42:精霊とおとぎ話
その日の真夜中。
サイラスは一人、屋敷の廊下で過ごしていた。屋敷内は既に消灯されている。手元にある魔法のランタンが唯一の明かりだ。
自室から持ち出した椅子に座りながら、普段は魔法の媒介として腰から吊るしている魔道書を読む。子供の頃から幾度となく読み返してきたそれは、サイラスの原点とも言える大切なものだった。決して、手放すことができない。
サイラスは本を読みながら、時々、廊下の奥――暗闇に浮かぶ、レティシアの部屋の扉に視線を向けた。
その扉は当然、ぴたりと閉ざされている。
(あの日の出来事は、何だったんだ?)
数日前に偶然見かけた、レティシアの姿をした『何か』のことを思い返した。
――貴方は、どなたですか?
そう問いかけてきた張本人は、サイラスからの返答に答えることもなく、ふらりと体を揺らした。糸の切れた人形のように。
倒れる。
咄嗟にそう判断したサイラスが手を伸ばし、レティシアの体を抱き留める。脱力した体はいくら声をかけても全く反応がない。翠の瞳は閉ざされ、胸が微かに上下している。
(……眠っている?)
困惑しつつも、脱力した体をレティシアの寝室へと運び、ベッドへと寝かせる。彼女は、ただ穏やかに眠っているように見えた。
あの日から、サイラスはレティシアの部屋の前で本を読みながら、夜を過ごすことにした。
(レティシアさん……)
あの夜の奇妙な様子が頭に焼き付いて離れない。レティシアに何かが起ころうとしている。そんな想像が拭えなくて、こうして付き添わなければいられなかった。
だから、
「……女性の寝室を見張るとか、我が主はストーカーか何かですか」
そんな指摘は、甘んじて受け入れることにした。背後から音もなく現れたロードリックは、呆れ顔でこちらを見ている。
サイラスは魔道書を閉じ、ブックホルスターに戻す。
「少し気になることがあってね。ロードリックこそ、こんな時間に何を?」
ランタンが作る明かりの環の中に、執事は一歩、足を踏み入れる。
「貿易商から精霊の巫女に関しての返事が来ました。ハリージュからアルヴェインへ嫁いだ姫君が、巫女として精霊の声を宿し、その加護を届けた。けれど、代償として姫君は砂漠を忘れ、愛を忘れてしまった――という、おとぎ話ですよ」
ロードリックが差し出した手紙を受け取った。そこには、彼の要約と遜色ない物語が記されている。
「ありがとう」
サイラスは椅子から立ち上がり、彼と正面から向き合った。いつも飄々としている彼の視線が、珍しく泳ぐ。
「だけど、こんな夜中に手紙は届かないだろう。それでも来てくれたということは、俺だけに聞かせたい話があるのだと、そう思ってもいいのかな」
無理強いをするつもりはなかった。彼が祖国でどんな扱いを受けていたのかは、断片的ではあるけれど聞いている。それを掘り返すようなことはしたくない。
そう思っていたのに、ロードリックは息を吐いて、まっすぐにサイラスを見つめ返してきた。
「……貴方には敵いませんね。ハリージュではね、アルヴェインに渡った女性は二度と戻らないと言われているんです。ま、あくまでもさっきのおとぎ話を元にした迷信ですけどね」
彼はからりと明るい雰囲気でそう言った。サイラスは頷く。
「じゃ、お休みなさい。ストーカー行為は引かれるのでほどほどにした方がいいですよ」
きっぱり「やめろ」とは言わず、ロードリックは笑みを残して去っていった。暗闇の中、屋敷のどこかで扉が開き、また閉じた音が聞こえる。
サイラスは手紙を握りしめる。
(もしも、彼女が精霊の巫女と呼ばれていた存在と同じなのだとしたら)
ハリージュのおとぎ話のように、何かを得る代償に、大切な何かを喪って、元には戻れないのだろうか。
そんな想像に、体の奥底が凍りつくような感覚を得た。再び魔道書を抜き取り、手のひらで重みを確かめるように持ち上げる。
(俺は、レティシアさんを救ってみせる)
最初、フレデリカから「魔力ゼロの令嬢がいる」と聞いたときは、好奇心と使命感――つまり、自分のために彼女と接触した。
