30:貴方とのひととき
ゆらゆらと、微睡みの中を意識が漂っている。
気が付くと、レティシアは石造りの小さな部屋の中にいた。たくさんの本棚と、仕事をするための大きな机。
見覚えがある。オルコット家のお屋敷のどこかにある、父がよく仕事をする時に使っていた書斎だ。
目の前には、悲しげな顔をした父がいる。その顔はすっすらとぼやけていた。
「レティシア」
優しく名前を呼ばれて、これは夢だとすぐにわかった。もう、顔が思い出せなくなってきている……。
父親はその場で屈み、レティシアのネックレスに触れた。
「お父様……?」
レティシアも真似して、ネックレスに手を伸ばした。自分の手はとても小さい。
「このネックレスを、どんな時も決して外してはいけないよ」
「はい」
こくりと、素直に頷いた。
両親との約束を、レティシアはずっと守ってきた。一度だって外すことはなかった。
父は寂しげに微笑む。
「お前が18歳になる、その時まで。ちゃんと守れるね、レティシア」
父親の声が遠のく。書斎の景色が水に沈むように揺らいだ。
(お父様……!)
伸ばした右手はどこにも届かない。だというのに、柔らかな熱が、そっとレティシアの手を包んだ気がした。
だからきっと、大丈夫――
*
暗い水底から浮かび上がるように、レティシアの意識は目覚めた。
寝不足の時のように、頭が痛いし瞼も重い。まだ眠っていたい――体はそう訴えているのに飛び起きてしまったのは、気絶する前の記憶をはっきり覚えていたからだった。
(私……ネックレスを取られて……)
咄嗟に探った胸元にネックレスの感触があって、ほっと息を吐き出す。
そろりと目を開けた。まず飛び込んできたのは、見慣れた天井。もうすっかり馴染んでしまった、研究所の自分の部屋だ。倒れた後、誰かがここまで運んでくれたのだろうか。
ふと、温かいものが右手に添えられていることに気付いた。そちらに視線をやると、サイラスがいた。
上半身はレティシアのベッドに突っ伏すようにして――どうやら、眠っているらしい。
右手のぬくもりは、彼の手に包まれていたからだった。
ドキッと心臓が跳ねる。
(ど、どうしよう……)
自覚したばかりの恋心がそわそわと騒ぐ。
恥ずかしくて、けれどよく眠っているらしいサイラスを起こしたくはなくて、そっと右手を動かして脱出しようと試みた。けれど彼の指は、離すまいとレティシアの手をしっかり握っている。
何度か試したけれど、レティシアの手が解放されることはなかった。そしてサイラスも目覚めない。穏やかに呼吸しながら、あどけない寝顔を晒し続けている。
(寝てるところ、初めて見た……)
人間なのだから寝るのは自然なことだけど、レティシアと同じ早朝から起きている人だし、生活感がなさすぎるから、こうやって無防備に寝ているところはどうにも違和感がある。
ふと、その赤髪に触れてみたいと思ってしまった。他の人にだったら、例えクレアだって、こんな風には思わないのに、どうして――
体に宿る熱に浮かされるようにして、そっと左手を伸ばす。触れた髪は思ったよりも柔らかかった。そのまま手櫛で梳かしてみると、さらりとした感触が心地良くて、思わず二度三度と続けてしまう。
(貴方が、好きです……)
自制することには慣れているはずなのに、どうしても止められない。レティシアの顔に、自然と微笑みが浮かぶ。
「気に入りましたか?」
低い声が響いた。レティシアの息が止まる。
「……っ、お、起きて……!?」
ぴたりと手を止めた。彼の目は閉じられたまま。唇の端が持ち上がり、いつもの穏やかな笑みを作っている。
「はい。くすぐったくて目が覚めました」
瞼がゆっくりと持ち上がり、青い瞳が真っ直ぐにレティシアを捉えた。その光が、レティシアを強く惹き付ける。思わず手を引っ込めてしまう。
「やめてしまうんですか? 続けても、俺は構いませんが」
「し、しりませんっ」
レティシアは逃げるように、彼とは反対側からベッドを降りようとした。
「待って」
けれど、握られたままだった右手を、サイラスは離してくれなかった。振り払うこともできずに、レティシアは潤んだ瞳で彼を見返す。
「……俺にも、確かめさせて下さい」
何を、と問う暇もなく、サイラスの手が伸びてきた。レティシアが先ほど彼にしたように、髪に優しく触れられ、梳かされる。
最初は躊躇いがちに。
2回目は、大切なものを慈しむように。
「……貴女が無事で、良かった」
掠れた声に、胸が高鳴った。赤い顔を隠すこともできず、レティシアはサイラスを見つめる。
「あ、あの、私……っ!」
思わず、大きな声が出る。
瞬間、ばんっ! とけたたましい音と共に、自室の扉が勢いよく開いた。
「レティシア様、どうされましたか!」
足音荒く入室してきたのはクレアだった。
彼女の視線が、涙目のレティシアと、手を離そうとしないサイラスの間を往復する。
みるみるうちに、クレアの顔が真っ赤になった。
「なっ……なにしてるんですか!!」
彼女の絶叫は、屋敷中に響き渡るんじゃないかと思うくらい大きかった。
クレアはこちらに走ってきて、力いっぱいサイラスを引き剥がす。
「おや」
「サイラス様がそんな人だとは思いませんでした! 寝込みを襲うなんて、最低ですっ!」
「誤解だよ。……半分くらいは」
クレアに怒られたサイラスが余計な一言を付け加えるものだから、彼女は手をふるふると震わせて主を睨み付けた。
「あの、クレアさん、元はといえば私がいけないんです」
「この状況のどこをどう解釈すればそうなるんですかっ!」
「わ、私が先に手を出したんですっ」
「はい!?」
クレアがすっとんきょうな声をあげた。サイラスはくすくすと笑っている。
「本当だよ。オルコット嬢が、寝ている俺を――」
「や、やめてください……!」
レティシアは大きく首を横に振った。彼の口から説明されたら、今度こそ本当に心臓が止まってしまうだろう。
というわけで、レティシアはクレアに己の罪をすべて告白する羽目になり、その隣でサイラスは何故か誇らしげに微笑んでいた。




