32:精霊の涙
レティシアはひとり、図書室に行くことにした。いつもなら掃除をしている時間だけれど、
「病み上がりのレティシア様は休んでいて下さいっ!」
とクレアが言い張り、絶対に折れてくれなかったのだ。こういう時の彼女がとても強くて譲らないのは、サイラスを見ていればよくわかる。
だからレティシアは大人しく、本を読んで過ごすことにした。後日必ず、埋め合わせのために懸命に働こうと心に決めて。
「オルコット嬢! お体は大丈夫ですか?」
図書室までの道中で、たまたまロードリックに遭遇した。彼は珍しく真剣な表情を浮かべている。
「もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
そう言ってレティシアは頭を下げた。
「迷惑をかけたのはこちらです。僕の不注意で貴女を危険に晒してしまいましたから。……つきましては、これからは四六時中貴女を見守り続けさせて頂きますよ」
最初は真面目なトーンだったけれど、後半は完全にいつもの彼に戻っていた。そのことにほっとする。
「あの、私は大丈夫です。ありがとうございます」
「相変わらずつれないお方ですね。……まあ、僕よりも騎士役に相応しい男が心の中にお住まいでしょうからね」
ロードリックの言葉に、勝手にサイラスの顔が頭に浮かんでしまった。レティシアは自分の妄想を慌てて振り払う。
「ま、とにかく無理はしないで下さいね。僕も、本気で心配してますから」
その言葉は心からのものに聞こえて、レティシアの心はじんわりとあたたかくなった。
執事と別れて、レティシアはひとりで図書室を訪れていた。
図書室には誰の気配もない。
セシルのいない図書室はひどく静かだった。レティシアは脚立を使って本棚から1冊の本を抜き取り、テーブルに着いて読み始める。
アルヴェイン王国で産出される魔石について記された本だ。
(このネックレスは、一体何なんだろう)
ネックレスに触れながら、ページをめくる。
物心つく前からレティシアと共にあったものだから、今まで一度も疑問に思うことがなかった。雫型の魔石は、今日もレティシアの胸元で静かに輝いている。
これが両親から託されたものだという以外、レティシアは何も知らなかった。ドリスならば何か知っていそうだけれど、当然聞くことはできない。
とにかく自分にできることから始めようと思った。
関係なさそうな項目は飛ばしながら、古い本を読み進めていく。ちょうどオルコット領で産出される魔石のページに差し掛かった時、図書室の扉が静かに開いた。
光る花の栞を本の上に乗せてから、顔を上げる。
「……あんたさ、死にかけたんじゃないの。こんなところにいていいわけ?」
呆れたような、けれど温かみのある声をかけてくれたのはセシルだった。その後ろからサイラスまでもが入ってきて、思わず顔が緩む。
「クレアさんに、掃除を禁止されてしまったので……」
「は? 病み上がりなんだから、そんなの当たり前じゃん」
ぴしゃりと言われてしまった。
サイラスとセシルはこちらに歩いてきて、レティシアの向かい側に腰を下ろす。
サイラスの視線が本の上に置かれていた栞に留まり、淡い笑みを浮かべた。彼から貰った花で作った栞だ。それを見られたのが気恥ずかしくて、レティシアは体を僅かにセシルの方へ向ける。
「ネックレスのことを調べているんですね」
「はい。今までずっと、両親との約束に従うばかりでしたから。私にできることを考えてみたんです」
「自分のことなんだから、それも当たり前」
「そうですね、セシルさんの言う通りです」
セシルの鋭い言葉に、レティシアは深く頷いた。その当たり前をせず、小さく息を潜めて生きてきたオルコット家での生活が、遥か昔のことように感じられる。
セシルは手を伸ばし、開きっぱなしのページの一ヶ所、挿し絵の部分を指でとんとんと示した。
「あんたのネックレスの魔石って、俺はこれだと思う」
「セシル、俺も同じ考えだよ」
「はー……そう来ると思ってたよ」
口ではそう言いながらも、セシル表情がどこか誇らしげだ。正面に座るレティシアからは、それがはっきりと見えている。
「セシルなら同じ意見になりそうだなって思っていたよ。気が合うね」
「……うるさい」
ニコニコしているサイラスとは対照的に、セシルはわざとらしく顔をしかめてみせた。
レティシアはセシルが指を置いた部分に目を落とす。
「精霊の涙……」
書かれた文字を読み上げる。その瞬間、胸の奥に痛みのようなざわめきが走った。聞いたことがあるような、元々その名前を知っていたような、不思議な感覚に襲われる。
「美しく透明感のある翠の魔石。オルコット領でのみ産出される」
セシルが本の一節を読み上げた。文章の横には原石だろうか、ごつごつとした鉱石のイラストが載せられている。
