姫君と老婆とお小遣い
「フィオナ……見ろ」
ご主人様が、路地の向こうを指さす。
市場の帰り道、魚やパンの香りが混ざる昼下がりの広場で、のんびり歩く一人の老婆がいた。
背は小さく、腰は少し曲がっている。頭巾からは真っ白な髪がのぞいていた。
「……何か?」
「わからないのか。あれは──この国の姫君だ」
「違います」
即答したが、アラン様はまるで聞いていない。
むしろ瞳をきらきらさせ、馬から降りて一直線に老婆へ向かっていく。
この時点で、私の頭の中では「やめてやめてやめて」という警報が鳴っていた。
アラン様は老婆の前で片膝をつき、手を取る。
通行人たちが「何事だ?」と足を止める。
「お美しい……姫君。このアラン、あなたをお守りするために生まれてまいりました」
「は、はい……?」
老婆は完全に困惑顔だ。そりゃそうだ。
だがアラン様はお構いなしに、手の甲へ恭しく口づけを落とす。
「なっ……!」
私は慌てて間に入ろうとするが、もう遅い。
アラン様は老婆をひょいと抱き上げ、お姫様だっこで歩き出したのだ。
「姫君、我が馬車──いや、屋敷までお送りいたします」
「いや、わたしゃ家に帰るだけで──あら、腰が楽だねえ」
「安心なさい。あなたに危害を加える者は、この世に一人たりともおらぬ」
こういうときのアラン様は速い。
あっという間に老婆の家の前に着き、優雅に下ろす。
玄関からは家族らしき人々が飛び出してきた。
「お、お母さん!?」
「姫君は無事だ。もう何も恐れるな」
「……あの、どちら様?」
完全に怪訝そうな視線。
私は必死に頭を下げ、「すみません、うちのご主人様が……」と説明した。
幸い、家族は笑って許してくれた。
しかも「お嬢ちゃんも大変だね」と、なぜか私にお小遣いまでくれた。
こういうとき、アラン様は全く金銭感覚がないので、もらった銀貨は私が厳重に財布にしまう。
帰り道。
「アラン様、あれは普通のおばあさんです」
「いや、違う。あの瞳の奥に宿る高貴な光、そして歩みの気品……間違いない」
「……ただ腰の悪いおばあさんですよ」
「フィオナ、君はまだ人を見抜く目を鍛えねばならんな」
なんて言われても、私の方が現実を見る目は確かだと思う。
市場の通りを歩く私の横で、アラン様は相変わらず背筋を伸ばし、堂々とした足取りだ。
……ああ、でもまあ、あのおばあさんが喜んでいたのは本当だし。
彼の突拍子もない行動も、誰かを笑顔にできる時はある。
とはいえ。
「次はちゃんと見分けてくださいね」
「任せろ。次こそ真の姫君を見つけ出す」
……ああもう、そうじゃないんだってば。
これが、私の日常その2である。