2:歩き出す運命
レティシアは、サイラスに連れられて庭に出た。彼が背中を向けた時、腰のブックホルスターから魔道書を吊るしているのが目に入る。
(魔法使いなのね……)
レティシア以外の人間は皆魔力を持っているけど、魔法という形でそれを使える人間は、とても少ない。
「待ちなさい!」
オルコット家の屋敷の門を出る直前、レティシアは背後から鋭く声をかけられた。
屋敷の玄関に、叔母と従妹が立っている。夜会会場からわざわざ追いかけてきたのだろう。
声をかけてきたのは従妹で、憎々しげにこちらを睨み付けている。叔母はなにも言わず、ただ作り物のような美しい顔で、レティシアを見据えているだけだった。
「あんたが出ていくのは構わないけど、そのネックレスは伯爵家のものよ」
強く響いた言葉に、レティシアは顔色を変えて胸元のネックレスを握りしめた。金の台座に、雫型の魔石が埋め込まれているもので、その意匠から一目で高価な品だとわかる。
従妹の視線が、より鋭くなる。
「あんたには相応しくない。返しなさい!」
荒い語気で、彼女は距離を詰めてくる。レティシアは身をよじって、彼女の視線から胸元を隠そうとした。従妹の手がネックレスに触れた瞬間、レティシアは奇妙な脱力感を覚えた。まるで、命そのものが消えていくような――
「やめていただけますか」
ふたりの間に割って入ったのはサイラスだった。従妹の手が離れ、レティシアの体に力が戻る。ふらつき、倒れかけた体勢を慌てて整えた。
「まさか、伯爵家のご令嬢から身ぐるみ剥ぐつもりですか?」
穏やかな紳士だとばかり思っていたサイラスが、静かに、けれど一段低い声で告げる。それでも従妹は返事をせず、サイラスの背後にいるレティシアだけを睨み付けている。
サイラスが小さく息を吐いた。
「金額の問題であれば、あとで我が家から相当する額をお支払いすることもできますが」
睨み合うような、緊迫した空気が漂った。夜風がレティシアの頬を撫でるようにして通り抜けていく。
「そのネックレスは、私の――」
「ドリス、およしなさい」
言い募ろうとした従妹を、叔母の静かな声が止めた。
「でもっ!」
それでもなお、レティシアの方に進み出ようとした従妹を、叔母が手で制する。
「あれを持つべきはレティシアよ。私たちはあの人が遺した流れを守り、従うだけ。わかるでしょう?」
叔母が言い聞かせるようにゆっくりと告げる。
数秒の沈黙が流れた。それから、従妹は一歩後ろに下がる。それでもなお、硝子の切っ先のような表情がレティシアに突き刺さってきた。
ふっとサイラスの雰囲気が和らぐ。
「では、そういうことで。……行きましょう」
彼に手を引かれ、レティシアはまた歩き始めた。振り返りはしなかったけど、叔母と従妹のねばつくような視線が、ずっと追いかけてきているような気がした。
*
サイラスがレティシアを連れて向かったのは、ティンバー公爵家の馬車だった。主の帰りを待っていた御者は、主とレティシアに恭しく一礼する。特に、事情は聞かれなかった。
レティシアは座席に座った後、両手を膝の上で組んで、そこに視線を落とした。向かいの席にサイラスが座っていて、顔が上げられなかったのだ。
あの家にはいたくない――そんな気持ちから誘われるままに飛び出してきてしまった。その実感がじわじわと湧き上がってきて、落ち着かない気持ちになる。
軽い振動と共に、馬車が動き出した。そこで、サイラスに深々と頭を下げられる。
「すみませんでした」
「……どうして、謝られるのですか」
彼に謝られる理由なんて、どこにもない。むしろ迷惑をかけているのはレティシアの方だ。
サイラスは公爵と呼ばれていたけど、彼は会場で、第二王子のメルヴィンと真っ向から対立していた。王子の不評を買うのは、あまり望ましくないことだろう。
「夜会で貴女をもののように称し、強引に居場所を奪った。……それに、貴女をお金で買うような真似までしました」
(居場所……)
ほとんど無意識に、ネックレスに触れていた。
自分から出てきたくせに、どうしてか今になって胸が痛む。両親と暮らした家を離れることが怖かった。居場所を守るために、ずっと心を殺して、しがみついてきた。
なのに、もうあの家にいたくはなかったというのも、紛れもなくレティシアの本心。
「いてもいい」と言ってもらえる場所が、欲しかった――
