8:可能性を信じる人
「オルコット嬢、今いいでしょうか」
サイラスから声がかかったのは、翌日の昼食を摂った後――クレアが淹れてくれたお茶を飲み、ダイニングでゆっくり過ごしていた時だった。
ダイニングに彼が姿を現すのを、レティシアは今、初めて見かけた。研究所に来てからの食事はすべてここで頂いているけど、一度もサイラスは来ていなかったし、彼の分が準備されていた形跡もなかった。
そもそも、この研究所はティンバー公爵家の別邸と言っていたのに、サイラスはこの家から出ていった気配がない。公爵がずっと別邸住まいで本邸に帰らないなんて――そんなことがあるのだろうか?
サイラスへの疑問は尽きない。
「研究への協力を、お願いします」
ついに、この時が来てしまった。
「……はい」
レティシアは緊張しつつ、席を立つ。午前中はクレアと掃除や洗濯をしていたので、お仕着せのままだ。けれどサイラスは何も言わず、ダイニングの扉を開けてレティシアを手招きした。
深々と頭を下げたクレアを残して、レティシアは彼について歩いていく。
「こちらには、まだ来ていませんよね?」
サイラスが向かった先は、邸宅の東側――研究エリアだ。遠巻きに見ていただけ場所に立ち入ることに、少し躊躇いを覚える。
「はい。クレアさんに、危ないと言われましたので」
「危ない……?」
サイラスの呟きからは、釈然としない、というような雰囲気を感じた。
歩を進めても、特に危ないと感じること――それどころか何か起こる気配すらなかった。サイラスとレティシアは、昨日クレアが書斎と言い直していた研究室の前までたどり着いた。
サイラスはその扉も、あっさりと開けてしまう。
「わ……」
目の前の光景に、レティシアは立ち止まった。
クレアが書斎と称した通り、中には天井まで届くような本棚や、広々とした机や、座り心地の良さそうなクッション付きの椅子がある。窓が大きく、植物なども置かれている。
全体的には整った空間なのにどこか落ち着かない雰囲気なのは、机の上には本が乱雑に積まれ、床には紙片が散乱しているからだろうか。
室内をぼんやりと眺めていたら、ふいに本棚から一冊の本がひとりでに飛び出し、まっすぐレティシアに向かって飛んできた。
その勢いに、腰が引けてしまう。
「おっと」
サイラスがさっとレティシアの前に立った。その背中は、思っていたよりも広い。
彼は難なく、飛んできた本を受け止めた。本はサイラスの右手で、何事もなかったかのように大人しくなっている。
(庇って、くれた……?)
動揺しているレティシアの様子に、彼は気付いていない。じっと、手に収まっている本を見つめている。
サイラスはすたすたと研究室の中に入っていき、本を元あった本棚に戻していた。レティシアはじっと本の背表紙を睨み付けるけど、もうそれが動く様子はない。
「すみません。驚かれましたか?」
入り口で棒立ちのままのレティシアを見て、サイラスが申し訳なさそうに言った。
「……少し」
「あの子は人に読まれたくて、はじめての人が来るとああやって飛んでいってしまうんです」
レティシアは瞬きをした。
サイラスの説明では、まるで本に性格があるように感じられる。自発的に動いて人の所に向かおうとするのも、魔法の力なのだろうか。
「さあ、座ってください」
面食らっているレティシアを、サイラスは部屋の隅へと誘導する。そこに置かれていたソファにレティシアを座らせ、自分はローテーブルを挟んで反対側のソファに腰を下ろした。
彼と顔を合わせることは何度かあったけど、距離がここまで近いのは馬車で過ごした時以来だった。
レティシアは視線を目の前のテーブルに落とす。
「今日も、クレアと一緒に屋敷の家事をしてくれていたそうですね。ありがとうございます」
「……そんなこと、ありません。私にできることはそれくらいなので、させてもらっているだけです」
「屋敷は万年人手不足だから、それだけで助かりますよ」
サイラスが、その言葉が本心だと伝えるかのように、柔らかく笑う。それでも、レティシアは顔を上げられない。
「緊張していますか」
ゆったりとした声色だった。
「……はい」
「安心して下さい。貴女の研究をしたいことは事実ですが、無理強いはしません。精神的な苦痛は……ええと、配慮はしますが、もし貴女が嫌だと感じたら、すぐに仰ってくださいね」
「わかりました」
レティシアが頷くと、サイラスの雰囲気がほっと緩んだような気配がした。
「では、最初の質問です。オルコット嬢は、何の飲み物がお好きですか?」
予想外の質問に、一瞬思考が止まる。
(……研究とは関係ない質問なのでは?)
