34:精霊伝承
図書室には、煌めくような朝日が差し込んでいる。レティシアの胸元にある翠の魔石が、存在を示すようにきらりと光を反射した。
「確かに、違和感がありますね」
レティシアの話を聞いて、サイラスは深く頷いてくれた。
「原石にわざわざ『精霊の涙』と名前を付けた理由、か……」
彼は椅子を立ち、呟きながら図書室の中を歩き回る。考えるときの癖なのだろうか。
「強い魔力を感じるから? それだけなら、わざわざ『涙』という名称を使うのは不自然だ。なら、神話になぞらえて命名された? もしかして名前にきちんとした由来が――精霊に関する何かがあるのかもしれません」
サイラスは本棚を見上げた。彼の長身でも背伸びしなければ届かない位置にある本をいくつか持ち出してきて、机の上に並べる。タイトルを見るに、どれも精霊の伝承に関わる本のようだ。
セシルは我関せずといった様子で、魔石の本から顔を上げることもしなかった。
「オルコット嬢は、精霊に関してはどの程度ご存じですか?」
「一般的なことは、わかっているつもりです」
まだ両親が存命だった頃、家庭教師から習ったことがある。精霊は魔法を司るもの。目に見えないし声も聞こえないけれど、人の祈りに応えて魔法という力を発現させてくれるものだと。
「精霊という存在は、伝承の中でよく登場します。人を助ける善き存在として」
レティシアは頷いた。だからこそ神格化され、アルヴェイン王国では多くの国民が精霊教会を信仰している。
「けれど、直接会話ができる存在ではないですから、まだ未解明な部分が多いのも事実です」
サイラスが言いながら、ちらりとセシルの様子を伺ったのが気になった。
セシルは先ほどから微動だにしないし、本のページも捲られていない。その瞳は本ではないどこかを見つめ続けているように、空虚だった。
「公爵様は……私のネックレスと精霊に、何らかの関わりがあると、そう思いますか?」
声が、震える。
魔力ゼロという特異体質を持つ自分だけの問題だと思っていたのに、話のスケールが大きくなってきた。それが重圧感となって、レティシアの心にのしかかってくる。
「関係している可能性は高いと思います。少なくとも、貴女とネックレスの間には、魔力的な要素で強固な結び付きがある」
「奪われただけで、命が危ないからですか」
「そうですね。それに……」
サイラスは一度言葉を切った。改まった空気に、レティシアの背筋が伸びる。
「貴女は、魔力が無いわけではないんです」
「……え?」
思いもよらない一言に、レティシアは息を呑んだ。サイラスは真面目な顔をしていた。冗談や、気休めでは決してない。
「貴女の魔力は、常にすべて、ネックレスの魔石に吸われているんですよ」
サイラスは確信があるようで、力強く言い切った。無意識に、魔石に触れる。冷たいそれからはいつも通り、何の反応も得られない。
(まさか――私は、生まれながらの役立たずじゃ、ない?)
心を直接殴られたような衝撃だった。元婚約者から向けられてきた鎖のような言葉が、レティシアの中でさらさらと風化し、形を失っていく。
「それが何を意味しているかまではわかりませんが、ネックレスを手放せないのと無関係とは思えません。精霊伝承を調べることで、貴女の命を守ることも、体質の改善も、できるかもしれません」
サイラスが微笑む。その顔がとても眩しく見えて、息が苦しくなった。
「私……」
胸をぎゅっと押さえる。
貴女の命を守る。サイラスははっきりそう言った。それが『期限』のあるレティシアの心にどれだけ響いたか、きっと彼は気付いていない。気付かなくて、いい。
(……生きていたい。生きても、いい?)
