1:役立たず令嬢と変わり者公爵
扉の向こうから、明るい光と音楽、それから人々の声が漏れ聞こえてくる。レティシアは箒を動かす手を止めて、扉の隙間から見える大広間に意識を傾けた。
中では貴族たちが、煌めくシャンデリアの元で笑い合っている。
そこにレティシアの居場所はないのだと、改めて思い出した。縋るように箒を抱く。
(お父様……お母様……)
胸元のネックレスをそっと握りしめる。両親の遺してくれたこれが、今となっては唯一の拠り所だった。
かつん、と硬質な靴音が鳴る。
「レティシア」
艶やかな声に、名前を呼ばれた。
レティシアは重い気持ちで振り返る。そこには叔母が立っていた。両親を亡くしたレティシアの後見人として、屋敷を取り仕切っている人だ。
美しい顔に笑みを浮かべているものの、そこに温度は感じられない。しなやかな指が伸びてきて、逃げ道を塞ぐようにレティシアの手を包み込む。
(……また、逆らえない)
何も言えず、翡翠色の瞳を伏せた。
いっそ、いつものことと諦めて、全部委ねて流されてしまえれば楽なのに――嫌だと思う気持ちは、消えてはくれなかった。
「さ、早くこちらに来なさい。殿下がお待ちよ。貴女はあの人の血を引くのだもの、誰よりも美しく目立たなければね?」
ことあるごとに『期限』の話をしてくる婚約者の事を聞いても、レティシアの心は曇るばかりだった。メイドたちがちらちらとこちらを気にしているけれど、誰も声をかけようとはしない。
叔母に引きずられるようにして、自室へと戻る。メイドたちは叔母に忠実だ。レティシアは叔母の監視の下でドレスへと着替えさせられ、夜会の会場に連れていかれた。
大広間に入ると、一斉に好奇の視線が突き刺さる。
「まあ、魔力ゼロの役立たずが来たわ」
叔母によく似た顔立ちの従妹が、レティシアを嗤う。つられるように、会場内のあちこちからクスクスと笑い声が聞こえてきた。
10年間、ずっと続いてもまだ、この空気が心に突き刺さる。
声をあげた従妹に視線を向けた。彼女はもうレティシアを見ていない。顔を上気させて、隣にいる暗い赤髪を持つ男性に何か話しかけている。
その男性が、こちらに視線を向けていた。
年は20代半ばだろうか。会場の人々とは違い、彼は唇を引き結んでいる。レティシアを嗤わない。探るような青い瞳に、いつもとは違う居心地の悪さを覚えた。
彼のことが、些細なのにはっきりと、印象に残る。
「おい」
声をかけられ、意識が会場に引き戻される。
レティシアの視線を遮るように、金髪で一際華やかな衣装を着た男が前に立った。第二王子のメルヴィン――レティシアの婚約者だ。
「レティシア、なぜ欠席しない? まさか、僕に恥をかかせるつもりなのか?」
彼もまた、会場にいる大半の人間と同じように、こちらに白い目を向けてくる。その声は、ひどく迷惑そうだった。レティシアはただ黙って俯く。
「メルヴィン殿下も災難ですわね。レティシアみたいな出来損ないと婚約しているなんて」
従妹の言葉に、婚約者はため息をついてみせる。
「哀れな者に救いの手を差し伸べるのも上に立つ者の勤めだからね。どうせレティシアが18歳になれば、この関係は終わりだ。それまでは仕方なく婚約を継続しているのであって――」
会場が笑いに包まれようとしたその瞬間、
「仕方ないと仰るなら、『研究対象』として私に彼女を譲って頂けませんか?」
凛とした男性の声が、この場に響いた。メルヴィンは演説を遮られ、唖然としている。
「私は、彼女の特異体質に興味があるんですよ」
重ねて放たれた言葉に、誰もがぴたりとお喋りをやめた。辺りは一瞬にして静寂に包まれる。
(……興味が、ある?)
今まで誰も、そんなことを言った人はいなかった。彼が何を言いたいのかわからない。周囲の温度が下がったような気がして、身を小さくする。
レティシアが顔を上げると、会場内の全員の視線が、ただひとり――声の主に注がれていた。
従妹の隣に立っている、あの貴族だ。注目を集めても動じることなく、それどころか堂々と、第二王子であるメルヴィンに向き合っている。
「ティンバー公爵、その言葉は本気か? レティシアは魔力ゼロの役立たずだぞ?」
メルヴィンが怪訝な顔をする。複雑だけど、レティシアも婚約者と同じ気持ちだった。
(どうして……)
訳がわからなかった。
レティシアは正真正銘、この国で唯一の魔力無し。明かりひとつ自分では灯せないレティシアを、他者は『役立たず』と呼ぶ。婚約者の言葉は、根拠のない誹謗中傷ではなく、紛れもなく真実なのだ。
「サイラス様ってば、冗談がお上手ね」
従妹は隣に立っていた彼にしなだれかかろうとして、身を引かれて未遂に終わっている。サイラスと呼ばれた貴族は真剣な眼差しで、こちらを見つめてきた。
レティシアはさっと目を逸らす。真っ直ぐな彼の視線は、明らかに他の人と温度が違った。どう向き合っていいのかわからず、戸惑ってしまう。
「冗談ではありませんよ。彼女は、私にとっては大いに利用価値があります。魔力がないというのは、とても興味深い現象です。そうは思われませんか?」
サイラスは熱を帯びた声で語ったが、賛同する者はいない。
利用価値に、研究対象――それらの単語に、ようやく彼の言動に納得がいった。きっと彼は、魔力ゼロのレティシアを弄ぶために、『譲れ』と言っているのだろう。
最初は、そう思った。
諦めていたのだ。レティシアはどこの誰にとっても、対等に見てもらえる存在ではない。
なのに。
「それに、令嬢を人前で辱しめるような真似は、ご自分の品性を貶めるのではありませんか。少なくとも私は、相手への敬意を欠く扱いはするべきでないと思いますが」