あの頃は、魔法に関わることで苦しんできた彼女が、少しでも魔法を受け入れてくれればいい。そんなことを思っていた。
けれど、今は違う。
頭の中に彼女の姿が浮かぶ。サイラスの魔法で、慎ましい微笑みを見せてくれた、特別な人――
サイラスの思考を切り裂くように、ぎぃと小さく音が鳴った。はっとして、レティシアの部屋の扉を見る。
扉がゆっくりと開いて、中から覚束ない足取りで女性が出てきた。金の髪に翠の瞳。レティシアの見た目をした、彼女ではないもの。
――砂漠を忘れ、愛を忘れてしまった。
おとぎ話の一節が、目に焼き付いて離れない。
「……また、会いましたね」
抑えた声で、慎重に話しかける。
「レティシアさんの姿をした貴女の『正体』はわかっているつもりです。が、個体としてのお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
サイラスの存在に気付き、彼女がこちらに体を向けた。翠の瞳に無感情に見つめ返される。レティシアならば照れたり、微笑んだり、目を逸らしたりしてくれるのに。
鋭い形をした感傷を飲み込んで、サイラスは彼女と対峙する。
「私、は」
ゆっくりと、言葉が紡がれた。彼女は戸惑ったように喉に手を当て、瞬きをする。
「……セレスト、と申します」
彼女が頭を下げると、胸元のネックレスが揺れた。精霊の涙は、やはり淡い光を放っている。
「貴方は?」
「サイラスです」
端的に答える。セレストと名乗る存在から目を離さない。警戒するサイラスに対して、セレストは柔らかく微笑んでみせた。レティシアと同じ顔なのに、決定的に何かが違う。込み上げる違和感と気持ち悪さが拭えない。
「そうですか。貴方が、レティシアの……」
流暢に話していたセレストの言葉が、不意に途切れた。ぐらりと体が傾く。
前回と、同じだ。
咄嗟にその体を支え、ゆっくりと床に座らせた。翠の瞳は閉ざされておらず、間近でサイラスを見上げている。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、彼女は僅かに首を横に振った。
「私は目覚めたばかりで、まだ馴染んでいないのです。すみませんが、少し手を貸して頂けませんか」
立ち上がれない様子の彼女を、前回と同じように抱えてレティシアの部屋へと連れていく。
「ひとつ、聞かせて欲しいのですが。……貴女は、精霊でしょう?」
サイラスの問いに、レティシアの中にいる存在は小さく息を呑んだ。その反応が何よりも、サイラスの問いを肯定していた。
精霊――人間よりも魔法的に上位にある存在。そんなものを魔石に宿して内包しているレティシアに、人間の魔法など効くはずもない。
サイラスは少し前から、そう推測していた。外れていて欲しい――そんな、ささやかな願いは砕かれた。
精霊がレティシアの体を借りて彷徨いている。もし、このままレティシア本人が目覚めなかったら、彼女はどうなる?
嫌な想像に、足元がぐらつくような感覚を得る。
「そこまでわかっているのですね。……良かった」
セレストの言葉には、真摯な響きが宿っていた。
レティシアのベッドに彼女を寝かせると、小さくお礼を言われた。貴女のためじゃない、レティシアのためだと言いたい気持ちをぐっと抑える。
「貴方に伝えたいことがあります。また、数日後の夜、私が目覚めた……時に……」
言葉が途切れ途切れになり、やがて消えた。瞼が降りてきて、瞳が閉ざされる。ネックレスの輝きも消失して、部屋の中を照らすのは僅かな月明かりだけになる。
そこで眠っているのは、いつも通りのレティシアに見えた。セレストの気配はない。
「レティシアさん……」
衝動的に、その髪に触れる。小さく吐息を漏らして身動ぎする彼女を見て、胸が詰まるような息苦しさを覚えた。
レティシアを守りたい。
そう思う理由の名前を、サイラスはとっくに知っていた。