長年の鎖から解き放たれた心に、そんな想いが浮かぶ。その想いとサイラスの笑顔が、レティシアに進む勇気を与えてくれる気がした。
「公爵様。……一緒に、調べてくれますか?」
こんなこと、以前のレティシアなら絶対に聞けなかった。サイラスは目を少しだけ開き、それから微笑んだ。
「もちろんです。まずは精霊伝承について調べてみましょう。教会から参考になりそうな資料を送ってもらうように手配します」
「なら、私はここの本を調べてみます」
レティシアはサイラスが並べていた本のうち一冊を手に取った。
「俺も、もう一度読み返してみます。新たな発見があるかもしれませんから」
サイラスも、近くにあった本を開き、読み始める。
しばらくの間、ページをめくる微かな音だけが響いていた。図書室の窓から入る光が、少しずつ角度を変えていく。
レティシアはふと、セシルの様子がおかしいことに気が付いた。何もないテーブルの上に視線を落としている。
思い詰めたような険しい表情。なのに、前髪から僅かに覗く瞳だけが、迷子のように揺れ動いている。
そんな彼を見てしまって、レティシアは手を止めていた。
「……セシルくん?」
声をかけても、セシルはただ真っ直ぐにレティシアを見上げただけだった。髪と同じ黒色の瞳は、この時ばかりは年齢相応の少年のように見える。
サイラスが数歩離れたところから、兄のような眼差しでセシルを見守る。
「あの、さ」
沈黙の後、ぽつりと彼の唇から呟きが零れる。
「あんたはそれがないと――死んじゃうんだよね?」
少年の瞳は、真っ直ぐにレティシアの胸元、精霊の涙へと向けられている。
「多分、そうだと思います」
「俺も同じ意見だよ。あと少しネックレスを取り戻すのが遅くなっていたら、危なかったと思う」
セシルはレティシアたちの意見を聞いて、頷いた。机の上に投げ出されている手が震えている。セシルは何か言いたいけれど、とても切り出しにくいことなのだろう。付き合いが浅いレティシアでもわかった。
サイラスは笑顔を消して、セシルを見守っている。彼の言葉をただ待っている――それは、研究所に来た時にレティシアにした対応と同じ。だからレティシアも、彼の言葉を待った。
「……なら」
その空気を破ったのは、予想通りセシルだった。瞳の奥の光が揺れる。レティシアはかつての自分と似たような傷を、そこに確かに見た。
「精霊遺跡なら、何かわかるんじゃない。少なくとも、本を闇雲に探すよりはずっといい」
彼の言葉に、サイラスは息を呑む。セシルは指先で自分のピンブローチをいじっている。
その仕草に、レティシアは何となく、セシルが言うのを躊躇った気持ちがわかってしまった。きっと、彼にとっては辛い場所なのだ。
「セシル、それは――」
「いい。可能性があるから、俺は行きたい」
強く、真っ直ぐな瞳でセシルはサイラスを見た。二人はしばらく睨み合うように、視線を交わし続ける。
先に折れたのはサイラスだった。吐息と共に、肩の力を抜く。
「……わかった。では、すぐにでも――」
「それはダメでしょ。あんた寝てないじゃん。行くなら午後」
セシルは言い捨てるように素早く椅子から立ち上がると、さっさと図書室を出ていった。
「手厳しいですね。さて、出かける準備をします。昼食後に玄関ホールで待ち合わせしましょうか」
そう言って、図書室の出口へ向かおうとしたサイラスの手を、思わずレティシアは掴んで引き留めてしまった。
サイラスが驚いたようにレティシアを見る。でも、一番地驚いているのは自分自身だった。
「あの。ちゃんと、寝てください……」
自分から彼の手を握るなんて初めてのことだ。とても大胆なことをしている気がして、言葉が尻すぼみになってしまった。恥ずかしさで顔に熱が集まる。
「ふふ。はい、わかりました」
サイラスは笑って頷いてくれる。自分の手が一瞬、握り返されたような気がした。
この笑顔が、期限を知ったら消えてしまうかもしれない。だからレティシアは、なにも言わずに表情を緩める。
今はまだ、この時間を壊したくなかった。




