3:『研究所』
しばらく走った後、ふたりを乗せた馬車は止まった。窓の外には、研究所という硬質な言葉とはかけ離れた、薔薇の意匠が施された正門がある。
レティシアはサイラスのエスコートで馬車を降り、正門をくぐり抜ける。その先に待ち受けていたのは、月明かりを受けて静かに佇むレンガ造りのお屋敷だった。
(ここが、研究所……)
視線を走らせるレティシアの手は、じっとりと汗ばんでいた。
建物そのものも、薔薇が咲く庭も、公爵家の屋敷としてはこぢんまりとしている。
建物のすぐ横にあるのは温室だろうか。その近くから、梟の鳴き声が聞こえてくる。敷地全体が森に囲まれており、自然に溢れた、隠れ家といった雰囲気が漂う。
もちろん、研究所とは誰も思わないだろう。
ふたりが正面玄関から建物に入ると、吹き抜けの玄関ホールになっていた。レティシアは思わず足を止める。
扉の音に気付いたのか、拭き掃除をしていた小柄なメイドがくるりと振り向いた。動きに合わせて、高い位置で結われたポニーテールがふわりと揺れる。
「あ、お帰りなさいませー。ずいぶん早いお帰りですね?」
レティシアと同い年くらいだろうか。栗色の髪に、同じ色の瞳。あどけなさが残る、可愛らしい顔立ちの少女だ。
お仕着せの胸の部分に、青薔薇を模した魔石がついたピンブローチが飾られている。
「クレア。悪いけど、彼女――オルコット嬢を客室に案内してあげてくれるかな」
クレアと呼ばれたメイドは今気付いたように、ぱっとレティシアに目を向けた。元々大きな瞳が、こぼれ落ちてしまいそうなくらい丸くなっている。
オルコット家ではよく居ないものとして扱われていたけど、彼女は多分、実家の人たちとは違う。入り口で立ち止まったままのレティシアに、本当に気付いていなかったのだろう。
「あれ? サイラス様はパーティーに行かれたのですよね? どうして女性を連れ込んでいるのですか? はっ、ついに女遊びに目覚めたとかそういう……!?」
「人聞きが悪いことを言わないでほしいな」
「でも、女の子を連れてきたのは本当のことじゃないですか!」
サイラスが額に手を当てると、クレアはクスクスと笑ってみせた。
「冗談ですよ。サイラス様が女性に興味ある訳ないじゃないですか」
「それはそれで、なかなか辛辣な意見だね」
「事実ですから」
レティシアは呆気にとられてしまう。オルコット家とは全然違う。いや、メイドが主人をからかうなんて、一般的な貴族の家とはかけ離れている。
やはり、噂通りティンバー公爵は変わり者なのだ。
「オルコット家のご令嬢だよ。しばらくここに滞在するから、客室へ案内してあげてくれ」
「はーい。さ、お嬢様、こちらへどうぞ」
クレアが手招きしながら、玄関ホールの正面にある階段を登っていった。レティシアもその後に続いて、階段に足をかける。
「おやすみなさい。ゆっくり休んでくださいね」
後ろから、サイラスに声をかけられた。レティシアが振り向くと、にこりと笑みを浮かべてくれる。
こんな風に挨拶されたのは何年ぶりだろうか。何気ない言葉に、張り詰めていたものが微かに緩む。
「……はい、おやすみなさい」
先程よりも僅かに軽い足取りで、レティシアはクレアの後を追った。
クレアは2階の廊下をずんずんと進み、やがてとある部屋の扉を開けた。部屋の入り口に置かれていた魔石に彼女が触れると、魔法灯が柔らかな光を放ち始め、室内を明るく照らし出す。
「こちらが、お嬢様のお部屋になります! 自由にお使い下さいね!」
クレアが案内してくれたのは、西と南に窓がある広い客室だった。2人は同時に眠れそうな広さのベッドに、華美ではないけど品がある調度品が揃えられている。
「こんなに素敵なお部屋……いいのですか?」
聞いてみたら、クレアはきょとんとした顔をした。
「お嬢様は、オルコット伯爵家の方なのですよね? 『こんな粗末な部屋に押し込めるなんて!』と言われるかと思いました」
「……役立たずの私には、分不相応ですから」
元婚約者の台詞を引用し、平らなトーンで呟く。きっと、世間一般の令嬢としては、クレアの認識の方が正しい。
「そんなことないですよ。だってお嬢様は、あのサイラス様が連れてきた方ですよ? 役立たずなんてありえませんよ」
クレアが胸を張った。
「あの、クレアさん。お嬢様というのは、ちょっと……」
「はっ、ご不快でしたか! では、何とお呼びすればいいですか?」
不快というより、落ち着かない気持ちの方が強い。実家のメイドたちはレティシアを常に遠巻きにしていて、『お嬢様』と呼ばれることはほとんどなかったから。
「レティシアとお呼びください」
「ではレティシア様、お休みになる前に、湯浴みとお着替えをしましょう」
クレアはレティシアを連れて部屋を出て、今度は浴室へと連れていった。
脱衣室で、クレアが「失礼しますね~」と言いながらレティシアの髪飾りに手をかけたので、思わず身を引いてしまう。
「ごめんなさい。びっくりさせてしまいましたか?」
クレアに頭を下げられ、慌ててしまったのはレティシアだ。
「違います、そうじゃなくて……その、あまり手伝われることに慣れていなくて……」
貴族の令嬢らしくないことはわかっているけれど、今までできることは自分でやってきたから、手伝われることには気恥ずかしさがある。
「……わかりました。では、必要なことだけお手伝いさせて頂きますね!」
レティシアは髪飾りを自分で外し、髪を下ろす。ドレスを脱ぐことだけはクレアに手伝ってもらった。魔石のネックレスは外さない。どんな時も決して外してはいけない――事故で亡くなった両親と、そう約束している。
「ネックレスは、いいのですか?」
クレアが確認してきたので、レティシアはしっかりと頷いた。彼女が事情も聞かずに「わかりました」と流してくれて、安堵のため息をつく。
ひとりで浴室に入る。ここも別邸とはいえ十分に広く、広い浴槽にはしっかりとお湯が張られている。
中央に設置されている魔石が淡く光を放っていた。お湯の温度を調節する魔道装置の核だけれど――魔力ゼロのレティシアには、魔力が原動力のそれを動かすことはできない。
(……迷惑をかけたくない)
そう思って、魔道装置を使うことを諦めようとしたのに――
「レティシア様、調整したければ私にお任せ下さいねー!」
浴室の外から、クレアがそう声をかけてくれた。
(……クレアさんも、私が役立たずだと知っているのね)
それに気付いて、胸の奥がひやりとする。けれどクレアの声は、それすらも包み込むように温かかった。
「あ、遠慮はだめですよ。私に仕事をさせて下さい」
仕事をさせて、とはなかなか聞かない台詞だ。クレアはレティシアに気負わせないように、あえてそう言ってくれたのかもしれない。
彼女の心遣いは、確かにレティシアの心に響いた。
「……はい。ありがとうございます」
だから素直に、そう言えた。
「では、必要な時はお呼びくださいね!」
クレアは明るい声で返事をしてくれる。
レティシアはほっと息をつき、体を流してから浴槽に入る。温かいお湯が、緊張しっぱなしだった体をやわらかくほぐしていく。
魔力ゼロだと知っていても、態度を変えないサイラスとクレア。
彼らの優しさと思いやりに触れるたびに、胸の奥の氷がゆっくりと溶けていくような気がした。