と思ったけれど、口に出すことはしなかった。
「紅茶が好きです、けど……」
「そうですか。では、紅茶にしましょう」
サイラスは言うが早いか、腰のブックホルスターから本を抜き取り、ローテーブルに置いた。本――魔道書と彼の手が淡い光に包まれる。
(……綺麗)
魔法使いは数が少ないから、レティシアが魔法を見たのはこれが始めてだ。
ガタンと、部屋の中で何かが揺れ動く音がした。
はっと顔を上げたレティシアの視界で、キャビネットのガラス戸が、ひとりでに開いた。そこからティーセットがこれまた勝手に飛び出して、研究室の中を飛んでローテーブルに綺麗に着地する。
レティシアが翠の瞳を丸くして見守る中、ティーセットたちは軽快な音を立てながら自ら動き、あっという間にふたり分の紅茶を淹れてくれる。
目を見開いたレティシアを、サイラスが柔らかな表情で見つめていた。
「砂糖はどうされますか?」
彼の言葉に呼応するように、シュガーポットの蓋が揺れてカタカタと鳴り響く。それを凝視しつつ、椅子の上で可能な限り身を引いた。
「だ、大丈夫です」
「わかりました」
シュガーポットから飛び出した角砂糖が2個、サイラス側のティーカップに静かに沈んだ。
「さ、飲んでみて下さい」
サイラスがしなやかな指でティーカップを持ち上げたので、レティシアもそれに倣う。もはや、研究をしに来たことは半ば忘れていた。
琥珀色の液体に口をつけると――
「……」
「……」
レティシアとサイラスは、ほとんど同時にカップを置いた。少しの間、研究室に沈黙が訪れる。
紅茶はしっかり色付いて見えたのに、ほとんど味がしなかった。
「すみません、失敗です」
「いえ……色のついた白湯と思えば大丈夫です」
レティシアは咄嗟にフォローしたけど、サイラスは目に見えて肩を落としていた。
緊張からか喉がカラカラだったので、白湯くらいがちょうどいい。レティシアはゆっくり、カップの中身を飲み進めた。
「魔法はとても面白いですが、すべてが思い通りになる訳ではないんですよね。今度、クレアに紅茶を淹れるコツを習おうと思います」
「面白い……」
サイラスの台詞を、口の中で繰り返してみる。
「はい。とても面白いですよ」
その言葉は、まるで雲間から一筋の光が差すようだった。
魔法は、レティシアにとって縁がないどころか――自分が役立たずであることを知らしめる、疫病神のようなもの。そんな思い込みを、あっさりとサイラスは否定してみせた。
「俺は魔法が好きだし、色々な用途に使えると思っています。魔法が持つ可能性をたくさんの人に届けたくて、こうして研究をしているのですよ」
楽しげに話す彼の瞳は、どんな輝きをしているのだろうか――そんなことが気になった。
(でも、ここは研究室だから)
そう言い聞かせ、レティシアは気付かれないように、ゆっくりと息を整える。
シュガーポットから視線を外せないレティシアを、サイラスが真剣な眼差しで見つめていた。
「今、オルコット嬢を見ていて、わかったことがあります」
「もう、ですか?」
レティシアは何もしていない。魔法で出されたお茶を飲んだだけ。これもやはり、研究の一貫だったのだと、改めて気持ちを引き締める。
「はい。貴女は魔力がゼロという体質の他に、魔法を無効化する能力をお持ちの可能性が高いですね」
思ってもみなかった言葉に、レティシアは息を呑んだ。