自分でも、おかしな話だと思う。生まれ育った家の空気は、とっくに入れ替わってしまっていたのに。
外の見慣れた景色が、少しずつ遠ざかって、闇に紛れて見えなくなっていった。
「あの場では、仕方がなかったのではないですか?」
問いかけに、サイラスは真顔で首を横に振る。
「それで済ませたくないんです」
彼の言葉に、レティシアは衝撃を受けた。
もののように扱われることはよくあることだった。それをわざわざ自分で引き合いに出し、謝罪してくるなんて。
今まで、そんなことを言ってくれる人は誰もいなかった。
(この人は……)
顔を伏せたまま、サイラスの顔を盗み見る。こんなに穏やかで、優しげな顔を向けてくれる人を、レティシアは他に知らない。
(誠実な人、なのかもしれない……)
会場でレティシアを必要だと、尊重すると言ってくれたことも思い出し、ほんの僅かに心が揺れた。
「こちらこそ、私のためなどにお金を使わせてしまって、申し訳ありません。それに、殿下にも敵意を持たれてしまったのではないですか?」
「俺の研究のためですから、別に構いませんよ。お金もそうです。……それ、大切なものなのでしょう?」
がたんと、馬車が石畳を進む音が一際大きく響く。レティシアの胸元で、魔石のネックレスが存在を主張するように揺れた。
「……はい」
「俺は本当に、貴女に利用価値があり、研究対象にしたいと思って誘拐してきたのですから」
顔を上げると、サイラスは唇の端に笑みを浮かべていた。
(こんな風に、言葉を選ぶ人がいるなんて)
驚きつつも、その表情に少しだけ心が軽くなった。ただの親切よりも、利用価値があるとはっきり言ってくれた方が余程信用できる。
とはいえ、まだ完全には心を開けない。利用価値がなくなったら、元婚約者のようにレティシアをあっさり切り捨ててくるかもしれないから。
会話が途切れたこともあり、何とはなしに窓の外を眺める。そういえば、この馬車がどこに向かっているのかもレティシアは知らなかった。
明かりに包まれる夜の王都は美しいけれど、暗くて詳細はよく見えない。その上、レティシアは人目を避けるようにして暮らしてきたから、今どのあたりにいるのかもわかっていない。
それが何となく、心細い。
「夜景はお好きですか?」
座席の隅で身を固くしているレティシアに、サイラスがのんびりと話しかけてきた。
「……よく、わかりません。あまり見たことがないものですから」
我ながら、酷い答えだ。彼は気を遣って話しかけてくれているのに、会話が盛り上がるような気の利いた返しができない。
「では、今日はたくさん楽しんでください。俺は、街が生きている感じがするから、夜景は好きですよ」
街灯が、楽しげに語るサイラスの横顔を明るく照らす。好きだと、真っ直ぐに自分の意見を言える彼に、レティシアは目を細めた。
流れに逆らう術なんて、ちっとも知らなかった。沈まないように静かに息をするので精一杯。
そのすべてを、あの時の空気に割って入ったサイラスが崩してくれた。自分で選んだこととはいえ、結局レティシアは彼にすがって今、ここにいる。
彼の雰囲気は穏やかで、柔らかい。
(今なら……)
少しだけでもいい。この人のように――自分の手で、変えられるかもしれない。そんな気がした。
「……あの、この馬車は、どこに向かっているのですか?」
思いきって、聞いてみた。
「ティンバー公爵家の別邸――もとい、研究所です」
「研究所……」
その言葉に、本当にこの人は自分の体質を研究したがっているのだと改めて思い知って、全身が強張った。
「変わり者のティンバー公爵。聞いたことはありませんか?」
オルコット家からほとんど出なかったレティシアは、噂話に疎い。そんな世間知らずなレティシアでも、ティンバー公爵の話は聞いたことがあった。
(確か従妹が、変わっているけどすごく優秀で若い公爵がいるって言ってたっけ……)
そうだ、従妹はその人――サイラス・ティンバーに夢中で、だから今夜の夜会に彼を招待すると息巻いていた。そして目論見通り、彼の隣をキープしていたのだ。
最後に見た従妹の、険しい形相を思い出す。
(オルコット家に帰れない理由が、ひとつ増えた……)
元から帰ろうとも思っていないけれど、レティシアの中で、居場所を失った不安がぐるぐると渦を巻いていた。




