26:花祭りと近付く距離 -後編-
柔らかく、風が吹いた。花びらを運ぶ春風の中で、レティシアとサイラスはふたりきりで見つめ合っている。
――これからも、仲良くして下さい。
言外にそう匂わされて、どきりと心臓が跳ねた。
どうしてサイラスが、お世話になりっぱなしのレティシアに贈るのだろう。
そう思ったのは一瞬だった。サイラスがレティシアと同じ気持ちでいてくれたことが嬉しいし、それに――言葉にならない感情が芽生えて、息が苦しくなる。
「わ、私に……ですか」
サイラスは時々意地悪だけど、人をからかうようなことは絶対に言わない。そうわかっているのに、レティシアは手を伸ばすことを躊躇ってしまう。両親が亡くなってから、贈り物をもらったことなんて、一度もなかったから。
「はい。貴女だから、贈りたいと思ったんですよ」
とびきり優しい声が、耳に届く。
嬉しさと、怖さと、どうしようもない落ちつかなさ。名前がつけられない衝動が、心の中で一斉に芽吹く。
レティシアはぎこちない手で小箱を受け取り、開ける。イヤリングだ。白い花飾りに、小さく揺れるパールがついた繊細な意匠のもの。
他の誰でもない、レティシアを想って選ばれたものだ。その事実が、何よりも心を震わせた。
「貴女は小ぶりで可愛らしいものが好きかなと思って、選んでみました。いかがですか?」
そう言うサイラスの顔が見られない。少し前は目を合わせて、無意識とはいえ微笑むことだってできたのに、今はとてもじゃないけどできそうにない。
祭りの喧騒が、遠く、小さくなっていく。
(どうして、そんなに……)
優しくされる理由を、ずっと深く考えないようにしていた。勘違いだったら怖かったから。
けれど今、胸に押し寄せるこの感情は、もう誤魔化せない。心に花開いた気持ちの名前を、レティシアははっきりと掴んだ。
(私は――)
イヤリングを胸に沿わせるように抱えた。
鼓動が一際大きく高鳴り、苦しい。けれどそれは痛みではなくて――
(貴方が、好きです)
驚くほど自然に、その言葉はレティシアの心にぴったりと収まった。
「ありがとうございます。……私、とても、嬉しくて……」
目を伏せて、そう言うのが精一杯だった。
こんな言い方じゃ、本当は喜んでいないと思わせてしまうかもしれない。レティシアはふいに不安に思って、おずおずとサイラスを見上げる。
彼は穏やかに微笑んでいた。
「よかった。貴女がそうやって感情を素直に表現してくれるようになって、俺は『嬉しい』です」
この人には、敵わないなと思う。
「わ、私も」
レティシアは崖から飛び降りる気持ちで、ポーチから包みを取り出した。サイラスの顔が見られなくて、包みにばかり視線を向けてしまう。
「貴方に、贈りたくて……」
贈る時の言葉をあれこれ考えていたのに、緊張で全部吹き飛んでしまった。
震える手に、足りない言葉。レティシアの精一杯を、サイラスはゆっくりと受け取った。包みを開け、カフリンクスを手の平に乗せると、指先でそっと撫でる。
「素敵な贈り物ですね。ありがとうございます」
その笑顔をきっと、レティシアは一生忘れない。忘れられない。
微笑みながら見つめ合う――
そんな浮かれきったレティシアを現実に引き戻したのは、気配を消すことをやめたロードリックだった。
「『私を抱きしめて』なんて、オルコット嬢はなかなか情熱的だと思いませんか?」
口を挟まれ、レティシアはぱっと彼の方を振り向いてしまう。
「女性がカフリンクスを贈るのは、とある恋物語が由来で、そういう意味があるらしいですよ?」
少しも知らなかった。それであの時、店主の女性が微笑ましいものを見る目でレティシアを眺めていたのか。
「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです」
自覚したばかりの気持ちには刺激が強すぎる。
恥ずかしくて、いたたまれなくて、レティシアはふたりから背を向ける。待ち合わせの目印になった噴水の方を見ていなければ、とてもじゃないけどこの場にはいられない。
「大丈夫。貴女がそんなつもりじゃないとわかっていますよ。……ロードリックは、オルコット嬢で遊ぶのはやめなさい」
サイラスの声は気にした様子もなく、優しい。いつも通りすぎる彼の態度に、胸が苦しいような気がして、ネックレスをぎゅっと握った。
「はーい」
ロードリックは聞いているのかいないのか、適当な返事を返していた。
いつまでも背を向けていると、サイラスからまたフォローの言葉が飛んでくるかもしれない。
覚悟を決めて、レティシアはまたふたりの方を向いた。
「暗い顔をしないで下さい。俺は、とても嬉しいと思っていますよ。……心から」
青い瞳は真剣そのもの。本当に、サイラスはずるいし意地悪だと、レティシアは思う。
「では、名残惜しいですが帰りましょうか」
サイラスが言いながら、レティシアの手を取った。エスコートのためだとわかっているのに、準備をしていなかった心臓が跳ねる。
そんな、レティシアの浮かれきった心に――
「……レティシア」
冷たい水をかけられたようだった。
よく見知った声で名前を呼ばれ、レティシアはぎくりと体を震わせる。
恐る恐る見上げた視線の先、サイラスのすぐ目の前に、元婚約者のメルヴィンが立っていた。
レティシアを真剣な眼差しでじっと見つめている。あの日の夜会を思い出して、レティシアは縫い止められたように動けなくなった。