予想外の一言。会場の人々も、レティシアの心も、ざわざわと揺れ動く。注目を集めても、彼は何てことないといった様子で、涼しげに微笑むばかりだった。
「あの……」
俯いたままのレティシアが何か言う前に、サイラスが軽い足取りでこちらにやって来た。
顔を僅かに上げたレティシアに対し、彼は笑みを浮かべてみせた。叔母の冷たい微笑みとは決定的に違う。でも、そこに滲む彼の感情は読み取れない。どう返していいかわからず、レティシアは視線を逸らす。
「貴女に、質問をさせて下さい。彼との婚約を継続したいと望んでいますか? 相手の承諾を得ないことには、研究ができませんからね」
小さな声で問いかけられて、すぐに言葉が出なかった。
(この人は、本当に……)
彼の言葉通り、少なくとも敬意を欠いた行いはしないのだと、そう思った。
レティシアは僅かに首を横に振る。
「わかりました」
彼は確かに、そう言った。
「ティンバー公爵、レティシアは本当に魔力がないんだぞ。後ろ指をさされても仕方のない人間だ」
婚約者の心ない発言に身を竦めた。言い返す言葉はレティシアにはない。サイラスが割って入るように、レティシアとメルヴィンの間に立った。
「おや。口ではそっけないことばかり言うのに、殿下はずいぶんとオルコット嬢に執着しているようですね」
「なんだと」
レティシアからはサイラスの背中しか見えないが、メルヴィンが苛立っているのが、声の調子だけでわかった。
彼はまがりなりにも王子だ。逆らうことは、サイラスの立場にも影響する可能性がある。レティシアを尊重してくれたこの人を、巻き込んではいけない。
「あの、いつものことですから、もう……」
大丈夫ですから、とレティシアが言う前に、サイラスが振り向いた。彼の顔には、静かな決意が滲んでいる。
「任せて下さいませんか。今以上に悪いようにはしませんから」
レティシアはおずおずと頷く。サイラスは再びメルヴィンと対峙した。
「違いますか? 私には、手放しがたい理由があると言っているように聞こえますが」
「執着などしていない。レティシアみたいな欠陥品、いつでも捨てられるさ!」
余裕ありげなサイラスに対して、メルヴィンの声色には焦りのようなものが滲んでいる。
「ほう。殿下にとって婚約とは、気まぐれに切り捨てられる程に軽いものなのですか。女性を大切にする精神すら失っているとは、王家も地に堕ちたものだ」
サイラスの切り返しに、会場内が再びざわめいた。今度はメルヴィンに視線が集中し、彼は頬を上気させる。
レティシアが魔力ゼロの欠陥品であることには何の変わりもないのに、サイラスにかかると、価値があるもののように感じられる気がする。
「な、何を……! 私は彼女を哀れに思って――」
「哀れと思う女性を『欠陥品』などと呼ぶとは、男の風上にも置けませんね。おまけにこのような場で、それを大勢に知らしめてしまうなんてね」
サイラスが大袈裟に肩をすくめる。それにつられるように、クスクスと、会場のあちこちから小さな笑いが漏れた。先程まではレティシアを嘲笑していたそれが、今は婚約者に向けられている。
(まるで、魔法みたい)
その鮮やかな手並みから、目が離せない。
「だ、だが事実、彼女は無能だ! 役立たずだ!」
「そう思うのなら、お譲り頂いてもよろしいでしょうか? 世の中には適材適所という言葉がありますから」
「……っ、勝手にすればいいさ! ――レティシア・オルコット!」
苛立たしげに名前を呼ばれ、レティシアはびくっと体を震わせた。
「貴様との婚約を破棄する。魔力ゼロのお前など願い下げだ!」
婚約解消でも、下賜でもなく、あえて破棄という言葉を使う元婚約者。そんな言葉選びに、今さら傷付きはしないけれど――
(……そんなに、私が嫌いだったのかな)
未練でも、嫌悪でもなく、ただレティシアは疑問に思った。そんなに嫌っていたのなら、もっと早くに手を離してくれれば良かったのに。
「オルコット嬢」
サイラスはレティシアに向き直った。
「言った通り、私は貴女の体質を研究したい。ですが無理強いはしたくないんです。ここに残るか、私と来るか――貴女の意思で、選んで頂けますか」
予想外の言葉に、レティシアは目を瞬かせる。メルヴィンにわざわざ手放させたのだから、てっきり強引に彼のところに連れていかれるものだと思っていた。
――彼の言葉通り、研究対象として。
けれど、サイラスは選べと言った。
(選んでも、いいの?)
レティシアは周囲を見回す。これ以上ないというくらいに不機嫌そうなメルヴィン、キッと睨み付けてくる従妹、無表情の叔母、野次馬を決め込んでいるらしい招待客たち。
誰もが、レティシアの言葉を待っている。
(私は――)
息を大きく吸い、吐き出す。
戸惑いや、不安はある。でも、迷いはなかった。
ここに残れば、今日と同じ明日が続いていくだけだから。
「…………よろしく、お願いします」
おずおずと、レティシアはサイラスに向かって手を差し出す。
レティシアは確かに、自分の意思でサイラスを選んだ。自分で選ぶこと、決断することなんて、いつ以来だろうか。
「ありがとう。では、参りましょうか」
サイラスが芝居がかった調子で、レティシアをエスコートして会場の外へと連れ出す。それはまるで、ギャラリーに見せつけるかのようだった。
その手の温かさに、レティシアは地に足が着いた心地がした。
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