4:はじめての朝
ゆらゆらと、意識が水の中を漂うように揺らめく。
久しぶりに、家族の夢を見た。
舞台は、オルコットのお屋敷にある広い中庭。片隅にあるガゼボの中で、レティシアは両親とお茶会をして笑いあっている。
暖かな日差し。優しい風。テーブルの上に並べられた、アップルパイの甘い香り。
全部、昨日のことのように思い出せる。
「レティシアお姉さまー」
鈴のような声が聞こえた。中庭の向こう側で、可愛らしいドレスに身を包んだ従妹が手を振っている。その隣で、叔母が優雅に微笑んでいた。
夢の中のふたりは、優しく、穏やかだった。
レティシアも手を振り返す。従妹が嬉しそうに、こちらに近寄ってくる。
こんな日々が、ずっと続くと思っていた――
過去の光景は儚く掻き消え、レティシアの意識が水面に浮上する。目の前にあるのは白く無機質な天井。幸せな夢の欠片はどこにもない。現実の従妹と叔母からも、あの頃の面影はすっかり消え失せてしまっている。
変わってしまったものを想って、薄暗い部屋の中、レティシアは小さくため息をついた。
(……もう、あそこに私の居場所はない)
芽を出しかけた寂しさに蓋をして、ゆっくりと起き上がった。レティシアの朝は早い。日の出前に起き、掃除や洗濯、庭の手入れをしなければならないからだ。
視界に飛び込んできたのは、見慣れない部屋だった。窓の外からは鳥のさえずりが聞こえる。
柔らかく暖かな寝台の感触に、レティシアは今いるのが実家ではないことを、改めて認識した。
(ティンバー公爵の『研究所』)
昨夜のことをはっきりと思い出し、それが現実だったことに安堵した。ほとんど知らない場所にいるのに、安堵するというのも変な話かもしれないけど――少なくとも、オルコット家より平穏な環境なのは間違いない。
もちろん、何をされるかわからないサイラスの『研究』には不安もある。手荒なことをするような人ではないと思っているけど、先が見えないことはやはり怖い。
そわそわと落ち着かない気持ちになり、二度寝はできそうもなかった。かといって人様の家なのだ、オルコット家にいた時のように勝手に働くわけにもいかない。
ベッドを抜け出して、扉を開けて廊下を覗く。早朝の邸宅は人の気配がなく、しんと静まり返っている。
踵を返して、今度は南の窓へと足を向けた。南の窓はテラスに出られるように掃き出し窓になっている。ちょうど庭が一望できる位置にあり、景色がいい。
西側にはテラスはないが、代わりに建物の横にある温室を見下ろせる位置にあった。温室の天窓から、中で人影が動いているのが見える。特徴的な暗い赤の髪には覚えがあった。
(公爵様……?)
その表情までは見えないけれど、植物の鉢を眺めては、手帳にメモをしている。まさか、こんな時間から研究をしているのだろうか。
彼は視線に気付いたのか、ふと上を見た。レティシアと目が合いそうになる。
(……あ)
思わず、少しだけ目を逸らしてしまう。
サイラスは手帳を閉じると、温室から出てきた。
彼はまだこちらを見上げていて、何か言いたげに口を開いている。レティシアは窓を僅かに開けた。
「おはようございます。あまり眠れませんでしたか?」
気さくに声をかけてくれるサイラスは、朝から爽やかだった。まだ早い時刻なのに、彼はきちんとシャツとベストを着ている。ずいぶん前から起きていたのだろうか。
「おはようございます。私はいつも、この時間に起きていたんです」
「そうですか。眠れたのなら良かった」
そう言って、サイラスは柔らかく微笑んだ。この人はよく笑うなと思う。
「良ければ少し歩きませんか。この時間だけしか、見られないものがあるんですよ」
意外なお誘いに、断る理由もないレティシアは躊躇いつつも頷いた。
窓を閉め、昨夜クレアが持ってきてくれたガウンを羽織る。実家ではこんな姿でふらふらするなんて考えられないことだけれど、彼の声と朝の澄んだ空気に誘われるまま、体が動いていた。
今さらだけど、寝癖がないことを確認してから部屋を出る。サイラスは部屋の前で待っていた。
「行きましょう」
まだ人が寝ている時間だからか、彼は声のトーンを落として言った。
ホールに降りて、サイラスが玄関扉を開ける。途端に朝の澄んだ空気が吹き込んできて、咄嗟にガウンの襟元を寄せた。春の朝は、まだ空気が冷たい。
「寒いですか? すみません、上着を持ってくれば良かったですね」
「いえ、大丈夫です」
そんなやり取りをしつつ、ふたりで庭に出る。
うっすらと霧がかかり、静謐な空気に包まれた庭園はとても幻想的だった。色とりどりの薔薇の中を、小道に沿ってゆっくりと進んでいく。貴族の邸宅の庭としては小規模だけれど、丁寧に世話されているのがよくわかった。
「あ……」
レティシアは張り出していた木の根につまずき、体勢を崩す。踏みとどまって転倒はしなかったものの、サイラスがレティシアの手を支えてくれた。
「すみません……」
「気にしないで。庭に夢中だと、足元がお留守になりますよね。俺もよくそこで躓いてしまうんですよ」
苦笑混じりの声と共に、距離が離れた。彼の手の温もりが、まだ指先に残っているような感覚がする。
「そうですね。庭がとても綺麗なので、ついそちらに目がいってしまいます」
「今度、庭の手入れをしている者に会ったらそう声をかけてあげてください。喜びますよ、必ず」
サイラスは妙に力強く断言する。
(私が声をかけて、その人は喜ぶのかな……)
断言の根拠が見えなくて、レティシアは疑問に思った。




