証言は、状況が具体的すぎて、作り話とは思えません。殿下、いま一度、記憶をお確かめいただけますか」


「……」


 殿下は、しばらく黙り込んでいた。やがて、絞り出すように呟いた。


「……思い出した。確かに、そのようなことを言った気がする」


 会場から、小さなどよめきが起こる。オリヴィア嬢は、青ざめた顔で殿下を見つめていた。


「殿下……本当なのですか」


「オリヴィア、それは……」


 殿下は、二人の視線の間で、立ち尽くすしかなかった。


---


「殿下」


 私は、静かに続けた。


「私は、約束を反故にされたことを、責めているのではございません。ただ、記録に残らない約束だからこそ、それを口にした方の誠実さが、何よりも問われるのだと申し上げたいのです」


「イザベラ、私は……」


「弁明は結構でございます。ただ、覚えていないと仰るのであれば、それは覚えていないことにされた方が、都合が良かったからではございませんか」


 殿下は、何も言い返せなかった。


 宰相が静かに割って入る。


「殿下。この状況で、新たな婚約を進めることは、王家の信用にも関わりましょう。今一度、事の次第を精査する必要があるかと存じます」


---


 殿下は、深くうつむいたまま、何も答えなかった。オリヴィア嬢は、扇で顔を覆い、静かに一歩後ろへ下がった。会場を満たしていたざわめきも、いつしか静まり、誰もが事の結末を見届けようとしていた。


 私は、殿下に向かって一礼した。


「記録に残らない約束だからこそ、人の記憶と誠実さが問われるのだと存じます。今日、それがはっきりといたしました」


 それだけ言うと、私は踵を返した。マーカスが、静かに私の後に続く。


「イザベラ様、よろしかったのですか。あのような場で、私のような者を証人に立てて」


「マーカス、あなたの証言がなければ、今日、私の言葉は誰にも信じてもらえなかったでしょう。感謝しております」


「二年もの間、あの日の会話を覚えておくようにと頼まれた時は、正直、戸惑いました」


「無理を申し上げました。ですが、あなたのような方でなければ、頼めなかったことでもございます。約束を守り続けるには、それなりの覚悟が必要だったかと存じます」


「イザベラ様がお声をかけてくださらなければ、私のような者は、あの場に足を踏み入れることすら叶いませんでした。それでも、私にできることがあるのならばと、二年間、あの日のことを忘れぬよう、時折思い返しておりました」


「マーカス、あなたの誠実さがなければ、今日、事実は誰にも届きませんでした。私こそ、心より感謝申し上げます」


 マーカスは深く一礼すると、静かに屋敷の裏門へと向かっていった。彼の後ろ姿を見送りながら、私は改めて、この二年間の重みを噛み締めていた。


---


 王宮からの帰り道、馬車に揺られながら、私は窓の外を流れる景色を眺めていた。二年前、東屋でその約束を聞いた時、私はすぐにこれが反故にされる可能性を疑っていたわけではない。ただ、口約束というものの脆さを、幼い頃から見聞きしてきただけだった。


 実家に戻ると、母が心配そうな顔で出迎えた。事の次第を簡単に伝えると、母は少し驚いた様子を見せたが、すぐに落ち着いた声で言った。


「あなたらしいわね。二年も前から、こんな備えをしていたなんて。私には、一言も相談してくれなかったのね」


「母上に心配をおかけしたくございませんでした。杞憂に終わればそれで良い、とも思っておりましたので」


「備えというより、用心でございます。何もなければ、それに越したことはございませんでしたから」


「それにしても、マーカスさんによく頼めたこと」


「彼の人柄を、以前から存じ上げておりましたので。誠実な方でしたから、きっと約束を守ってくださると思っておりました」


 母は紅茶を淹れながら、少し考える様子を見せた。


「レナート殿下は、悪い方ではなかったのでしょう」


「はい。ただ、口にした言葉の重みを、深く考えずにいらした方だったのだと思います」


「それは、王族としては、少々危うい性分ね」


「今日のことで、殿下ご自身も、その危うさに気づかれたのではないでしょうか。願わくは、次にどなたかと約束を交わす際には、その重みをきちんと胸に刻んでいただきたいものです」


 扉が軽く開き、父が顔を覗かせた。王宮での出来事は、既に耳に入っていたらしい。


「イザベラ。大変だったな」


「お騒がせいたしました」


「騒がせたのは殿下の方だろう。……お前が二年もの間、あの約束を胸に秘めていたことは、私も知らなかった」


「誰にも申し上げるつもりはございませんでした。役立つ機会がないことを、むしろ願っておりましたので。それが叶わなかったことは、少し寂しくもございます」


---


 自室に戻り、窓辺の椅子に腰を下ろす。二年前のあの日のことを、私は今も鮮明に覚えている。庭園の薔薇の香り、殿下の穏やかな声、東屋の白い柱に差し込んでいた午後の光。


 あの時、私は殿下の言葉を、素直に信じたかった。だからこそ、同時に、それが失われた時のことも考えずにはいられなかった。信じることと、備えることは、決して矛盾しないのだと、今はわかる。


 誰かを信じるということは、盲目的に委ねることではない。信じたいと思う気持ちを大切にしながらも、同時に、自分自身の目で確かめる備えを持っておくこと。それが、この二年間で私が学んだことだった。


 次に誰かと言葉を交わす時、私はもう、無防備に信じるだけの自分ではいられないだろう。それを寂しいと思う気持ちもあるが、同時に、それが大人になるということなのかもしれないとも、静かに思う。


 父からも、後日、短い手紙が届いた。「よくやった。約束とは、口にした瞬間から、口にした者の責任になるものだ」とだけ書かれていた。飾らない一文だったが、私には十分だった。


 後日、王宮からも正式な使者が訪れた。レナート殿下の新たな婚約は白紙となり、王家からヴェルネイ家に対し、正式な謝罪と、二年前の約束についての検討が申し入れられたとのことだった。私はその報せを、静かな気持ちで受け止めた。もう一度殿下の婚約者になりたいという思いは、正直、あの日の広間で既に失われていた。ただ、事実がきちんと認められたことに、静かな安堵を覚えるだけだった。


 窓の外には、夕暮れの空が広がっていた。庭園の薔薇は、今頃どんな様子だろうか。マーカスへの礼状を、明日にでも書こうと思う。二年越しの約束を守ってくれた人への、感謝の言葉として。


 机の引き出しには、二年前から使っていた手帳がしまわれている。あの日の日付の頁には、ただ一言、「東屋にて」とだけ記されていた。多くを語らないその一言が、今日という日を静かに支えてくれたのだと思うと、不思議な気持ちになる。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


もしよろしければ、感想や評価をいただけますと、これからの励みになります。

また、「作者をお気に入り登録」していただけますと、新作を投稿した際にいち早くお届けできます。よろしければご登録いただけますと嬉しいです。


他の短編も投稿しておりますので、お時間のある時にでも覗いていただけますと幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。