精霊の涙について、本に書かれているのはそれだけだ。他の魔石が属性、用途など詳しく解説されているのに対して、これだけ明らかに記述が少ない。
「ふーん。その形にぴったりな名前じゃん」
セシルの指摘に、レティシアは魔石の角のない表面を撫でた。
「そうですね。内容が薄いのはどうしてでしょうか」
「かなり希少なものなので、研究が進んでいないんです。魔石の産地として有名なオルコット領でも、ほぼ発掘されないようですね。実際、俺も実物は見たことがありません……」
サイラスは悔しさを声に滲ませていた。本の挿し絵部分をゆっくりとなぞったセシルは、小さく息を吐く。
「……俺はある」
「それは羨ましい! 一度研究してみたいと思っていたけど、一般流通していない魔石だから手に入らなくてね」
サイラスは顔を輝かせ、前のめり気味にセシルに迫った。セシルは迷惑そうに身を引いていたけれど、サイラスの言葉が嬉しかったのか、その顔は得意げに笑みを浮かべている。
「気になるなら鉱山に視察に行けばよくね。あんた一応公爵なんだし、こっちには領主のお姫様もいるし。断られはしないだろ」
「それもそうか。ありがとうセシル、やっぱり君は頼りになる」
「は? やめろ気持ち悪い」
静かな図書室に、賑やかな声が満ちた。サイラスは笑いながら、本棚から何冊か魔石に関する本を抜き出し、机の上に広げる。
「精霊の涙に関しては、どの本も記載が少ない。オルコット領の採掘記録も確認してみるべきか……」
サイラスが本をペラペラと捲りながら呟く。
精霊の涙。
その名を聞くたびに、どうしてか、心の奥にずきんと鈍い痛みが走る。痛みというよりは、悲しみだろうか。まるで、かけがえのない大切ななにかを失ってしまったような、そんな喪失感――
本を眺めていたサイラスの視線が、ふとレティシアへと移り、首を傾げた。
「……オルコット嬢?」
声をかけられ、レティシアははっと我に返った。
(いけない、ぼうっとしてた)
レティシアは切り替えるように首を振る。
「ごめんなさい。大丈夫です」
「まだ本調子ではないかもしれないですね。無理せず、部屋で休んできて下さい」
サイラスだけでなく、セシルまでもが心配そうにこちらを見ている。
「そうではなくて、何となく魔石の名前を聞いたことがあるような気がしたんです。それで、とても悲しくなって――」
あの感覚を思い出して、背筋がぞわりとした。両親を失った時のような、ひどい喪失感。あれは何だったのだろう。
その名残が澱のように沈む胸を、強く押さえる。
「貴女に覚えがあるということはやはり、オルコット伯爵夫妻は何か知っていたのかもしれませんね。……何か、手掛かりがあればいいんだが」
「オルコットの屋敷に何か残ってたりしないわけ?」
「残されていたとしても、恐らくドリス側が押さえているだろうね。それに、身分の力を楯にしても人様の屋敷を捜索することは難しい」
サイラスは苦虫を噛み潰したような顔をした。レティシアはぎゅっと手を握る。
「わ、私なら――」
「駄目です」
「駄目に決まってるだろ」
間髪いれず、サイラスとセシルから反論される。
「……ですよね……」
「はい。今家に戻ったら、間違いなくドリスはネックレスを奪うでしょうから」
自分でも何かがしたい、そんな気持ちが空回りしていた。彼らの指摘でそれを認識し、レティシアは深呼吸をして考えを改める。
「ありがとうございます。他の方法を考えてみます」
ふたりとも、レティシアの身を純粋に案じてくれている。それが嬉しくて、くすぐったい。
「あのさ、前から思ってたけど。あんたの方が年上だし身分も上なんだから、そんなに畏まらなくていいでしょ」
セシルがレティシアを軽く睨む。その顔はレティシアと同じように、ほんのりと赤く染まっている。
一瞬何を言われているのかわからなくて、きょとんとしてしまった。
「……ええと…………セシル、くん?」
躊躇いがちにそう呼んでみると、セシルはますます不機嫌そうな顔になった。ぷいっ、と視線を逸らされる。
何か間違えてしまっただろうか。
「……ふん、好きにすれば」
内心焦るレティシアに対して、セシルはそんな反応を返してきた。
自分で言い出しておいて、この対応だ。年頃の少年らしい態度に、レティシアは軽く微笑んだ。セシルの隣に目をやると、サイラスも本を読む手を止めて、弟を見守るような眼差しをセシルに向けている。
「ふたりは随分仲良くなったんですね?」
「は? 余計なこと言わずにさっさと働けよ」
「はいはい」
セシルにぴしゃりと切り捨てられたサイラスは、レティシアを真剣な眼差しで見つめていた。
それはほんの一瞬のこと。レティシアが気付いた時にはもう、苦笑いをしながら本を読む作業に戻っていた。




